去る、5月4日。
映画美学校が誇るワカテとチューネン男子が揃って、
北野武作品についての座談会を行いました。
そりゃもう3時間超えの盛り上がりを見せたのですが。

その中のおひとりがですね、座談会を終えた余韻なのか何なのか、
「なんか、書けちゃった」って、この文章を託してこられたのです。

ビガッコー生ならみんなおなじみ、我らが事務局員・市沢真吾さんです。

……確かに。確かにこのことについてはちょっと考えたいですね。
 一読してそう思ったので、急きょ、局長の独断でここに丸ごと掲載いたします。

座談会本文は来週にもアップ予定。
それまでの間、以下に書かれてることを、
ふむふむと脳内をめぐらせながら、お待ちくださいね。(以上、局長オガワ)


 

先日『龍三と七人の子分たち』を観て、思ったことがあったので言葉にしてみます。


よく言われている事だと思いますが、監督・北野武が作る映画は、テレビから流れてくる「ちょっとハチャメチャな面白い事を言うおじさん」というイメージだけではなく、

そこからはみ出すもの、言葉にはしづらい後味の悪さとか、ヤバさとか、を描き続けています。


北野武が映画を撮り始めた頃は、そのことを誰も言葉にできなかった。いや正確には、言葉にしていた人々は沢山いたけれども、それがお茶の間(たとえば、1990年代前半に青森県八戸市で中学時代を過ごしていた自分のような存在)にまでは届いていませんでした。

『その男、凶暴につき』を劇場で見たときの印象は、いろいろな人が受けたであろう「新しい表現を見た衝撃」というよりは、むしろ「とまどい」の方が大きかったです。「あの金色のポスターはすごいかっこ良かったけど、この間見た『トータル・リコール』や『ロボコップ』みたいな感じじゃないなあ…。」と。


そこから、何年か経って、スポーツ新聞の記事で『ソナチネ』がイギリスですごい評価が高いらしいとか、大学時代に映画批評を読んだりするようになり、そこで、「映画作家」として北野武が認識されているんだ、ということを知る訳です。


そして、決定的なのが、『HANA-BI』のヴェネツィア受賞ですね。


そこからの北野武という人は、「芸術家」としての北野武と、「ビートたけし」との間を行ったり来たりするような人として見えました。

その歩みは、時には近寄ったり、また時には世間から大きくずれたりするんですが、でもその歩み自体が味わい深いものでもありました。


ところが、ここ最近、その世間との距離が、かなり近くなって来ているように思います。


近づくというのも、二通りあって。


『アウトレイジ』2部作は、「ヤバイ」ほうですね。やっぱり自分達はヤバイものが見たいよ、というところ。男性が特に好きですね。

(余談ですが、『アウトレイジ』を観る数時間前に歯医者に行って、親知らずを抜いていた私は、観終わった後、心底「歯医者行く前に観なくてよかった」と思いました)


でも、『龍三〜』はそれとは違うように思います。

「いい年こいたおっさんが何やってるんだよっ」という愛らしさ。


お茶の間がイメージしている「たけし」の面白さと愛らしさが、あの2時間の映画では、冗長でも、過剰でも、いびつでもなく、ぴたっと世間の思うフレームに収まっているように見えました。


なにより、劇場内が、ちゃんとウケていた。

お客さんは、いわゆる老若男女万遍なくいて、ここは笑う所だ、というところでちゃんと笑い、後半のあの展開なんか、かなり不謹慎だと思うところですが、それに引いてしまうこともなく、笑いが加速していってました。


でも。


あの映画を観て、「なんだよ。ヤバい所があるから北野映画じゃないのかよ」という人がいるかもしれません。いや、いるでしょう。

もしくは

「いや、『龍三〜』のなかにも実はヤバい所はある。世間がそれを見過ごしているだけだ」という人も、きっといるでしょう。


しかし自分は、そういったことを超えた部分で、思いました。


「北野映画を観に行って、こんなに観客が普通に笑い、安心感を持って劇場を後にする事ができるんだ。たけしがほとんど出演していないにもかかわらず。」


北野武の映画である、という刻印を全編に感じさせながら、アートでもバイオレンスでもなく、観客皆が、普通に登場人物を受け入れていた。これはけっこうすごいことだなと。


この映画の何が、お客さんを惹きつけたのか。


もしかしたら、それってつまり、「カワイイ北野映画」ってことじゃないのだろうか。


ふと、ある言葉を思い出しました。


10年以上前のことなので、誰が誰に向けて言ったのか、誰かのまた聞きだったのか、それすらも全く覚えていませんが、言葉だけが記憶に残っているというやつです。


「最近の映画作る人でさ、女性ももちろんいるじゃない。その女性達がさ、映画を評する時に「カワイイ」って言うんだよ。それが俺には全然分からない。何だよ、「カワイイ」って。でもさ、若い男がさ、「ヤバい」て言うじゃない。あれは分かるんだよ。」


細かい所は覚えてませんが、こんな感じの言葉でした。

なぜこの言葉を覚えているかというと、自分がそれに共感したからです。


ヤバいからこそ表現だろう。ヤバくないものなんて……。


そもそも男性は「ヤバイ」という感覚の方が分かり易いんです。

たとえば「アメリカ映画で一番ヤバイ奴って誰だ?」と聞いたら、男性陣には、即座に何人かのキャラクターの名前があがると思いますが、

「アメリカ映画で一番カワイイ奴って誰だ?」と聞かれた時、男性陣が即座にイメージできるものって、あるでしょうか?自分はすぐには思いつきません。


 男性には、「カワイイ」ものを見るアンテナが、そもそもあんまり無いんじゃないか。特に映画ファンの男性で。


 『龍三〜』のHPには、大久保佳代子さんのコメントが載っています。

そのコメントを見て、腑に落ちました。


 『龍三〜』には、

「この映画、カワイイ」と言ってしまったとしても、すっと収まるパッケージ感がある。

そしてそのパッケージ感を、中身が裏切っていない。

 ほとんど老人の男性しか出ていないのに「カワイイ」を実現しているのでは、と。


そうか。「カワイイ北野映画、完成」ってことか。


でも、ちょっと待てよ。


「ヤバイ」の反対語はなんでしょう。

「ヌルい」ですかね。

 たとえば、批判的な意味で「こんなのヌルいよ」ってよく言われると思います。

「物足りない」「突き抜けてない」というような。自分の作った映画が「ヌルい」って言われたら本当にへこみます。


もしかして、男性達は、「カワイイ」=「ヌルい」だと、思ってないだろうか?

「龍三〜」は、「カワイく」仕上がっている、だからヌルい。と思ってしまっていないだろうか?


そこでもう一つの声が聞こえてきます。


「男性だって、カワイイのアンテナはある。それは“アイドル”だ」


おお、そうだそうだ。確かにアイドルは「カワイイ」存在だ。


あ、そういえば、前回の座談会は、ももクロの『幕が上がる』だったじゃないか。


これは単なる偶然でしょうか。


ももクロ、きゃりーぱみゅぱみゅ、BABYMETAL、うちの10歳の娘まで口ずさんでいる初音ミク『千本桜』……。


いろいろWEBで検索してたら、「カワイイは正義」なんて言葉も出てきた。


なんだ、自分の回りは、「カワイイ」に席巻されているじゃないか。


いつの間にか日本中に伝染し、我々の生活を浸食し続ける「カワイイ」ウィルス。いやこれは「カワイイ」教か、あるいは「カワイイ」法の制定か。


……そんな状況って、まさに「ヤバく」ないですか?