彼らとアクターズ・コース第1期生の出会いは5年前にさかのぼる。1年間のカリキュラムをいくつかに分けて、それぞれの授業テーマのもと、順番に授業を受け持った。今日はその、最初の教え子たちの成果が詰まった映画について、みんなで語る会なのだ。(※松井さんは花粉症のためマスク着用でおおくりいたします)
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——皆さんは『ジョギング渡り鳥』とはどんな距離感でいらしたんですか。

松井 僕は、まったく関わってないですね。

近藤 僕も、現場には行っていないので、たまに会って苦労話を聞くくらい。

松井 そう、みんなげっそりしてるのを見かけたことはあります(笑)。撮影は、いつ頃だったんですか。

山内 2012年の1月と3月かな。最初、僕が入った前の日に卓爾さんが書いた、メモのようなものを渡されて。まだせりふも撮り方も決まっていなかったので、こういうこともあるんだな、って思ったのを覚えてますね。集まってから、何をやるか決めて、撮ってみる。そういうことは演劇ではあまり起こらないので新鮮でした。

近藤 そうだろうな。芝居臭さがないもんね。「こいつら、ガチで考えてるな!」っていう感じだった。

兵藤 映画の撮影っぽくなかったよね。「撮りますよ!」みたいな緊張感がまったくなくて、たぶん端から見たら「この人たち、何してるんだろう?」っていう感じだったと思う。よく道ばたで、何か測ってる人、いるじゃない。

——測量士さん。

兵藤 そう、測量士さんみたいな感じだった。そもそも私は「合宿して撮ろう!」っていうことになった瞬間に立ち会っているんですよ。「楽しいからやろう!」がすべての始まりだった。実際に動き出したら大変だったみたいだけど(笑)。私は古川(博巳)くんの運転で深谷入りしたんだけど、着いたらすぐにみんなごはんを作り始めて。翌日のお昼は私がカレーを作ることになっていたけど、私が起きられなくて。

一同 (笑)

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兵藤 みんな5時起きで動いていたから、私が起きだした時には、朝ごはんがすっかりできていて。みんながずらーーっと並んでて、一斉に「いただきます!」って、それこそ撮影所みたいな雰囲気。卵が一人1個あったのを覚えてる。その時は、まさか自分が出るとは思ってなかったんだけど、……

松井 え、俳優として行ったわけじゃないんだ。

兵藤 そこらへんもフワッとした感じだったの。みんなやってるなーって思って見てたら「兵藤さん、来てもらえますか」って言われて。

山内 ちゃっかり、走る時用の衣装を持ってきてたもんな。

兵藤 いや、あれは防寒用だったの! たまたまなんだけど……卓爾さんに「出せよ」オーラを発してたのかな私。

山内 そうだよきっと。

兵藤 行ったら台本ができていて、私のせりふも書いてあって。「用意、スタート!」っていう感じじゃなくて、私たちがいて、カメラクルーがいて、もこもこした人たちがいて、いつの間にか芝居が始まって、いつの間にか芝居が終わるっていう、ごちゃごちゃした状態だったのね。

山内 いや、ちゃんとカチンコやってたよ。3台のカメラの間を駆けまわって。

兵藤 そうだっけ……じゃあ、深谷っていう土地のあれかもしれない。のどかで穏やかな感じ。

松井 それはつまり、役とか決まってなくて、いた人に「やってみて」っていう感じだったの?

兵藤 私はそういう記憶があるな。その場で台本を渡されるみたいな。

山内 ……と、僕も思ってたんだけど、今自分のパソコンを調べたら、総スケとか香盤表とか、ちゃんと事前にもらってるよ。ほら。

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兵藤 ほんとだ。

山内 どうしよう。俺さっき嘘言ったかも(笑)。

兵藤 でも、そういう印象がすごくあるけどな。「こんな映画になります!」みたいな説明もないから「……大丈夫か?」って内心思って(笑)。普通の映画って、スタッフ全員が静まり返ったところで芝居のスタートがかかるじゃない。でも『ジョギング渡り鳥』は、もちろん中瀬(慧)くんとかスタッフはいたけど、たまに卓爾さんも映り込んじゃうから、モコモコしたものを着ていたりして、どこからどこまでが何なのか、いろんな境界線がわからないわけ。

山内 現場での卓爾さんは、僕らが知ってる卓爾さんだったよね。優しさも厳しさも、頑張り方も。みんなに向かって話す人。

——では、あそこに映ってるアクターズ1期生たちは、皆さんが知っている彼らでしたか。

松井 僕は、「知ってる」っていうのも変ですけど……すごく言い方が難しいんだけど、まず、ヘタだな、って思いました。

一同 (笑)

松井 たぶん、フィクションに対してあまりにも無防備というか。まだスイッチが入ってないかもな、って思う瞬間もありつつ。でもそのスイッチが入っていない、モードが変わっていないことによる良さもあるので。「ヘタ」とかそういうことを、この映画で言うのも野暮だな、と思ったんですけど。確実に、慣れてない空気が漂う瞬間があったじゃないですか。なんか全体的にまだらな感じ。逆に、ここは何かをつかんでるなという瞬間もあるんだけど。

山内 どこ?

松井 終盤の、古内(啓子)さんと柏原(隆介)くんのやりとりとか。

兵藤 ああ、あれは、柏原くんの実体験が元になっているんだって。

松井 そうか。だからなのかも。

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——松井さんの思う「ヘタ」じゃない芝居とは?

松井 それぞれの人物が、ちゃんとカードを出しあう感じ。出されたカードに「え、そのカード出すんだ。じゃあ俺はこれ」っていうようなことが積み上がっていくような。でもあの映画には、それとは全く異質な時間が映っているんですよね。撮影隊が映ってたりとか、アドリブで何か言おうとしてるんだけどあんまりうまく処理できてないな、っていう感じとか(笑)。よく、DVD特典としてメイキングとかNGとかがあったりするじゃないですか。お楽しみ、ボーナス、おまけとしての面白さ。でもこの映画は「おまけ」と「本編」の境目がない作り方がされてますよね。すべてを、映している。音も含めて。それを観ながら、だんだん、開放感を感じ始めるんですよ。

近藤 たまに、自主映画とかで「ヘタ」な演技を見せられると、むかむかしちゃうことがあるんですけど、この映画はむかむかしなかったんですよ。「何だよこいつら!」じゃなくて「これはこれでアリだなあ」と。それは、この映画の「境目のなさ」の証であり、編集の力でもあるんですよね。柏原くんの古内さんへの告白が、狙ってるのかトチってるのかわからないところが面白かった(笑)。たぶんこれ、事前に決めて撮ってないんだろうなーと思って。

山内 うん、俺この時現場いたけど、決めて撮ってなかった。「(恋の告白を)受けても受けなくてもどっちでもいい」っていう感じ。

近藤 なるほど。だから僕も、「巧い」とか「ヘタ」とかで観てはいなかったです。

兵藤 私は、「映画ですけど、何か?」っていう感じがした。普通の映画って、画面の中には俳優だけが映っていて、本当にその世界があるみたいに見せるけど、「うちは、そういうんじゃないんで」っていう卓爾さんの冷静さというか、怖さみたいなものを感じた。いろいろ映り込むことで「これは、映画です」「嘘ですからね」って言い渡されるみたいな。

松井 僕は正直に言ってしまうと、最初、俳優がこのレベルの質感で全編演じ通すとどうなるんだろう、というドキドキ感で観てたんです。でも卓爾さんは、そういうことではない何かを見せたいんだろうというのが伝わってきたので。たとえ芝居が巧かったからといって、その世界を信じられるかと問われると、それは話は別なんですよね。
(続く)

<その2>
 このあたりから、彼らの言葉は「講師としての言葉」から「俳優としての実感」へと切り替わっていく。そして何らかの創作の発露になりうる思いつきが、ここで生まれてしまうのでした。 

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山内 例えばさ、これが外国語の映画で、字幕なしで観ていたら、「巧い」「ヘタ」を感じたと思う? 

松井 僕も似たようなことを感じました。 

山内 まるで違う文化コードで観てたら、たぶんそういうことは感じなかったと思うのね。「いい演技」「立派な演技」っていう概念が、観る人間の意識にいかに強く貼り付いているか。それを剥がしにかかっている試みだと僕は思う。 

松井 僕はこの映画を観て改めて「巧い」「ヘタ」はどうでもいいなと思ったんです。外国語で観ても、不器用だったり、ぎこちなかったりするところはあるだろうなと思うんですけど、この作品の完成度は演技やストーリーによるものではない、というのを卓爾さんに強く示された気がするんですね。「演技してる」ことを撮っている人たちがいる。っていう仕掛けがあるので、「ぎこちなさ」にも説明がつくんですよ。ぎこちなさも全部世界に織り込み済みというか。 

山内 実際、モコモコした人たちが撮った画が使われているし、みんなどんどん撮ることが巧くなっていったんだよね。「撮ってるふり」ではまったくなく、本当に彼らが撮っている。そこが面白かった。向こうから中瀬さんがこっちにカメラを向けていて、すぐそばにはモコモコ星人たちのカメラもあって、そうすると演じ手はすごく楽だったんです。「ま、どう映っててもいいや」っていう気持ちに、わりとすぐ、なれた。強い自意識で芝居をしている俳優には、キツいだろうなと思ったけど。 

近藤 カメラを持っている人たちの集中力がすごいなあと思ったんだよね。演技論のベーシックとして「ホンに書かれたことを本当にやってね」というのがあるけど、この映画はまさにそれを撮っている。だからうまく影響しあって、バランスが撮れてるのかもしれない。リアルな感じと、「ヘタ」な感じと。 

兵藤 矢野(昌幸)くんの、決定的な表情を捉えていたのが、中瀬くんじゃなくてモコモコ星人のカメラだったんだよね。 

松井 トイレで「神さまですか」って聞かれるところだよね。「……いや、違いますけど」っていう。 

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山内 あ、今わかった。矢野くんのあの芝居、松井の真似じゃないかな。矢野くんってたまに、古舘(寛治)や松井くんの真似をするんだよね。たぶん、あの芝居の元は、松井だと思う。 

松井 ああ、だから妙に覚えてるのかな。「このリズム、好きだ」って思いました。 

山内 俳優は普通、撮り終わった時に「どうなのこれ?」っていう思いがあっても「撮られちゃったものはしょうがないな」って思うじゃない。でも『ジョギング〜』は、何チームかに分かれて自分たちで何バージョンも編集をしたでしょ。あのへんから、このプロダクションは異様な輝きを放ち始めたと思う。即興的に芝居を作るとか、ラッシュを観るとかなら想定内なんだけど、「編集する」しかも「それをみんなで観て話し合う」って普通ないよね。 

松井 映画そのものもそうだけど、この作品に関わってる人たちの「育ち方」っていうのかな。集団のポテンシャルがすごいことになっていきましたよね。試写で配られた資料のボリュームにしてもそう(笑)。彼らの広がり方が、映画自体のそれと完全に相似形をなしている。自分たちが作ったものを、外から観られるということに対して、きちんと鍛えられているというか。 

山内 まさに、自分たちで編集して、客観的にそれを観て、今度は人に編集してもらって、それをまた外から観て、試写に来てくれた人の言葉を受け取って、また映画を外から観るという。 

松井 みんなが「これは自分の作品だ」って思ってる感がすごく伝わってきますよね。 

山内 そういう時さ、演劇って「集団性」みたいな言葉を使いがちじゃん。何らかの思想を共にしたり、生活まで共にしたりする。でもそれともちょっと違うんだよね。僕らが見たことのない何かだったな。 

近藤 でもこれは「演劇だから」「映画だから」っていうより、映画の人たちにとってもこれは変わった広がり方なんだと思うよ。だから僕が今一番興味があるのは、彼らの過程を知らない人が、初見で何を感じるんだろうということ。きっと、賛否分かれるんだろうな。 

山内 いや、結構、ホームランになるかもしれないと思うよ。 

松井 ホームランっていうのは例えば『恋人たち』とか『ハッピーアワー』みたいに、映画に詳しくない人も集まってくるということ? 

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山内 もちろん。長く、遠く、深く。僕は卓爾さんが編集したバージョンを観た時、卓爾さん自身が映っていると思ったのね。出会ってからもう20年ぐらい経つんだけど、その時に見せてもらった『にじ』っていう映画の印象がよみがえった。でも鈴木歓さんバージョンでは、「卓爾さんの映画だ」ということと、「みんなが映ってる映画だ」ということが、ハイブリッドになった感じがしたんです。さらに言うと、彼らが自分たちでプロモーションしてるじゃない。俳優各人が、自分で見て欲しい人にアポとって、自分の言葉で何で見て欲しいか説明して、試写見てもらってコメントお願いして、自分たちでわいわい作った何バージョンものチラシやジンに掲載して、ネットでも広めてって、もう「自分の名前で作品を売る!」っていう姿勢が、超かっこ良くて。演劇で、こういう集団姿は見たことない気がして。 

松井 外にはみ出してきた!っていう感じなんですよ。この映画を核にして、新しい価値観を生み出そうとしている。「これは演技なのかそうじゃないのか」っていうこともそうだし、「あなたと私のボーダーとは何なのか」っていうこともそう。映画そのものについても、切ったり貼ったり隠したりしてストイックに何かを見せるのではなく、「全方向に世界はあるのだ」っていうスタンス。「これで完成!」っていうんじゃなくて、完成なのかどうなのかわからない道がまだまだ続いていく。観客も、観終わったらそこでおしまいじゃなくて「この映画について何か話しましょうよ」っていう気持ちになる。この映画はそういう生命体なんだなという気が、すごくするんですよね。だからこの映画に関わったみんなは、ひとりひとりが「自分にとってこの映画はどういう存在なんだろう」ということを、すごく考えてるんだろうなと思う。賛否はあるだろうけど、「賛」も「否」もおそらく彼らの想定内というか。その感じは、すごくうらやましいと思いますね。演劇もこういうふうにできないかなあって思う。 

山内 演劇は、上演する場とお客さんがいる場が一緒だからね。「外から観る」を重ねて更新していくというのが、演劇には難しいかもしれない。 

近藤 それに、この長さはきついよね。演劇で3年間、同じ演目を試行錯誤しながらPRしなさいって言われたら、身が持つだろうかって思う。 

山内 でも「マレビトの会」がやっているのはそれだよね。 

松井 つまり、常に少しずつ変えながら続けていくっていうことですよね。僕はそういうことをやりたいと、今はっきり思っています。演劇だって、長いスパンで上演することで鍛えられて、短編だったものがロングバージョンになったり、まるで別のバージョンが生まれたりしうると思う。俳優同士で書いた作品を、何度も試演会を重ねて形にするとか。 

近藤 そうか。リーディングとかワークショップをしながら、地方公演をして、お客さんの反応を得て、また作りなおして。 

兵藤 私そういうのやったことある。半年間、同じメンバーで、同じお芝居についてずっと考えるの。1ヶ月ぐらい会わない時間があったりすると、考え方が変わったりとか、それに対して意見が交わされたりとか。それがすごく面白かった。「公演終わったら、はい、解散!」じゃなくて「やってみたけど、これどうする?」っていうことを考えるのが新鮮だった。 

山内 おー。やろうやろう。俺出るからそれ。 

兵藤 うん。できたらいいね。若い監督が、こぞってそんなふうになったらいいなあ。 
(続く)

<その3>
『ジョギング渡り鳥』に大人たちが見る景色は、誰も見たことのない地平なのかもしれません。そこにたどり着くのは、決してたやすくはない。けど、何度だってトライしたらいい。アクターズ第1期生のこれからにこそ、期待は集まるのです。 
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松井 お金と時間がない中で、いろいろ工夫して映画を撮ろうとしている人はいっぱいいて。もちろん苦労はたくさんあると思うけど、そのことで面白いアイデアが生まれてきたりもするでしょう。やりかたは、まだまだ全然ある。時間をかけて、関わり方を少しずつ変えながら作るとか。 

近藤 想田和弘さんみたいにね。百何十時間も撮って、編集するとか(笑)。 

松井 僕がこの映画に感じた「やられた感」は、そういうところです。この映画が内包している運動感、生命感に打たれた。『SHARING』(篠崎誠監督最新作)を観た時も、うらやましいなと思ったんですよ。きっちり作られた映画だと思うんですけど、学内で、学生たちと、限定された環境の中でもすごく工夫して撮っていて、そのことによって迷宮感が生まれている。環境はどうあれ、それでもニョキニョキ生えていく感じが、今までの映画とは違うなと思うんですよ。「プロ感」ではない何かでできた映画。 

——篠崎さんは『ジョギング渡り鳥』を盆栽に例えられました。たくさん接ぎ木をして、あまりにもニョキニョキと伸ばしすぎて、植木鉢の領域を越えて、ついには庭まで作るはめになったのがあの映画だと(※篠崎さんはのインタビューは後日掲載いたします)。 

一同 わははは。 

松井 いい表現ですねーそれ! 

山内 盆栽が庭になったか。 

兵藤 もはやホラーじゃないですか(笑)。 

——そんな盆栽が、演劇人の胸をも打ったと。 

山内 うまくまとめましたね(笑)。演技の学校をやっていると、手っ取り早い技術の切り売りを求めてくる人もいるわけです。来た分は元を取って、巧くなって出て行きたいと。でも、そうじゃない場をどう作ろうか、ということを僕らは考えていて。俳優を職業にすることってもちろん大変で、偶然によるところも才能によるところもあるんですけど、「職業にする」っていうことだけを考えていくと「競争」になっちゃうんですよね。勝った人と負けた人という線引きになってしまう。競争に負けたら演劇を辞めてしまう人がいるけど、でも演劇って、もっとずっと大きなものなんですよ。……と思って僕はここまで来たんですけど、「演劇もデカいけど映画もなかなかデカいなあ」と思わせてくれたのがこの作品ですね。 

松井 そうなんですよね。俳優の、「売れる売れない」じゃない生き方がないものかと僕も思います。俳優である時もあるし、別の仕事をしてる時もあるし、っていうような状態を、肯定できないものかなあと。「LONLY PLANET」(※ジョギング班が制作したフリーペーパー。千浦僚・市沢真吾による対談が掲載されている)に「第三の映画」って書いてあるけど、「仕事か趣味か」じゃないサードプレイスに「演技」や「映画との関わり」を置けないかなあと思うんですね。この作品はまさに「第三」を行く映画だなと。 

山内 そうだね。そういう現場はなかなかできないかもしれないけど、でも同じことを何度でもやろうとするんじゃないかな、この人たちは。 

松井 そう思います。 

山内 もちろん、時間をかけずに良い芝居をアウトプットする厳しい現場がほとんどでしょう。俳優って、あらゆる力関係に巻き込まれやすい職業だしね。「キャスティングする側とされる側」とか「演出する側とされる側」とか、でも彼らは、そうじゃない豊かさをこれから示してくれる人たちだと思う。 

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近藤 「ライフワーク」って呼べばいいんじゃない? 演技や映画と関わることが、自分のライフワークです、って。つまりこの作品に関わった人は、生き方自体が変わったんだろうな。 

兵藤 「白か黒か」じゃなくなってるよね、みんな。 

山内 彼らは今ものすごく「個」が問われていると思うんですよ。分業体制によっての「個」じゃなくて、表現ということに対しての「個」。 

松井 だから、みんなどんどん、作るんじゃないかと思います。どんどんカメラを持って、どんどん撮ってほしい。それと同時に、演劇もやってほしいなあとも思うんですよね。「外から観る」目を鍛えあげられた俳優たちが、どんな演劇をするのか観てみたい。 

——松井さんはこの映画を観て、演劇がやりたくなりましたか、映画がやりたくなりましたか。 

松井 僕は、「映画」と「演劇」の境界のことも忘れちゃえたんですよね。何らかの映像を撮りたい、とは思いました。でもそれは映画ではなくて、誰かの芝居をフィックスで映してる、っていう感覚なんですけど。それを僕は「映画」とも「演劇」とも呼ばないなあ、っていう。 

兵藤 そう考えるとアクターズ生は、映画も撮れちゃうし演劇もできちゃうし、ものすごい筋力を持った人たちなんだね。 

松井 表現形態の差って、これからそんなに重要じゃなくなってきてる気がするんです。バーチャルリアリティがどんどんリアルになっていったら、遠く離れた人の手に触ることができたり、本当にそばにいるみたいな感覚になれちゃうわけでしょう。そうなると「これが映画のあり方だ」「これが演劇の王道だ」みたいなこだわりが、用をなさなくなってくる。別にこれはSF的なことが言いたいわけではなくて、もともとそんなこと、こだわらなくていいんじゃないかと思うんですよ。どんなやり方であっても「面白い」は生まれるものだから。演じてる人と撮ってる人がいて、その様子を撮ってる人もいて、それを見てる人がいて。そういう入れ子構造の、演劇だか映画だかわからない何かを、合わせ鏡のように提示してみせた卓爾さんの感覚は、鋭いなあと思うんです。今みんながこの映画を宣伝しようとしているけど、「この映画はここがこう面白いです!」って言える根拠が、『ジョギング渡り鳥』にはきちんとあると思います。 

山内 うん。そして俳優は、それを語れなくちゃダメだと思う。「弁が立つかどうか」ではなくてね。短い言葉でもいいから。 

近藤 言語化はできないとね。映画美学校って、他コース生と交わってものを作るじゃないですか。そういう時も、互いに言葉にしあうことがたぶん必要だと思うんですよ。 

松井 そう思います。自分たちが作ったものの価値を言葉にしていくというのが、すごく大事なことなんだと思いますね。 (2016/02/23)