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多忙なはずの3人が、ひと声で集まってくれた。それぞれが映画の作り手なので、映画の作り手の気持ちがとてもよくわかる3人。顔を合わせるなり、かばんを開けて、「嵐電」のパンフレットを取り出す。そのまま話が始まってしまって、あわててボイスレコーダーを回した。

古澤健(ふるさわ たけし) 映画監督・脚本家。主な監督作品に『making of LOVE』『今日、恋をはじめます』『ReLIFE リライフ』『青夏』。脚本・プロデュース作に『ゾンからのメッセージ』(監督・鈴木卓爾)がある。

杉田協士(すぎた きょうし) 1977年、東京生まれ。映画監督。長編第2作『ひかりの歌』が全国順次公開中。2019年8月には恵比寿・東京都写真美術館ホールにて東京凱旋上映を予定。http://hikarinouta.jp

穐山茉由(あきやま まゆ)1982年生まれ。東京都出身。ファッション業界で会社員をしながら映画美学校18期フィクション・コースを修了。高等科修了制作では『ギャルソンヌ –2つの性を持つ女-』を監督。初長編作品『月極オトコトモダチ』が新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺、イオンシネマ板橋 他全国順次公開中。https://tsukigimefriend.com 

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古澤 パンフレットは、買うことにしてるんですよ。『ゾンからのメッセージ』の経験で、パンフがどんなに重要な収入源かってことがわかったので。

杉田 そうですね。ばかにならない。

穐山 私、『ゾン〜』のパンフレット、買いました。

古澤 ありがとうございます。『嵐電』のパンフレット、とてもいいエッセイが載ってますよね。非常に感動的です。こういう低予算映画だと、パンフレットもお仕事感がなくて、この映画に関わってる方たちすべての愛情を、強く感じますよね。

杉田 山口紗也可さんという制作スタッフの方のプロダクション・ノートとか、井浦新さんのインタビューとか。

古澤 京都造形大学の学生さんや、出身の方たちが多く関わっているというのも、この映画の大きな性格のひとつなので。完全にプロフェッショナルなスタッフやキャストだけじゃないからこそ、見えてくるものがあるんですよね。それが、この映画のアナザーストーリーだという感じがすごくするんです。パンフレットも、映画の世界と地続きなんだなあと感じました。

穐山 鈴木卓爾さんの最近の映画だと、『ゾン〜』とか『ジョギング渡り鳥』とか、映画美学校が大きく関わっていますよね。

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古澤 僕は『ゾン〜』の脚本を担当したんですが、すごく特殊な作り方をしたんですよ。「こういう映画を作りましょう」ということでスタートしたのではなく、授業内でのワークショップを展開させて、結果的にそれが長編映画になっていったという感じなので。卓爾さんの中でも、どこに行き着くかわからない感じがあったんじゃないかと思いますね。『嵐電』はちゃんと、嵐電という題材が最初にあって、目指す地点が明確にあるところで企画開発をしたようなので。そのへんが、出来上がった映画の佇まいに大きく影響しているように思います。とても『ゾン〜』や『ジョギング〜』のような映画を撮った人とは思えない映画だった(笑)。

穐山 でも、どこか、通じる部分も感じます。現実なのか、夢の世界なのかが曖昧な世界観。

古澤 (突然杉田に)そのへん、どうですか。

杉田 (にこにこと古澤を見返す)

古澤 ……出方をうかがってる感じですか。

杉田 いやいや、うかがってないです(笑)!

古澤 僕は結構、考えてからしゃべるんじゃなくて、しゃべりながら考える方なんですよ。

穐山 私もそうです。

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杉田 僕がいま考えていたのは、この映画を2回観たんですけど、結構わからないまま終わっている点が多いんですよね。最初、衛星(井浦新)の妻の斗麻子(安部聡子)が、ほんとうは亡くなっていて、かかってくる電話も「あちら側」からかかってきているみたいなことかと思って観てたんだけど、最後、庭で一緒にいるじゃないですか。

古澤 そうそう。あそこって、ちょっと、死後の世界っぽくなかったですか。

杉田 そうなんですよ、花がね。僕は花の名前に詳しくないですけど、ピンク色の花をつけた木があって。「黄泉の国」感がありましたよね。

古澤 僕も今日、2回目を観てきたんですけど、あそこのシーンで、ゴダールの『アワーミュージック』を思い出しました。ゴダールが庭で花の手入れしてるところがあるじゃないですか。あそこに似た感じっていうか。「これ、もしかして、死んでる人の思い出話か……?」って思った。ハッピーエンドのようにも見えるし、全部、新さんが見た、ひとときの夢だったのかもしれないなとか。あと、黒沢清さんの『CURE』も思い出したんです。

杉田 僕も思い出しました。『CURE』の音が聞こえたんですよ。あれ、役所さん出てきたかな??と思うくらい(笑)。

古澤 そう。全編を覆っている不穏さが、『CURE』に通じるんですよね。バスがあの世を漂ってる感じ。狐と狸が導く嵐電の旅も、どこか、死の匂いがつきまとってるんですよ。「この電車に乗れば、どこまでだって行けますよ」っていうせりふも含めて。……そう考えると、『CURE』もある意味、乗り物映画ですね(笑)。

杉田 ほんとですね(笑)。

古澤 この映画には、きちんとした足場というか、この世界をすべてつかめる視点みたいなものが、無いんですよね。どこに自分の立ち位置を取ればいいかわからないまま、ただ何かが目の前で起きているという感じ。でも2回目を観て思い出したんですけど、卓爾さんは子供の頃から「物語」というものがよくわからなかったという話を聞いたことがあって。『ジョーズ』だったか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だったか、みんなが面白いって言うから観に行ったんですって。で、何かが起きていることはわかったと。でも、みんなが言っているような、人間の心の機微とかは一切わからなかったって。その感じが、今回『嵐電』を観て、改めてわかった気がしたんですよ。卓爾さんは、「ハッピー」とか「アンハッピー」みたいなことには興味がないんだろうなっていうことが。

穐山 確かに、「物語」を追っていこうとすると、迷走しますよね。

古澤 だから観客は強引に自分の軸足を作るんですよね。僕は「南天」(窪瀬環)という女の子が、いたく気に入ってしまって。出てくるたびに、ひと言も聞き漏らすまいと耳を澄ませて、その表情を追い続けてた。喫茶店で、自分の同級生と、片思いの相手の「子午線」(石田健太)とで議論をするシーンがありますよね。大人たちは、それを呆然と見るしかない。あのシーンが2回目の今日は非常に感動的で。妥協することを知らない、真剣な年齢じゃないですか。愛とか運命とかそういうことを、みんな真剣に考えているがゆえに、自分の問いかけにはたった一つの答えなんて用意されてなくて、自分はそこにたどり着けないことを知っている。それでも、自分はそれを問わなければいけないし、たった一つの答えが欲しい。その思いで全員が見つめ合い、議論している。あそこは、フィクションじゃなくて「本物」っていう感じがしましたね。あの年齢を越えると「そういうこともあるよね」とかって、変に賢しらぶって相対化しちゃったりするんだけど、そういう「一時的なはしか」みたいなことじゃなくて、あれは本当に真剣に問わなきゃいけないことだし、それこそが、人と人が向き合う根源なのだということが、あのシーンにギュッと込められていて。大人気(おとなげ)のある卓爾さんが、大人気のある自分を恥じているようにも見えるし、一方で、自分もいまだにそういうところから抜け出せないんだって言っているような感じもして、涙ぐんでしまいました。

一同 (聞き入る)

古澤 南天に追いかけられた子午線が、枯れ葉の上でころげまわって駄々をこねるシーンとか、びっくりしましたよね。いいトシした高校生が、じたばたして。5才児じゃないんだから(笑)。それが、「映画だからこういう芝居が面白いよね」とか「アクションとして面白いよね」っていう作り手の都合じゃなくて、「子午線ってこういう子なんだ!」というか。そのとき、なぜか南天は、自分のカメラを地面に置いて、一瞬拾おうとするんだけど、置いたまま追いかけていくでしょう。ああいうのも含めて、「二人に起きたこと」なんですよ。

穐山 (すごくうなずく)

古澤 大西礼芳さん演じる「嘉子」が、自分の亡霊というか生霊というかを見ちゃうところも、さっきの、新さん夫婦が生きているのか死んでいるのかのわからなさも含めて、「彼らに起きたこと」っていう感じがすごく大きい。

杉田 ああ、そうですね。全部、比重が一緒というか。生きているのか、死んでいるのか、どっちであっても、同じ質量。だから、ただただ胸を打たれるんです。……あの、古澤さんに聞きたかったんですけど、『ゾン〜』で「田村」という人物が出てくるじゃないですか。あれって、卓爾さんが名付けたんですか。

古澤 いや、僕ですね。

杉田 そうでしたか。卓爾さんの映画に、亡くなられた、たむらまさきさんを感じることがあるんですよ。卓爾さんの中では今も、平気で、いそう。いなくなったことになってないっていう感じがしたんです。「嵐電」でも、嘉子と譜雨(金井浩人)がデートみたいに、一度嵐電から降りて、二人で読み合わせをしながら歩いて、あれは隣の駅なのかな、再び嵐電に乗り込むじゃないですか。そのときのカメラが、たむらさんのようだと思ったんですよ。電車が来て、二人が走り出して、変なパンをしますよね。

古澤 あそこね、僕も思ったのは、(撮影の鈴木)一博さんも、カットがかかるかと思ったらかからないから、思わずカメラを振っちゃったっていう感じがしたんですよね。

杉田 します、します。

古澤 受けの画はきちっと作ってるのに、その途中から、画が崩れちゃって。いわゆるパンの画じゃないんですよね。

杉田 あれが、たむらさんっぽいなっていうか。卓爾さんの中では、現実世界でいなくなってしまった人と、今も交信しているというか。すべてが地続きに存在するなあって思いました。

古澤 その地続き感でいうと、『ジョギング〜』のモコモコ星人と、今回の、青森の高校生たちが急に妖精のように現れるところって、なにか通じるものがあるんですよ。でも、確実に違うギアで走ってる感じというか。終盤、川べりで映画を撮るシーンも、さっきまで青森の高校生だった子がカメラ持ってるし、「将来、映画を撮るので出てください」って言ってた助監督の子も、将来どころか、わりとすぐ撮ってるし。不思議な地続き感でしたよね。

杉田 変わったのは、赤い服を着てたことだけでしたね(笑)

古澤 映画って、カットごとに、違うテイクを混ぜこぜにしてやっているから、当然、違う時間軸が流れてるんですよね。っていうふうに考えると、じゃあ新さんの奥さんは、生きてるのか死んでるのか。「生きてる」と「死んでる」が並列で存在するというか。量子力学の世界。それが、卓爾さんの映画なのかなって思いました。

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穐山 一番最初、嵐電が信号待ちしているじゃないですか。そこでまず、この電車は普通の電車とは違うものなのだという感じを受けました。絶対狙わないと入ってこないフレームインなんだけど、たたみかけるようなフレームインが、どんどん楽しくなってきて。他のお芝居も含めてなんだけど、画が充実していましたよね。これが映画を観る楽しさだなと思いました。しかも、それを、すみずみまでやっている。私、映画美学校時代に、卓爾さんが撮った、ゴダールの映画を観たんですよ。

古澤 ああ、『ハングリー・ライク・ゴダール!』(※2014年、映画美学校映画祭にて上映)。

穐山 そうです!

古澤 傑作ですよ。

穐山 あれが私は大好きなんですよ。衝撃を受けて。「この人が主人公です」とか「この人を今、撮ってます」とかじゃない世界の人たちが、すごく生き生きしていた。それを『嵐電』にも感じたんです。私は、卓爾さんのこれが好きだった!って思いました。

古澤 『ハングリー・ライク・ゴダール!』は、ゴダールが家に訪ねてきて、女の子はずっと片言のフランス語で問いかけてるのに、当のゴダールは英語でしゃべってるっていうデタラメな映画なんですよ。卓爾さんのアパートのそばの公園で撮影しててね。画面の奥でジャグリングしてる男の子がいて、それはエキストラでも何でもなく、たまたま公園で遊んでた子が映り込んでるだけなんだけど、気づくと、その子たちとゴダールが交流し始めたりしてて。

穐山 そう。そこが素晴らしいなと思ったんです。

古澤 最後、みんなが走るシーンがあるんだけど、そこへ公園の管理のおじさんが「そろそろ閉まるよー」って声を掛ける。それが、『ハングリー・ライク・ゴダール!』のためにすべて用意されてたんじゃないかという感じがするんですよね。卓爾さんの映画作りって、そういうところがありますよ。『嵐電』でいうと、嘉子と譜雨が帷子ノ辻駅の前で立ち話するところで、おじさんが自転車を動かしながら間に入ってくるじゃない。「ちょっとごめんね」って言いながら。あの位置関係が謎じゃないですか。ここにカメラがあって、ここで芝居をしていて、ああいう位置に人が割って入って来るって、おかしいですよね。そういう出来事が、もし偶然に起きたとして、止めない監督はいると思うんですよ。でも、そういうおじさんが現れるかどうかは、才能の問題なんじゃないかなと思う。

穐山 そういうこと、卓爾さんの映画にはよく起きますよね。何なんでしょう。カメラの気配が消えるんですかね。

古澤 昔、黒沢清さんの『ドッペルゲンガー』という映画で、喫茶店で役所広司さんと柄本明さんが話すシーンがあって。それを喫茶店の窓越しに撮ってるんですね。この二人の芝居だけを見せたいと思ったら、カメラの後ろに映り込みをなくして、なるべくガラスが素になるように撮ると思うんですけど、黒沢さんはそれをしないんですよ。一般の通行人たちに「あそこで映画撮影してるよ」って思わせずに、普通に歩いてる人たちをいかに映画の被写体にするかっていうことを実践する方法論としてガラスの写り込みを使う。一方、卓爾さんの場合は、「撮れちゃった」んじゃないかなあと思うんですね。

穐山 「撮れちゃった」のだとしたら、だいぶ引き寄せてますよね(笑)。

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杉田 20年ぐらい前、ENBUゼミナールの監督コースの受講生が、修了制作で撮る映画に、卓爾さんは刑事役で出ていらしたんですね。大森立嗣さんがその相棒で。で、講師が篠崎誠さんで、自前のカメラを持って手伝いに行ったんです。そこで初めて卓爾さんのお芝居を見たときに、なんというか、思ってたのと違ったんです。俳優の方のお芝居、しかも刑事役なのに、なんか、ふにゃふにゃしてたんですよ。

一同 (笑)

杉田 その佇まいが、待ち時間に椅子に座ってるときの卓爾さんと、あまり変わりがないというか。芝居のときも、そうでないときも、同じ呼吸なんですよね。で、ちゃんとお話したのは去年が初めてで。私の『ひかりの歌』という映画で全州国際映画祭に行ったときに、卓爾さんは『ワンピース・インターナショナル・クラシックス』でいらしていたんですね。そこで顔を合わせたんですが、それまで会ってなかった20年ぐらいの時間が、一気に埋まっちゃうという感覚があって。初めてお会いしたときと、再会したときと、『嵐電』の映画の世界が、あまり変わらずにそこにあるというか。こんなに変な映画なのに、楽にさせてくれるというか、構えずに観ることができるんですよね。

古澤 映画って、たいてい、観客に緊張を強いるじゃないですか。それに『嵐電』は編集がすごく過激なんだけど、でもほとんどのお客さんがそれについて行ってると思うんですよ。例えば、新さんが電話で奥さんと話しているところから、奥さんが布団に寝てるところへの一連とか、「大丈夫かな、みんなついて行ってる??」って思うんですけど、ついて行ってるんですよね。後半も、めちゃくちゃなことをやってるんだけど、その瞬間は何の不思議もなく「こういうもんだ」と思って観ちゃう。あとになって思い出すと、それぞれのシーンの時間軸がわからなくなる感じがありますね。

杉田 『ジョギング渡り鳥』を観てるときに、私は最初、うまく入れなかったんですよ。戸惑いがすごくて。でも、気がついたら普通に観ていたんですよね。その切り替わりが、自分でもよくわからないんです。そのとき思ったのは、『ジョギング渡り鳥』に関わられた皆さんが、卓爾さんがしようとしていることを、途中から信じ始めたんじゃないかと。最初は皆さん、よくわからない中でやっていたけど、だんだん身体でわかっていった。誰もが納得の上でやりはじめて、映画が変わっていったんじゃないかと思ったんですよね。だから『嵐電』も、新さんも安部さんも「本当にやっている」という感じがしたんです。卓爾さんが見つけようとしている世界に、はっきりとした理解ではないにしても、それを信じて立っている感じがして。映ってる人がそうだと、観ているこっちも一緒になれちゃうんじゃないかと思いました。

古澤 さっき杉田さんが言った、オフのときと演じてるときの地続き感に関係するように思います。僕は卓爾さんを思うとき、いつも、タバコを吸ってる姿が思い浮かぶんですよ。独特の姿勢で、腕を組んで、考え事をしている感じ。同じ空間に立ってるだけで、自分はこの人の作る映画を共有してるんだ、と。卓爾さんの映画を観てるときも、「この映画、どうなっていくんだろう?」って思うんだけど、気づくと卓爾さんの空気に包まれて、「これが卓爾さんが見つけようとしている映画なんだ」と受け入れていく。……なんて言うと、卓爾さんを神秘化しすぎてるような気もするんだけど。

穐山 『ジョギング渡り鳥』も『ゾンからのメッセージ』も、カメラが中瀬慧さん(映画美学校フィクション・コース修了生)じゃないですか。私も『月極オトコトモダチ』で中瀬さんに撮影をお願いしたので、よく、卓爾さんのことが話題にのぼっていて。『ジョギング〜』のときの、アクターズ・コース受講生の皆さんの戸惑いについてはよくお聞きしましたね。「あれは、わかるとかわからないとかじゃねーんだよ!」って、中瀬さんがよく言っていたみたいです(笑)。

古澤 卓爾さんって、ぬぼーっとしてたり、ふわーっとしてたりするイメージがあるかもしれないけど、イライラしてるときの卓爾さんはすごく尖っているんですよ。近寄りがたい。卓爾さんは別に優しい人でもないし、穏やかに現場を進めるタイプでもないです。

杉田 緊張感がありますよね。距離を踏み込みすぎてはいけない感じ。

古澤 卓爾さんは、突発的に人を殺しちゃう人だと思いますよ。穏やかなときの卓爾さんは、なぜ穏やかかというと、特にこっちに興味を持ってないからだと思う。抜き差しならない関係になったら、殺すか殺されるかの緊張感が、すごくあると思います。語弊があるかもしれないけど、「お前はこの映画と共に死ぬ気があるのか?」を常に突きつけられている気がしますね。「俺はこの映画を信じているのに、お前が信じていないんだったら、いつでも切るぞ?」という感じ。『ゾン〜』のときに一度、酔っ払って僕に電話をかけてきて「いつになったら公開するんだよ!?」って詰め寄られたときは、やばい殺される!って思いました(笑)。

古澤 『嵐電』の感想を聞いたり読んだりしていると、みんな「優しい」って言葉を使っているけど、優しさで言えば杉田さんの『ひかりの歌』のほうが優しいと思うんですよ。『嵐電』を初めて観たとき、なぜか咄嗟に「『ひかりの歌』とは全然違う映画だな」って思ったんです。どうしてこんなにも違うタイプの映画が、この世にあるんだろう。どっちも映画なんだよな……って。そうすると隣に卓爾さんがいて「お前はどっちを映画だと思う?」って問われてるみたいな緊張感があって。

穐山 私も『嵐電』を観て『ひかりの歌』を思い出しました。譜雨と嘉子の恋模様というか、いまどきの恋愛像とかを超えたなにかが描かれているという点で、共通するものがある気がする。三宅唱さんの『ワイルドツアー』にも、そういう空気がありましたよね。

杉田 卓爾さんは全州国際映画祭で『ひかりの歌』を観てくださって、上映のあとに一緒に歩いたんですよね。そしたら第一声が「僕はあなたのことが好きになりました」って。え!ってなって。それこそ、卓爾さんの「映画とは何だ?」という問いの土俵に、自分もいさせてもらえたんだなという感覚があって……怖かったです。

一同 (笑)

杉田 けど、うれしかった。複雑な気持ちです。あと、僕は大西礼芳さんがすごく好きで、『嵐電』に出てる大西さんは、一番、素に近い気がしました。もちろん芝居されてるんですけど、あのぼそぼそしゃべる感じは普段の大西さんに近くて、魅力のある部分だと思います。いつか自分の映画に大西さんに出てもらえることがあったらと、想像することがあるので、素直にいいなあと思いました。

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古澤 のぞき見てる感じが『嵐電』にはありましたよね。登場人物なのか俳優なのかわからないけど、油断した瞬間を見極めて、ある種の決定的な瞬間を逃さない感じ。杉田さんの映画は「決定的な瞬間を撮ろう!」っていう野心じゃなくて、「ここ、俺、居ていいスか?」っていう感じで、登場人物や俳優のそばにいる感じがしますよね。「カメラ、回していいですか?」って相手に告げてる感じ。俳優たちも「杉田さんの前だったら、いつもの油断してる自分を出してもいいんだ」って思って出してる感じが『ひかりの歌』にはあって。僕が面白いなと思うのは、スクリーンの中の人が油断してる瞬間なんですよ。二人の人物が向き合って、感情を表し合ってるときって、その感情や表情は、相手にだけ渡すものじゃないですか。でも映画って、第三者である僕らもそれを分けてもらうもの。その点において、卓爾さんにはオーソドックスなところがあるんだけど、でも映画自体は壊れてるところもあるので、そこが不思議な魅力だなあと思います。だから、杉田さんの映画と卓爾さんの映画、どっちが映画だと思うかと問われたら、ものすごく困るなあと思いながら観てました。どっちも大好きなんだけど、違う星で生まれた映画ですよね。

杉田 なるほど。違う星……『嵐電』には、登場人物がなにかの惑星みたいに、くるくる回るシーンが多かったですよね。特に、高校生二人。くるっくるしてましたよね(笑)。

古澤 駅前の、譜雨と嘉子のキスシーンもね。

穐山 結構、くるっくるしてましたね(笑)。

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古澤 川べりでの映画撮影のシーンもね。二人の周りを、カメラがずーっと回ってた。

杉田 ……ちょっと、自分の話になっちゃうんですけど。先月、ワークショップをたくさんやったんですよ。参加者の人に、いつか誰かに言われた印象に残っている言葉をひとつ選んでもらったんです。その言葉をせりふとして、実際のその場面を本人にiPhoneで撮ってもらいました。自分の役と相手の役は別の参加者にお願いする形で。その中で気づいたことがあって。その人がまだ気になっている人、つまり今もずっと考え続けている相手は、最後までフレームの中にいるんです。もう、自分の中でけりがついている相手は、その場面の最後にはフレームアウトさせていると気づきました。これが、『嵐電』ともつながって。新さんって、フレームインとかフレームアウトがほとんどなくて、シーンの最初から最後までフレームの中にいるんですよね。卓爾さんの中で、新さんが演じた衛星が、一番けりをつけずに付き合い続けている人なんじゃないかと思いました。その衛星のまわりで、嵐電や南天や子午線が代わりにフレームインやフレームアウトを繰り返していく。

穐山 私も、この映画で思い出したことがありますね。『月極〜』を撮るときに、1日だけ、追撮をしたんですよ。まっすぐ伸びた道の先に見えてくる駅を探してて。そしたら中瀬さんが「たぶん、卓爾さんが、いいとこ知ってるよ」って言うんです。だから卓爾さんに聞いていただいたら、すぐ返事が返ってきたらしくて。

古澤 京王線沿いじゃない?

穐山 そうです、そうです。

古澤 卓爾さんがそれに答えてるとき、一緒にいました。

穐山 (笑)。卓爾さんの映画って、いつもロケーションが素晴らしいなと思うんですよ。『嵐電』に出てくる喫茶店も、あんなところにある!??って思って(笑)。

杉田 あれ、セットらしいですよ。

古澤 あの喫茶店の、脇の道がいいですよね。

穐山 そういうことを、常に気にしておられるのかなあって思いました。ネタというか、ロケーションのレパートリーが、すぐに出てくるあたりが。

杉田 嘉子が、昔の同級生と会うところも好きでしたね。ああいうの、何ていうんですっけ。操車場?

古澤 あそこ、いいっすよね。幼馴染の背後に、いろんな嵐電が並んでるじゃないですか。

杉田 フォーカスがそっちに合ってそうな感じがありましたよね(笑)。

古澤 僕が子供の頃に読んだ絵本で『きかんしゃ やえもん』っていうのがあって。元祖トーマスみたいなお話なんですよね。機関車に顔があって、操車場で、最新式の電車から馬鹿にされるんです。それを思い出しましたね。何台もの電車が、カメラ目線で並んでる感じがした(笑)。

杉田 せりふも、よかったですよね。「会ってない間、ずっと探してた」っていう。「嘉子が電車の下にでも引っかかってるんじゃないかと思って」って、すごいせりふですよね。ちょっとしたホラーですよ。

古澤 怖いせりふですよね!

杉田 字面だけ見たら、ロマンチックでもなんでもないせりふなんだけど、なんか感動してしまう。

古澤 あの言葉の選び方も絶妙だなって思います。人ってそういう、言葉のチョイスを間違えちゃうことがあるじゃないですか。彼もある程度はロマンチックなことを言おうとして、でも、出てきた言葉がそれだったっていうのが(笑)、そういうこともあるかもしれないなーって。とても気持ちがわかるし、それを受け止めてる嘉子の気持ちもわかるし。せりふなんだけど、せりふじゃない感じがするんですよね。あと、不吉さで言うと、新さんが自分の過去を幻視するところで「行っちゃダメだ」って言うじゃないですか。ものすごい惨劇が起きたんじゃないかって、すごい想像がふくらんだけど、特にそんなこともなくて。

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杉田 狐と狸の電車に乗り込んでしまうことを言っていたんですかね。

古澤 乗り込んでしまったら、別れてしまうっていうね。この夫婦は、何らかの理由で永遠に別れてしまったのかなと思ってたら、終盤、波の音と共に、庭で二人が一緒にいる。そこで混乱するんですけどね。

杉田 そう、音で思い出したけど、「整音」として並んでいるクレジットの人数が、ものすごく多いんですよ。

穐山 (パンフを見て)ほんとですね。

古澤 嵐電がすれ違うファーストカット、2回観て2回とも、僕にはセミの声が聞こえたんですよ。夜中に鳴いてるセミの低い声ってあるじゃないですか。地鳴りみたいな、ジーーーーッていう音色。なにか、電灯の音とかかもしれないけど、僕にはセミの声に聞こえて。でも、セミの季節ではないことが、登場人物の服装とかでわかるから、何だろうなあ……まあ、卓爾さんの映画だから、何が聞こえてもおかしくないか、と。

一同 (笑)

古澤 あと、謎なのは、なんで卓爾さんは劇中劇を「結婚オブ・ザ・デッド」にしたんだろう。あの映画だったら、別に読み合わせしなくてもいいんじゃないかなって気がすごくして。

一同 (笑)

古澤 譜雨は、あのノリの、あの映画の、世界観を作るための「オンではない芝居」に、嘉子を付き合わせたってことですかね。

杉田 ……そこで僕、つまずいたかも。

一同 (爆笑)

古澤 でも、芝居づくりにはいろんな方法がありますからね。僕も、僕以外の監督が、芝居をどう作っているのかを知らないから、いろんな人に聞くようにしてるし、自分で俳優をやってみたりしてるんですよ。だからあのシーンも「ああ、こういうことをやる人もいるんだな」って、素直に思いながら観てました(笑)。

杉田 最初のせりふ合わせのシーン、むちゃくちゃいいですよね。急に大西さんにスイッチが入る感じ。

古澤 あのシーンが、終盤の、川べりの撮影シーンのリハーサルのようにも見えてきますよね。映画って、2回以上観ないとわからない部分がたくさんあるなあと思いました。昔、オーソン・ウェルズがインタビューで、影響を受けた映画監督を3人問われて「ジョン・フォード、ジョン・フォード、ジョン・フォード」って答えたっていう話があって。僕らが若いときはその話を聞いて「さすがやなあ!!」って思ってたけど(笑)、でも最近、それが実感としてわかるというか。もしかしたら生涯で、真の意味で「観る」ことができる映画って、1本か2本なんじゃないかと思うんです。映画って情報量がすごく多いから、一度観ただけですべてがわかるわけではない。『嵐電』はたまたま2回観たけど、そのことで、より豊かになるものがあったんですよね。1回目にはなかった体験が、2回目には待っていた。じゃあ自分にとっての「生涯の1本」って何かなあって、ふと思いましたね。映画館で『悪魔のいけにえ2』がずっとかかっていればいいんだけど、そういうわけにもいかないので(笑)。そういう意味で『嵐電』は、繰り返し観てしまう映画だなあと思いました。

穐山 そうですね。ぜひ観直したいです。

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杉田 僕は今日、2回目を観て、子午線と衛星が、夜のホームで立ち話をしているシーンに打たれたんですよ。登場のときにはものすごくおかしな動きをしていた子午線が、あのシーンでは、人と人とで響き合いながら、しっかり立っていた。

古澤 あれ、夜でしたっけ。昼じゃなかったかな。

杉田 あれ?

古澤 子午線が「好きなものを撮ってるつもりでいたけど、気づいたら、映ってるものを好きになる」っていうシーンですよね。

杉田 そうです。

穐山 昼だった気がしますね……

杉田 昼か夜かもうすでにわからなくなってる。

古澤 だんだん自信がなくなってくるけど(笑)。あの場面は確かに、緊張感がありましたね。この緊張感は何だろうと思ったら、新さんが緊張してるんだなあと思って。別の場面で、喫茶店のマスターと衛星が、健康電車の話をするところがあるじゃないですか。あそこで、二人とも経験豊かな俳優だなあと思ったんですよ。互いにどんなアイデアを出してくるか、楽しみながら作っているなあと。でも子午線と衛星のシーンは、新さんが、何を出してくるかわからない動物相手に芝居をしている感じがした。キャリアはあるけど、今から未知のものに触れようとしている緊張感。

杉田 「どうにもならないことを待ってる」、っていうせりふでしたっけ。

古澤 それは南天と追いかけっこした後のせりふですね。「どうにもならないことがある。取り返しのつかないことがあるんだよ」って。今日はそこで、不覚にも涙してしまいました。子午線だけでなく、南天も素晴らしかったですよね。

杉田 窪瀬環さん。さっき言ったワークショップに、いらっしゃったんですよ。自分が演出する番になったとき、テストを何回も重ねて、最後、カメラ位置を真逆に変えたんです。一度築いたイメージをいつでも手放せる勇気を持っている方だと思いました。俳優以外のこともされていくと思うので、今後の窪瀬さんの活動もたのしみです。

古澤 今回、京都造形大学出身の俳優が、たくさん出ているじゃないですか。やばいなあ、と思いました。すごい人がいっぱいいるなあ!と。

杉田 僕、『白鳥麗子でございます!』のリメイク版(2016年)の、メイキングをやったんですけど、大西さんが「かきつばたあやめ」役だったんですね。会社の会議室での読み合わせの席で、びっくりしたんです。本読みなのに、最初から大西さん全開で。その場が一瞬で白鳥麗子の世界になった。すごい人だと思ったんです。ひとり本気の人がいると、全体も引っ張られていきますよね。

——映画美学校は、皆さんを本気にさせる場所でしたか。

古澤 そもそも穐山さんは、なんで映画美学校に来たんですか。

穐山 たまたまなんですよ。たまたまユーロスペースに映画を観に来たときに、映画美学校のポスターを見かけて。「あ、会社近いじゃん♪」っていうのもあって(笑)。そしたら、性に合ってたんですね。だいぶハマりこんでしまった。特に映画の観かたが変わりましたね。画面の中に映っているのは主人公だけではない。映っているのは世界だ、という。映っているものの豊かさや素晴らしさに気づけるようになったのは、映画美学校に入ってからだと思います。中でも一番大きいのは、会社員だった私にも、一緒に映画を撮ってくれる人ができたことでした。ここに入る前は、全然知らない世界だったし、ありえないことだったので。

杉田 僕は、今思えばっていう話しかできないですけど、映画美学校に来ようが来まいが、その人が作ることで生まれちゃう映画というのがたぶんあって。でも、ひとりでやってると、それが世界のどこにどう位置づけられるかがわからないっていうことがあると思うんですね。でも映画美学校では、自分が作ったものに対して、あれやこれやいろいろと言われるじゃないですか(笑)。映画と一緒に生きてきた、自分以外の人の言葉を聞くことで、「自分の映画はここに位置しているんだ」っていう輪郭が見えてくる、その入口に立てたきっかけが、映画美学校だったように思います。自分がやろうとしていたことについて、批判もされたけど、今振り返れば、自分は全然間違ってなかった。ただ、下手だっただけなんですよね。どうあがいても自分はこうなんです!っていう部分は、誰に何を言われても揺るがないものだし、長く映画をやっていく上では、すごく大事なことだと思います。あと、あの頃は単純に、言い返せなかったっていうのもありますね。

古澤 言い返せなかったことを覚えていて、その後も映画を続けているのって、人生をかけてそれに応えようとしているってことじゃないかと思うんですよ。今はツイッターとか、即応性が当たり前で、熟慮することが欠落しつつあるじゃないですか。でも映画とか小説とか、表現行為って、すごく時間をかけたコミュニケーションだと思うんですね。映画1本作るのに、下手したら何年もかかるじゃないですか。いざ公開すると、いろんな言葉を浴びせられて、それに対して映画で応えていこうとすると、さらに何年もかかるっていう。それが「ものを作る」っていうことだと思うんです。もしかしたら自分を批評した人は、そんなことはすっかり忘れてるかもしれない。でもこっちは、その言葉によってたくさん考えたことで、こんなふうに変わった。あるいは、その時点では気づかなかった自分の「正解」に気付かされて、違った形のなにかを作ろうと思えた。それを形にすることが、相手へのレスポンスであると同時に、過去の自分へのレスポンスでもあるんですよね。そういうプロセスの一歩目が、こういう学校にあると思うんですよ。

穐山 (とてもうなずく)

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古澤 僕は最近、初等科の修了制作で撮った『怯える』(1998年)を観返す機会があったんです。いろんなことを思いましたよ。「今だったらこうするな」と思うところはあるけれど、「今、これはできないな」って思うことのほうが多かったんですね。あのときに軽々とできていたことが、今できなくなっていることのほうが怖いなと思う。人って、ただ単に、年令と共に成長したり、上手くなったりするもんじゃないなと思ったんです。

杉田 若い頃に作った映画を観ると、まず、なんでこんなに一生懸命なんだろう! こんな熱量で作れるのか今の自分は??と思ったりしますね。言い換えれば、その時にしか作れないものを、ずっと作ってきてはいるんですけど。でもね、下手は下手だったですよ(笑)。作品の評価というよりは、単純に下手だった。

古澤 そうね、僕も講師の立場になると、「まだまだ下手だなあー」って思ったりはしますよ、それは(笑)。

杉田 『ひかりの歌』がまだ短編だった頃、第2章だけドイツの「ニッポン・コネクション」に行ってるんですよ。それを、映画美学校で教わっていた塩田明彦さんが現地で観てくれたらしくて、「杉田、うまくなったな」って言われたんです。

一同 (笑)

杉田 そうかあああーー!と思って。その感想、結局あまりうれしくないんですよね。

古澤 塩田さん、昔撮った8ミリ映画が面白かったから「塩田さんは若い頃からすごかったんですね」って言ったら「そうだろ?」「俺は昔から天才だった!」って言うんですよね。

杉田 はははは。

古澤 映画に興味がある人たちが集まってくる場所で、断片でも何かを撮ることって、すごく勇気が要ることだし、それに対する反応を受け止めることが、すべての始まりだと思うんですね。だから最初は「自分の話を聞いてほしい!」っていうだけでいいんじゃないかと思う。そのことで返ってくる言葉が、自分の姿を教えてくれる。そういう場所であることが、映画美学校の面白いところじゃないかと思いますね。……そんなキレイごとじゃ、済まないですけどね(笑)。

穐山 ほんとうにそうですね。映画美学校にいた間が、精神的には、一番つらかったです(笑)。それは誰かに何かを言われたからとかじゃなくて、自分を思い知って、つらかった。でもそれがあったから、今は何を言われても大丈夫というか。あのときは、ただただ無防備でした。無防備な時期に浴びた傷、っていう感じ。

杉田 消えないやつですね(笑)。

穐山 それを経て、じゃあ続けるのかどうするのか?っていうところですよね。私はずっと会社勤めをしていて、そういう真に迫る局面をいかに避けてくぐり抜けるかっていうところで生きてきたので(笑)、他にない体験をしたなと思います。

古澤 さっきの話じゃないけど、僕らはフィクションを通して、俳優の「素」とかプライベートを覗き見る仕事だから、そうすることで自分のプライベートをさらけ出してる部分もすごくあるなと思うんですよね。うまく世渡りするのとは真逆の筋肉を使うというか。人の何かをあらわにするのと交換に、自分の何かもあらわにする。非常に傷つきやすい部分を外側にさらす仕事だなあと思うんですよ。

穐山 そうですね。ほんとに。

古澤 そこで卓爾さんの話に戻すと、卓爾さんはそのナイーブな部分をすごくさらけ出せる人なんだなと思います。僕なんかは、映画監督を続けていくうちに、ある程度のテクニックというか、自分を覆い隠せるようにもなるなって思っちゃうんですよ。アマチュアのときに撮ったものを観ると、「今の自分はこういうことを巧妙に隠そうとしてるなあ」って感じるから。だから自分の映画に自分で出て、自分を傷つけるようにはしてるんですけど。……特殊な性癖の人みたいだけど。

一同 (笑)

穐山 そういうやり方があるんですね。

古澤 今って、全国公開の商業映画を撮った人が、翌月にはiPhoneで気軽に自主映画を撮るっていうのが、ボーダレスに行える時代じゃないですか。わかりやすい出世物語ではなくて、行ったり来たりしつつ、巧妙になる部分もあれば、傷つきやすい自分も残したままでいるという。映画美学校も、それが可能な場所だと思うんですよね。在籍中だけじゃなくて、修了後も関わりが続いていくじゃないですか。

穐山 私はこれから自分の映画が公開されるんですけど(2019年6月現在、新宿武蔵野館他で公開中)、私の中でこの作品は、映画美学校をくぐり抜けた後の「じゃあどうするんだ問題」への自分なりの答えなんですね。映画美学校で、映画美学校的価値観に一度圧縮された感じがしてて、それを元に戻す作業だった。私が働いてきた会社での風景とか、映画美学校以前に私がいた世界を並べていく感じ。それがどういう見え方をしているのか、映画を観た人の反応を見聞きするのが楽しみですね。

——ではそろそろ、まとめに入りたいのですが、言い足りないことなどはありますか。

古澤 お客さんが広がって、長く続くといいですね。

杉田 それは、ほんとにそうですね。会う人、会う人に薦めています。

古澤 東京では同じ劇場で上映されている『愛がなんだ』も、結構サイコな映画だったんですよ。今、テアトル新宿は、間口が広いように見せかけて、闇の深い映画を2本もやっているんですよね。地の底へ、黄泉の国へと続く映画館ですよ(笑)。ポスターのイメージ通りの物語で、お客さんが満足して帰っていくような映画が多い中で、ひとりでも多くの人が騙されて、思ってもみなかった異界へ迷い込んでくれるといいなと思いますね。
(2019/06/03)