今日、アクターズ・コース修了公演『石のような水』の稽古場に行ってきました。(小川志津子)

 映画美学校のカリキュラムに青年団の講師陣が参戦して、ジャンルを超えた俳優育成に乗り出してから4年が過ぎました。第4期生の修了公演にあたる今回の公演の、受講生たちが演出・松井周さんと稽古場を共にする、今日は初日だったのでした。ある意味、今日に向けて、みんな照準を合わせて自主練稽古を年末から重ねてきたとのこと。詳細な稽古場レポートはアクターズ・ブログに書きますが、今日ここで書きたいのは、その稽古後の飲み会でのことなのです。

 講師の一人、青年団の山内健司さんが、わがB学校の『アメリカン・スナイパー』談義を読んでくださっていたのですね。そしてね、言うの。要約ですけど、

「映画の人たちはすごいねえ、自分とはまるで違う文化に育った映画人のことを、まるで同じ土俵の上みたいにして語れるんだね!」って。

  それは私もずうっと不思議に思ってたことでした。映画より演劇を観る機会の方が多かった私は、「リアルタイムで観られなかった芝居」については語る権利が100%ない、と思ってきたから。

 それで思い出したのが、ある人が聞かせてくれた話です。
 映画美学校生なら誰もが知ってる、「い」のつく事務局員さんが昔、してくれた話。

 彼はフィクション・コースの1期生としてこの学校に入り、ツワモノ講師陣たちに揉みに揉まれた受講生の一人です。その人が、この学校で最初に受けたカルチャーショックとして、聞かせてくれたこと。

「講師陣が、初めて自分たちが撮った拙い短編について、まるでハリウッドの大作映画と同じ温度で分析し、語る姿を見て、 映画人として僕らは同じ地平に立っているのだと思わせられた」と。

 ……すみません完全にうろ覚えですが。

 でもね、ここ、映画美学校の大きなポイントだと思うのです。
 自分のささやかな所業に対して、大の大人が、寄り集まって、大真面目に考えてくれる。という皮膚体験。
 どの科についても、そういうことが、行われている学校なのだと思います。

  通りすがりのフリーライターが、飲み会帰りにお布団へ向かわず、ここでこんなふうにPCに向かってるのも、「い」のつくあの人に聞かされた、あの話によるところがとっても大きいなあって。
 なんかそういう、映画美学校の核とも呼べそうな話を、真夜中に人知れずアップしてみます。おやすみなさい。