「戦争を知らない子どもたち」の、さらに子どもたちが『野火』を語る。アラフォー(松井・千浦・市沢)とアラサー(内藤・星野)が雁首そろえて。映画を評するためというより、私たちはただ『野火』に何を観たのかを照らし合わせるために集まった。初見以来、当ブログ編集局長の長すぎる念願を叶えてくれた5人に深く感謝しつつ、その模様をここに残します。
【松井周】1972年東京生まれ。劇作家・演出家・俳優。1996年、俳優として劇団青年団に入団。俳優活動と共に劇作・演出家としても活動を始め、2007年、劇団サンプルを立ち上げる。2010年『自慢の息子』が第55回岸田國士戯曲賞を受賞。2015年10月8日〜18日早稲田小劇場どらま館において最新作『離陸』を上演
【千浦僚】1975年生まれ。関西で幾つかのミニシアターのスタッフを務めたのち02年に上京。2010年まで映画美学校試写室上映担当。11年から14年まで映画館オーディトリウム渋谷スタッフ。初めて見た塚本作品は、高校生時代に「鉄男Ⅱ」(@神戸朝日シネマ)。自ら素材を扱って映写したことのある塚本作品は「妖怪ハンター ヒルコ」「ヴィタール」「妖しき文豪怪談 葉桜と魔笛」「電柱小僧の冒険」。好きな塚本作品は「六月の蛇」。
【市沢真吾】1977年生まれ。映画美学校フィクション・コース1期生、映画美学校事務局。映画に出てくる「日本兵」。そのイメージで一番記憶に残っているのは、テレビでやっていた「どっきりカメラ」。ゴルフ場に「戦争が終わった事を知らない日本兵(たしか小野ヤスシ)」が潜んでいて、銃を持ってゴルフ客を襲う、みたいな内容だった。80年代、まだ横井庄一さんのイメージがうっすらと残っていて、それがギャグになっていた。
【内藤瑛亮】1982年生まれ。愛知県出身。映画美学校フィクションコース11期生。初等科で『牛乳王子』、高等科で『先生を流産させる会』を撮りました。同期と一緒に脚本を書いた『ライチ☆光クラブ』が第20回釜山国際映画祭でワールドプレミア上映です。
【星野洋行】フィクション・コース第12期修了。フィクション・コース ティーチングアシスタント。撮影部。最近ぎらぎらしてない。
内藤 一番印象に残っているのは、生理的な感覚に凄く迫ってくる映画だということでした。「暑い」「痛い」「臭い」「キモい」「べとべとする」って。戦争を知らない世代も戦争を「体感」できるという意味で、優れた映画だと思いましたね。
松井 僕も似たことを感じました。実は塚本監督の過去作を観ていないんですが、「生きる」「生きていく」っていうフィルターを通して世界を見ている感じがしました。風景が急に綺麗に見えたりとか、ただただ塩が欲しい!っていうこととか、生理的な感覚を強く動かされたなと思いましたね。
千浦 塚本監督は過去に江戸川乱歩や太宰治を映画化しているんですね。文学が持っている観念性と、塚本監督の映画的肉体表現というのは、親和性というか可能性があるんじゃないか、と僕は思っていたんです。でも大岡昇平の原作小説や、市川崑版が描いていた主題とは、全く違うところを塚本監督は開発して描いていると思いました。原作にあった「原罪」という観念や宗教性はちょっと後退していて、その代わり、極小単位になっても人間と人間には社会性が生まれてしまうのだ、といったあたりが強かった。どんな極限状態でも、上下関係が生まれたり、経済が成り立っていたりする。それを国家規模に拡大させたものが戦争なのであり、そこに違和感を表明しない限りはそのまま持ち越されて、個人単位になってもそれは平然と起こるし、それがまた根源でもある、というテーマを強く出していたと思いましたね。
星野 僕も塚本監督の作品は、今回初めて観たんです。
内藤 え、意外。
星野 なぜか、観ずに今日まで来たというか。だから「塚本作品としてどうか」ってことは語れないんですけど、『野火』を観て一番最初に胸に来たのは、これを「スプラッター映画」として観ちゃうと違和感が出るんだろうなということ。この映画の中で身体が吹っ飛んだり、内臓が見えていたりすることは、呼びようによっては「スプラッター表現」なんだろうけど、でもそれ自体が主目的ではない。まずこの映画を作る、というところにこそ第一義がある。だからこの映画を観て「スプラッター表現が物足りないなー」とかって思うのは、ちょっと違うんだろうなと思いました。
千浦 塚本さんが持っている資質や手法を、戦争文学というジャンルにすべて投入したという感じ。
松井 スプラッターって、痛覚の一番キツいところに来るじゃないですか。『ホステル』(05年)で言うところの、ぎりぎりアキレス腱だけを切るとか、爪や目玉に何かが差し込まれるとか。でも『野火』はそういう「うわぁ、来たっ!」感がなくて、どちらかというと「肉に近づく旅」というか。生きてる人間が、ハエがたかってる腐乱した死体に近づいていく道程っていう感じがして。
内藤 残虐な表現って、戦争映画だと案外許されるんですよ。僕が作っているような普通のホラーとかスリラーだと、不謹慎なものとして厳しくチェックされるんですけど。
松井 えー。国家的殺人なら良くて、プライベートな殺人だと怒られるんだ。
千浦 それは『野火』にも深く関わるテーマじゃないですか。
内藤 例えば、人体に鋭利なものが刺さる瞬間は、「R-15」でもダメだって言われるんです。でも刺さった後の、事後なら映していい。
一同 へえーー!
松井 そんなに細かいんですか!
内藤 肉体損壊も、事後ならオッケー。身体が半分に斬れてもいいけど、断面図は見せちゃダメとか。でも、ハードな肉体損壊描写も戦争映画だとオッケーになるんです。「社会的な事実だから」と。
――ちなみに『野火』は「PG-12」だそうです。
内藤 「戦争レイティング」だ(笑)!「R-15でも、この描写はNG」って言われそうなところもあるのに。
千浦 不条理ですねえ。国家的なものであれば殺人描写が許されるってことですよね。それに関係あることになるのかわかりませんが、原作と塚本版にあって、市川版にないのは、主人公が日本に帰国したシーンなんですよ。劇中の世界と、自分たちが今いる世界とを、接続させないんです。
内藤 市川版は戦地で完結しますよね。塚本版は現代に生きる日本人も思案すべき問題であると、接続させます。
千浦 あと、今回「あれ?」って思ったのは、行く先々で火があがっていて、それが敵なり現地の人なり「他者」の存在を示唆するっていう描写があまりなかった気がして。僕個人は文学や古い映画の醍醐味を、単に何らかの対象を描写しているだけに見えつつも、それがそれ以上の意味を孕んでいく瞬間に感じるんです。塩も、単に「塩分が足りない」だけではなくて、宗教的なテーマにも結びつく要素ですよね。塚本版は、そういう古典的な文学性は後ろに回して、スプラッターとか不快な表現で戦争の忌まわしさを映しとることに賭けたのだという感じがします。
内藤 感覚へダイレクトに直結しようとするのが、塚本監督の資質であるように思います。アトラクションに近いような。
市沢 ライド感がありましたよね。ジェットコースターに乗った感覚で。乗ったら初めからフルスピードで、いろんなものがばーーーっと押し寄せて、その中にはスプラッターなものもあって、ふっ、と着地して、パッと客電がついた。みたいな。
千浦 ずっと、手持ちカメラでね。「ここはフィックスでもいいだろう!」っていうところも全部。
星野 いろんなダンジョンをクリアしていく感じがありましたよね。ただただ追い詰められながら。
松井 主人公の目眩みたいなものも感じましたね。
内藤 異常なことが起きると、カメラも異常に動くんですよね(笑)。黒沢清監督と、凄く対極にある映画作家じゃないかなと思います。(続く)
<その2>
市沢 語弊があるかもしれないんですけど、高校・大学の時って、戦争映画を観て戦争について考える作業って、正直「めんどくさい」範疇にあったんですよ。あまりにもいろんな問題が絡み合っているし、遠いし大きいし。そして、自分のまわりの同世代ともそんな話はしなかった。でも僕らより下の世代の人は、もっと素直に戦争のことを考えてるのかなと思って。というのも、この前、新幹線で帰省したんですけど、もろ「ギャル」!っていう感じの女性が隣に座ってたんですね。窓越しに、おそらく彼氏であろう人と「ばいばーい!」とかやってて。でも新幹線が走り始めたら、もの凄い冷めた顔をして、靴脱いでiPad開き始めたんですよ。「あー今どきの子だな。」って。それで、iPadって画面が大きいから、ちらちら見えるのね。ゲームとでもやってるのかな、と思って見てみると、何か文章を読んでいて。よく見たら、『日本のいちばん長い日』って書いてあった。
内藤 ああ、電子書籍か。
市沢 もちろん大学の課題だったりするのかもしれないんだけど、でもそういう短い自由時間に、自分から戦争ものにふれるという、僕ら世代にはない軽やかさを感じたんです。
内藤 今は、嫌でもニュースでいろいろ聞こえてきますしね。
市沢 『野火』って、美しい自然も、飛び散る肉片も、とてもグラフィカルに映し出していたじゃないですか。そして物語が主人公の一人称によって進んでいくという見やすさがあった。だからあの映画が若い観客に深く届いたり、観た人が「みんなも観て!」って声を上げているというのは、合点がいくなあと思ったんです。
松井 僕はあまりTwitterを使わないんですが、この映画を観た時は「みんな観て!」ってつぶやきたくなりました。というのは、この映画を「戦争映画」というカテゴライズで考えた時に、多くの戦争映画は「右翼的か左翼的か」ってことで計られがちだけど、この作品はどちら側の人も観るんじゃないかなという気がしたんですね。あと、「こいつ絶対悪い!」っていう奴が出てきて「くっそう、こいつを倒すぜ!」っていう感じに決してならない。むしろ「自分だったらどうする?」っていうことを考えさせられるので、「みんなに勧めたい」っていうよりも、「どう思った?」っていう話がしたくなる映画だったと思います。「過去の戦争映画にはこういうのがある」とか「このシーンが何かを象徴している」っていうことを考えるためではなく、「生きるためにあの場面で自分ならどうするか」を考えたいなと思いましたね。
市沢 ちなみに皆さんは、戦争映画って、観ますか?
内藤 それなりに、観てますね。避けてはいないです。ただ、観方が難しいな、って感じることがありますね。敵を倒して「いぇい!」っていうことにはならないから。倒された敵側にも家族がいるんだろうな…とか、本当に敵側の国が悪かったのかしら…って思っちゃたり。
千浦 敗戦国だからね。アメリカ人にはその感覚、ないんだよ。
市沢 戦(いくさ)を描く「戦争映画」が、今、あまりない気がするんですよ。岡本喜八の『独立愚連隊』(59年)みたいな。
千浦 ああ、娯楽戦争映画。確かにないね。戦争経験者がリアルにたくさんいる頃だったから、市川崑版『野火』を観ても、みんな色合いとか匂いとか生々しさを脳内で補正して観てたんですよ。でも今はそれが失われている分、過激に描写せざるを得なかったというのはあるかもしれない。
市沢 『独立愚連隊』は「戦争をしぶとく生きる人たち」の物語じゃないですか。観る人の中にも戦争経験者はいたわけだから、娯楽として観ることができる。でも僕らが10代だった頃は、もちろん戦争映画は作られていたんだけれども、享受する前に「難しそうだなあ……」っていうフォルダに入れちゃってたというか。
千浦 アラフォーが生まれた70年代の時点で、その喪失は始まっていたと思いますよ。時間が経つごとに遠ざかっちゃうし、反戦教育が行き渡っていったから、みんな遠慮して撮れなくなっちゃう。
市沢 実際に戦争を経験した人が、今はどんどんいなくなっていて、僕らも「敗戦国」としての戦争教育を受けて育ってきた。戦争の実感はないんだけれど、遠慮というか、「ここに踏み込んでもいいのかな」感だけはある、っていうのが自分達の実感だったかもしれないですね。
内藤 これから、どうなっていくんですかね。
千浦 内藤くんが、変えていくんじゃないですかね。
内藤 僕はわからないですけど(笑)、ヒロイックな戦争映画を楽しむ時代になっちゃうのかなって心配はあって。『永遠の0』(13年)はそれだったように思うんです。
松井 だったら、凄くないですか『野火』って。娯楽性ではない部分にみんな惹きつけられてる。
千浦 余談ですけど今年の夏、『おかあさんの木』っていう戦争(?)映画、反戦映画があったんですよ。子だくさんのお母さんの話なんだけど、息子が全員戦争にとられて死んでいくんですね。それを観て『プライベート・ライアン』(98年)を思い出したんです。『プライベート・ライアン』は徴兵するにあたって事務係の女の人が「大変です、この家は3人も戦争で亡くしています!」って言ってそれを何とかしようとするという設定ですけど、ああ、現実にも映画のネタの立て方にしても、あらゆる意味で、日本は負けた!と思って。『おかあさんの木』は「裏・プライベート・ライアン」として、忘れられない作品になりました。
内藤 戦争映画が難しいなと思うのは、例えば『プラトーン』(86年)はある種、青春映画じゃないですか。非日常な空間で主人公が成長を遂げて戻ってくるという話。でも戦争でそれをやっちゃうと、「あ、戦争で成長できちゃうんだ」っていう違和感があって。戦争が、この世界にあってもおかしくないものに見えちゃって――いや実際そうなんですけど――、戦争を肯定してしまっていいの?って…そういうことを考えて、踏みとどまっちゃう感じがあります。で、僕は10代の時に『フルメタル・ジャケット』(87年)を観て納得したんですね。このくらい突き放しちゃえばいいんだ、と。
千浦 『野火』から強く伝わってくることのひとつに、「国家が殺人を奨励している状況こそが戦争なのだから、それに加担してしまった人間は変質するのだ」ということがあると思うんです。そこが、「人間が変質する」っていう塚本監督の過去作のテーマと通じているし、「今こそ映画にしなきゃいけない」という監督の強い思いと、それを支持する人がたくさんいるという事実には、「人間が変質する」ということへの危機感が大きく表れている。ざっくりした話で恐縮ですけど、アメリカが銃社会であることや犯罪の気配がはるかに日本より強いということは、あの国が常に戦争し続けている国だからという言い方もできるわけです。じゃあ今、日本はどうするんだ。というこのタイミングで、塚本監督はこの映画を作りたかったんだろうと思うんですね。
松井 僕はこの映画を、どちらかというとカニバリズムの物語として観ていて。人間が、人肉を喰うという行為を「ありえるもの」とする生き物へと変質する経過の物語。
市沢 それって、例えば「無人島に置き去りにされたら」っていう映画でも表現できることじゃないですか。でも塚本監督は是が非でも、大岡昇平自身の実感に基づいた『野火』でそれをやろうとしている。そこが、映画がここまで広まった理由のひとつかもしれないなと。
千浦 大岡昇平には、映画化された作品がたくさんあるんです。溝口健二「武蔵野夫人」、川島雄三「花影」、野村芳太郎「事件」など、日本映画における大岡昇平の貢献度たるや、凄いものがあるんですね。塚本晋也もその日本映画の伝統に加わった、という意味合いも、この映画は孕んでいるように思いますね。(続く)
<その3>
『野火』座談会も3回めを迎えました。ここでひとつ、質問を差し挟んでみたいと思います。皆さんは、この映画を、自分のこととして観ましたか、それとも他人事として観ましたか?
千浦 ああ……それは、男と女でだいぶ違うでしょうね。
内藤 主観の映像が多かったから、僕はやっぱり「自分だったら」って思いました。
市沢 でも僕は主観の映像がずっと続くと、”たくさんの主観映像“という客観に立っちゃうんですよね。「わー、主観の映像ばっかりだなー」っていう冷め方をしちゃう。自分でもちょっと嫌なんですけど。
松井 僕もちょっと観察しちゃうんですよね。タバコと手榴弾と「猿の肉」の駆け引きのくだりとか。えっ、そんな簡単に手榴弾取られちゃうんだ?とか(笑)。でも「自分がこうなったら」という考えはずっとありました。彼らと同様に自分もだんだん動物に近づいていく感覚があって、それをちょっと客観的に観てる自分もいる、という感じ。こういう感覚で映画を観ることってあまりない気がします。
内藤 主観の映像っていうことで言うと、距離感があまりわからない映画ではありましたよね。病院とかパロンポンとか、たえずどこかに行こうとしているんだけれど、ずっと同じところをぐるぐる回っている感じがあって。登場人物も多くはないから、景色が変わらないし。その圧迫感はありましたね。
松井 そう、全然前に進めない。どこへ進んでいるのかよくわからない。
千浦 ロングショットがあんまりなかったからね。
内藤 風景ショットがポンと置かれるんだけど、それが実際の風景なのか、彼の内面なのか判然としない。たくさん歩きまわってはいるけど、実はごく狭い場所にいるのかなっていう気がしましたね。
市沢 冒頭の、分隊と病院の間を往復させられている場面で、移動してる最中のショットがあまり印象に残ってないんですよね。分隊長に「病院へ戻れ!」って言われた次の瞬間、もう病院の中にいて、軍医に「分隊に戻れ!」って言われてる感じ。
内藤 僕の記憶の中でもそうです。予算規模的に、広い画は撮れないっていうのがあったのかもしれないけど。
市沢 でもそのことが決してデメリットになってはいなかった。夜、一斉に機銃掃射を受けるところとか、どこか抽象的な空間のように思わせて、まったくチャチくない。
星野 僕にはあそこが、何か、アトラクションみたいに見えました。
内藤 全体的に、抽象的な感じが強かったですよね。ほぼ緑色の空間に、たまに血の赤が浮かぶ。そして人物が皆、黒く汚れているじゃないですか。色を失った人間が、血を浴びた時だけ、色を得るという。
市沢 そもそもこの作品自体が、ダイナミックな戦場シーンがなくても、インディペンデントな規模感で撮れるぞ、という作戦と確信のもとに撮られているのであろう、という凄みを感じました。
内藤 塚本監督は名のある主演俳優を迎えたかったとおっしゃっていますが、これで良かったと思いました。改めて塚本監督は俳優としてとても優れていると感じました。言い知れない吸引力がありましたよね。また監督が自分で演じることで、キャストにもスタッフにも、現場全体に演出が行き届いているんだろうなと。「監督がここまでやってるんだから!」っていう。
松井 そう、俳優が本当に良かったですよ。リリー・フランキーさんとか、凄かった。
市沢 僕は映画が終わるまで、あれがリリーさんだとは気づきませんでした。
一同 えっ!
市沢 リリーさんが出ているということを忘れて観ていたので、「いやー、いい役者さんがいるもんだなー」って思って。エンドロールで「リリー・フランキー」って出てきて「えっ、どれが?」って思った。
松井 最初、リリーさん演じる「安田」と、若い兵士の「永松」(森優作)が、ちょっといい話というか、身の上話をして心を通わせるじゃないですか。それが最終的に対決するっていう展開が良かったですよね。
千浦 ここまで来てもなお、人と人は「関係」を求めるのだ、というのがかなり強調されてたと思います。
内藤 中村達也さんも良かったですよね。あんなにかっこよかった人が、うじまみれになって壊れていく。美化的な戦争映画とは、まるで逆を行っているなあと思いました。「ダメだった主人公がヒーローへと成長していく」とか、「擬似的な父子関係がハッピーエンドにつながっていく」って定石が全部逆に覆されるという。ちょっとぎょっとする展開を見せますよね。
千浦 そこが、文学の力なんですよ。たぶん大岡昇平は、戦争体験がなかったら文学者にはならなかった。ルポ的に書かれた『俘虜記』を読むと、『野火』の登場人物がばらばらに、実在した人物として描かれているんですけど、そこで大岡は「人間には連続性なんて無いんだ」ということを実際に遭遇して悟ったりしたみたい。人はここまで崩壊するのだ、と。その衝撃と諦観にドラマを感じますよね。
松井 そしてそのドラマは、世間一般の人が求めるドラマとは違いますよね。なのに『野火』は当たっている。そこが凄いなと。
市沢 この映画が描いているのは太平洋戦争で、しかも末期の日本ですよね。戦争の悲惨さ、人間の怖さを伝えていて、それが当たっていると。では逆に、娯楽としての「戦(いくさ)」って、今求められていないかというと、実はそうでもないのかも、と思うんです。YouTube見ると「GAME OF WAR」っていうアプリのCMがさんざん流れるんですよ。みんなけっこう国盗り合戦したいのかなあと。
千浦 僕は普通に、銃とか撃ってみたいですけどね。生きてるうちにね。人を撃ちたいわけじゃないけど。
内藤 というか、みんな本質的にそういうのが好きなんじゃないですかね。
千浦 男子は特にね。
松井 マシンガンを、どどどどど!って撃つ感じとか、身体的なマッチョ感っていうのは、たぶん僕も憧れがあるなと思います。戦争映画を観る時も、「どんなガジェットを使いこなすんだろう?」「どれくらい凄い爆発が観られるんだろう?」みたいなことへの高揚感がやっぱりありますね。
星野 僕もあります。というか、撮影部として現場に出る時に、カメラに対して似たものを感じます。
一同 あーー。
千浦 機器を使いこなす喜びね。入念に手入れしたりとかね。
内藤 確かに、武器をしっかり準備して使う場面って、燃えますね。
星野 メカに対する愛着ですよね(笑)。
内藤 それを戦争映画で実感するのは気が引けるから、みんなSFとかスパイ映画に移し替えて楽しんでいるのかも。残虐な殺戮シーンがあっても、敵が宇宙人やモンスターならいいだろう、みたいな。(続く)
<その4>
ここからは当連載恒例、「取れ高は十分だけどレコーダーを止めないでみる」コーナーへ突入。話がはみ出してこその「あれ観た」なのです。
千浦 僕には、大岡昇平と同世代ぐらいの祖父がいたんですよ。戦後、南方から復員してきて、その後生まれたのが僕の母親。だからこの映画を観ても、自分とはまったく関係のない世界だとは思わなかったですね。中学生の時、祖父と一緒にモルディブへ旅行したんですけど、話しながらどんどん記憶や実感が甦っていくのが目に見えてわかって。20代になってからは、娯楽戦争映画が成立していた頃の日本のプログラム・ピクチャーをさんざん観たので、「当時の記憶と体験がある人たちが、戦争をこういうふうに描いている」ということの確かさみたいなものが感覚として焼き付いている。でもこれって、僕と同世代の人がみんな持っている感覚ではないと思うんです。
市沢 思い出したのは、内藤くんが在籍中に『牛乳王子』(09年)という映画を撮った時のこと。実際の学校を使って撮影したんだけど、学校側の管理者として、撮影に立ち会っていたおじいさんがいたんですよ。ただこの作品、スプラッターな表現がわりと多かったので、心臓に悪いだろうな、と思って、スタッフが帰り際に「あんなことしてごめんなさい、大丈夫でしたか?」って声をかけたら「いやいや、戦時中を思い出しました」と。
内藤 ああ。それ、覚えてます。
市沢 そうか、おじいさんにとっては既視感なんだ!と。
千浦 「あれに比べたら大したことないよ!」と。
市沢 その人の中では「戦争」と「スプラッター」がつながるんですよね。人間はいつどのように変容するかわからないし、継続的に信用することなどできないものなんだ、という概念において。逆に言うと、そういう過激な表現も、「戦争」という歴史の中に組み込んでしまえば、自分達より上の世代の人たちも「文学」として観ることができるのだということ。
千浦 「戦争スプラッター」をやってない内藤くんとしては、そのへんどうですか(笑)。
内藤 『野火』が当たったのはやっぱり、今の政治状況がかなり大きいと思うんですね。今この国は戦争に近づきつつあるのではないか、という不安。僕は映画美学校の同期とよく飲むんですが、これまで映画と下ネタしか話さなかったのに、最近ちょっとずつ、政治の話をするようになってきていて。誰もそんなキャラじゃないし、関心も低い方だったけど「このままで大丈夫なのかな」っていう話をするようになったんです。同期と共通してあった体験は、地元に帰ったら、周りは普通に安倍政権を支持していて、「えっ、みんなそっち側??」って驚いたってこと。僕がお盆に帰省したとき、敗戦日の地元新聞に戦争経験者のインタビューが載っていたんです。上官に命じられて、中国人の捕虜を度胸試しで殺したことを話していました。それを親がとても嫌がっていたんです。「日本人が悪いことをしたのを、わざわざ広めなくてもいいのに」って。僕は反対で、「苦い事実も伝え続けるべきじゃん」って話したら、「瑛亮はちょっとアカ入っとるなぁー」って冗談っぽく言われて。別に、仲は悪くないんですよ。今も一緒にTVや映画を見ますし。でも親は欧米人が日本を褒めるTV番組が好きで、『永遠の0』も面白かったそうですが、隣で見ている僕は「愛国ポルノみたいで嫌いだなー」って言うんで、軽くピリピリしたり(笑)
市沢 その話は凄いなあ。親とその話、できないなあ。
千浦 ニュースではたくさん採り上げられているし、ネットではいろんな発言が見られるけど、でもほとんどの一般市民はデモには行かないでしょう。だから大局としてみれば、今はちょうど、流されているところなんじゃないかと思うんですよね。
内藤 『サウダーヂ』(11年)で主人公が社会的な立場が追い込まれていくに従って、どんどん排外主義的になっていくじゃないですか。僕は「あれ、わかるなぁ」と思っていて。経済的に逼迫してくると、どうしてもハケ口が欲しくなるから、仮想敵を見つけて吐き出してしまえば、精神衛生上、楽になるだろうなあと。ネット右翼と呼ばれる人たちも、それに近いものがあるんじゃないかと思うんですよ。外国人労働者は、社会全体にとっては経済的に必要な存在なんだけど、経済的に余裕のない個人は「なんかムカつく」って思ってしまう。鬱憤を晴らす大義名分として、政治が利用されるっていうか。
千浦 全然関係ないけど、グラドルって、よくフィリピンのセブ島で撮影するじゃないですか。あと、フィリピン人の花嫁が、農村にやってきたりとかするでしょ。そのことと、かつて日本人がそこを戦地にしていたことは、全く無関係ではないと思うんですよ。歴史的無意識の反映というか。そのあたりを、もうちょっと考えてみてもいいと思う。なぜそこをイメージ上の「楽園」に仕立てたのか。そしてそれが今なお継承されているのはなぜなのか。
松井 右翼意識にしても排外主義にしても、ある種の「熱狂」的な空気がありますよね。それが描かれていないのが『野火』だなと思うんですよ。例えば「靖国へ帰るぞ!」っていうふうに、アドレナリンを出して突撃するというような描写が一切見られない。それすらもすべて過ぎ去った後の時間が、この映画には描かれていて。僕は右翼的な熱狂からも、反戦運動の熱狂からも距離をおいてしまうところがあるんですが、そういう二者択一の構図からはまったくはずれたところにあるのが、この映画だと思うんですね。それよりは「人間が人間をやめる瞬間が誰の身にも訪れるかもしれない」という自問こそが有効なのだという感じがしました。
市沢 「生きるぞ!」とか「帰るぞ!」的なアドレナリンがすべて出切った後に、「歩く」とか「芋を掘る」とかの作業だけが残されている感じですよね。この無為な感じは、物語展開を重んじる手法では出せないと思うんですよ。まさにそれこそが「文学」なのかも。
千浦 この主人公は、むしろちょっと死ぬつもりですもんね。だけど、現状をずるずると先延ばしにして流されている。ひょっとしたら、兵士になったことも、その延長だったのかもしれない。
松井 何か能動的な意志ではなくて、生物にプログラミングされた何らかのシステムによって動かされている感じがありますよね。心臓が鳴っているのと同じように、意識とは関わりなくどうしても動いちゃう感じ。
千浦 あの主人公はとにかく飢餓感だけが強いから、途中で奥さんとの性欲を思わせるくだりが出てきた時、ちょっと浮いて見えなかったですか。そこへ来て『シン・レッド・ライン』(98年)とかを観るとね、アメリカ人は余裕があるんだなあ!と思いますよね。
星野 なるほどなあ。なぜこの主人公は生きようとしているのかということが、確かにそんなに明確には描かれていなかったですよね。でも、そうか、流されてきたんだなあと思えばわかる気がする。
市沢 もの凄く劣悪なブラック企業にいる人みたいな感じですよね。あっちへ回され、こっちへ回され、まるで思考停止になってる。
星野 そう、いろんな状況下に置き換えられる話だなあと思いました。誰にでもありうるというか。
松井 僕は自分で作品を作る時に、人間が今までの価値観に縛られずに生きていける自由、というものを意識するんですね。男とか女とか、親とか子とかの役割も、もっと解けちゃえばいいって思ってるんです。だから「人間が動物化する」ということにも、何かポジティブな側面を模索したかったんですけど、でも今回『野火』を観て、こっちの方が起こりうる可能性が高いかもしれないと思いました。となれば、例えば僕があの状況で人を殺したり、人肉を食ったりした場合、それをどうやってポジティブに転じていけるかを考え続けていくしかないのかなと。「その肉は自分の肉となってこれからも生き続けるのだ」とか、なんとか正当化しなくては「人間」をやっていけない。多少ありふれていても。
内藤 あと、この映画をきっかけに、これからも考えていくことになるだろうと思うのは、塚本監督が自主制作体勢でこの映画を作ったということについてです。僕も監督としていろんな企画を進めているけど、やりたい企画がなかなか実現できなかったり、面倒な制約があったり、「これでいいのかな」という自問が常にあるんですね。塚本さんも大林宣彦監督も、自主映画からスタートして、商業映画を撮り、「あれ、思うように作れないなあ」となって改めて自主制作をされたわけですよね。容易に真似できることじゃないですが。自分の人生にとって、映画をつくっていくってどういうことなのか、考えさせられました。
市沢 僕は今回、「表現したいという強い欲望があって、それをがっつり実現した作品」をまざまざと観たわけですけど、そこに、照れを感じちゃう自分もいるんですよ。「表現者、ここにあり!」っていうのじゃない感じの映画が観たいなあ……と思いながらここまで生きてきた人間なので。
一同 (笑)
内藤 表現者を育てる学校の人なのに(笑)。
千浦 照れがあるんだ。
松井 面白いなあ。
市沢 だから『野火』もこの座談会がなかったらたぶん観なかっただろうし、観なかったら考えてもいなかっただろうなと思うことが今回たくさんありました。「この作品は表現としてどうだったのか」よりも「なぜどんなふうにこの作品が波及していったのか」をより深く考えさせられましたね。
星野 今回、『野火』の試写会は映画美学校の試写室で行われたんですよね。もちろん塚本監督もいらしていて、たくさんの人に丁寧に挨拶して回ったり、とても精力的だったんですよ。僕はそこに、映画を作って公開するまでを一貫して自分でやるのだ、という信念を見た気がして。ぎらぎらすることって、なかなか持続しないけど、大切なことなんだなあと思いました。(2015/09/10)
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