市沢 時代的に、90年代後半って独特の空気があったように思うんです。あの頃自分は、何に「カッコいい」と思ってたのか。思い返すと、それは「終わってる感」だったように思う。
千浦 1999年の7月に何かが降ってきて全部おしまい!みたいなのがありましたね、そういえば。その頃二十代とかだった我々は、もう強姦でも略奪でも何でもやってやろう!みたいな空気の中でみんな生きてたんですよ、ヤングの皆さん。
一同 (笑)
冨永 シンスケくんはその頃いくつぐらい?
スズキ 小学生でしたよ。88年生まれなので。
冨永 僕は高1だったんですけど、本当に世界は終わると思い込んでたんですよ。だからあの時代、大人の人たちはどうだったんだろうって思うんです。
市沢 人によって違うと思うんだけど、SF的な「世界の終末」の観念というよりは、「もう、何にもないんだ」感が自分にとってロマンチックに映っていた気がしますね。『ガンモ』(97年)とか『蜘蛛の瞳』(98年)とか『Helpless』(96年)とか。もちろんそれぞれ作り手の方達は別々の意図で作ってるんだけど、でも受け取る方で「終末感」ということでざっくり通底させて見ていたような。そしてそれを「カッコいいもの」として受け取ってた気がするんですよ。
三宅 友達のフランス人が、当時向こうで北野武監督や黒沢清監督の映画を観て「なんて日本の廃墟はカッコいいんだろう!」って思ったって言ってました。だからその心象は、世界問わずかもしれない。
スズキ 僕は小学校5年生で『スター・ウォーズ』をエピソード1から観た人間なんですね。でもハリウッドのビッグバジェット映画にそういう「終わってる感」は感じなかったですよね。
冨永 『ディープ・インパクト』とか『アルマゲドン』(共に98年)とか、世界の終末を描いた映画はあったけど、でも決して暗くはなかったと思います。
市沢 つまり僕は「終末感」のあるものを、かいつまんで、観たいように観てたのかな。「この感覚が“今”だ!」って。
冨永 僕は古谷実のマンガにそれを感じていたかも。初期はギャグ漫画なんだけど、実は設定が暗かったりするんですよ。そこから不道徳の方向に行った。僕は特に『ヒミズ』にガスンとやられたんですけど。何が起きてもみんな無表情で何も感じてない、という感覚。たけしの映画を最初に観た時も、似たものを感じたんですよね。まず先に無表情な反応があって、次のカットではすごいことが起きた後、みたいな。
市沢 そう、「無表情で拳銃をぶっ放す」「無表情で殴りつける」みたいなことがカッコいいっていう感覚があった。拳銃を、肩の高さまで持ち上げもしない。お腹あたりの高さで、撃っちゃう(笑)。あれが、ある種のクールな表現だったし、それに伴った「終末感」というのが90年代後半の日本映画を覆っていたように、自分には見えたんです。
三宅 芝居をすることもさせることも恥ずかしいものだ、という認識は、おそらく時代を問わずあると思うんですね。友だちに出演してもらったりする自主映画では特に。じゃあ、どうやったらお芝居っぽいことをさせずに映画を撮れるんだろう、ということのヒント――であり罠でもあると思うんですけど――をくれたのが、北野武監督の初期作品だったり、人によっては黒沢清監督だったりすると思うんです。うっかり「俺にもできるんじゃないか」っていうような。もちろんできるわけないし、そこに芝居がないわけでは決してない、でもなぜか最初はそうみえてしまう、という。初期の北野作品は、自主映画を作るときの入り口のひとつになっているような気がします。何度も言うけど、罠ですけど(笑)。
冨永 身近ですしね、たけし映画って。ものすごい映画を知る前に、知れるものだったりするし。
市沢 「この表現は何でできてるか」とか「どうしてこうなってるか」がすごくわかりやすい映画でもありますよね。当時知り合いの自主上映会を観に行った時に、思いっきり北野武的な省略の技法を使っていたので「そっか、真似できる表現なんだ!」って思って。でも、そこから下の世代、2000年代、2010年代の若者の、作り手と観客との「同時代感」や「最先端の表現」というのがよくわからない気がして。いったい誰から何を“食らって”いるのかなと。
冨永 そう聞いて思い出すのは山下敦弘さんですね。山下さんがどこかで、まさに同じことを言っていたんです。たけしさんの映画を観て「映画ってこれでいいんだ」と思ったって。で、その山下さんの影響を学生時代に受けていたのが、たぶん、僕らの世代なんです。『どんてん生活』(99年)があって『ばかのハコ船』(03年)があって。そうやって、北野武の影響を間接的に受けている、という気がします。山下さんとその世代の映画人たちの登場で、自主映画の作りも変わったなという印象があって。僕はあまりいい変化だとは思わないんだけど、ただ長回しで、“芝居”しなくてもいいんだ的な作品が増えたというか。
スズキ 「ナチュラル(芝居)」っていう言い方をされるやつですよね。
市沢 引き算で作っても成立する、っていう罠ですよね。いろんなものを積み重ねた上で引き算するのではなく、最初から引き算ありきでも成立するんじゃない?っていうような。「これなら自分たちにもできるかもしれない感」っていうのは、確かにあると思う。
冨永 「シナリオなくても行けちゃうんじゃないかな感」(笑)。要るんですけど、本当は。
市沢 何を撮ろうか思い浮かばない時に「何にもねーな感」だったら撮れるかも、みたいな(笑)。
スズキ 僕が映画美学校に入った時は世代的に、山下さんを好きな人が多かったんですよ。でも当時講師だったある方が、ああいう映画を徹底的に嫌っていて(笑)。日常にある身近なものを引っぱってくるんじゃなくて、ちゃんと物語を構築しようよ!フィクションってそんなもんじゃないんだよ!ってことを仰りたかったんだなということが、今思えばわかるんですけどね。
(つづく)
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