75日に行われた「映画美学校ショーケース」。

めったに見られない修了生の作品上映や、

講師陣のガチンコトークなど、

フィクション・コースが日頃からやっていることを、

誰でも入れるイベントとして大公開しました。
http://www.eigabigakkou.com/news/info/4951/ 

 

そのうちのひとつとして行われた、

深田晃司(3期修了生)さんと三宅唱(10期修了生)さんの対談を、

ここでまるっと公開いたします。

 

映画作りを「志す」人を相手に、この学校の大人たちは「作る」のみならず、

それで「食う」こと、もっと言えば「生きる」ことをきわめて真剣に語ります。
日々、ほんとに日々、そういうことが繰り広げられているのです。 

 

……来ないと損だと思うの。こんな学校。

 

その様子を4日連続でおすそわけ。存分に噛み締めてください。
(局長オガワ) 

 

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三宅 「撮り続ける」と一口に言っても、大きく分けると二つの側面がありますよね。ひとつは、映画をつくるというのはまず、個人でこつこつシナリオを書いたり人と会ったりしていかなきゃいけないわけですけど、深田さんは日々どう仕事しているのか知りたいです。もうひとつは、そういった個の日々の仕事ではなくて、今の世の中の状況の中でどうやっていこうか、という側面の話もできればと。


深田 いいと思います。ちなみに『やくたたず』では「CO2」というロゴが出ましたけど、あれはどういったものなのか、といった話から始めましょうか。


三宅 大阪の映画祭です。だいたい映画祭というのは、作った映画を応募して、選ばれた作品が上映されるというのがほとんどだと思うんですけど、「CO2(シネアスト・オーガニゼーション大阪)」はまずシナリオを提出するんです。それで、面白いなというものがあったら、そこに5〜60万円程度の助成金が与えられて、映画をつくることができる。かつてぼくが映画美学校に在籍していた頃に、先輩である横浜聡子監督の『ジャーマン+雨』(06年)がそうやって作られていたんですね。


深田 そうですね。CO2からはいろんな監督さんが輩出されています。


三宅 自主映画って、こつこつバイトして貯金して撮る人が多いと思うんですけど、ぼくはその能力がゼロに近くて(笑)。だからそういう映画祭があるっていうのは単純にいいなあと思ったんですよ。なので、2回ぐらい応募して、ダメで、3回目ぐらいでようやく通って、撮りました。映画美学校を修了して2〜3年後の話です。


深田 C02には実はその第一回目のとき、10年以上前に僕も応募してまして。二十歳の頃に初めて撮った『椅子』っていう自主映画なんですけど、落ちました。後に、CO2のイベントにゲストで呼ばれたときにスタッフの人と話したら覚えていて、「あれか! あれは俺が最終選考まで残したんだよ!」って。だったら最後まで残してくれと思いました(笑)。


三宅 たしかに(笑)。


深田 CO2のように、何らかの機関から助成金をもらって作ること自体は、世界的にもインディペンデント映画作りのスタンダードだと思うし、とても意義深いことだと思うんです。でもCO2に限らずそういった日本の助成制度を細かく見ていくと、今の映画の問題点が透けて見えるかもしれませんね。……ということを後半に触れます。


三宅 『いなべ』の製作経緯はどうだったんですか?


深田 「沖縄国際映画祭」が地域発信映画というのを全国で作っていて、それは作り手ではなく、各地域が応募するんです。審査に通ると、沖縄国際映画祭が映画監督を派遣して、その土地で短編映画を作るという。有名なところだと、富田克也監督や、真利子哲也監督、冨永昌敬監督が作った『同じ星の下、それぞれの夜』があります。僕はその次の年に「三重県のいなべ市で何かやらない? 予算は300万で」って言われて。この額は決して多くはないと思うんですけど、地域のバックアップもあるし短編ならできるかな、と思って引き受けました。それにしても『やくたたず』みたいに野心に満ちた映画の後に上映すると、『いなべ』はなんてマイルドなんだ、と(笑)。


三宅 いやいや、『いなべ』、めちゃめちゃトンガってました。まさかあんなマジカルなことが起きるとは思わなかったので驚きました。


深田 ちなみに『やくたたず』の後は?


三宅 まず『やくたたず』を劇場公開したいと思っていたんです。その頃ちょうど自主公開の動きが盛り上がり始めた頃だったんですね。それで自分もチャレンジしてみよう、と。それで、ふつうなら映画館か配給会社にDVDサンプルを持っていくと思うんですが、ぼくらは「とにかく役者に観てもらおう」という、これだけ言うと意味不明な作戦を立てました。それでまず、村上淳さんが『やくたたず』を気にいってくださったんですね。そこから話がとんとんと進みまして「一緒に映画を作ろう」という流れになり、『Playback』という映画をつくることができました。劇場公開を終えて、さて次はどうするかなとようやく考えはじめたころに、愛知芸術文化センターさんから製作依頼のお話を受けて、『THE COCKPIT』をつくりました。



選ばれなかった二人です



深田 私は1999年、フィクション・コースの「3期生」なんですけど、三宅さんは?


三宅 2006年の「10期生」ですね。


深田 この二人の共通項を話しておくと、「修了製作」に選ばれなかったことです。(※1年間のカリキュラムの最後に受講生が自分で撮る短編作品)


三宅 そうですね。


深田 僕の代の修了作品は16ミリフィルムで4本のみでした。80人中4人。選考までに脚本を磨いて、その一部を「ビデオ課題」として撮影して提出して、その上で修了作品が選ばれるわけですけど、僕なんかはもう根拠もなく「自分が選ばれないわけがない!」って思ってて選ばれなかったので(笑)、そのときはかなり落ち込みましたね。それが原動力となって、今も撮り続けてるってところがあるんですけど。


三宅 (笑)


深田 当時、田村匡宏さんっていう同期の友人がいたんですけど、彼は本業は美術家で年齢もみんなよりちょっと上で異彩を放っていて。彼も修了製作の監督には選ばれなかったんですが、でもみんながショゲてる中でも田村さんはケロっとしていて、それまで撮ったビデオ課題に新たに追加撮影したものをつなげて、選ばれた人たちよりも早くさっさと映画を完成させちゃったんです。『一から出直せ!』という作品で、しかも面白かった。選ばれるのを待ってるひまがあるなら、自分で作っちゃえばいい、とそのとき学びました。


三宅 深田さんは、ものすごくコンスタントに映画をつくり続けている、というイメージがあります。どうやって続けてきたんですか?


深田 それも田村さんの姿勢に触発されたんだと思います。美学校を修了する前後で撮った自主映画は、長編と中編と短編を1本ずつ。その後、2005年に静止画のみで作る映像企画を東映アニメーションが集めていると知り合いから聞きつけて、『ざくろ屋敷』を持ち込みました。それが、人からお金をもらって作った最初の映画です。その頃に劇団「青年団」の演出部というのに入って——演劇は今に至るまで全くやったことがないんですが——、そこの助成金を得るつもりで2008年に立てた企画が『東京人間喜劇』でした。何とかお金を集めて撮ろう、という意識が芽生え出したのがその頃でしたね。『東京人間喜劇』はすごく転機になった作品で。これがやりたい、というプリミティブなモチベーションで企画を立てて。2時間20分の大作になったので、半年くらいかけて撮影をして。それなりに手応えのある作品になりましたけど、現場は大変でした。青年団からの助成金に、自分のバイト代と銀行のカードローンとを駆使して150万ぐらいで作ったんですけど、それだとスタッフ・キャストへのギャラがまったく残らないんですね。だから全員ボランティアで関わってもらうことになる。これを続けるのはしんどいな、と痛感しました。みんな映画が大好きだし、気持ちよく——相当イラッともさせましたけど(笑)——手伝ってくれるんですね。でもそこに甘えていいのはこれ一回切りだと思いました。より広い形でお金を準備して撮ることはできないか、と思うようになったのがこの時期です。(続く)