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現在公開中の映画を自腹で鑑賞、それについて大いに語る「ねぇ、あれ観た?」コーナー。初回はこの4人が顔を揃えた。授業でも鋭すぎる指摘で受講生たちをひいひい言わせている講師陣。全米が震撼したあの映画が、彼らにかかるとどんなふうに解剖されるのか。文字みっちり&ネタバレてんこ盛りでお届けしよう。※映画美学校公式サイトには座談会の前編が掲載されています。合わせてお読みください。 (構成:小川志津子)



何か持ってる「スナイパー」


三宅 最初、戦場から始まりますよね。そこから一度子供の頃に戻って、大人になっていろいろあって、もう一度戦場の場面に戻るまでが、30分ぐらいだったと思うんですよ。すごく展開が速いなあと思って。オイこれから何があるんだよ!と思いました。


高橋 確かに、速いと思った。今の映画って、どちらかというと展開が遅くなっているんですよね。どんどん長くなっているんだけれども、イーストウッドは本当にテンポが速い。飽きさせずに見せるんだけど、でもまあ観終わってみると、やっぱり長い!と(笑)。


万田 前半の展開の速さについてはこの映画だけじゃなくて、『ジャージー・ボーイズ』(14年)も『J・エドガー』もそうだよね。『インビクタス/負けざる者たち』(09年)もそうだった。中身が何にもない話がさっさと展開していく(笑)。


高橋 『ミリオンダラー・ベイビー』(04年)なんかは昔ながらの、人情ものとして成り立つように作られていますよね。だけど確かに『インビクタス〜』は、「ほんとは何にも思ってないでしょ?」「もう本当にどうでもいいでしょ?」っていう感じが伝わってくる(笑)。今回も、それでしたね。


西山 戦場シーンの感じは、『ブラックホーク・ダウン』(01年)にも通じるものがありませんか。あそこに行くこと自体がすでにやばい、という感じが。ちょっとミスすると、すぐ人が死んでいく。


高橋 『ローン・サバイバー』(03年)もそうですよね。あれも実話でしたけど。あれがたぶん、今の戦場のリアリティなんでしょうね。


万田 国連軍が入って、敵味方の関係や軍人と民間人の関係がよくわからなくなるという意味では『スリー・キングス』(99年)もそうですよね。あれも面白かったな。


高橋 戦争映画としてイーストウッドの作品は、よくできているし、飽きずに見せるし、スナイパーという要素があるから余計面白かったんですけど、ただ「アメリカの戦争映画」というものに、僕自身がだんだん飽きてきてる、という感覚がもう一方にあるんです。『アメリカン・スナイパー』を観終わった後にも、不全感というか消化不良感があって。昔の西ドイツが作った悲惨な戦争映画で『橋』(59年、ベルンハルト・ヴィッキ監督)というのがあるんですけど、そのDVDをわざわざ借りてきて、戦争映画はこれくらい悲惨じゃなきゃつまんないよね!って思いました(笑)。アメリカで作られた戦争映画って、あんまり本気じゃないなっていう感じが、実はずっとしているんですね。「うわ、悲惨だ!」という持っていき方をアメリカ映画でやってしまうと、たぶん観客は離れてしまう。キューブリックの『フルメタル・ジャケット』(87年)を観た時に、アメリカの戦争映画というものが何かひとつ、更新されたなという感覚があったのもそれなのかな。アメリカが作る戦争映画、というのとは違うものを目指している感じがあったから。

 『プライベート・ライアン』と『ブラックホーク・ダウン』で、戦闘シーンのリアリズムの基準が出来上がった感じがありますよね。以降はここがリアリズムです、みたいな感じ。もちろん技術が進化しているから、描写のしかたも変わっていくのはわかるんだけど、でも僕はあんまり乗れないんです。「臨場感がある」とは思うけど「悲惨」とは思わない。


三宅 それでもこの映画がアメリカで大ヒットしたというのは、みんなで議論しやすい題材だったからですよね。日本でいうと、『半沢直樹』みたいな広がりなのかな、と。


万田 ひとつのカタルシスを持って終わる映画ではないだけにね。戦意高揚と反戦のどちら側にも立っていないから、いろいろと意見が分かれて、論争しやすい。

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高橋 これ、日本でもヒットしてるんだよね。それは何なんだろう。みんな、何て言ってるの?


三宅 たぶんこのところのアメリカの娯楽映画って、Marvelもののヒーロー・コミック映画が続いていたから、そうしたフィクション度の高いものではなく、一気にリアルな世界を舞台にした、それなりにボリュームのあるアクション映画がひさしぶりに見れるのでは?、というような期待感は広がっていた気がします。


万田 観終えると単純なヒロイズムじゃないし、単純な反戦映画でもないというのが、さらにお客さんを惹きつけていると思う。


西山 あの予告編は気になるよねえ。子どもを撃つか撃たないか、っていうだけで引っぱる。


三宅 ほんと、卑怯な予告ですよ(笑)。


西山 スナイパーは、決断を丸投げされる。『アメリカン・スナイパー』でも、主人公が狙撃しようとすると横にいる奴が「お前、間違ったら大変だぞ」みたいなことを言う(笑)。そしてその標的にされているのが子どもだから、日本人にはちょっと考えられない構図ですよね。一人では決断できないよね、あんなこと。


三宅 あと、自分が誰かの犠牲になる、っていう話ではないんですよね。誰かが死んで、自分が生き残る。イーストウッドの映画は常にそういう人たちの物語だなと思うんですけど。


万田 僕は、『アメリカン・スナイパー』というタイトルを聞いただけで相当盛り上がったんですよ(笑)。『プライベート・ライアン』だって、面白かったのは狂ったようなスナイパーの部分だったからね。


三宅 何なんでしょうね。「スナイパー」って何か、持ってますよね。


万田 たぶんいくつか要素があると思うんです。相手に見られていない。隙だらけの相手をこっそり狙ってる。それから、何より自分の技術が問われる。下手くそなスナイパーが主人公ではつまらないからね。「こいつに狙われたら一発でおしまいだ!」っていうことが、映画的なワクワク感を呼ぶんだと思う。


高橋 あと、こちらからは視認できないところから弾が飛んでくるというのもありますよね。ああいう「見る」「見られる」の関係は、映画において、やっぱり大事なことなんですよ。


西山 最高度の技術を持った人間が、スコープの中で捉えた標的に対して、圧倒的な権力を握る。


万田 支配関係ですよね。


高橋 僕も『アメリカン・スナイパー』というタイトルに乗った一人なんですけど、やっぱりイーストウッドが撮るのだから、やり方の卑怯さ卑劣さ醜悪さが絶対描かれるだろうと。そこに期待したところが多分にあります。イーストウッドは、醜悪なものが好きですよね。そこへ持ってきて子どもを撃つ撃たないの予告編があったわけだから。


万田 そういう意味で言うと「スナイパー」の目新しい描き方というのは、この映画にはなかったね。わりと想定範囲内というか。


高橋 屋上で洗濯物を干してあるところで撃たれる、とかは相変わらずいいなあと思いましたけどね(笑)。

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おおむね、こういうことです


高橋 でもやっぱりイーストウッドは、戦争映画を撮ってもなお、どんどんサクッとしていくんだなあという恐ろしさを感じますよね(笑)。サクッとした映画の撮り方を、イーストウッドがリードしている感さえある。現代映画全体が、そっちに向かっている感じがありますね。昔だったら批判的に「浅いよね」って言えたようなことが、今は主流になりつつある。何でしょうね、あれは。掘り下げると、逆に、嘘になっちゃうんですかね。


西山 伝記映画ということを抜きにすると、ドラマの作りとしては実にオーソドックスですよね。女性が主人公で、戦場の女スナイパーと家で待つ夫の物語だったら、もっと面白くなりそうな気がする。


高橋 ああ。少なくとも僕は乘りますね(笑)。


万田 でも、もうそういうノリはやらない、っていうのが、今のイーストウッドのスタンスなんですよ。それは浅さとも違う気がしてるけどね。


高橋 それは、何なんでしょう。


万田 何なんでしょうね(笑)。僕にしてみると、高次元、ひとつ高いところに行っているというふうに思うんだけれど。


西山 何というか、いろんなことが自動化されていて、現場で悩んでいない、なにも悩むことなどないとうじうじ考えたりせずにどんどん撮っているという感じですか。


高橋 うん、主人公の弟の描き方とかね。普通、ああいう放りっぱなしの扱いはしないんだけど、何とも思ってない感じがするんですよ。


万田 何とも思ってないというか、あれでいいと思ってる、っていう感じです。


高橋 ネイビーシールズの訓練シーンもそう。『ローン・サバイバー』のそれは、本当にやばいんです。ここまでしなければいけない、極めて特殊な任務を帯びたチームなのだと。こんな訓練をくぐり抜けてきた奴は本当にやばい!って思わせるんだけど、この映画ではそれがなかった。「おおむね、こういうことをやってます」にすぎないというか。何かを見つけようとしてない感じがするんだよな。どこかで観たことがあることをやってる。


万田 そのことに、僕は一番驚いたんです。普通だったら、人生経験を重ねることで、作品は深くなっていくでしょう。でもイーストウッドは、耄碌したわけでも何でもなく、いわば意識的に「サクッとした映画」を作っている。上っ面をさーっと描いて、しかもそれが面白くて、映画的なポイントは外さずに。まさかイーストウッドがそんなふうになるとは思ってもみなかったからね。
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三宅 イーストウッドと並べて語っていいのか迷うんですけど、北野武の『アウトレイジ ビヨンド』にもそういう「サクッと感」があった気がします。北野監督は、かつては決めっ決めで撮っていたと思うんです。でも『アウトレイジ ビヨンド』は、誰かがしゃべっていても平気で隣の人にパンしたり、「ただ撮ってるだけ」のようにしか見えなくて。ガシッとしたものを撮っていた一人の映画人が、経験を経て変わっていくというのを、そこでも感じたことを今思い出しました。


高橋 たぶんイーストウッドは「僕は世界に対してこういう認識です」ということを言いたいわけではないんですね。でもやっぱり「こういう認識です」っていう映画に見えてしまいがちだ、というのが、僕が最近のイーストウッドに対して感じる引っかかりのひとつなんですけど。それでも、戦争とかボクシングとかを題材にすると、映画自体が普通に面白くなるという現象があって(笑)。


万田 それなりに能力のある人とか、選ばれてしまった人間を描く時には、そういうことが起きますね。市井の人の話も観てみたいけど。


高橋 それにしても普通、主人公があんなにつまらなくていいんでしょうか。イーストウッドにしかできない境地ですよね。あの、主人公がどうでもいい感じというのは(笑)。

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西山 人物やドラマをフィクションの存在として象徴的に圧縮しないで、物理的な長さや場面の数を重ねることで人物を描こうとしているのかもしれない。現実の断片を加工しないで切り取って並べたような形ということですが、日常的な平板な断片で映画に厚みを出すためにはそれをたくさんならべることになり映画も長くなって行くという傾向があるのかも。(ボクシングの試合や戦場はそれ自体が象徴的に圧縮された非日常的なドラマの場なので自然に違う様相が現れるということかもしれません)


高橋 もともと、大味感がイーストウッドの魅力だったりするじゃないですか。でももはや「大味」とは言っていられない次元にまで来ていると思うんですよ。何だこの希薄さは?っていう(笑)。


三宅 最後にお聞きしたいんですけど、さっき「この映画の本質は、あのラストシーンの、その先だ」という話がありましたよね。それをもし描くとしたら、どうしますか。


西山 まずは、あの男ですよね。玄関の向こうに立っていた、これから主人公を殺すであろう男と主人公のドラマを描く。


高橋 あの後、主人公と射撃訓練に行って、主人公に向けて発砲してしまうわけですよね。「さそり」みたいに、事件を繰り返している男に主人公がスナイパーとして立ち向かうとか(笑)。ニューヨークでイラクと同じことをやる(笑)。


万田 うん、でも今回、僕も「さそり」だなと思ったよ。あの砂嵐で画面が混濁するカットは、『ダーティ・ハリー』のスタジアムのシーンの空撮でしょう。善悪の境目がなくなってしまうという画面。


西山 サイコキラーがサイコキラーを追う、っていうね。なぜなら、わかるから。気持ちが(笑)。娯楽映画にするなら、そこですよね。


高橋 三宅くんの世代は、戦争映画を撮ってみたいと思ったりはするの?


三宅 「僕の世代は」ってくくることはできないですけど、僕自身は、いわゆる「戦争」「戦場」ものというのは、ちょっと考えられないです。これから日本が戦争にむかいつつつもあることを思うと、その「これから起こりうる戦争」について先に想像を巡らせておきたいという気持ちはありますけど、それはおそらく、かつての「戦争」とはまったく性質のちがう新たな「戦争」だろうし、わからない。娯楽として過去の戦争を再現しようとしたって、知らないわけで。直接的なアプローチではなく、たとえば、戦後から続くスポーツ教育における権力的な体罰問題は、「戦争」と同じテーマの枠内の問題として、興味を持っています。


万田 僕は長らく、大岡昇平の『レイテ戦記』を撮りたいと思っているんですよ。作戦行動というものへの興味がとても強い。でもたぶん、撮るとなったら、まず自分のスタンスを明確にしておかなきゃと思うし、じゃあそれをどうやってどれだけ明確にするのか、というのは非情に難しい。だから単純に「撮りたいから撮ろう」というわけにはいかないなと今は思ってます。


高橋 僕は、撮れるなら沖縄戦を撮りたいです。限りなく悲惨な戦場を。でも、スタンスに関してはあまり迷わない気がするんですよね。戦争は悲惨って、昔から戦争映画を作るアリバイで、政治的な正しさを装って別のところに跳べたりするのが面白いんだけど、でも、そんなの今、誰も見たくないのか……。


西山 僕は、たとえば第二次世界大戦の小規模な部隊を扱った映画などでは、兵士の仕事がちょっと土方の仕事に似ている感じがあるところにいつも惹かれます。銃を抱えて土の上を這いずり回ったり、シャベルで穴を掘ったり。僕はあの感じが好きなんですよ。スナイパーにも、同じものを感じます。地面に腹ばいになって、息を潜めて、道具を使って仕事をする。地面とか、木とか、人の体が大地や自然に常に接してる感じが好き。それに人の生き死にを自分で決定して、直接に手をくだすなんてこと、現在の僕らにはありえない。それを経験した人は、そうでない人とは全然違う、たぶんこの世界に自分の脚で立っているという感覚自体が物凄く濃密な実感としてあるんだろうなという想像があって。戦争映画でなら、それを描きたいと思いますね。(2015/03/09 映画美学校地下教室にて)