【1】

多忙なはずの3人が、ひと声で集まってくれた。それぞれが映画の作り手なので、映画の作り手の気持ちがとてもよくわかる3人。顔を合わせるなり、かばんを開けて、「嵐電」のパンフレットを取り出す。そのまま話が始まってしまって、あわててボイスレコーダーを回した。

古澤健(ふるさわ たけし) 映画監督・脚本家。主な監督作品に『making of LOVE』『今日、恋をはじめます』『ReLIFE リライフ』『青夏』。脚本・プロデュース作に『ゾンからのメッセージ』(監督・鈴木卓爾)がある。

杉田協士(すぎた きょうし) 1977年、東京生まれ。映画監督。長編第2作『ひかりの歌』が全国順次公開中。2019年8月には恵比寿・東京都写真美術館ホールにて東京凱旋上映を予定。http://hikarinouta.jp

穐山茉由(あきやま まゆ)1982年生まれ。東京都出身。ファッション業界で会社員をしながら映画美学校18期フィクション・コースを修了。高等科修了制作では『ギャルソンヌ –2つの性を持つ女-』を監督。初長編作品『月極オトコトモダチ』が新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺、イオンシネマ板橋 他全国順次公開中。https://tsukigimefriend.com 

IMG_5232

古澤 パンフレットは、買うことにしてるんですよ。『ゾンからのメッセージ』の経験で、パンフがどんなに重要な収入源かってことがわかったので。

杉田 そうですね。ばかにならない。

穐山 私、『ゾン〜』のパンフレット、買いました。

古澤 ありがとうございます。『嵐電』のパンフレット、とてもいいエッセイが載ってますよね。非常に感動的です。こういう低予算映画だと、パンフレットもお仕事感がなくて、この映画に関わってる方たちすべての愛情を、強く感じますよね。

杉田 山口紗也可さんという制作スタッフの方のプロダクション・ノートとか、井浦新さんのインタビューとか。

古澤 京都造形大学の学生さんや、出身の方たちが多く関わっているというのも、この映画の大きな性格のひとつなので。完全にプロフェッショナルなスタッフやキャストだけじゃないからこそ、見えてくるものがあるんですよね。それが、この映画のアナザーストーリーだという感じがすごくするんです。パンフレットも、映画の世界と地続きなんだなあと感じました。

穐山 鈴木卓爾さんの最近の映画だと、『ゾン〜』とか『ジョギング渡り鳥』とか、映画美学校が大きく関わっていますよね。

IMG_5221
 

古澤 僕は『ゾン〜』の脚本を担当したんですが、すごく特殊な作り方をしたんですよ。「こういう映画を作りましょう」ということでスタートしたのではなく、授業内でのワークショップを展開させて、結果的にそれが長編映画になっていったという感じなので。卓爾さんの中でも、どこに行き着くかわからない感じがあったんじゃないかと思いますね。『嵐電』はちゃんと、嵐電という題材が最初にあって、目指す地点が明確にあるところで企画開発をしたようなので。そのへんが、出来上がった映画の佇まいに大きく影響しているように思います。とても『ゾン〜』や『ジョギング〜』のような映画を撮った人とは思えない映画だった(笑)。

穐山 でも、どこか、通じる部分も感じます。現実なのか、夢の世界なのかが曖昧な世界観。

古澤 (突然杉田に)そのへん、どうですか。

杉田 (にこにこと古澤を見返す)

古澤 ……出方をうかがってる感じですか。

杉田 いやいや、うかがってないです(笑)!

古澤 僕は結構、考えてからしゃべるんじゃなくて、しゃべりながら考える方なんですよ。

穐山 私もそうです。

IMG_5213
 

杉田 僕がいま考えていたのは、この映画を2回観たんですけど、結構わからないまま終わっている点が多いんですよね。最初、衛星(井浦新)の妻の斗麻子(安部聡子)が、ほんとうは亡くなっていて、かかってくる電話も「あちら側」からかかってきているみたいなことかと思って観てたんだけど、最後、庭で一緒にいるじゃないですか。

古澤 そうそう。あそこって、ちょっと、死後の世界っぽくなかったですか。

杉田 そうなんですよ、花がね。僕は花の名前に詳しくないですけど、ピンク色の花をつけた木があって。「黄泉の国」感がありましたよね。

古澤 僕も今日、2回目を観てきたんですけど、あそこのシーンで、ゴダールの『アワーミュージック』を思い出しました。ゴダールが庭で花の手入れしてるところがあるじゃないですか。あそこに似た感じっていうか。「これ、もしかして、死んでる人の思い出話か……?」って思った。ハッピーエンドのようにも見えるし、全部、新さんが見た、ひとときの夢だったのかもしれないなとか。あと、黒沢清さんの『CURE』も思い出したんです。

杉田 僕も思い出しました。『CURE』の音が聞こえたんですよ。あれ、役所さん出てきたかな??と思うくらい(笑)。

古澤 そう。全編を覆っている不穏さが、『CURE』に通じるんですよね。バスがあの世を漂ってる感じ。狐と狸が導く嵐電の旅も、どこか、死の匂いがつきまとってるんですよ。「この電車に乗れば、どこまでだって行けますよ」っていうせりふも含めて。……そう考えると、『CURE』もある意味、乗り物映画ですね(笑)。

杉田 ほんとですね(笑)。

古澤 この映画には、きちんとした足場というか、この世界をすべてつかめる視点みたいなものが、無いんですよね。どこに自分の立ち位置を取ればいいかわからないまま、ただ何かが目の前で起きているという感じ。でも2回目を観て思い出したんですけど、卓爾さんは子供の頃から「物語」というものがよくわからなかったという話を聞いたことがあって。『ジョーズ』だったか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だったか、みんなが面白いって言うから観に行ったんですって。で、何かが起きていることはわかったと。でも、みんなが言っているような、人間の心の機微とかは一切わからなかったって。その感じが、今回『嵐電』を観て、改めてわかった気がしたんですよ。卓爾さんは、「ハッピー」とか「アンハッピー」みたいなことには興味がないんだろうなっていうことが。

穐山 確かに、「物語」を追っていこうとすると、迷走しますよね。

古澤 だから観客は強引に自分の軸足を作るんですよね。僕は「南天」(窪瀬環)という女の子が、いたく気に入ってしまって。出てくるたびに、ひと言も聞き漏らすまいと耳を澄ませて、その表情を追い続けてた。喫茶店で、自分の同級生と、片思いの相手の「子午線」(石田健太)とで議論をするシーンがありますよね。大人たちは、それを呆然と見るしかない。あのシーンが2回目の今日は非常に感動的で。妥協することを知らない、真剣な年齢じゃないですか。愛とか運命とかそういうことを、みんな真剣に考えているがゆえに、自分の問いかけにはたった一つの答えなんて用意されてなくて、自分はそこにたどり着けないことを知っている。それでも、自分はそれを問わなければいけないし、たった一つの答えが欲しい。その思いで全員が見つめ合い、議論している。あそこは、フィクションじゃなくて「本物」っていう感じがしましたね。あの年齢を越えると「そういうこともあるよね」とかって、変に賢しらぶって相対化しちゃったりするんだけど、そういう「一時的なはしか」みたいなことじゃなくて、あれは本当に真剣に問わなきゃいけないことだし、それこそが、人と人が向き合う根源なのだということが、あのシーンにギュッと込められていて。大人気(おとなげ)のある卓爾さんが、大人気のある自分を恥じているようにも見えるし、一方で、自分もいまだにそういうところから抜け出せないんだって言っているような感じもして、涙ぐんでしまいました。

一同 (聞き入る)

古澤 南天に追いかけられた子午線が、枯れ葉の上でころげまわって駄々をこねるシーンとか、びっくりしましたよね。いいトシした高校生が、じたばたして。5才児じゃないんだから(笑)。それが、「映画だからこういう芝居が面白いよね」とか「アクションとして面白いよね」っていう作り手の都合じゃなくて、「子午線ってこういう子なんだ!」というか。そのとき、なぜか南天は、自分のカメラを地面に置いて、一瞬拾おうとするんだけど、置いたまま追いかけていくでしょう。ああいうのも含めて、「二人に起きたこと」なんですよ。

穐山 (すごくうなずく)

古澤 大西礼芳さん演じる「嘉子」が、自分の亡霊というか生霊というかを見ちゃうところも、さっきの、新さん夫婦が生きているのか死んでいるのかのわからなさも含めて、「彼らに起きたこと」っていう感じがすごく大きい。

杉田 ああ、そうですね。全部、比重が一緒というか。生きているのか、死んでいるのか、どっちであっても、同じ質量。だから、ただただ胸を打たれるんです。……あの、古澤さんに聞きたかったんですけど、『ゾン〜』で「田村」という人物が出てくるじゃないですか。あれって、卓爾さんが名付けたんですか。

古澤 いや、僕ですね。

杉田 そうでしたか。卓爾さんの映画に、亡くなられた、たむらまさきさんを感じることがあるんですよ。卓爾さんの中では今も、平気で、いそう。いなくなったことになってないっていう感じがしたんです。「嵐電」でも、嘉子と譜雨(金井浩人)がデートみたいに、一度嵐電から降りて、二人で読み合わせをしながら歩いて、あれは隣の駅なのかな、再び嵐電に乗り込むじゃないですか。そのときのカメラが、たむらさんのようだと思ったんですよ。電車が来て、二人が走り出して、変なパンをしますよね。

古澤 あそこね、僕も思ったのは、(撮影の鈴木)一博さんも、カットがかかるかと思ったらかからないから、思わずカメラを振っちゃったっていう感じがしたんですよね。

杉田 します、します。

古澤 受けの画はきちっと作ってるのに、その途中から、画が崩れちゃって。いわゆるパンの画じゃないんですよね。

杉田 あれが、たむらさんっぽいなっていうか。卓爾さんの中では、現実世界でいなくなってしまった人と、今も交信しているというか。すべてが地続きに存在するなあって思いました。

古澤 その地続き感でいうと、『ジョギング〜』のモコモコ星人と、今回の、青森の高校生たちが急に妖精のように現れるところって、なにか通じるものがあるんですよ。でも、確実に違うギアで走ってる感じというか。終盤、川べりで映画を撮るシーンも、さっきまで青森の高校生だった子がカメラ持ってるし、「将来、映画を撮るので出てください」って言ってた助監督の子も、将来どころか、わりとすぐ撮ってるし。不思議な地続き感でしたよね。

杉田 変わったのは、赤い服を着てたことだけでしたね(笑)

古澤 映画って、カットごとに、違うテイクを混ぜこぜにしてやっているから、当然、違う時間軸が流れてるんですよね。っていうふうに考えると、じゃあ新さんの奥さんは、生きてるのか死んでるのか。「生きてる」と「死んでる」が並列で存在するというか。量子力学の世界。それが、卓爾さんの映画なのかなって思いました。

IMG_5208
 

穐山 一番最初、嵐電が信号待ちしているじゃないですか。そこでまず、この電車は普通の電車とは違うものなのだという感じを受けました。絶対狙わないと入ってこないフレームインなんだけど、たたみかけるようなフレームインが、どんどん楽しくなってきて。他のお芝居も含めてなんだけど、画が充実していましたよね。これが映画を観る楽しさだなと思いました。しかも、それを、すみずみまでやっている。私、映画美学校時代に、卓爾さんが撮った、ゴダールの映画を観たんですよ。

古澤 ああ、『ハングリー・ライク・ゴダール!』(※2014年、映画美学校映画祭にて上映)。

穐山 そうです!

古澤 傑作ですよ。

穐山 あれが私は大好きなんですよ。衝撃を受けて。「この人が主人公です」とか「この人を今、撮ってます」とかじゃない世界の人たちが、すごく生き生きしていた。それを『嵐電』にも感じたんです。私は、卓爾さんのこれが好きだった!って思いました。

古澤 『ハングリー・ライク・ゴダール!』は、ゴダールが家に訪ねてきて、女の子はずっと片言のフランス語で問いかけてるのに、当のゴダールは英語でしゃべってるっていうデタラメな映画なんですよ。卓爾さんのアパートのそばの公園で撮影しててね。画面の奥でジャグリングしてる男の子がいて、それはエキストラでも何でもなく、たまたま公園で遊んでた子が映り込んでるだけなんだけど、気づくと、その子たちとゴダールが交流し始めたりしてて。

穐山 そう。そこが素晴らしいなと思ったんです。

古澤 最後、みんなが走るシーンがあるんだけど、そこへ公園の管理のおじさんが「そろそろ閉まるよー」って声を掛ける。それが、『ハングリー・ライク・ゴダール!』のためにすべて用意されてたんじゃないかという感じがするんですよね。卓爾さんの映画作りって、そういうところがありますよ。『嵐電』でいうと、嘉子と譜雨が帷子ノ辻駅の前で立ち話するところで、おじさんが自転車を動かしながら間に入ってくるじゃない。「ちょっとごめんね」って言いながら。あの位置関係が謎じゃないですか。ここにカメラがあって、ここで芝居をしていて、ああいう位置に人が割って入って来るって、おかしいですよね。そういう出来事が、もし偶然に起きたとして、止めない監督はいると思うんですよ。でも、そういうおじさんが現れるかどうかは、才能の問題なんじゃないかなと思う。

穐山 そういうこと、卓爾さんの映画にはよく起きますよね。何なんでしょう。カメラの気配が消えるんですかね。

古澤 昔、黒沢清さんの『ドッペルゲンガー』という映画で、喫茶店で役所広司さんと柄本明さんが話すシーンがあって。それを喫茶店の窓越しに撮ってるんですね。この二人の芝居だけを見せたいと思ったら、カメラの後ろに映り込みをなくして、なるべくガラスが素になるように撮ると思うんですけど、黒沢さんはそれをしないんですよ。一般の通行人たちに「あそこで映画撮影してるよ」って思わせずに、普通に歩いてる人たちをいかに映画の被写体にするかっていうことを実践する方法論としてガラスの写り込みを使う。一方、卓爾さんの場合は、「撮れちゃった」んじゃないかなあと思うんですね。

穐山 「撮れちゃった」のだとしたら、だいぶ引き寄せてますよね(笑)。

IMG_5216


杉田 20年ぐらい前、ENBUゼミナールの監督コースの受講生が、修了制作で撮る映画に、卓爾さんは刑事役で出ていらしたんですね。大森立嗣さんがその相棒で。で、講師が篠崎誠さんで、自前のカメラを持って手伝いに行ったんです。そこで初めて卓爾さんのお芝居を見たときに、なんというか、思ってたのと違ったんです。俳優の方のお芝居、しかも刑事役なのに、なんか、ふにゃふにゃしてたんですよ。

一同 (笑)

杉田 その佇まいが、待ち時間に椅子に座ってるときの卓爾さんと、あまり変わりがないというか。芝居のときも、そうでないときも、同じ呼吸なんですよね。で、ちゃんとお話したのは去年が初めてで。私の『ひかりの歌』という映画で全州国際映画祭に行ったときに、卓爾さんは『ワンピース・インターナショナル・クラシックス』でいらしていたんですね。そこで顔を合わせたんですが、それまで会ってなかった20年ぐらいの時間が、一気に埋まっちゃうという感覚があって。初めてお会いしたときと、再会したときと、『嵐電』の映画の世界が、あまり変わらずにそこにあるというか。こんなに変な映画なのに、楽にさせてくれるというか、構えずに観ることができるんですよね。

古澤 映画って、たいてい、観客に緊張を強いるじゃないですか。それに『嵐電』は編集がすごく過激なんだけど、でもほとんどのお客さんがそれについて行ってると思うんですよ。例えば、新さんが電話で奥さんと話しているところから、奥さんが布団に寝てるところへの一連とか、「大丈夫かな、みんなついて行ってる??」って思うんですけど、ついて行ってるんですよね。後半も、めちゃくちゃなことをやってるんだけど、その瞬間は何の不思議もなく「こういうもんだ」と思って観ちゃう。あとになって思い出すと、それぞれのシーンの時間軸がわからなくなる感じがありますね。

杉田 『ジョギング渡り鳥』を観てるときに、私は最初、うまく入れなかったんですよ。戸惑いがすごくて。でも、気がついたら普通に観ていたんですよね。その切り替わりが、自分でもよくわからないんです。そのとき思ったのは、『ジョギング渡り鳥』に関わられた皆さんが、卓爾さんがしようとしていることを、途中から信じ始めたんじゃないかと。最初は皆さん、よくわからない中でやっていたけど、だんだん身体でわかっていった。誰もが納得の上でやりはじめて、映画が変わっていったんじゃないかと思ったんですよね。だから『嵐電』も、新さんも安部さんも「本当にやっている」という感じがしたんです。卓爾さんが見つけようとしている世界に、はっきりとした理解ではないにしても、それを信じて立っている感じがして。映ってる人がそうだと、観ているこっちも一緒になれちゃうんじゃないかと思いました。

古澤 さっき杉田さんが言った、オフのときと演じてるときの地続き感に関係するように思います。僕は卓爾さんを思うとき、いつも、タバコを吸ってる姿が思い浮かぶんですよ。独特の姿勢で、腕を組んで、考え事をしている感じ。同じ空間に立ってるだけで、自分はこの人の作る映画を共有してるんだ、と。卓爾さんの映画を観てるときも、「この映画、どうなっていくんだろう?」って思うんだけど、気づくと卓爾さんの空気に包まれて、「これが卓爾さんが見つけようとしている映画なんだ」と受け入れていく。……なんて言うと、卓爾さんを神秘化しすぎてるような気もするんだけど。

穐山 『ジョギング渡り鳥』も『ゾンからのメッセージ』も、カメラが中瀬慧さん(映画美学校フィクション・コース修了生)じゃないですか。私も『月極オトコトモダチ』で中瀬さんに撮影をお願いしたので、よく、卓爾さんのことが話題にのぼっていて。『ジョギング〜』のときの、アクターズ・コース受講生の皆さんの戸惑いについてはよくお聞きしましたね。「あれは、わかるとかわからないとかじゃねーんだよ!」って、中瀬さんがよく言っていたみたいです(笑)。

古澤 卓爾さんって、ぬぼーっとしてたり、ふわーっとしてたりするイメージがあるかもしれないけど、イライラしてるときの卓爾さんはすごく尖っているんですよ。近寄りがたい。卓爾さんは別に優しい人でもないし、穏やかに現場を進めるタイプでもないです。

杉田 緊張感がありますよね。距離を踏み込みすぎてはいけない感じ。

古澤 卓爾さんは、突発的に人を殺しちゃう人だと思いますよ。穏やかなときの卓爾さんは、なぜ穏やかかというと、特にこっちに興味を持ってないからだと思う。抜き差しならない関係になったら、殺すか殺されるかの緊張感が、すごくあると思います。語弊があるかもしれないけど、「お前はこの映画と共に死ぬ気があるのか?」を常に突きつけられている気がしますね。「俺はこの映画を信じているのに、お前が信じていないんだったら、いつでも切るぞ?」という感じ。『ゾン〜』のときに一度、酔っ払って僕に電話をかけてきて「いつになったら公開するんだよ!?」って詰め寄られたときは、やばい殺される!って思いました(笑)。

(2に続く)