今回の「あれ観た」作品は、黒沢清監督の最新作『岸辺の旅』。映画美学校のキーパーソンの一人である黒沢監督とその作品について、3人の男たちが大いに語る。このコーナーではもはや説明いらずの最多登場・高橋洋。映画美学校OBにして映画批評誌「シネ砦」の団員でもある小出豊。そして黒沢監督の助監督として、この映画の誕生と成長を見届けた男・菊地健雄。長年の黒沢清ウォッチャーによる座談会、スタートです。
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高橋 前半、面白く観ました。『恐怖の足跡』とかシャマランの『シックス・センス』とかの「実は自分が幽霊」とは逆だよね。自分は生きているんだけど、死んだ夫が帰ってきて、以来、死者と生者が共存してる世界が見えるようになる。今までの映画が描いてきたことの単純な逆転なんだけど、面白いことを見つけてくるなあ黒沢さんは!と思って。ただ、中盤の、中華屋のピアノのエピソードあたりから、映画の持続がキツくなってきたような気がしたんです。
小出 こちらとあちらというのが、前半はある程度明確に分かれていた印象があったんですけど、中盤からはかなり混濁して、今この場所は一体どこなのか、時代すらもわからなくなってくるという感じがしました。農作業しながら、もんぺを穿いていたりして、同時代感が希薄に思えた。高橋さんがおっしゃっているのは、そういうあたりではないですか?
高橋 基本的な世界観として、生死や時代の境界線が定かじゃないという感じはわかるんですよ。あの新聞屋さん(小松政夫)は、現実世界で平然と新聞配達をやっているわけでしょう。あれって、中国の幽霊譚によくあるパターンなんです。死者はそのへんに当たり前にいて、生者と交わっているという。これが、この映画が前半で掴んだセントラル・アイデアだよね。これを後半でどう伸ばすのかという壁が、もちろんどんな映画にも立ちはだかるんだけど、今回も何かもうひとつ、策が必要だったんじゃないかと思ったんです。
菊地 僕の立場から感想を言うのは難しいんですけど(笑)、今まで観てきた黒沢作品のイメージから、何かひとつ、新しいことをしようとしているという印象が、撮影初日からありました。まず、プロデューサーの松田広子さんから「今回はメロドラマを作ってくれ」というオーダーがあったんです。だから予想以上に、夫婦の顔をしっかり撮っているなと感じましたね。
小出 夫婦の住んでいた部屋の柱が印象的だったよね。両者の隔たりを表しているような仕掛けに見えるので、それをどう超えていくのかなと期待がふくらんだんですが、意外とスルッと超えるんですよね。考えてみれば、2Dで見た場合にそれはある境界線のように見えるが、当然3Dの世界ではその空間を支える建材でしかなく、画面手前のこちらからでも柱の奥のあちらからでも抜けていける。そこにある種の爽快感があった。
菊地 柱に関しては、かなり意識的でしたね。その夫婦の住んでいた部屋は美術部に発注してましたし、少女が出てくる中華屋の別館は制作部に柱があるところを探して欲しいといった具合に。また、シネスコで撮ったということについても、すごく意識的だったと思います。カメラテストの時は、いろんなフレーミングを試しておられましたね。後で「やっぱりわからないな」っておっしゃっていたけど(笑)。あと、とにかくロケハンが勝負だとおっしゃってました。ロケハンでいかに思いつけるか、っていうところに賭けているのだと。
高橋 つまりロケハンで、物件を見て、「ここ、イケる」と思ったら、ホンに書いてある芝居がどう成立するかを、頭の中でシミュレーションしてるっていうことだよね。そういう時って、演出部の人たちをスタンドインで立たせて動かしたりするの?
菊地 場合によってはあるけど、ほとんどないですね。周りのスタッフが準備してる中で、黒沢さんはいろんな角度からじっと空間を見つめて、何かを考えていて、それをノートに書いて。
高橋 音楽の使い方も、珍しくエモーショナルだったね。
菊地 あれはびっくりしました。現場レベルでは「フルオーケストラでやる」っていうことくらいしか聞かされていなかったから、「ここまで壮大になっちゃうのか……」という戸惑いが否めなかったんです。でもスクリーンで何度か観るうちに、夫婦の置かれている状況や情感を際立たせることがやりたかったんだ、というのが腑に落ちたんですけど。
高橋 黒沢さん、こっちに振るんだ……っていうね。だったらもうちょっと、芝居全体に対する考え方も大きく変化していいんじゃないかという思いがどうしてもつきまとう。確かに黒沢さんは、変わりつつあるんですよ。でも、もっとドラスティックに変わっていいんじゃないですかね?っていうようなことを、最近とみに思うんです。ちなみに、小松政夫さんの起用はどういう経緯?
菊地 松田プロデューサーの発案だと思います。
高橋 昔、黒沢さんが、川崎敬三が出ている古い怪奇映画をやたら気に入っていて「川崎敬三がやたら陰惨で、いいんだよねー!」って言ってたのを、あの小松政夫を観て思い出しました。ちょっとにやけてるんだけど、顔が死体みたいに見える人。顔が、生きながら死んでいる人。そこがすごくよかったなあ。
小出 よかったですよね。声のトーンの幅も広くて。
高橋 あと、「高橋洋」さんはどこに出てたの?(※高橋さんと同姓同名の俳優。72年大阪府出身、オフィス北野所属)
菊地 冒頭付近の駅のシーンで目的地までの行き方を教えてくれる駅員さんですね。ここにおられる高橋さんとは別人です(笑)。周囲からは「どこに出てたの、高橋さん?」ってよく聞かれるんですけど。
高橋 僕もめちゃくちゃいろんな人から聞かれた。
小出 僕もさっき、ご本人に聞いちゃいました(笑)。
高橋 黒沢さんの芝居観について話を戻すと、黒沢さんってだんだん「芝居でコトを起こす」っていうことをしなくなってきている気がするんですよ。黒沢さんは昔から「アメリカ映画はワンカットでコトが起きるからすごいのだ」っていう話をよくするじゃない。そこに黒沢さんのこだわりがあって、典型的なのは『回路』だよね。ワンカットで、人が落ちていく。ただ、この「コトを起こす」っていうのは、そういうアクションの仕掛けとか、ワンカットかどうか以前に、まず芝居としてコトが起こってるかどうかなんです。でも黒沢さんはどこかのタイミングで「日本でそれをやろうとしてもダメなのだ」と、極めてクレバーに、慎重にあきらめていったんじゃないかと思うんです。……っていう仮説を、菊地くんはどう思う(笑)?
菊地 今回に関して言えば、「ワンカットでコトを起こす」ということには拘っていなかったように見えました。それは「メロドラマ」ということを意識されていたからのような気もしますがどうでしょう。ただ芝居に関してのことで思ったことは、中盤で、ピアノを弾く少女が現れるじゃないですか。深津さんと村岡希美さんが掃除をしていて、ピアノが現れて、昔語りを始めて、少女が現れる。撮影時は当然、ひととおり動きをつけていくわけですよね。そういう時の黒沢さんは、「まずはここからここまで動いて、その間にこの台詞のやりとりを入れ込んでみましょうか」って、言い方は柔らかいんですけど結構厳密に指示するんです。そうやって役者さんのタスクを増やすことで、役者さんの意識は「ここからここまでの間にこれを言わなきゃいけない」っていう方に向く。余計なことをやらなくなって、芝居がフラットになるんです。
小出 それが、黒沢さんのやり方なんですよね。ずっと一貫しているようですね。
菊地 あと、これはプロデューサーの松田さんから、「夫が失踪するまでの夫婦の歴史がきっとあるわけだから、それを補強するための本読み稽古をやってほしい」というリクエストがあったんです。それに対して黒沢さんは、最後まで抵抗していましたね。本読みをすると、台詞が気になり脚本を直したくなってしまうと。だから『岸辺の旅』の本読みは、わかりにくいところを黒沢さんが逐一説明する会になりました。
高橋 僕らは自主映画時代、「リハーサル」っていう概念も、「芝居」っていう概念もないまま映画を作っていたけど、やはり途中から意識し始めたわけです。特に西山(洋市)さんは「演出」っていうことを言い出して、僕も万田(邦敏)さんもそれに感化されていったんだけど、黒沢さんはそこで絶対変化しない人だったのね。「黒沢さんってリハーサルやらないんですか?」って聞いたら「え、リハーサルって何やるの?」って言われた(笑)。あと、何かの時に「僕らは最近『演出』についてよく話すんですよ」って言ったら「ああ、みんな『シバイ』とか言ってんでしょ?」って(笑)。
菊地 もっと言うと「段取り」っていう概念もあんまりない気がしますね。決してやらないわけではないんだけど、基本的に、セッティングが全部済んだ後なんですよ。ほとんどの場合、最初のショットが撮れる状況下で芝居が始まっていく。
高橋 普通はまず、役者さんにそのシーンの芝居を一通りやってもらうよね。スタッフ全員でそれを観る。それで芝居が固まったら「割り行きまーす」って言って、監督とカメラマンがカット割りを決めていく。そこから撮照のセッティングをして、カット毎にテストをしてお芝居を確認して、問題がなかったら本番。
菊地 その、「段取りやりまーす」「カット割り行きまーす」があまり行われないんですよ。みんなが言う「段取り」と、黒沢さんが言う「段取り」は違うのだ、という認識が、きっと黒沢さんの中にもあるんだと思います。それでありながら、自分の想定を決してストレートには伝えないんですね。「例えばこんなふうに動いてもらうこともできると思うんですが……まあ、その通りにはやらなくてもいいです」っていう言い方をする。そうすると役者は「いや、やりますよ!」っていう気持ちになるって浅野(忠信)さんがおっしゃってましたね。
高橋 へえー。
菊地 浅野さんは、説明的なお芝居は絶対にしない方なんです。何もない、空っぽ、みたいな芝居をする。今、黒沢さんがやりたい芝居っていうのは、そこに近いんじゃないかと思います。だから高橋さんが先ほど言われた「コトを起こす芝居」とは、ちょっと違うのかもしれないなと思うんですよね。(続く)
<その2>
「コトを起こす芝居」について。黒沢清と「あきらめ」について。そしてヒロインの「ブラトップ」問題。映画人たちの率直な考察は、まだ中盤戦なのである。
高橋 この間、映画美学校で「演出を学ぶ」っていう授業をやったんです。アクターズ・コースの人たちに来てもらって、マキノ雅弘(当時・正博)の『殺陣師段平』のある場面(段平と妻の別れのシーン)を、ホンは黒澤明の脚色でそれに基づいてやってもらった。10分ぐらいのシーンだったんだけど、それをとりあえずの形に持っていくだけで、2時間半かかったんですね。あれだけの濃い芝居を作ろうとすると、やっぱりそれだけの時間がかかる。黒沢さんは、場数をたくさん踏む中で、そういう手数のかかる「芝居場」的なものにウエイトを置かなくなってきてるんじゃないかという印象を受けるんですよ。
小出 それをやっていると時間がかかる、という経験則があるから、エモーショナルな芝居はホンの段階からカットしておられるんですかね。そういう大きなあきらめが、黒沢さんにはあるということ?
高橋 そういうふうに、見えるっちゃ見えるね。
小出 この読み方は間違っているかもしれないけど、ヒロインがたえず抱いていたのは、うかつに自分の強い感情を相手にぶつけると、相手がいなくなってしまうという怖れでしたよね。最初、少し背中に触れただけで、セックスも拒まれるじゃないですか。だから何も言い出せなくなる。
菊地 この物語の肝は「いつ消えるかわからない」ということだと黒沢さんもおっしゃっていましたね。
小出 そのトリガーが、「自分の強い感情をストレートに伝えようとする」ことだったり「相手に触ろうとする」ことかもしれないと思うと怖いですね。そう考えると、ラストの岸辺では、夫がずっと謝ろうと思ったんだが、どういっていいかわからなかった、というようなことを打ち明けると、妻は、あなたの願いは叶えられたというような言葉を投げ返し、3年かけて歩いてやってきた幽霊がいよいよ伝えようとした「ごめん」という言葉をみなまでいわせずに引き受けてしまう振る舞いも恐ろしいと思えてきます。
強い感情を伝えることは、人間関係を壊し、相手が消える可能性だってあると、この映画や、この映画を作った黒沢さんが言っているように思った。黒沢さんは、わかりやすいエモーショナルなもののすべてを、避けますよね。
高橋 例えば『CURE』の役所広司でいうと、心を病んだ奥さんに対して、声を荒らげることなど一度もないんだけれども、内心ではめっちゃ殺意を持っているという人物像だったじゃない。ふいに予感が走って、自宅へ帰ると、妻が首を吊っている幻影を見るまでの一連、あれは今観てもすごいと思うんですよ。あれが「芝居でコトを起こす」なんだよね。次の領域に踏み込む、距離を詰める、そういう芝居。誰もが正気と狂気のボーダーラインを生きているのだという、90年代後半のリアリティを本当に形にした瞬間だったと思う。ああいうドライブ感が、『岸辺の旅』ではなかなか起こらないなと。
菊地 それって、果たして芝居の問題なんですかね。「90年代後半のリアリティ」がそれなのだとしたら、今の時代はどうなんだろう……
高橋 『CURE』つながりでもうひとつ言うと、あの映画をめぐっては準備段階から黒沢さんとあれこれやり取りしてたんです。黒沢さんの構想は「アメリカンな娯楽映画を作る」だと僕はずっと思っていた。で、黒沢さんから準備稿が送られてきて、意見を求められたんですね。確かに前半は、実に面白い犯罪推理モノなわけです。それが中盤、萩原聖人の背中の丸いやけどの傷と、焼却炉の円形のハッチがいきなり結びついて、彼の正体が知れるシーンがある。そのジャンプを読んで僕は、ああアメリカ映画ではなくなってしまった、と思ったんです。アメリカ映画なら、やけどからいきなり焼却炉には行かないじゃないですか。何らかの手がかりを追っていたらたまたま焼却炉が目に入って、見たら萩原の住居の近くだった、みたいな流れが常道でしょう。「それを飛ばしたらアメリカンにならないですよ」って黒沢さんに言ったら「いや、後半はヨーロピアンで行きたいんだ」って(笑)。そこから物語は溶解していくんだよね。そもそも容疑者を取り調べるのが危険!調べようがないというのがこの映画のセントラル・アイデアだから、後半は役所広司の心の中を描くことにシフトしていかざるを得ない。『CURE』は確かにヨーロッパで高い評価を得たから、黒沢さんの作戦は当たったんだけど、でもアメリカンな映画の需要ではなくて「作家の映画」になっちゃったなという印象があったんですよ。あれが、黒沢さんが大きく舵を切った瞬間だったんだなと今も思うんだよね。アメリカンな方法論でディテクティブ・ストーリーをやるのは相当大変なことだから、それはやらないのだというクレバーな割り切り。それが黒沢さんなんだよね……ってつい寂しげに言ってしまうのは、僕が今なおここで「何か別の手はないのかな」と思ってジタバタしてるからなんだけど。
菊地 さっきの話でひっかかっているのは、触れることも怖れていた二人が、消える直前にセックスをしますよね。
小出 そうそう、あのシーンも、細かいことなんだけどさ、……
高橋 深津さんがノーブラだったってことですか?
一同 (笑)
小出 あれはたぶんユニクロの「ブラトップ」です。吹石一恵がCMをやっている。
高橋 知らない。何それ。
——キャミソールとブラジャーが一体になった「ブラトップ」というインナーがユニクロにあるんです。
菊地 あそこは確かに、大きな問題になったんですよ。脱がせ方について。
小出 そこなんです。幽霊が弱ってくると、四肢末端不全が起きてくるっていう設定じゃない。でも浅野忠信は、深津絵里の服のボタンを普通にはずすんだよね。浅野がはずせなくて深津が自分ではずしてやる、みたいなことではなく。
高橋 メロドラマっていうことで言うと、その方が効果的ではあるよね。エモーショナルな、おいしい瞬間。さっき言った「濃い」方へ持っていく芝居の作り方。
菊地 不遜な言い方ですけど、ああいうシーンって、黒沢さんの得意とするところではないと思うんですね。珍しく緊張されていたし、珍しく「『それでも恋するバルセロナ』みたいに撮りますから」って明言されていたし、実際にその箇所をみんなで見たりもした(笑)。他のシーンでは、そういうことは一切ないんですけど。リハーサルを重ねなかったり、役者に歩み寄って仲良くなるみたいなことをしない黒沢さんのやり方って、役者によっては多少の反発を抱きかねないところがあると思うんですけど、でもどの役者さんもすごく信頼を持って現場に臨まれるんですよね。
小出 それは、黒沢さんのカリスマ性?
菊地 というのとも少し違う気がするんですけど……単に「このお芝居をどうするか」ではなく、目的や結果を明確に示すことで培う信頼関係作り、そのすべてを含めての演出。それをひとりひとりの役者さんに対して明確に示しておられるから、役者さんから信頼を置かれているのだろうなと思いましたね。(続く)
<その3>
こちらはただ耳を傾けるしかない。黒沢清と「時代」、黒沢清の「軸足」、黒沢清と「メロドラマ」。黒沢清を深く知る人ゆえの話題と見解が、ここでもあふれかえるのだ。
高橋 黒沢さんは、ヨーロッパで評価が確立して、独自の世界に突入していきましたよね。ただ、ちょっと意外だったのは、『アカルイミライ』あたりから……もっと言えば『大いなる幻影』ぐらいからかな、「時代を語る」というモチベーションが、黒沢さんの中に生まれたような気がするんですよ。特に小説家とか文学者とか、新聞の夕刊の文化欄とかで何か言わなきゃいけない人たちが考えてるようなことを、黒沢さんも言わなきゃいけないというような状況に立たされていて、本人もその役割をある程度自覚して映画を作り始めたような印象を受けるんです。とにかくエンターテインメントをやる!という、Vシネマの頃のようなスタンスでは、本当にいよいよいられなくなったという感じが、見ていて、しますよね。でも本当に「時代」とかについて、語らなきゃいけないの? 語らなくてもいいんじゃないの? って僕なんかは思うんだけど、『トウキョウソナタ』や『アカルイミライ』が若い客層にも当たったのは、それがあったからなんじゃないのかなあと。ほんとは、よくわからないんだけどね。若い客層の共感のしかたは。藤竜也にいきなり「許す!」って言われてもなあ、って思うし(笑)。少なくとも、僕が『CURE』を観た時に受けた「まさに今という時代がここに表現された!」という感覚とは、どうも違うように思うんですね。
菊地 僕はまだ映画美学校にいた頃に、そういう話を黒沢さんとした覚えがあって。青山真治さんとか篠崎誠さんとか、あれだけ普段、ジャンル映画について熱く語ってた方たちが、デビュー作である『Helpless』や『おかえり』ではすごく個人的な話を映画にしていて、それが衝撃だったのだと。
小出 黒沢さんが時代について語るという役割を担わされている、ということについては確かにそうかもと思うんですが、それが映画にどうフィードバックされているのかは少し疑問ですね。若い人に支持はされたけど、それをそんなに意識して作っていたのかどうか。今、藤竜也の「許す!」で思い出しましたけど、優介が農村の人たちに対して、宇宙の話とか、光の粒子の話とかをいきなりするっていうのはどうでしたか。僕は実は、グッと来たんですよ。
菊地 黒沢さんって普段、小説は一切読まないらしいんです。読むのはほとんどああいう物理学の本らしくて。理屈とか観念とかではなく、ああいったことでこそ「死」というものを語れるのではないかという思いがあったのかもしれない。だからあの場面は、「生」とか「死」とか、この映画を貫くものたちへの黒沢さんの見解なんだと思うんです。わかりやすいかわかりにくいかは別として。
高橋 生死の端境の世界を描く、ということについては、90年代にJホラーがそういうアプローチで世界を描き始めたんだよね。いや、ホラーに限らず、同時代的な想像力として、人々が物語を考える時にはいつも「生死の端境」感が最初からガチッとビルドインされているようになった、そんな印象を受けるんです。大学で教えていても、学生たちが書いてくるものはほとんど「生死の端境モノ」。これはゲームや小説、すべての創作物において起きていることですよ。どこかでひとつ「生死の端境」を噛まさないと、リアリティのあるフィクションは描けないみたいな。でも、僕らがJホラーで最初にやろうとしたことって、そういうことではないんだよなあ。例えば「こちら側」と「向こう側」があって、その間に往来があるって考えると癒やされますよねえ、みたいなことでは決してない(笑)。僕らが追っていたのは、この世界には圧倒的に「理解できない外側」があるのだという感覚なんですよ。幽霊も、それを背負った存在として描いてきた。そして黒沢さんも、きっとそこに軸足を置いてやってきたはずなんだけど、『岸辺の旅』はそうじゃないよね。もちろん、原作ありきということもあるんだろうけど。
菊地 でも黒沢さんは、今高橋さんがおっしゃったような軸足で『岸辺の旅』を作られていたという実感が僕にはあります。
高橋 もちろん、あると思うよ。でもそっちをガツンとやっちゃうと、アンチ・メロドラマになっちゃうよね。メロドラマとして用意された「あの世」と「この世」の往還の物語では、絶対になくなっていくので。
菊地 その話に絡むかどうかわからないんですけど、思い出したことがあるので言ってもいいですか(笑)。今回、「人が消える」という表現を、あっさりカットバックで表現していましたよね。僕はその理由を黒沢さんに聞けなかったんですけど、それも「メロドラマをやる」という意識によるものなんですかね。どうなんでしょう。どう見えましたか?
高橋 うん。ある種の割り切りを感じたけど……、うーん、そこはメロドラマがどうこうというより、黒沢さんならではの「外側」に触れる感覚なんじゃないかな。
小出 すごくシンプルな表現だけど、「カットを割っただけで人が消えちゃうんだ」という怖さを僕は感じました。人がひとり消えるという描写において、これまでいろんな映画がいろんな表現をしてきたわけですよね。でもこの映画では、フィルムを裁断するだけで、あっけなく人がいなくなる。生死の境ってこんなに簡単なものなんだ、という怖さがあった。これは意外と盲点だったなと思いましたね。
高橋 そういうのがある一方で、もっと激しくエモーショナルな「境界の向こう側」、つまり絶対的な外側と対峙しているという盛り上げ方だってほんとはあるはずだし、僕自身、もしメロドラマをやるとしたらそっちに持って行きたいわけです。『リアル〜完全なる首長竜の日〜』の時に黒沢さんと「映画美学校ちゃんねる」で対談したんだけど、あの映画は最後の最後で、主人公が死んじゃうんだよね。で、綾瀬はるかが「死んじゃった人の意識に入りたい」と。これ、めっちゃヤバいよね。そのヤバさに相応する「溜め」があっていいはずなんだけど、中谷美紀が「やりましょう」って言ったら他の医師たちがわりとサクッと「そうしましょう」ってなるじゃない。メロドラマとして「外側」がグワッと立ち上がり、それがエモーションとして盛り上がるためには、強硬に反対する人がいなきゃならないんですよ。……という話をしたんだけど、たぶん黒沢さんはそういうことに対してとっても淡白な人なんだなあ。(続く)
<その4>
黒沢清を考えることは、日本映画を考えることにつながっている。だから3人の話はどこまでも広がる。そしてこの長話は、終盤、ひと筋の光の予感のもとに着地するのだ。
高橋 つまり、エンターテインメントをやることの困難を身にしみて感じている人が、賢明に「作家」の道を選んだんだけど、その結果、エンターテインメントを撮れる状況がどんどんなくなっていっている、というふうに僕には見えるんですよ。そして本人にもひょっとしたら、エンターテインメントをやる気がないのかもしれないな、と。
菊地 もはや、そうなんですかね。「映画美学校ちゃんねる」は僕も拝見しましたけど。
高橋 あの後一緒に飲みに行って、「ポランスキーは偉いですよね」っていう話をすると「うん、ポランスキーはつくづく偉いと思う!」って言うんだよね。作家としての地位を保ちつつ、ハイクオリティなエンターテインメントを発表して、第一線から退く気は少しもないっていうさ。じゃあ黒沢さんもそれやってくださいよ、って僕らは思うんだけど、それがなかなか難しい。
菊地 これは僕らが映画を語る時に、どうしても置き去りにしがちなことなんですけど、こういういろんな試行錯誤が一般の観客にどこまで届いているかというのが、最近すごく気になるところなんですよ。そこを抜きに考えてしまうと、どんどんみんなが貧しい方向に行っちゃうんじゃないかという怖さを僕はすごく感じるんです。
——「作家が売れる」って何だろう、と私もよく考えます。
菊地 というか、もはや「作家」っていう言葉自体が難しいですよね。「作家」って名乗った途端に僕は、食えないことを覚悟しなきゃいけないんじゃないかとさえ思っています。『ディアーディアー』を撮って、よく「作家になるんですか職人になるんですか」って聞かれるんですけど、その質問自体がもうナンセンスというか。僕らにはそんな選択権はないんですよ。生きてくことさえ大変!っていうのが実感ですもん。
小出 そうだよね。ここでそれをボヤいてもしょうがないけどね(笑)。
高橋 もちろん観客にどう見えるかなんだよ。黒沢さんの次回作『クリーピー』(16年6月公開予定、出演:西島秀俊、竹内結子他)は、どんなふうなんだろう。予算とかは、それなりにあるのかな。
菊地 あると思います。『岸辺の旅』よりは。
高橋 それを、エンターテインメントにしてくれてるかどうか、だよね。最近の黒沢さんはどうも「エンターテインメントじゃないもの」を選びとっているような気がどうしてもするんです。『リアル〜』で言うと、さっきも言ったように、死者の意識に入っていくのをどう見せるかが、エンターテインメントの骨法で行けば勝負のしどころなんだけど、黒沢さんはそこが勝負だと思っていない感じがしたんだよね。そこが、エンタメを意識しているプロデューサーからすると心配になっちゃうだろうなと。そういうところをもっと、えげつなく行っちゃえばいいのに!っていう、これは極めてポジティブな意見なんですけど(笑)。
菊地 僕としては、黒沢さんにはもう一度高橋さんたちとガチで組んでいただきたいです。黒沢さんがどこかあきらめてしまっている部分とか、確立してしまった部分がもしあるのなら、もう一回揺り起こしてほしいというか。
高橋 注文さえあれば僕は全然やりますよ(笑)。今回で言うと宇治田さんとか、『リアル〜』で言うなら田中幸子さんとか、自分とは違った血を入れようとしているのはとてもいいことだと思うんですよ。でもこれからは、そこからさらに踏み出して、確立したものを壊していく段階に入っていいのではないか、っていうふうに僕は思うんですね。今の日本映画は原作モノが本当に多いけど、日本のエンターテインメント小説の多くは、アメリカのそれと比べたら圧倒的に弱いんです。それを根本から鍛え直す作業を、黒沢さんがしたらいいと思う。原作者とちゃんと向き合って、ケンカはしない程度に(笑)。原作の弱い部分を黒沢さんの作家性で何とかしてしまうと、本当の骨太なエンターテインメント作品にはならないですよ。もちろん、それはものすごいイバラの道です。だからこそ、そこで結果を出したらすごいことになると思う。でも、これ、以前も何かの対談で言った気がするけど、エンターテインメントと言う以上、僕らがまずそれをやってみせなきゃいけないんだよね。黒沢さんを「このままではいかん!」と嫉妬させ本気にさせることを。(2015/11/24)
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