この映画が生まれた「アクターズ・コース」の、講師をしている3人である。普段は劇団「青年団」で、演劇をやっている。彼らが受講生に向き合う時、そのスタンスは「講師と受講生」というより「俳優同士」である。その人たちが、『ゾンからのメッセージ』を観た。会話は、この3人の中で唯一出演者である山内健司の、現場でのエピソードから始まる。

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近藤 山内さんは、アクターズの修了制作には、2本とも出てますよね。『ジョギング渡り鳥』と、『ゾンからのメッセージ』。

山内 (鈴木)卓爾さんのアクターズでの監督作には、カメオでいいから絶対出たいって決めてて。「Bar湯」っていう店のお客の役だったんだけど、僕だけ日帰りだったんですよ。

兵藤 ああ、みんなは深谷に合宿してたんだっけ。

山内 そう。台本は特になかったんです。で、山登りで出会った不思議な話が、僕にはいくつかあるので、そのうちのひとつを話そうと。

兵藤 うん。

山内 それで現場に行ってみたら、「Bar湯」っていうのがだいたい6畳ぐらいの、木造の、ほんっとの廃屋だったんだよ。床が抜けてて、柱も傾いてて。まず僕は、「なんでこんなにひどいとこでやるの??」って思ったんです。撮影は春だったけど、まだ寒くてさ。「これ、俺がやれば、普通に直せるぞ」って思った。ちゃんとジャッキで床を上げて、水平を取って、柱を補強したら、俺一人でも、できるよ!って思ったけど、でも、あの空間に居続けるうちに、30分くらいでわかってしまったんですよ。柱は傾いているし、扉も閉まらないんだけど、そこにみんなが美術を作り込んで、そこに住みついてるオーラみたいなものを感じて。「これは、俺が手を出したらあかんやつだ」と思ったんです。とにかく、彼らがそこに、いたんだよ。それに驚いたし、どこか、怖かった。

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兵藤 実際に、あのシーンを演じてて、どうだったんですか。

山内 即興めいた感じでやるのかなと思っていたら、みんな意外と、きっちりお芝居しようとしてた。だから僕が何か突拍子もないことをしちゃうと、彼らを困らせてしまう感じがしましたね。困らせないようにしないといけないし、彼らには「このように進行したい」という何かがあるみたいで。堅さを感じました。それは「演技が硬い」というのではなく、コア、芯の堅さというか。

兵藤 みんなすでに、作品の一部だったんだね。

近藤 観てる側としては、廃屋だとはわからなかったけどね。

兵藤 わからなかった。ただ、相っっ当狭いんだろうな!って思った。

山内 相っっ当狭い!(笑)

兵藤 でもそれが、ゴールデン街みたいな感じで、みんながひしめきあってる感じがよく出てたから、「楽しそう」って思った。

近藤 こういう店も、あるかもね、って思って観てたけど。

山内 山登りしてるとさ、捨てられた村みたいなのがたまにあるのね。するとそこに、朽ちてしまった、物置みたいなのがあったりする。それに近い。

近藤 映像の魔法だよね(笑)。

兵藤 お酒の瓶が並んでたりとか、間接照明とかで、ステキ空間に見えちゃってたけどね。

山内 酒瓶のラベルとかは、(長尾)理世ちゃんがワードで全部作ったって。そういう、手のかかったアイテムがそこらじゅうにあるの。やばい、手を出せない!って思った。あれは、みんな寝てないね。

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——スクリーンであのシーンを観たとき、山内さんはどう感じましたか。

山内 あのBAR湯がこの作品の核心じゃないですか。あそこに、律っちゃん(律子)と(飯野)舞耶ちゃんが住んでるっていう。あの「触っちゃいかん」という手触り自体が、映っていた気がしますね。

兵藤 そうだね。あの狭さとか密着感が、映画全体の雰囲気を作ってた気がした。

——外に出ると、不思議な空があって。

兵藤 あれも、撮影してる時は、普通の空だったわけですよね?

山内 そうです。

近藤 一応、オーダーがあったらしいよ。「あんまり空は映さないようにしよう」っていう。空の色を変える作業が、大変なことになるからって。でも結局、その合成作業は、みんなで一コマ一コマ、全部やったんだよね。「それなら気にせず撮ればよかった」って、カメラマンの中瀬(慧)くんがブログに書いてた。

山内 はははは。

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——アクターズ・コース・イズムとして、「演じるだけではなく、いろいろやれるようになろう」という意識が通底しているように思うのですが、そのあたりはいかがですか。

山内 まあ……俺らのせいだよな(笑)。

近藤 こういう修了制作は、さすがに毎年は無理だ!って、卓爾さんも古澤(健)さんも思ったんだと思うよ(笑)。

山内 僕らはいろんな現場へ行って、「俳優さんにそんなことまでさせるなんて!」みたいなことに、普通に出会うんですね。そういう、腫れもの扱いされると、僕はカチンとくるところがある。もっとフラットに、普通にできないのかな? 誰が何をやったっていいじゃん!って思ってはいるんですけど、それと、「全部やらなきゃダメ!」というのは、また別の話かな。「腫れもの扱いされるのはおかしい」とは言いながら、「専門家の手を借りずに全部自分でやる」というのも大変だよなと思うわけですよ。シネカリにしろ、宣伝にしろ。

——「すごくやるか、全然やらないか」の二択しかないのかな、と思ったりしました。

兵藤 でもさ、青年団だと、「若手自主公演をやりたい!」ってなったら、俳優も自分で企画書を書いて、予算書も出して、どうやって売るか、自分たちで考えるじゃない。それに近いのかなと思うけど。

山内 青年団には、わからないことがあればすぐ聞ける専門家がいるじゃん。リスク回避を促せるアドバイザーが制作にもテクニカルにもたくさんいる。

兵藤 「自主映画」っていうものが、そもそもそういうものなのかもしれないよ。専門家がびっしりいた上で作るものと、まったくいないもの。そういうジャンル分けがされてる世界なのかなって思ってたけど。

近藤 でも今回は、石川(貴雄)くんを始め、多くのスタッフ陣は『ジョギング〜』を経験していたからね。宣伝とかも、『ジョギング〜』から受け継がれたものが、何かあったかもしれない。

山内 いや、逆におののいたんじゃないかな(笑)。『ジョギング〜』の有様を見ながら、「私たちもあれをやるの……?」って。だって、『ジョギング〜』も『ゾン〜』も、結局みんなずーっと映画美学校にいたじゃない。

近藤 空が映っている全カットを、あの空の色に合成して、2ヶ月かけて「グレーディング」をしたって、中瀬くんは書いてましたよ。

兵藤 それはすごいな……!

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山内 僕は今回、3バージョンを観ているんですけど、最終版が一番、『ジョギング〜』と同じものが映っているという感じがしました。今、俳優のワークショップの自主映画とかってさ、「機会があったら芸能人になりたい!」っていう人が、その通りの姿で映ってるじゃない。でもこの2作品は、そういうものが全然ない。撮った時点での彼らがそのまま映ってる感じ。

兵藤 うん。

山内 こないだの試写会でも、律っちゃんと丸ちゃん(石丸将吾)が挨拶してて、そこに「初々しさ」はないのね。「ずっと紹介できなかったけど……実は連れ合いがいます」みたいな感じ。

二人 (笑)

山内 「4年めにして、やっとご紹介します」っていう、落ち着いた空気感があった。

近藤 そりゃ、初々しくはないよね。撮影してから4年経ってるんだから。「作った! できた! 見せれるー!」というわけにはいかない(笑)。

山内 そういう、浮ついた感じでは全然なく、ただ、人の群れが映っている。それが『ジョギング〜』とまったく同じDNA、非常に稀有な手触りだったんです。



山内 あと、若い人の群れってものが映ると、「あと一滴、何かを垂らされたら、何かヤバいことになっちゃう!」っていう切迫感がよくあると思うんですけど、『ジョギング〜』も『ゾン〜』も「震災後」の映画なんだなあと思った。すでにヤバいことになって、あふれかえってしまった後の映画。

兵藤 どちらも卓爾さんが作っているから、質感は近くなると思うけどね。私は、深谷に住む人たちにインタビューするシーンが面白かったな。

山内 あの時の、理世ちゃんの質感が好きだな俺は。つるん、ってしてる。

兵藤 『ジョギング〜』よりは、ぎゅっ!としてた感じがします。「若者たち!」っていう感じ。その若者たちが「ゾン」に閉じ込められて、圧迫されてるその「圧」を、みんなの演技に感じたんです。耐えてる、我慢してる、それが爆発しそう!というか。みんな、こんなお芝居をするんだ!って驚いた。

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近藤 僕も『ジョギング〜』よりは、ぎゅっ!としてるなって思った(笑)。「ゾン」に閉じ込められていた人の顛末、という部分で、はっきりしたストーリーがあったからね。ひとり、スタッフの人が出てくるじゃないですか。

山内 川口(陽一)さん。

近藤 彼が、すっごい、良くて。みんな、負けてるんじゃないの!?って思ったりした(笑)。そのへん、俳優陣が大変な映画だなと思って。インタビューされてる街の人とか、すごいパワーがあるじゃない。

兵藤 うんうん。

近藤 今だから言うけど、『ジョギング〜』の時は、観ていて何だかわからないこともたくさんあったんですよ。わかることもわからないことも、一本のフィルムにつないで、プロの監督が自分の名前をつけて公開している。そのことに映画への愛、受講生たちへの愛を感じて、感動したんです。でも今回は、もっとしゅっと「映画」してると思った。そうだよね、「ここじゃないどこか願望」って、確かにみんな、通るよね!って。

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——この特集の初回に古澤さんが、「『泣ける』とか『笑える』といった検索ワードにひっかからない映画」の行く末を案じておられたんです。「この映画をどう受け止めたらいいんだろう?」っていう作品に対する、観客の用意がなくなってきていると。

近藤 確かに、このあいだ観た映画の予告編で「4回泣ける!」って書いてあった。「4回ってどういうこと?」って思ってさ。

一同 (笑)

——そこで、青年団さんは、どうしておられるんだろうと思ったんです。「泣けます!」「笑えます!」「スターが出ます!」ではない演劇が、着実に仕事を重ねているという、この構図について。

近藤 まあ……どこまで資本を回収するか、にもよるんじゃないですかね。

兵藤 あと演劇は、お客さんの棲み分けがはっきりしていますよね。

山内 小劇場演劇って、「作る人も、観る人も、仲間」っていう感覚があるじゃない。そこからブレイクスルーするのって、今は相当難しいと思う。で、僕らは、そういう演劇とも、商業演劇とも、違うところにいるのだと思います。あと、劇場という「場」があるからね。若い人から年配の人までが、その「場」に集まることができる。

兵藤 劇団が生まれて、表現が定着して、その表現を求めてくれるお客さんが一定数いると、観客も作り手も、そのまま一緒に年を取っていくじゃないですか。でも青年団には「無隣館」があって、若い人との共同作業も多くて、若い方が今もたくさん観に来てくださるんですよ。それでいて、大人のお客さまもいて。この人たちはいったいどういう集団なんだろう??って思っちゃうくらいの景色なんです。

山内 そうね。スター目当てだったら、景色は一色だろうね。

兵藤 たぶん演劇には、ふたつあって。「商品」を作る演劇と、「作品」を作る演劇。前者のお客さまは、たぶん、そのスターがやることなら何でも観たいんですよ。特に演劇じゃなくてもいい。でも後者は、まず作り手がやりたいことがあって、それに賛同している俳優たちがいる。

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山内 ただ、映画はそのへん、健全だと思う。どんな映画も、1800円じゃない。

兵藤 ほんとだ。

山内 映画美学校で、映画を作る人たちと出会う前は、まさか、小劇場の旗揚げよりも人が入らない映画があるなんて知らなかったよ。

兵藤 うんうん。

山内 アクターズ・コースができた8年前、「低予算映画」っていう言葉があったじゃん。その頃に、「無予算映画」っていう言葉を聞いたのよ。「何それ!?」って思ってたら、今度は「むしろ作る側がお金を払う映画」が登場した。いわゆる、ワークショップ映画。

近藤 1週間なり2週間のレッスン料を集めて、それを制作費にして撮るっていう。

兵藤 最近は、レッスン料を集めてもなお、出られる俳優をオーディションするらしいです。

近藤 それだけ、出たい人がたくさんいるっていうことだよね。

山内 ある意味さっき言った、俳優さんを腫れもの扱いするのとは、真逆のことが起きてるわけだよね。

兵藤 あれですよね、ええと、気持ちの……

山内 「やりがい搾取」。

兵藤 それ(笑)。

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——話を振っておいて何ですが……希望の話がしたいです。

山内 僕は『ゾン〜』を3バージョン観たんですが、3回めに何か、突き抜けたものを感じたんですよ。ひとつはさっき言った、「人の群れ」が映っている、その青春が際立ったなということ。もうひとつは、さっき近藤くんが言った、「ここじゃないどこかを希求する」ということ。閉じ込められた世界の、その先には何があるのかを描く描き方が、何かひとつ、2018年を映し出す、大きな鏡になっている気がするんです。

——出てくる人それぞれの、いろんな着地が描かれているのも、その象徴である気がします。

近藤 ……それはネタバレになりませんか。

兵藤 バレたところで、別にねえ。そういう映画じゃないんじゃない?

近藤 うん。そうね。そう思う。



山内 脚本の、初稿が出た時に、みんながめちゃめちゃ意見を戦わせていたのを見た気がする。

——それは御本人たちにお聞きしました。「すべての登場人物を立たせてほしい」というのが主な要求だったようです。

兵藤 立ってた! それぞれ、背負ってるものがしっかりあった。

近藤 そうね。それぞれに、違った何かをね。

兵藤 「これは自分たちの映画だ!」ってみんなが思ってるから、そういう行動が出たんだろうね。すごいなあ……言えないな、私(笑)。

山内 普通、映画の人たちって、「自分たちの映画だ!」って思ってるのかな。

兵藤 ……思えなくない? お呼ばれして、行って、「こういう感じでお願いします」って言われて、演技したら、あとはスタッフのものだって思っちゃう。もちろん、役にもよるけどね。ずーっとスタッフと一緒に作っていく俳優と、ピンポイントで呼ばれる俳優とでは、やっぱり温度差があると思う。演劇は、どんな役の人も否応なく、1ヶ月の稽古を共にするけどね。

近藤 そうだね。

山内 『ゾン〜』のみんなは、卓爾さんや古澤さんとの距離みたいなものが、どうやって変わっていったんだろうね。「自分たちのものだ!」って思うまで。

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——皆さんは、どういう時に「自分たちのものだ!」と思いますか。

山内 それは、自分で作った時ですよ。自分でプロデュースしたり、演出したり。そうじゃない時は終演後、観に来てくれた人に意見を言われて、「それは俺じゃなくて演出家に言ってほしい……」ってことが起こるときもある。でも『ゾン〜』も『ジョギング〜』も、「それは古澤さんに言って」「それは卓爾さんに言って」っていうのとは、違うフェーズにみんな入ってる感じがした。どうやって、入ってるんだろうね。

——私は、「Bar湯」を始めとする各場面の、美術を作り込んでいたことも、大きなひとつだという気がします。誰かが小道具を動かすと、「これの所定位置はこっち」って、身体が覚えているのだと聞きました。

山内 つまり、それぞれの場所の価値を、自分で決めてるってことだよね。単なる「撮影のための空間」ではない。「自分の場所」ってことだよね。

兵藤 ああ、だからみんな、「あの世界に住んでる感」が出てたのか。

——あと、さんざんエチュードをしてきたから、自分たちの役柄はできているので、せりふは後からでも対応できた、という話も聞きました。

兵藤 ほおー。

山内 でもさ、僕らは、舞台装置の上で、1ヶ月間芝居してると、確かに「自分たちの場所」になっていくじゃない。それでも、「それは演出家に言ってくれ」って思っちゃうことがあるわけですよ。でも彼らにはそれがない、ように見える。それって、どうしてだろう。

兵藤 え、でも、演劇でも、それは起こりうるんじゃない?

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山内 ロングランで旅公演をしても、その作品を語る言葉が変容していくことって、そんなにないような気がするんだよね。

兵藤 映画の方が、ある?

山内 ある。少なくとも『ジョギング〜』と『ゾン〜』に関しては。作り手たちが、観客から言葉をもらうことによって「この映画はこういうふうに面白いんだ!」ってことを発見していく。そこから何かが始まるわけじゃん。そういう変化が、映画には起きやすい気がして。あと、映画は、映画史の中にすぐ置かれるっていうことも大きいと思う。さっきの「検索ワードがつけられない映画にとっての受難の時代」とかさ。

兵藤 演劇は、その時その場に立ち会った人しか語れないところがあるからね。でも演劇も、語られる言葉によって成長することが、あると思うけど……

山内 例えば、『ゾン〜』独自の価値というものを、ぽーんと言い当てる言葉が何か見つかれば、この映画はさらに変わると、僕はどこかで思っているのね。……っていうようなことが、映画は強いような気がする。

兵藤 それは、映画が過去の記録であるということが大きいように思うなあ。これから先、いくらでも語られることができるわけだから。

近藤 そうね。演劇の2週間公演とは違って、映画は何ヶ月後も、あるいは何年後も、観られるかもしれない。

山内 そう、でね、例えば同じ映画が、ユーロスペースとフランスのシネコンでかかるとして、それぞれの劇場で起きていることは、全然違うはずなんですよ。人が集っているという根本的な、演劇的な出来事自体が、まるっきり違うはずなんです。でも映画の作り手の人たちって、そっちはあまり気にしない。それが何か、ずっと気になっているんだよね……

兵藤 映画館側は、気にしてるよね。

山内 もちろん。プロデューサー視点なら、絶対そうだよ。マーケティングして、どういう人たちに訴えて、どういう人たちを呼ぶかを考えている。「キュンとくる青春映画!」とか「仕事に疲れた30代女性が元気になれる映画!」とかさ。劇場で起きる出来事を、コントロールできると思ってるかも。もちろん、届けたい人に届けるというのが、劇場という場の基本ではあるんだけど。

兵藤 確かに、『ゾン〜』は「キュンとくる青春映画♪」ではないね(笑)。

山内 でも、青春映画だよ。

兵藤 もちろん! でも彼らはきっと、その言葉を選ばないでしょう。だって、イベント名に「ゾン・ボヤージュ!」なんていうフレーズを掲げちゃうくらいだからね(笑)。
(2018/07/30)