【1】
 B学校編集局長は悩んでいた。このところ、映画美学校講師陣がご多忙のあまり、なかなかつかまらない。『淵に立つ』とか『この世界の片隅に』とか、採り上げたい作品は数々あるのに、メンバーを募りきれないまま公開時期が過ぎていく。だって今年最後の企画だ。『スター・ウォーズ』とか『アイアムアヒーロー』とか『シン・ゴジラ』とか、激震しまくっていた2016年の映画界を、我が映画B学校はどう締めくくればいいのか……。

 途方に暮れながらビガッコーをぷらぷらしていたら、「地下教室」から何だか気配がする。

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 ん。誰かいる。

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 近づいてみる。

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 気づかれた。

 ビガッコー界隈を生きる皆さんにはとんでもなくおなじみ、事務局員の市沢真吾と界隈をうろつくスズキシンスケだ。映画B学校でも「市沢紳介」というコーナーがありはするけれど、いまは特に対談依頼はしてなかったはず。

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シンスケ「ええ、別に、依頼とかはないですよ」

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市沢「これが僕らの日常ですから」

 要するにこういうことらしい。ふたりはあの『ビリギャル』談義以降、もうほんとに日常的に、映画にまつわるいろんな話をしているらしい。始めちゃったら止まらないらしい。回数なんてものは数えちゃいないらしい。「そうですねえ……256回目ぐらいじゃないですか?」と市沢がけろりと言う。そうですか、じゃあ「第257回」に混ぜてもらってもよいでしょうか。そして、電気を、つけさせてもらってもよいでしょうか。 6

ここからレコーダーは回り出す。全面的に話の途中だ。何やら、映画や文化を、回顧しようと試みている模様。

市沢 僕がこれまでの映画を振り返ろうとすると、基本的に、把握しきれないんですよ。この、「把握しきれない」っていうのは、自分がおっさんになったからだけでは決してないはずだと思いたいんです(笑)。でないと「おっさんにはよくわからないよね」っていう、ほんとにつまらない話にしかならないでしょ。だから、僕以外の誰かもこの「把握しきれない」感を持っていやしまいか、という話がしたいんですよ。

シンスケ 市沢さん、よく「把握しきれない」って言いますよね。

市沢 だって、あまりにも混沌としているので。で、混沌としていると、不安なんですよね。不安になりませんか、オガワさん。

————私ですか。混沌としているものを、把握しようとすると、途方もなさすぎて不安になります。把握しようとしていないので、私は大丈夫です。

シンスケ そうですよ。市沢さんだって、1990年代のファッション史とか興味ないでしょ。

市沢 あーそういうことか。僕がなぜこの話をしたかっていうと、たとえば年末だから2016年の映画を振り返ろうとした時に、話がしづらいのはなんでだろうな、って思ったから。

シンスケ それは市沢さんがあんまり映画を観られてないからじゃないですか(笑)。人のことは言えないような気がしますが……僕は今年封切りで観た映画を数えたら、仕事を含めてですよ、33本でした。で、今年日本で封切られた全映画を調べられる限りを表にして、その中で市沢さんが引っかかりそうなものは赤字にしてきたんですけど。


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市沢 すげーー。

シンスケ 結構、今年は映画美学校出身者が動いているんですよね。横浜聡子さんとか、内藤瑛亮さんとか朝倉加葉子さんとか。名倉愛さんもオムニバスで撮っていたりするし、同期も何人か頑張っている。監督だけでもこんなにいて、スタッフを含めたら本当に数限りない。市沢さんは今年、何を観ましたか?

市沢 『ズートピア』です。子どもと一緒に。無駄がなく、生きてるキャラクターがそこにいて、完膚なきまでに完成されていた映画を見た、と思ったのですが、しかしだからこそ「この映画はダメだよ」って言う人の話が聞きたい!とも思った。

シンスケ この前、市沢さんと、『ルドルフとイッパイアッテナ』の話になったじゃないですか。

市沢 第237回ぐらいにね(笑)。

シンスケ あの映画を、連れと一緒に観たんです。方向性的にはそれこそピクサーとかディスニー系でやれる題材だし、それを目指していそうな気配もあったんですよ。実際、お客さんは泣いているし、笑っているし、僕も楽しめました。でも、ピクサーやねずみ系とは、何かが違ったんです。

市沢 ふーん。

シンスケ で、この間『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』も連れと共に観たんです。それで連れの意見と一致したのは、これと同じギャグを日本語でやってもウケないだろうなというところ。アメリカ人が言うと思われている、ちょっとエッチな下ネタとか。これを日本の女優が日本語でやったら、大多数の日本人の男も女もきっと引くんです。だから、言葉の違いってデカいんじゃないかと思います。『ズートピア』は英語じゃないですか。英語で考えて、作られた作品。一方『ルドルフ〜』は日本語で考え、作られている。

市沢 「それは外国語だからでは?」というやつね。本当に正直に告白しちゃいますけど、ハリウッド映画に限らず、ゴダールやストローブ=ユイレの映画でもし、日本が舞台で日本人だけが出てきて日本語だけしゃべってたら「う、ちょっと…さむい……」ってならずに自分は映画を見続けられるのだろうか、と。映画見てる顔つきだけは「俺はわかってる」風を装うんだけどさ。内心「これは…素人が…棒読みで…しゃべってるだけでは…」と思ってるっていうね。

シンスケ 大げさではなく命を賭けて映画を観ている方は別だと思いますが、一般的な印象としてはまさにそうだと思います。

市沢 ストローブ=ユイレ的な自主映画って、たまにあるんですよ。そういうの観るときって、座席の手すりをつかみ、肩に力を入れながら、俺はこのイタみに耐えねばならないのだって思いながら観る感じがあるじゃないですか。なぜ日本人があれをやろうとすると、こんなにイタい感じになるんだろう。

シンスケ それは、黒沢清さんとか万田邦敏さんの8ミリ映画でも感じたことですか?

市沢 僕がそれらを観た当時、映っているのはすでに20年以上前の映像や風俗だったんですよね。フィルムでアフレコしてるみたいなことも含めて、現実と地続きな感じがしなかったんです。だからそれは感じなかったかな。

シンスケ フィクション度が高い、ということ?

市沢 フィルムとアフレコ感と、たぶんしゃべり方が今っぽくないことも含めて、フィクションとして観てたっていうことですね。『ブリジット・ジョーンズ〜』もそうだと思うけど、アメリカ人が英語でしゃべっているというだけで、すでに高いフィクション度を前提として観てるんでしょうね。アニメのキャラクターを観てるみたいな感じで。

シンスケ マーベルの『X-MEN』とかと一緒でしょうね。日本モノでいえば映画版の『アイアムアヒーロー』とか『こち亀』とかもそうかもしれない。
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市沢 フィクション度が高くて、自分の現実と地続きではないからこそ受け入れられるものがあるんでしょうね。音楽の話に飛ぶけど、90年代後半って、私はヒップホップを聞いてたんですけど、アメリカのそれを聞いた後に日本語のヒップホップを聞くと、最初は確かに、聞いててつっかえるなあ……みたいな感じがあったんですよ。でも今の人はそもそも、アメリカに憧れてないんじゃない? 自分が子どもの頃は「洋高邦低」の時代だったので、アメリカの音楽も映画も、何らかの憧れの象徴だったんですよ。その感じって、今の10代20代の人たちにはあるのかなあって思って。

シンスケ 市沢さん、その話をよくしますよね。ライフワークなんですか?

市沢 あ、たぶん、そうだと思います。「今の観客ってどう思ってるのかな」っていつも思ってるふしがある。

シンスケ それを考え続けることが楽しい?

市沢 そうかもしれない。読む本を選ぶ時も、そういう視点になってるかも。

シンスケ 僕今年、市沢さんに本を貸しましたよね。

市沢 末井昭の『自殺』ね。自殺が軽やかにエピソードとして語られているんだけど、僕がちょうどしんどかった時期だったので、実際にしんどいと読むのもしんどいなと思ってやめました。10年後ぐらいに読めば全然、普通に読めてるんだろうな。

シンスケ 何がそんなにしんどかったのかは、だいたいわかっているので大丈夫ですよ(笑)。でもあの本は大傑作なので、いつか必ず読んで下さいね。僕は最近、小説が読めなくなっちゃったんですよ。文学だろうが大衆小説だろうが、なのですが。物語って、読めます?

市沢 物語は確かに、読まなくなった。完全におっさんになったなー。

シンスケ それって「おっさん化」なんですか?

市沢 ノンフィクションとか、歴史とか、ジャズとかに興味持ち始めたら、おっさんだっていう偏見(笑)。

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シンスケ オガワさんはどういう本読むんすか?

——私は、最初は日常描写系かのように見せかけて、読み進むうちにものすごくどろどろとした闇が奥底に巣食っているような小説が好きですね。「アラサーの女の子が人生に挫折してカフェや雑貨屋で再生する物語」とか、だいっきらい。

シンスケ (笑)。それって単純に、シンパシーですかね。

市沢 シンパシーしか、ひっかかりがないということかしら。まったくの異世界を覗き込む興味がないということなのかしら。

シンスケ ビガッコーに来る受講生たちはどうですか。

市沢 僕の実感では、フィクション度の高いものをやろうとする人は、一定数いる。ただし、その実感とかリアリティとかこだわりとかを、掘り下げられていないんですよ。もちろん、経験がないからそんなにたやすく掘り下げられるはずがないんだけれども、でも「掘り下げられていない」ことが映像に映っちゃう。だから「日常系」の人たちが実感で撮ってるリアリティに負けちゃうんですね。いや、「負けちゃった」と思っちゃうということかな。自分の実感のことは繊細に描けるからね。だから最初はフィクション度の高いものを撮ろうとしてても、自分の身の回りのものに収束していくというのかな。そういう傾向が、いまだにあるように思う。でもそこで、それでもフィクションを掘り下げて突き詰めようと思う人こそが、タフなんですよね。

シンスケ 僕は最近ビガッコーに出入りする機会が残念ながら減って来ていて、主に小ぢんまりとライターとして飯を食っているのですが、書き手として、「日常系」の方が敷居が高い気がします。「ミステリー」とか、よりフィクション度の高い「ジャンル」、何らかの制限や縛りや「お題」がないと逆に書きにくいというか。

市沢 万田さんがゴダールを観た時に、「これなら俺でもできるかも」って思ったそうなんですよ。その時代、70年代後半から80年代前半の映画人たちは、自分たちの目標を高く置いていたのかもしれない。さらに言うと、当時は「撮る」ことが今より困難だったわけです。今みたいにすぐiPhoneで撮っちゃうわけにはいかないからね。撮れる機会自体が貴重だったにもかかわらず、「俺にもできるかも」って思えるのはすごいなあと思って。



【2】

 ふたりは、いわば「上司と部下」である。でもこの部下は上司にツッコミを入れるし、上司はそれがうれしそうだ。よく見たら、着ている服までそっくりである。それはそれで楽しいのだけれど、でもそろそろ2016年の映画の話もしてほしいなと思う。シンスケくんが作ってきた「2016年の映画リスト」もあることだし。

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シンスケ 僕はそもそも、『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も観ていないんですよ。ただ『君の名は。』が興行収入で宮崎駿の何作かを抜いちゃうんだ!と思ったら何故だかすごく動揺したんです。きらきらした、デジタル的な背景と、高校生男女のタイムトリップもの。これが今の日本でウケるんだなと。別に全然いいんですけどね(笑)。

市沢 宮崎駿って、作家の名前と興行成績が結びついている、つまりお客さんの中にもその名前が浸透している、数少ない作家なわけですよ。「宮崎駿のアニメ」っていうことの威力が10代からお年寄りまで知れ渡っている。どんな作品を作ってもめちゃくちゃヒットするでしょう。その現象が、僕はずっと不思議だったので、『君の名は。』のヒットは何か「2016年のヒット」であるという感じが、横目で見ていても、しますよね。

シンスケ 僕は、新海誠の作品を、最初の方からずっと観ているんですよ。『ほしのこえ』(02年)とか『秒速5センチメートル』(07年)とか、『君の名は。』以前の観られる限りの全作品を劇場で観ていて、大学生の頃なんかは大好きでした。時代感とか、空気感とか。今でも好きか嫌いかって聞かれたら好きなんですけど、ただ、この学校に来て、自分が映画作りに関わるようになってからわかるようになったのは、作り手が映画を観ているか観ていないかが、映画のどの部分を観ているのかが、その人の作る作品にすごく出るんだなということ。発想の仕方が違うと思うんですよね、宮崎駿と新海誠は。どっちが正しいというわけではないけど。

市沢 ふたりは、どう違うんですか。

シンスケ この前、宮崎駿のドキュメンタリー番組を観たんですけど「自分が好きだった映画は、ストーリーで好きになったんじゃない。ワンショット観た瞬間に『これは素晴らしい』って思う。それが『映画』だと思っている」みたいなことを言っていたんですね。となれば、おそらく自作の創作の時も「物語」ありきでスタートするはずがない。それって、シネフィルの発想ですよね。

市沢 そうね。映画を撮り始めたばかりのシネフィル。

シンスケ たぶんゴダールとかも同じなんだと思うんですよ。最終的にできあがるものはいろいろあっても、最初の発想が「物語」とか「雰囲気」とかじゃなくて、もっと具体的な、動きとか場面とか。例えば、宮崎駿のアニメによく出てくるのは、空から落ちるシーン=落下ですよね。あれがあの人の作家性だし、「作家性」っていうのはそういうことだと僕は思っているんですけど。でもそれを、新海誠の映画で考えようとすると、ちょっと違う。新海さんの「作家性」といえば圧倒的に、風景画の美しさと「物語」と音楽、つまり「雰囲気」なんですよ。それが今はここまでヒットするんだなと。

市沢 つまりアトラクションということなんだろうか。アトラクションとしての精密さ、キラキラさを受け取る。そして自分もキラキラしながら劇場を出る感じ。私はこの前、ディズニーシーでへとへとになりましたけれども。

シンスケ 親戚一同で行かれたんですよね。

市沢 ただただ疲れたのみでしたけど。でもその、アトラクション性に特化していく映画というふうにとらえれば、この映画がヒットしているのもまったく不思議じゃない感じがするね。

シンスケ 音楽だと、歌詞が好きで曲を買う人がいるじゃないですか。その逆もいるし、どっちが上かなんてことは誰も決められないわけです。まぁそれをする行為が「批評」の重要性なんだと思いますが。一方で、たとえば僕は、居酒屋とかで興味のない楽曲がかかっていたとしても、歌の後ろの方で「ドラムスがここでライドを叩くのか!面白い!」とか、どんな技巧を凝らして編曲・演奏しているのかとか、そのくらいは分かる。これは特別なことではなくて、訓練すれば誰にでも「分かってしまう」んです。だけどたぶん、「普通」はそこまで聴き込む必要はないんですよね。商業アイドルの曲のリズム音のひとつひとつまで聞けてねーだろお前!って目を三角にするのは、そこに携わる職人たちへの敬意を払うという意味では極めて重要なんですが、一般的には逆に違うのかもしれない。かつて僕自身が「お前らちゃんと映画観てねーじゃないか!?」みたいなことを自分が無知なことを棚に上げてしょっちゅう言っていたと思うんですよ。作り手あるいは作り手を目指す人に対してそういう発言をするのは「教育的」かもしれませんが、自分がそうしていた理由は、ただ、恥ずかしかっただけなんだと思います。本当の意味で映画のことをわかっていない自分が。

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市沢 たとえばラーメン屋を出すっていう時に、美味しいラーメンを突きつめてからお店を出す人と、まずどこにどんな店構えで出すか、どんな器で出すか、カウンターはどんなふうか、っていうことを考えてからお店を出す人がいると思うんですよ。映画作りも、そのふたつに分かれる気がして。どこの映画祭を狙うか、どういうルックにするかっていうパッケージの部分をまず考えてから作られた映画が、今は増えてるのかもしれないなと思うんですよね。『君の名は。』のポスターって、そこから物語を想像できそうな要素があんまりないんですよ。でもキラキラ感はある。ラーメン屋の店舗のルックが、ラーメンの味と同じくらい重要な感じ。

シンスケ 市沢さん、最近健康問題でラーメン食べていないですからね。どうしてもラーメンに例えたいんですね。

市沢 うん(笑)。実は映画の話を食べ物に例えるのとか恥ずかしい。本っ当におっさんぽいよね。

シンスケ いや、わかりやすいじゃないですか。それに、映画も食い物も、最終的にはどうしたって「好き嫌い」になりません? 「好み」で判断を下す寸前まで「善し悪し」で思考することが前提条件だとは思いますけど。

市沢 でも表現行為と味覚が決定的に違うのは、例えば料理に対する評価の仕方として「アブストラクトなつけ麺」って無いじゃん。

シンスケ (笑)。いや、言えると思います。ラーメン二郎を「アブストラクトなラーメンだ」って言えると思う。あれはもうポピュラーですけど、あんな量で、あんなにぐちゃーっとしている、あれははっきりとアブストラクトですよ。

市沢 ああ。B級グルメってそういうことなのかなあ。

シンスケ ある意味でそうだと思いますよ。

市沢 映画や音楽をラーメンに例えるたびに、なんか嫌だなと思うのは、表現行為には多様性ってものがあるじゃないですか。「うまい」「うまくない」に落とし込むには無理がある。

シンスケ いいじゃないですか「アブストラクト」。使っていきましょうよ。

市沢 それは「いかにマズいって言わないか勝負」にならない(笑)?

——「シー」にはなかったですか。アブストラクト。

市沢 ディズニーシーにあったのかなあ……ただただ疲れてしまったので(笑)。

シンスケ 僕も行きましたよ、最近。ねずみパーク、大好きなんですが、非常に疲れます(笑)。

市沢 ただただ並ぶんだよね。体感的に、行ってた時間の3分の2……5分の4ぐらいは並んでた。みんな、キラキラした世界ではしゃいでるんだけど、たまにめちゃくちゃケンカしてる中年カップルとかいるんだよね。そういうのを見ると、ほっとする。「こんなところにも現実があった……」って。

シンスケ (笑)。あと、喫煙所も現実ですよ。みんな疲れた顔してスマホ見ていますから(笑)。

市沢 そうだよねえ。夢の世界も大変だよね。

シンスケ 現実を見ると、安心するんですかね。

市沢 「ハレ」ばかりでは生きていけないね。こういう学校にいると、映画を撮ってる時って「ハレ」なんですよ。

シンスケ 精神状態、普通じゃないですもんね(笑)。自分もそうだったからわかります。

市沢 そういう時にくたびれてる受講生とかがいると、にやにやしながら話しかけちゃう。「今、監督に包丁刺したいって思てるでしょ??」って。大体みんな「何言ってるんですか、そんなこと思うわけないですよ」って苦笑いするから、そこで自分も安心するんだけど。

シンスケ ひでー。俺もやりますけど(笑)。

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市沢 話を戻すけど、映画におけるアトラクション性って、ジェットコースター的な物語について語られることが多いじゃないですか。でもハラハラドキドキだけじゃないアトラクション性ってあると思うんですよ。甘酸っぱい気持ちになれるとか、キュンキュンするとか。それがここ10年ぐらいの……たとえば『横道世之介』(12年)に感じたんですよ。シンスケくんには何度も話してるけど。

シンスケ 回数的には軽く2ケタを超えますけど、いまだに観ていない俺も俺ですね(笑)。あと、市沢さんはテレビの話もよくします。『逃げ恥』は見ていないんですか?

市沢 観れてないですねえ。あれも「キュンキュンできるアトラクション」として受け入れられてる感じですよね。

シンスケ リアルにキツい恋愛物語というわけではないのですかね? フィクション度が高いのかなぁ。

——まさにマンガを読んでいる感じがします。

シンスケ 俺、1回だけ見たんですよ。『ビリギャル』の監督(土井裕泰)が演出しているって聞いたから。あのドラマってまずダンスが話題になったじゃないですか。ダンスが話題になるドラマってすげーなと思って見てみたら、めちゃくちゃ面白かった。演出だけではなく脚本も役者も素晴らしいのではないかと。

——放送直後のツイッターがすごいです。「ふたりとも可愛い」「キュンキュンする」って。

シンスケ ああ、両方にキュンキュンしているのか。星野源にも、新垣結衣にも。

市沢 その感覚をすぐにシェアできるドラマなんですね。観終わった後の感覚をシェアするために、長い言葉は必要じゃない。

——放送途中にもツイートされますよ。「今の顔、超カワイイ!」とか。

市沢 批評の言葉でそれはできない感じするよね。「○○の不在」とかさ、よく使うじゃん(笑)

シンスケ (笑)

市沢 「今のシーン、超不在だよー!」とはならないじゃない?

シンスケ 現代口語じゃないからじゃないですか。「アブストラクト」問題に話を戻すと、ごはんとかは口語で語られるでしょう。「うまい」「まずい」「見た目が凄い」とか。一度頭で揉んでから出す言葉と、とっさの掛け合いみたいにして出てくる言葉は違うと思う。

市沢 そうだね。口語でシェアしやすいものが、ヒットしてるんだろうな。

シンスケ ツイッターとかでも、映画の評判がリツイートされてきたりするけど、作品によって語調が全然違いますよね。批評の言葉で綴られがちな作品と、口語で語られがちな作品がある。前者はどこかハードルが上がるし、今の若い世代でシネフィルなのに戦略的な方は、口語で映画を語ろうとしているのがわかりますよね。

——『シン・ゴジラ』は口語系映画だったですか。

シンスケ 批評も口語も両方あったと思います。それは観客の世代がバラけたからでしょうかね。初代ゴジラを観てきた大人たちから、若い人たちまで。だから誰かが何か言うと、ものすごくいろんな反応が返ってくる。 市沢 インターネットは世界につながってるからねえ……

シンスケ 今さらそんなことでドヤ顔されても(笑)。




【3】
 ほとんどの方がお察しだと思いますが、この日の「市沢紳介」は決して「ビガッコーを放浪してたらたまたまやってた」ものではありません。「257回」という回数の真偽は確かめられませんが(ひょっとしたらもっとやってるのかもしれない)、編集局長が話を持ちかけたら、ほんの数日で実現した対談です。映画を「作る」ことだけじゃなくて「語る」ことも大好きな人たち。映画美学校は、仕事の合間に、こんな話ばっかしてる事務局員がいる学校です。事務局員がこうなのだから、講師や受講生はどれだけのものを交わすんでしょう。パソコンの前で、自分ひとりで映画を考えている人がもしいたら、ちょっとでもこの学校に顔を出してくれたらうれしいですよ。 

  →  映画美学校公式ホームページ 

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——そろそろ、シンスケくん作のリストに戻ってみましょうか。 

市・シ おおー。 

市沢 いいですね。いい軌道修正です。 

シンスケ 『ブリッジ・オブ・スパイ』がヤバかったっす。 

市沢 どんなふうに? 

シンスケ 演出も脚本も役者も音楽もスタッフも、全部のレベルが高くて、超面白いっす。 

市沢 ああ、口語だ(笑)。 

シンスケ 口語、大事でしょ(笑)。 

市沢 「ヤバい」って、いろんなことをカバーできる言葉ですよね。「何だかわからないけどとにかくすげーぞ」を短く伝えられる言葉。 

シンスケ 市沢さんは映画を観ていなくても、映画について語れる言葉を持っていて、「こういう言葉を使っても伝わるだろう」って思えるから話していて楽なんですよね。 

市沢 たぶん僕らにはおんなじソフトが入っているから、例えば「ヤバい」の3文字を翻訳するだけで、ぶわーっと情報が伝わってくるんですよ。 

シンスケ それを赤の他人が見たら「内輪受けじゃねぇか!そういうのがシネフィルのイヤなところ!」とか思われてしまう弊害も往々にしてあるのですが……。まぁ今年新作を仕事込みで33本しか観ていない僕はもう完全にシネフィルではないです(笑)。でも、随分昔にインストールしてしまった同じソフトが入っているからこそ使える難しい言葉っていうのも確かにありますね。だから市沢さんとしゃべっている時の僕は、わりと真面目にしゃべっているんじゃないかな。……そうでもないすか(笑)。 

市沢 いや、そう思いますよ。 

シンスケ 僕が映画を口語で語っている時は、コピーライターみたいな感じがありますよ。正確性は無視して、相手の胸に留まるか、観に行ってくれるかを優先してしゃべっている。で、市沢さんとか、B学校編集局員の鈴木知史くんとか、大げさな表現ではなく本当に命を賭けて映画を観ているような人と話す時は、キャッチコピーって逆に邪魔なんですよ。キャッチコピーと批評的言語を混ぜて何とか成立させたいと思って書いているのがフリーペーパー「CinEmotion(シネモーション)」の連載(「元シネフィル・スズキシンスケの元気批評!」)なのですけどね。今年『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』っていう映画があったんですけど、これにキャッチコピーをつけるのは、たぶん僕は無理なんです。尺が90分くらいでカット尻が短くて展開が早くて……って逐一細かく説明することしかできない。それをそのままツイッターに書いたところで、これは作品の「質」ではなく「経済」の問題なのは重々承知ですが、波及効果は低いですよね。でもそういう時に市沢さんとか知史くんは、「ああなるほどそういうことね」ってすぐわかってくれるんです。 

市沢 その映画ってあれだよね、アウシュビッツで粛々とユダヤ人を処刑していた男の裁判を、テレビ中継するって話だよね。 

シンスケ そう。それを全世界に中継しようとしたプロデューサーと監督の「物語」。 

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市沢 それってでも、通常語られる言葉としては「人が人を裁くこととは?」とかでしょ。それを一般の人たちに考えさせたいという、社会への問題提起として語られる側面があるよね。でもシンスケくんと僕は、そういうことを語ろうとしてるんじゃないということか。 

シンスケ 全然違います。恐らく、製作したスタッフ陣も、それが「本当の目的」ではないはずです。お金儲けが最大の目的かもしれませんが(笑)。 

市沢 おそらくシンスケくんは、知史くんや僕に『アイヒマン・ショー』について語る時、「人が人を裁くっていうことはさあ……」っていうのじゃないことを語ろうとしてる。例えば「90分」って聞いた時点で僕らには、「それは称賛すべきことなのだ」ということがわかるんですよ。そういうコードを共有しているというか。その点で言うと自分は、ずっとそういう話しかしてこなかったんですね。同じコードを共有している人たちの中で「わかるよね」「わかるわかる」っていう対話しかしてこなかった。けれども、どうやらそんなことなどどうでもいい人もいるぞ、と。どっちがえらいとか正しいとかではまったくなく、ただはっきりと、僕らのコードなど何の価値もない、いやそもそも知らねーし、という人々がいるのだと。その問題意識が僕にもシンスケくんにもあるから、こういう企画をやっているんじゃないかと思ったりしますけど、どうですか。 

シンスケ その問題意識はわかります。それがなかなか解けない謎だということも。でも最近僕、市沢さんが言ったような問題意識を、他の人に押し付けなくなりました。受講生だった頃はいわゆる世間一般に「てめぇら万田邦敏や西山洋市や大工原正樹の凄さが全然わかってねーんだな!アホか!」ってずっと憤っていた。ちょっと、小馬鹿にすらしていたくらい。完全に若気の至りですね。そのときはたぶん、僕は口語が使えなかったんです。イタいですね(笑)。 

市沢 俺も10代の頃に同じような思いを、バイトしてたサンクスの店長の奥さんに対して思ってました。「こいつ全然映画のことわかってねー!」って。俺自身はまったく仕事ができないんだけど。 

シンスケ (笑) 

市沢 自分は選ばれている、という選民意識ですよね。「映画がわかってる人間」と「それ以外」を分けて、いくら自分に常識がなくても「映画がわかっている」という1点においてプライドを保って生きていた10代の終わり頃ね。でもこの学校に入ったら「映画がわかっていて、かつ、常識もある人たち」に出会ってしまったので。 

シンスケ (爆笑) 

市沢 この人たち、映画を知ってる! その上、センスもある! 人としゃべれる! 行動力もある!……っていうカルチャーショックに襲われたのが1997年の出来事です。 

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シンスケ 僕が映画美学校に入ったのは2008年、20歳の頃なんですよ。そのあと、仕事としてプロの現場に入るようになって、頭では分かっていたけれど感情的には絶対に納得していなかったことである、必ずしも「正しい人」だけが現世で勝つわけではない、という現実を体験したんですね。どんなに優れた作品でも、さっき言ったみたいなキャッチコピーで語れない映画は売れないんだな、歴史に名が残っても同時代的には広まらないんだな、っていう。細部まで考え抜かれて作り込まれた作品と、広く売れている作品は、共存することももちろんありますが、違う数式でできている。それを実感したときに……何だろう、どう言えば語弊がないのかなぁ…… 

——受け入れた? 

シンスケ そう、受け入れたんでしょうね。ようやく感情的にも。本当はこんなこと公開したくないんですよ、恥ずかしいし自分の得になることが何一つないから。でも、こういうのはさらけ出さないと面白くないからカットしないでいいです(笑)。で、そこに気づいてからは、実際に話す言葉でも文章でも、「自分の文体」が変わったと思います。「自分の文体」へのこだわりがなくなってきたというか。仕事においてもそれ以外でも、自分が語る媒体に対して「俺の文体が正しいんだ!」みたいな強さが、自分にはない。これは「主体性がない」「文体こそが作家性」という意味で一長一短ですけどね。だから自分は、いまは多分仕事の上での肩書きは「ライター」ですけど、精神的な自負としての感覚で「映画作家」ではない。「仕事を請け負う映画監督」になった感じですかね。もちろん「仕事を請け負う映画監督」でも「作家性」というものは存在するんですけどね。 

市沢 例えば西山洋市さんの作品について、シンスケくんとはたぶん55回ぐらい話してるんですけど(笑)、抽象的なアート系作品ということではもちろんない、しかし今まで自分が見てきたエンターテイメント映画とはどうも違う、だがしかし何らかの強い意志を感じる映画であることは確かなんですよね。それってなんなんだ、と。そういう時こそ「言葉」の出番だと思うのだけど、未だにその言葉に出会えてない。難解な言葉でカマすことはいくらでもできると思うけど、もっと口語で伝えることはできないだろうかと思うんです。 

——口語にできる作品とできない作品は、観てすぐにわかるんですか。 

シンスケ 全く根拠を示すことは出来ませんが(笑)、わかります。ああこれ売れるな、とか、売れないな、とか。少なくとも分かっていると自分では確信していて、それはあまり外れていないような気がします。 

——「口語にできるできない」は「売れる売れない」なの? 

シンスケ 超バズッた「PPAP」とか例外は数多ありますが、現代日本においては往々にしてそんな気がします。というより、出資で作られるものだと、そうでないとグリーンランプが点灯しない(GOサインが出ない)んだと思います。良いことかどうか分かりませんが、「映画の予告編の作り」や「洋画の邦題の付け方」なんかはまさにそうですよね。本編やオリジナルの題名と全く違うとか、よくあります。それによって、分析的に観ると全然面白くない映画でも「これは売れるな」って思うことがある。感覚の話なので、あまり断言はできないんですけど。例えば……多国籍料理って説明しにくくないですか。 

市沢 あー。「説明しづらいけど美味いもの」ね。 

シンスケ それに比べて牛丼屋みたいに「早い安い美味い」ってキャッチコピーをつけられるものの方が、広く伝わる。もはや広告代理店ですよ。その正確性は別として、一見さんには届きやすいですよね。 

市沢 へえー。キャッチコピーをつけにくいものって、ひと言で言うとどういうものなんだろう? 

シンスケ ……こういう無茶振りをね、この人は平気でしてくるんですよ! ずっと!分かっているくせに! 

市沢 (笑) 

シンスケ 「市沢さんってどんな人?」って言われたら、たぶん口語で言えると思うんですけど。「面白いおじさん」とかって。 

市沢 え。俺にも多様性あるよ? 

シンスケ (笑) 

市沢 多様で多感な少年時代を過ごしたよ? 

シンスケ うるさいなあ(笑)。もう2時間もしゃべってるんですから。 

市沢 タイムリミットを決めないと、延々やってるからねこれ。 

シンスケ 市沢さん、実はすごいおしゃべりですからね。ぱっと見、そんな感じしないじゃないですか。わざと話しかけづらそうなオーラを最初は出しているし。受講生時代にはマトモに話したことなんか一度もなかったですからね(笑)。でも今や、なんか市沢さん今日ダウナーだなあと思って一緒に帰ったら、いきなりものすごくしゃべり出すっていう。 

市沢 なぜ俺がダウナーなのかをシンスケくんに説明してたら元気になったんです。 

シンスケ それは何のセラピーなんだ(笑)。(2016/12/7)