どんどん乗ってきた講師陣のトーク。映画人たちからみると、演劇ってね、「ヤバい」ものなんですね。(小川志津子)

<参加者>
・高橋洋:映画監督・脚本家(『リング』シリーズ脚本、『恐怖』『旧支配者のキャロル』監督)
・大工原正樹:映画監督(『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』『坂本君は見た目だけが真面目』)
・古澤健:映画監督(『今日、恋をはじめます』『ルームメイト』『クローバー』)
・松井周:演出家・劇作家(劇団サンプル主宰)(『自慢の息子』『ファーム』作・演出、『蒲団と達磨』演出)

「ヤバさ」が観たい

 
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古澤 その口当たりの良さ、危険性の回避っていうことでいうと、ひとつ気になったシーンがあって。みんなで合宿して、女の子が二人、同じベッドの上で寝てるじゃないですか。でも、彼女たちはどの組み合わせでも、あまり性的なニュアンスが出ないんですよ。

 

大工原 うん。女子だけの高校演劇部っていうと中原俊監督の『櫻の園』(1990年)を思い出してしまうけど、ああいう劇的で官能的な感じは全然なかったですよね。演出のコンセプトとして、今の等身大の高校生に「見える」ように描こうとしているのは判りましたが……。

 

松井 そう思います。性的なこととか、大人のえげつなさみたいなものへの感覚が、そもそも今の高校生たちには希薄なんじゃないかなって思うんですよね。そこを、この映画は切り取っている気がして。今の親たちはたぶん「ダメよ演劇なんて!」とは言わないんですよ。言えるほど、自分の価値観が確固としていない。そういう時代の映画だという感じがしますね。

 

古澤 でも合宿の夜、みんなと離れて友だちと飲みに行っていた吉岡先生が帰ってきた時に「タバコの匂いがした」っていう描写があるじゃないですか。あのシーンはものすごく強烈にセックスの匂いがしたんですよ。現実の高校生たちがどうこうというより、映画がちょっとヤバい方向に、いっそ壊れかねないくらいのところまで行けそうな気がした。

 

高橋 演劇って、こんな面白いことを高校生の時に知ってしまったら、もう後には戻れないヤバさというのがきっとありますよね。僕は高校時代に8ミリ映画を撮っていて、演劇部の友人とかもいたんですけど、そんなことにはかすりもしませんでした。どちらかというと「画面」とか「カット割り」とか「編集」ばかりを考えていたから。「芝居」という観点で考えるようになったのはずいぶん後のことで。でも演劇って、場所があって、身体ひとつあれば、演劇でしか考えられないことを考えられる、そういうツールですよね。これは恐ろしいことですよ。世界をどこまでも広げられる。――ということに、気づいちゃった高校生たちの物語ですよね。松井さんも、そうだったわけでしょう?

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松井 僕は、嘘をつくのが好きだったんです。自分の身体ひとつで嘘をつける。嘘をついていいんだ、表現していいんだと実感することによって、心身の健康を保っていたところはありますね(笑)。たぶん、遊びの延長だと思います。

 

古澤 最初の方で、部員たちが自分のことを語る「肖像画」の発表会のシーンがありましたよね。僕はあれ、やっぱり生で観たいなって思ったんです。

 

松井 そうですね。それは本当にそうです。

 

古澤 あれはあの子たちが、演劇の魔力に魅入られた瞬間だと思うんですよ。普段は教室として使われている空間が、自分たちの演技と演出で、まるで違う空間になって、しかもお客さんを引き込むことができた。あれこそがまさに、彼女たちが演劇の「魔」に取り込まれた瞬間ですよね。おそらく映画の作り手たちも現場で興奮したんだろうなって感じた。だからこそ、時間をとばすような編集はそぐわないと感じてしまった。映画が演劇の力の前に、自分の手のなさをさらけだしちゃってる気がしました。

 

松井 映画だと、それをどう表現するかによって、見方がまったく変わってきますよね。僕は、ドキュメンタリーに近い感覚で観ていたんです。「肖像画」のシーンも、合宿で稽古をつけているシーンも。本筋の撮り方とはちょっと違っていたじゃないですか。

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高橋 本広さんは時々「長回し宣言」をするんですよね。『幕が上がる、その前に』を見ると、「肖像画」はワンカット長回しで、全員の分を撮ってるんですよ。さっき松井さんが言っていた合宿の稽古シーンも、全部アドリブで、延々長回しで撮ってたって。たしかにあそこは、高橋さおりという演出家がリアルに立ち上ってきた感じがして、いいなと思いました。ただ、実際の高校演劇がいくつか映るじゃないですか。いろんな舞台を点描みたいにつなげているところ。あのシーンだけは、自分が大学時代に抱いていた演劇に対する偏見が急にこみ上げてきて(笑)。ああ、演劇ってこうだよなぁ……っていう画ばかりが切り取られて、そこにあった気がして。当時の僕は、演劇に対してかなり反発をしていたんですよ。小劇場ブームだったし、「夢の遊眠社」とか、大学も早稲田だったから「第三舞台」も観に行ったんですけど、ある「様式」にハマったものだとしか思えなかった。こういう発声で、こういう人物配置で、こういうポーズを取って芝居をするのね、っていう。

 

古澤 そういうタイプの演劇って、観客を巻き込もうとする力が強いじゃないですか。でもレンズ越しには、その力は伝わってこない。「何を大騒ぎしているんだろう?」っていうふうにしか、見えてこないですよね。それとは違う観客の巻き込み方もありますよね。この前のサンプルの公演『蒲団と達磨』(作:岩松了、演出:松井周)を観ていて思ったのは、始まってすぐはものすごくぼそぼそとしゃべるから、こちらが舞台上に集中せざるを得ないんですね。力づくで巻き込もうとするんじゃなくて、観客が主体的に関心を持つように作られている。

 

大工原 演劇の醍醐味を映画で表現するのは、とても難しいんだろうなと思った。たぶん松井さんは、高校時代から自分がくぐってきた体験があるから、断片を観ても心に響くところがあるのかもしれないけど、僕は演劇の醍醐味を映画の表現にしたものを観たかったのかもしれない。高校演劇ならではの、そういうものもあるんじゃないかと期待しながら観ていた。実際には無いのかもしれないけれど、ならば捏造してでも見せてほしかった。さおりが演出家に専念してから本番に向かう稽古のシーンは、映画の手法でいう「スケッチ」なんですよね。雰囲気はすごくよく伝わってくるんですけど、演劇と映画がせめぎ合うような新しい表現までは行っていない。

 

高橋 カサヴェテスの『オープニング・ナイト』をちょっと思い出しました。クライマックスが公演の初日で、ジーナ・ローランズが主役を演じているんだけど、あれは、演劇としてどうこうじゃないんですよね。彼女が泥酔しながら演じているからすごい、という(笑)。だからたぶん、何かひとつ仕掛けが必要なんですよ。演劇の面白さを映画で伝えるには。

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大工原 そう思います。意識して映画の仕掛けの中に演劇を丹念に落としこんでいかないと難しい。あれって、ジーナ・ローランズがあまりにもいろんなことを抱えている、というのをお客も知りながらの泥酔だったじゃないですか。

 

高橋 泥酔していて、コーヒーをがばがば飲みながら酔いを覚まして、演じているうちに少しづつ酒が抜けていくっていうね(笑)。観客はその時間経過に、リアルタイムで居合わせる。その関係性が、あの映画では出来上がっているんですよ。

 

古澤 映画がいびつであることで、伝わるものというのがあると思うんです。もし『幕が上がる』が、稽古や公演のシーンをノーカットで見せる方法を編み出していたら、映画全体がもっといびつに、変なものになったと思うんです。そのことで、演劇の何かが強烈に伝わったんじゃないかと思います。逆に考えると、例えば演劇をしている姿を一切見せない、とかだったらどうだろうかって、何か、いろいろ考えてしまいますね。

(つづく)