「北野映画と俺」トークなら、できそうな気がします。

 ――ビガッコーに行けばだいたいいる男・市沢真吾の思いつきに、まんまと乗っかったB学校」編集局。1970年代後半に生まれ、感受性の高い青春期に北野映画をばっちり食らった中年2名(市沢・千浦)と、物心ついた時にはすでに「世界のキタノ」だった1980年代生まれの若者3名(三宅・冨永・スズキ)が一堂に会し、5回にわたって、それぞれにとっての「北野映画」を語ります。


【市沢真吾】1977年生まれ。映画美学校フィクション・コース第1期高等科修了生。現在映画美学校事務局員。子供のころ、自分以外の家族全員が『E.T.』を見に行き、自分だけが観られなかった。そして未だに観ていない。

 

【千浦僚】1975年生まれ。90年代は大阪でプラネット、シネ・ヌーヴォ、扇町ミュージアムスクエア、東梅田日活の映写を担当。02年上京、同年より09年まで映画美学校試写室映写技師。現在は映画系雑文書き。

 

【三宅唱】1984年生まれ。映画美学校フィクション・コース第10期初等科修了生。5/30より監督作『THE COCKPIT』がユーロスペースにて公開。最近18期生とサッカーをした、またやりたい。

 

【冨永圭祐】1983年生まれ。映画美学校11期フィクションコース高等科修了生。監督作品に『乱心』等。ウェルメイドに作ろうとしてもいつも変な映画が出来るので改めて映画勉強中。疲れたら映画美学校に座りに出没する。

 

【スズキシンスケ】1988年生まれ。映画美学校フィクション・コース第12期初等科修了生。現脚本コース第4期高等科昼クラスTA(ティーチング・アシスタント)。TA中は「仏のスズキさん」で通っているが、心に『3-4x10月』の井口(ガダルカナル・タカ)を飼っている。

 

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市沢 初めて観た北野映画って、何ですか?

 

冨永 『HANA-BI』(98年)ですかね。今でも一番好きだったりします。

 

スズキ 僕は『HANA-BI』か『BROTHER』(01年)。深夜に、邦画の再放送で観ましたね。

 

三宅 俺も『HANA-BI』です。

 

市沢 それはみんな高校生ぐらい?

 

スズキ 僕は中学生だったと思います。

 

冨永 僕は大学に入ってからですね。大学でジャ・ジャンクーを知ったくらいのタイミングだった気がします。だいぶ遅いんですけど。

 

三宅 僕は中学の時に映画館で観ました。『キッズ・リターン』(96年)には間に合ってないですね。まだ小学生だったし。ただ、うちの親父がビートたけしファンなんですよ。だからビデオは家で流れてた記憶が。『あの夏、いちばん静かな海。』(91年)とか『ソナチネ』(93年)とかは観てたと思います。

 

冨永 お父さんは、北野武が監督になる前の「ビートたけし」も好きなんですか。

 

三宅 もう、大好き。真似してる。あの人は明らかに影響を受けてます。

 

千浦 僕は1975年生まれで、封切りでは観ていないんだけど、『その男、凶暴につき』(89年)の時は中学校ぐらいだったのね。当時『ギミア・ぶれいく』(8992年)っていうバラエティ番組があって、石坂浩二や大橋巨泉が「俺らの仲間のたけちゃんが映画撮ったんだけどそれがすっげー良かった」みたいなことを言ってたのをよく覚えてる。その回は『その男』徹底特集みたいな日だったんだけど、ラストシーンの撮影風景まで見せちゃってたんです。

 

一同 へえー。


千浦 何しろ石坂浩二と大橋巨泉が「芸人として知られてるビートたけしが、そこに立脚せずにゴリッとした映画で芽を出した!」っていうことに興奮していてね。なんかすごいんだ、ということはひしひしとわかったし、実際、1
2年後に観ても、やっぱりすごかった。

 

市沢 自分はその頃小学生で、一応劇場に観に行ってるんです。とにかく、ポスターがカッコ良かったんですよね。金色の地にモノクロで、タイトルと、たけしさんのシルエット。あの頃上映されてた映画を振り返ると、やたら異業種監督が多いんですよ。桑田佳祐の『稲村ジェーン』、小田和正の『いつか どこかで』。ガッツ石松の『カンバック』に、島田紳助の『風、スローダウン』。たけし映画は当初、それらのうちの一つに見えた。
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千浦 そうだそうだ。そういう季節だったね。

 

市沢 それまで、日本映画イコール「ダサい」っていうイメージがどこかにあったわけです。その中で奥山和由というキーパーソンが現れて、その人がプロデュースする映画はどうもカッコいいぞ、という認識が訪れる。

 

千浦 うんうん。

 

市沢 だから『その男』もカッコいいはず!と思って観に行ったんですよ。劇場入って「さあ、カッコいいの来るぞ………あれ?……いや、いやいやきっとカッコいいはず……ん?……あれあれ??」ってなって。

 

冨永 自分に言い聞かせる感じで(笑)。

 

市沢 「カッコいいはず! カッコいいはずだっ!」って(笑)。

 

千浦 『その男』の宣伝コピー覚えてる?「子どもに見せるな」、ですよ。テレビのにこやかなたけしとは違うんだぞ、という気概にあふれていたよね。

 

スズキ 当時って「たけし」イコール「怖い」っていうイメージは全然なかったんですか?

 

千浦 世間一般にとってはね。もっとコアにたけしを追いかけてた人たちは知ってたかもしれないけど。

 

市沢 ただ一つだけ、『フライデー』を襲撃してたわけですよ(笑)。僕は青森の小学生だったけど、「たけしがフライデーを襲撃したらしい」っていう話は知ってたもん(笑)。

 

冨永 僕らは、最初から怖いイメージがあったよね。芸人だけどヤクザ、っていう感じ。

 

スズキ そう。「ヤクザなんだこの人は」って思ってましたね(笑)。

 

市沢 映画作家として認識するようになったのは、賞を取ってから?

 

冨永 そうですね。

 

三宅 でも、日本映画が全般的にダサくて、でも北野武の映画はカッコいい、という風景は、僕らの頃にも続いてたと思いますね。

 

市沢 90年代の前半と後半で、日本映画全般のイメージががらっと変わった気がするんですよ。今語られてる「映画作家・北野武」って、90年代後半以降のものじゃないかと思うんですね。『萌の朱雀』『M/OTHER』『ユリイカ』と、日本映画がカンヌ映画祭でどんどん受賞してるニュースが続いたのがその頃じゃないですか。「日本映画」が「世界」のものになっていく、というイメージが明確になった。

 

千浦 WOWOWの「JMOVIEWARS」ですね。日本映画を海外の映画祭でちゃんとプレゼンするという。

 

市沢 そう、その息吹みたいなものが、田舎にいても届いてきてたんですよ。ビデオ屋に行くと「JMOVIEWARS」のコーナーがあった。

 

千浦 僕は当時大阪の「扇町ミュージアムスクエア」っていうミニシアターで働いてたんだけど、「JMOVIEWARS」の映画もそこで上映してたし、その中に万田邦敏さんの『宇宙貨物船レムナント9』(96年)があったり、青山真治さんの『Helpless』(96年)があったり。「活気づいてる」っていうよりは、いろんなことが試されている時代だったように思う。それよりもうちょっと早い時代からやっていて異業種監督と見なされていたけれど「改めてこの人すごい!」っていう存在が北野武だったように思いますね。
(つづく)