B学校としては異例の「公開前座談会」。アクターズ・コース第一期生、5年越しで一般公開と相成った修了制作『ジョギング渡り鳥』について、キャスト勢から小田篤と中川ゆかり、そして映画美学校の主軸をなす講師陣が大いに語る。
高橋 見始めて、どの辺でつかまれたかって話から入ったらどうかと思うんだけど。まず冒頭、字幕でシチュエーションが説明されるわけだけど、あれはまったく頭に入ってこなかった。「ここで観客をつかむぞ!」という仕掛け方ではないなと思った。じゃあどこでこの映画のつかまれたのかと言うと僕の場合、山内健司さんが出てくるところです。彼はずっと、自主映画を撮っている柏原くん(隆介)に説教しているんだよね。で、山内さんは、すぐそばに円盤が落ちてきたことに、まったくリアクションしない。それがかえってリアルというか、ああ、これで世界が立ち上がったぞ、という感じがしました。あれが普通にリアクションしてたら、字幕を含めた世界設定の延長上の芝居に見えたかも知れない。そういう「意図」からはみ出したものを、僕はあそこで感じたんです。古本屋さん(小田原直也)のことが好きな女の子(古内啓子)が、河辺で告白のシミュレーションをしている、あの一連もとてもつかまれましたね。うらやましくすら思えた。
ゲルマンの『神々のたそがれ』の、撮影隊が写っちゃってるバージョン(笑)。『ジョギング〜』に音響で参加した川口陽一くんは、『神々のたそがれ』のメイキングを観ていて「まるで『ジョギング〜』の現場だ!」って思ったそうです。(鈴木)卓爾さんもみんなもまるでそんなことを考えてはいなかったと思うけど、いつの間にか伝統的なソビエト映画の作り方をやっちゃたんじゃないか。僕は常日頃、あれがやりたいと思っていながら、できないんです。シナリオから出発して芝居を撮ろうとすると、ああいうふうにはならない。でもそれが、ここでは、できちゃってる。ゲルマンの映画では登場人物がカメラを見ることがあるんだけど、この映画でも、いつ誰がカメラを見つめだしてもおかしくないという印象を受けました。
万田 その「伝統的なソビエト映画の作り方」って、どんな作り方?
高橋 たとえばソビエトでは戦争映画を作る時、それを「戦争映画」とは呼ばずに「芸術的記録映画」って言うんですよ。戦場なら戦場を史実に基づいて再現して、その状況を切り取るというか。シナリオがあって、カット割りがあって、フレーム内で効率よく物事を起こす、というアメリカや日本の映画とはまったく違う考え方なんですね。
塩田 状況を立ち上げてそれを切り取る、というのが『ジョギング〜』の大きなポイントの一つですよね。カメラをポンと置いて、そこに映るものを捉えている感じがある。僕もうらやましいなあと思ったんですよ。「自分は脇役なのだ」と思って演技しているアクターズ一期生が一人もいなかったから。自分はその役柄の人生において主役なのだ、という感覚は、シナリオから立ち上げようとすると難しいんです。全員が主役として立っている場の、たまたま一か所だけが切り取られてそこにあるという感じ。登場人物それぞれに別のストーリーが起こっていて、みんなそれを演じているんだよね。録音も、誰か特定の人だけじゃなくて全体を拾っている。僕が『ジョギング〜』に感じた嫉妬はそういうところなんです。
高橋 わかります。画面に大勢出てて、全員がアクティブっていうのは、嫉妬しますね。そしてこれも、思うだけでなかなかできないことなんだけど、前景と後景で違うことが行われる映画にも嫉妬するんです。確かアクターズの授業で、手前と奥で別々の芝居をするレッスンをやっていたよね?
小田 卓爾さんの授業で「おしゃれなエチュード」というのをやりました。ある空間の中で、時空の違う二組が同時進行で芝居をするという。
高橋 そういうシーンやシチュエーションを、シナリオから立ち上げようとすると、なかなかうまくいかないんだよね。無理して書こうとすると、たいてい失敗する。そこが今回はうらやましかった。
塩田 あの宇宙人の存在ってのがね、危ういんだけど面白い。ひとりの人間にまとわりついている宇宙人たちは、「ノイズ」以外の何なんだろうと。この宇宙人たちは本当に存在する意味があるのか。これっていわばエキストラ、ただの賑やかしじゃないのか。むしろ、宇宙人がいない方が、この映画の面白さはストレートに観客に伝わるんじゃないか。……と思ったんだけど、無くしてしまうとそれはそれで寂しいな、とも思うんですね(笑)。人間って不思議なくらい、見るものを取捨選択するんですよね。文楽を観に行くと、人形遣いの姿が見えなくなる瞬間がある。いやむしろ彼らがいるからこそ面白いのだと思えてくる。舞台上の出来事すべてが充実して見えてくる。この映画の宇宙人たちはその感じに近かった。
万田 映画を観た後に資料を読んで知ったんですけど、宇宙人側にもストーリーがあったんですね。でもこれ、観ている最中はわからなかったんです。
高橋 僕もそうです。
万田 仮にそういうストーリーをわかるように作ったとする。すると今度は宇宙人が、ノイズじゃなくなるよね。そうすると、この映画の作り方だと絶対ほころびが出てくると思うんですよ。明らかにドラマが生まれてくるので、根本的に作り方を変えていかなくちゃならなくなるだろうなという気がしますよね。
塩田 だからとても欲張りなことを言うと、『ジョギング渡り鳥第2弾』として、今度は宇宙人が前景として立っていて、人間が後景として、でも単なる風景にはならずにちゃんと立っている、という映画がもしできたら、僕はすごく観たいです。
万田 できたら、今度は1時間半でね。
高橋 宇宙人がカメラを持って、常に人間の周りを取り巻いているというのが、この映画のセントラル・アイデアですよね。この視点を導入することで、決して単体では勝負できない事柄を見せていけるという、それが構造上のメリットであり弱さでもあるんですよ。とにかく、こんなにカメラが画面の中に写り込んでいる映画は珍しいでしょう。で、その中の一台が捉えた全然画質の違った画がバン!と入る。かといって物語のメタレベルとか映画の自己言及性とか、そんなことが主題というわけではない。そこが、これまでになかった手触りを感じましたね。フィクションって、カメラの存在を消すじゃないですか。あたかもカメラなどそこにないかのように話が進んでいく。一方、ドキュメンタリーやフェイク・ドキュメンタリーは、カメラの存在を強調するんだよね。この映画では、あんなにカメラが映り込んでいながら、中瀬慧が回していたメインのカメラの存在はまるで意識されない。
塩田 単純に、画がいいからだと思うけど、どうなんだろ。宇宙人たちもカメラを回しているというのは、映画の学校の実習のあり方として、図抜けて素晴らしいコンセプトだと思うんですよ。世間に公開する映画としてどうなのかは別としてね。かつて、アクターズ・コースの最初の指針を考えた時に「君たちが映画に出たいなら、自分で作ればいい」というのが浮かんだんです。スタッフと監督と俳優の境界線をなくす。俳優として、あるいはスタッフとして、常に全員そこにいる。撮り終わった後も、仕上げや広報として深く映画に関わっていく。最初に掲げた理念の結実として完璧ですよね。
小田 卓爾さんから聞いた話によると、この作品の前から「俳優にカメラを持たせてみる」という実験をされていたそうです。そこで撮れた画がとても面白かったので、『ジョギング〜』にも持ち込んだということでした。
中川 あと、一番最初の企画会議の時に卓爾さんが、私が演じた「純子」にまつわるプロットを持っていらしたんですね。それとは別に、みんなで何がやりたいかを出しあった時、小田原くんが「映画を撮る映画を撮りたい」って言ったんです。みんなで何かを作っている様を撮りたいと。
塩田 俳優にカメラを持たせたことが、僕もあるんです。『抱きしめたい』でヒロインのリハビリ風景は、全部母親役の風吹ジュンさんに撮ってもらって。実際に撮影もしながら演技してくださいって風吹さんにカメラを渡したら、やっぱり母親というのは祈るように映像を撮るっていうか、撮るっていうことがそのまま生死を彷徨う娘への語りかけであり祈りでありっていう感じで、どんどんシナリオにない台詞が彼女からあふれ出てきた。あれはその演技も感動的だったし、その視線が捉える映像のあり方もすごくリアルだった。
小田 「モコモコ星人」としてカメラを持たされた時に言われたのは「今この瞬間、興味が向いたところにカメラを向けるように」ということでしたね。
塩田 それは、宇宙人としてなの、それとも自分自身として?
小田 そこは人それぞれですかね……。
万田 そこなんですよ。このあらすじによると宇宙人たちは「『あなた』という概念が理解できない」んだよね。でも宇宙人たちのカメラの視点はそういう視点ではなく、やっぱり現実の小田くんだったり茶円さんだったり小田原くんだったり、まあ言ってみれば人間の視点なんだよね。そこが僕は物足りなかったんです。宇宙人なら宇宙人としての役割に徹底した芝居をしてほしかったけど、僕の目には「アクターズ・コース第一期生たち」にしか見えなくて、そこからさらに別のものを見出していこうという作り方ではないような気がした。芝居って、その役についての何らかよりどころがないとできないじゃないですか。そのよりどころは現実の自分とは違うもので、役が要求しているものですよね。だからこそ芝居は日常とか現実の域を越えるものなのだと。
塩田 いわゆる「宇宙人としての自然主義は何か」問題が問われてしまうっていうことですかね。
万田 さっきの高橋くんの話で言うと、ソビエトの映画は物事を「再現」する、つまり「記録映画」と言いながら、フィクションであるという意識が強いと思うんですよ。「フィクション」を「記録」にしてしまう力業。でもそのために、背景としての現実を綿密に作り上げてる。でもこの映画はおそらく「フィクションを立ち上げるための背景を綿密に作り上げて、よし、用意ドン!」という作り方は、してないんじゃないかと思う。そこがね、僕なんかは、ゆるいなあってついつい思ってしまうんですよね。
高橋 僕はたぶんこの中で、宇宙人を描くことに一番うるさい人間だと思うんですけど(笑)、宇宙人を映画に出すなら徹頭徹尾「わけのわからないもの」として出すべきだと思うんですね。その点で言うと、モコモコ星人たちは、限りなく人間に近い連中が、同じような連中を観察しに来たんだな、というくらいの感じだった。それで『神々のたそがれ』を思い起こしたのかな? そこが構造上の「弱さ」にもつながると思うんだけど。で、メインのカメラの存在を登場人物たちも意識してないよね。だから観ている方もカメラの存在を忘れて観ている。古澤くんの演技がなんか違うなと思ったのは(笑)、突然この世界にやってきて、自分だけカメラを意識する芝居をしちゃってること。
一同 (笑)
高橋 大半のフィクションの芝居はカメラ・ポジションを意識して設計されるわけでしょう。そういう映画だったら別に違和感はないと思う。これは芝居の上手い下手とかじゃなくて、古澤くんがいることで他の人との演技の違いが判った。みんな、カメラを意識していない。そういう空気のもとに作られた映画なのだと。
万田 これはみんなに言えるんだけど、後半、物語みたいなものが見えてくると、それぞれの芝居がだんだん変わってくるんですよね。自分が何を演じるかってことを、ちょっとずつ、つかんでいったんだと思うんです。古澤は、最初から彼なりに物語とは無関係に作り込んできたキャラクターがあったわけでしょ。だから芝居が異質なんだよね。
高橋 聞いた話では、自分で芝居にストップをかけない、という約束事があったんでしょう?
中川 特別なことではなく、ごく普通のこととして、そうでしたね。でも古澤さんは自分でカットをかけていました。「今の、カット!」「もう一回やりたい!」って(笑)。
一同 (笑)
(続く)
<その2>
映画美学校首脳陣、『ジョギング渡り鳥』を考える会第2回。作り手としての視点や実感が、惜しげもなくあふれかえるのです。
塩田 中川さんも永山(由里恵)さんもすごく良かった。孤独というものが、寂寥感ではなく、ある怖さを持って背中から表れているじゃないですか。あれは素晴らしかったね。……小田くんも良かったけど。
小田 急にそんな、いいっすよ(笑)。
万田 中川さんはたぶん、普段も被写体としても「背負っている」という感じが強いのかも。だからジョギングがとても似合っていたよね。黙々とジョギングしている姿が印象深かった。
塩田 永山さんは、前半と後半ではっきりと分かれていましたね。みんなにお茶をつぐ時の永山さんと、家の2階に佇む永山さんは全然違った。
高橋 古本屋で古内さんが小田原くんを口説こうと思っているところに、永山さんが自然体で入ってきて「あ、私、おじゃま虫だった!」って後で気づくというのが、かなり本人に近いというか。最初、野蛮に入ってきて、無意識に場を壊す人、いるよねと。
塩田 そうなの(笑)?
高橋 そういう自然体の人が、2階から夫を見下ろしている。あれも、僕が嫉妬するタイプの画ですよ。なかなかできないんだよなあ、っていう。
万田 でも、それが出てくるのって終盤じゃないですか。最後の1時間ぐらい、目白押しでドラマが動くんだよね。あれってどうなんだろう。だらだらと長い前半があったからこそ後半が生きているのか。どうなんですかね、そのへん。
塩田 自分に置き換えて話すと、自分もこういう映画の撮り方がしたいなあと思うわけです。人と場所だけを決めておいて、俳優とエチュードしながら物語を探りつつ「何をやるかは当日までに考えますから!」っていう。今ここで面白いものだけを撮っていけばいい、という自由度があると思うんだけど、でも、そういうふうにして撮った映画は、僕の感覚だと、終わりが見えなくなるんです。どこで終わってもいいから、どこでも終われなくなる。その感じが、この映画にもあると思いますね。「ここで終わってもいいな」が5〜6回続いた感じがする。全員を主役として描いてきたけど、その中の誰のエピソードを残すか取捨選択するのが「編集」であるわけで。編集って、民主主義であってはいけないんです。突然強権発動が起こって、これまでの現場の優しさを裏切っていくことが観客に対する誠意さなんですよね。だから「実習」か「商業映画」かの境目は、そこに出てきちゃいます。その非情さみたいなものに、この映画はあと少しだけ直面すべきだったようにもと思います。
高橋 この映画は、単体として弱いエピソードの連なりだと思うんです。それを補強するために宇宙人たちがいて、大枠を作っているように見える。従来の物語作りとは違う方法に取り組みながら、じゃあ後半部分はどう持っていくのかなあと思っていたら、エピソードがそれぞれオーソドックスな形で収束していった。最後の1時間なんかは「決着大全集」ですよね(笑)。
塩田 正確に言うと「決着がつかないということを提示するための決着」ですね。
高橋 別のフレームを持ってくることによって物語を持たせる、という方法は、最近けっこう多いですよね。『バードマン』とかね。でもそうすることでしか、物語を生み出すことができなくなっているのかなという危惧が今あるんです。もっと強くて単独の縦軸で、面白い物語を撮ろうとすると、台本通り、かっちりと決められた芝居を撮っていくということになる。『ジョギング〜』にある開放感と、縦軸の通った物語性は果たして両立しないのか。僕としては、どっちも美味しいところ取りをしたいんですけどね。
万田 たぶん、どっちも美味しいところ取りは、できないっていうことなんだと思うんですよ。今回のような形式だと、フィクション性の強い劇というのはたぶんできない。それに今映画を観る人たちは、強いドラマを望んでいないんですよね。だから僕らは悩むんです。もちろん、やりたいことをやるしかないなとは思っているんだけれど。物語もそうだし、芝居の質もね。今は劇やフィクションより、日常とかリアルが求められているんだと思う。
高橋 うーーん……。(補註:これは話を広げると、サイレント的な画面と同録的な画面の共存ということにまで及ぶテーマかも知れない)
万田 例えば、脚本に「はぁ?」とか「えっとぉ……」とかを、僕は書きたくないわけです。そういう芝居も困る。「はぁ?」とか「えっとぉ……」とかを書き入れた途端に、芝居も物語も日常に転がっていっちゃうんですよ。だから、「はぁ?」っていう日常性を選択せずに映画を作ると、その時点で僕は、お客さんの半分以上を切り捨ててることになるんだと思ってます。「はぁ?」のない映画。日常的な時間の流れない映画は、今のお客さんからすれば「古いよね」「わざとらしいよね」っていうふうになっていってるんじゃないかなと思う。ぼくとしては「はぁ?」で表現しようとしている日常性こそわざとらしい、面白くもなんともない日常性だと思ってますけど。
高橋 テレビのエンターテイメントでいうと、西島秀俊が主演していた『MOZU』を思い出します。日本を舞台にしながら、頑張ってアメリカンなことをやるっていう。これが結構、当たったんですよね。ただ、僕らが観て育ってきた、昔の日本のフィクション性の高いドラマと比べると、せりふの技術は明らかに落ちているんです。上司と部下が屋上で、急に説明し始めるんですよ。「日本の行方不明者は年間8万人いて、そのうち半分は何らかの事件に巻き込まれたという……」なんてことをわざわざ公安職員同士で言うはずがない(笑)。作者が言いたいことを言わせてるだけなんだよね。人物にそれを言う必然はない。でも俳優にはそれを言いこなす技術があって、視聴者はごく当たり前にそれを消費しているわけです。僕も「はぁ?」とか大嫌いだったんだけど、僕らが戦っていかなければいけないのは、技術の低下を食い止めること。「はぁ?」を必然的に言わせるということ(笑)。これはどうにかすれば芝居になりうるし、日常の中に埋没しがちだけど、面白い聞かせ方があるかもしれないぞと最近は思うんです。その点では『ジョギング〜』も、基本的に必然のあることしか言っていないんですよ。時々ちょっと、「今どうしたらいいか迷ってるよね?」っていう空気感は訪れていたけど。
万田 『ジョギング〜』の台詞は、どの程度決められたものだったんですか。
中川 いくつかの「これは入れる」というポイントは決まっていました。でも基本的には、何を言ってもいいと委ねられていましたね。
万田 そうやって芝居を作ると、まず、沈黙できないんですよ。「なんか言わなきゃ!」ってみんなが思う。で、何か言うでしょ。そしたら別の誰かが「リアクションしなきゃ!」って思う。そういう状況下で突然ドラマ性の高いせりふを言えるわけがないので、それこそ「はぁ?」「えっとぉ……」が入ってしまうんだよね。
塩田 役者を集めて即興的なことを撮ろうとすると、万田さんが今おっしゃったとおり、無言のシーンが減ってしまうと思うんですね。「何かを言おうとしている人たち」を撮る映画になってしまう。「誰もしゃべっていないシーン」と「しゃべっていないことによって何かが立ち上がってくるシーン」は、意図しないと撮れないんじゃないかと思ってしまう。だから、物語の軸である中川さんがあまりしゃべらない、ということにとても好感を持ったんですよ。
(続く)
<その3>
そしてもちろん、講師陣も「映画を作る」ことにおいては当事者である。映画美学校のカリキュラムで撮った映画の「あり方」「届け方」について考えるのだ。
塩田 僕の感想には、多少の私情も入っていますけどね。当初は、アクターズの講師だったので。
高橋 それを言ったら、映画美学校の講師みんなが、この映画を観たら「うるわしい世界だなあ……」と思いますよ。あの、ラスト近くのカチンコを打つシーンとかね。何で打ってるのかよくわからないんだけど(笑)、でもあそこでじーんと来たっていう人が試写を見た人の中にもいたので、あ、伝わるんだなあと思いましたよ。
塩田 僕は、全員が並んで走ったところで終わりだと思いました。走る映画なんだから、見事なオチをつけたなあと。
万田 あれは映画を見る前にスチル写真で見てね、すごくいい画だなと思って、どこに出てくるんだろうとずっと思っていたら、終盤に出てきて。ああ、ラストシーンだったのかあ、これはいいなあ、と僕も思ってしまった。
塩田 そしたら、映画はまだそこから2〜30分続いたんです(笑)。その時に、このテの映画は終わり方に迷うんだなというのを痛切に感じましたね。
高橋 カリキュラムの一環で、学校発の映画として生まれた映画を、学外で興行するというのはここにいる講師全員が経験しているんですよね。それで思うんだけど、学外の人にとってはさっき言ったような「講師ならじーんとしてしまう話」は伝わらないわけです。じゃあどういうふうに届くのかな、というのが、実は一番気になった点です。さっきも言ったけど、冒頭に字幕で設定説明があるじゃない。あれは、何度か試写をするうちに、観た人から「話がよくわからない」って言われたからだと聞いたんですよ。でも説明内容が複雑だから、むしろわかりづらくなっちゃってる気がして。
塩田 明確にするためのディレクションが、逆にミスディレクションになっちゃっていると。
高橋 あと、「鳥」っていう字と「島」っていう字が混乱するんだよね。僕は子供の頃、しばらくの間、ヒッチコックのあの映画を「島」だとばかり思ってたんです。舞台も島っぽいしね。
一同 (笑)
中川 ベルリンに持っていく時に、あの字幕を入れようということになったんです。だからドイツ語なんですけど。それで、2種類の字幕を作りました。ファンタジックなパターンと、もっとストレートに震災を絡めてしまうパターン。それで前者をチョイスしたんですけど。
塩田 確かに登場人物の名前には、ずいぶん原発の気配がするよね。「瀬士産(せしうむ)」とか「地絵流乃(ちえるの)」とか「摺毎ルル(すりまいるる)」とか。
高橋 ああ、それで「羽位菜(うくらいな)」さんなんだ。単純に、ロシア系の陸上選手なのかなと思ってた。
塩田 お客さんがまず冒頭で物語設定をつかむことができないと、その後の映画を見進めることができないから、「じゃあファーストシーンはこれでいこう」っていうふうに多くの映画はあらかじめ情報の順番を計算して作られていく。でもそれをやっていくと、どんどん普通の映画になっていく。「とりあえず撮ってみよう」という軽やかさとは離れていくんだよね。だからいきなり中川さんが走ってるシーンから始まっても、いいような気がするんだけどな。
高橋 僕もそう思うんだけど、でも今「ドイツへ持っていく」という話を聞いて「ああ、ヨーロッパ人を騙すにはいいかもしれない!」と思っています。
一同 (笑)
塩田 この映画がどう観られるのかを気にせずに撮ることで、見えてくるものもあるんじゃないかと思います。配慮を忘れることでできる冒険がいっぱいあるから、その分、いろんな瑕疵が生まれるわけですよ。「冒頭のつかみがはっきりしない」とか「終わり方がはっきりしない」とか「登場人物の芝居が一貫していない」とか。でもそのことによって得られる厚みもある。その点、観客はいったいどこまで「これは普通の映画とは違って実習によって生まれた映画である」ということを忖度してくれるのかなと。
高橋 映画美学校のカリキュラムで生まれた映画の中で、黒沢清さんの『大いなる幻影』と、塩田さんの『どこまでもいこう』、松岡錠司さんの『アカシアの道』は、松田広子さんというプロデューサーのもと、企画段階から「この作品の興行を打つぞ」というのが戦略的に決まっていたわけです。ただ、松田さんが映画美学校から離れて以降は、講師たちが独自に、自主配給に近い形で興行を打っているのが現状。今回も、卓爾さんが「プロデューサー・ディレクター」ですよね。自分なりに企画を考えて、どう売るかも含めてコントロールしていかなきゃいけない。大変だよね。そういう映画って、学内でこんなことを試みたと言ってもお客さんから「……俺らとは関係ないよね」って言われたら返す言葉がない。
——フィクション・コースの「コラボ」(※講師である監督の作品の企画から上映までを体験する高等科のカリキュラム)はどのようなスタンスで作られていますか。
高橋 出演する俳優さんたちも、出る以上は公開してほしいと思いながら出ているわけだから、やっぱり公開しようと思うんですよ。思うんだけど、一番最初からプロデューサー的な嗅覚で企画を立てられるかというと、みんながそうとは限らないからね。自分がやりたいことをやる方が強い。これは修了制作だけど『先生を流産させる会』みたいに、お客さんがそこに乗ってくれるといいんですけど、映画美学校はまずは試みありきだから、お客さんとはそこですれ違ってしまって、よく言えば観客に媚びない、悪く言えば観客不在の映画を作っているという印象を持たれがちになってると思う。だから今回も、難解な映画だと思われたら嫌だなという思いがとてもあるんです。映画って、シンプルにした方が伝わるじゃないですか。でもこの映画はその逆を行っているなあと思ったのは、「宇宙人と地球人はダブルキャストである」ことがわかるかわからないかという軸と、それがわかった時に「じゃあそれはいったい何なのか」っていう軸が浮かんだ時。
万田 そう、「何なのか」がどうもわからない。
塩田 何を目指してダブルキャストにしたのか、っていうね。「実習だから」以外の意味は何だろうって考えちゃいますよね。でも、それを突き詰めてしまうと、この作品の本質とは離れてしまうというジレンマがある。
万田 少し話が違うかもしれないけど、お客さんに「所詮、実習だよな」って思わせてしまう大きなポイント——いや、実習であろうとなかろうと、この映画の世界観を最初に示していたのは、僕は宇宙船だと思うんですよ。ヒモで吊るした宇宙船が、ヒモ付きのまま出てきた時、これはつらいなあと思った。
高橋 ある、サブカル的な了解のもとに成立する描写ですよね。
万田 あのヒモは、中瀬か誰かに頼んで、見えなくすることはできなくもないと思うんだけど。
塩田 たぶん、ヒモが問題なんじゃなくて、この映画は手続きが大変なんですよ。「小さな宇宙船が鳥につつかれて、2つに分かれて不時着して、それぞれから人間と同じくらいの大きさの生き物がぞろぞろと出てきて、話す言葉は宇宙語で、地球人とダブルキャストなんだけど、人間の目にはその姿は見えませんよ」って、どこまで忖度しなきゃいけないんだ!っていうね(笑)。「宇宙船が地球に不時着して、その土地を調査するためにカメラを持ちました」だけでいいんじゃないのかな。
高橋 でも一番最初、山内さんのいるところに円盤が落ちてきたのは、非常に巧みな合成ですよね?
中川 あれは、ヒモがついていない宇宙船を投げたら、山内さんの足元に落ちたっていうだけです(笑)。
万田 「あの円盤、ヒモついてるよね?」っていうのは、今も通用するサブカルなのかどうか。でもこの映画はあからさまに「見えてますよ」を前提にしてるでしょ。それは、損だと思いますよ。お客さんにわかってほしい手続きがたくさんあるのに、さらに「ヒモは見えるけど見えていない」という手続きを増やしてしまっている。
高橋 ある了解のもとに、というのは判ってくれる客層を想定してるわけです。そうではなくもっと突き抜けたものであれば……とは思います。とても難しいんだけど。その辺、UFOの造形も了解のもとに、ではあったなあ。でも、それが山内さんの足元に落ちた時点でリアルを感じましたよ。「実際、宇宙船が落ちる時ってこんなふうかもしれない!」って(笑)。
塩田 あれを拾った自主映画監督が「これで映画ができる!」って思っちゃうのも妙にリアルだよね(笑)。
——そろそろまとめに入りたいのですが、何か言い残した方はおられますか。
小田 今日お話をうかがっていて一番思ったのは、やはりフィクション度の強いものとそうでないものの共存ということです。去年僕が友人たちと一緒に作った『牛乳配達』っていう短編は、こっちとは真逆のベクトルを行く作品だったんですね。エチュード的なことよりも、せりふで芝居を決めていくという作り方。僕は、どっちも素敵だなあと思うんです。うまく共存できないものか、というふうに今日改めて思いました。
塩田 そうだね。映画の作り方は、決して一つである必要はないんだけど、「1本の中で両方やろうとする贅沢」を考えていくと、簡単なことではないなあと思いますよね。(2016/02/05)
万田 その「伝統的なソビエト映画の作り方」って、どんな作り方?
高橋 たとえばソビエトでは戦争映画を作る時、それを「戦争映画」とは呼ばずに「芸術的記録映画」って言うんですよ。戦場なら戦場を史実に基づいて再現して、その状況を切り取るというか。シナリオがあって、カット割りがあって、フレーム内で効率よく物事を起こす、というアメリカや日本の映画とはまったく違う考え方なんですね。
塩田 状況を立ち上げてそれを切り取る、というのが『ジョギング〜』の大きなポイントの一つですよね。カメラをポンと置いて、そこに映るものを捉えている感じがある。僕もうらやましいなあと思ったんですよ。「自分は脇役なのだ」と思って演技しているアクターズ一期生が一人もいなかったから。自分はその役柄の人生において主役なのだ、という感覚は、シナリオから立ち上げようとすると難しいんです。全員が主役として立っている場の、たまたま一か所だけが切り取られてそこにあるという感じ。登場人物それぞれに別のストーリーが起こっていて、みんなそれを演じているんだよね。録音も、誰か特定の人だけじゃなくて全体を拾っている。僕が『ジョギング〜』に感じた嫉妬はそういうところなんです。
高橋 わかります。画面に大勢出てて、全員がアクティブっていうのは、嫉妬しますね。そしてこれも、思うだけでなかなかできないことなんだけど、前景と後景で違うことが行われる映画にも嫉妬するんです。確かアクターズの授業で、手前と奥で別々の芝居をするレッスンをやっていたよね?
小田 卓爾さんの授業で「おしゃれなエチュード」というのをやりました。ある空間の中で、時空の違う二組が同時進行で芝居をするという。
高橋 そういうシーンやシチュエーションを、シナリオから立ち上げようとすると、なかなかうまくいかないんだよね。無理して書こうとすると、たいてい失敗する。そこが今回はうらやましかった。
塩田 あの宇宙人の存在ってのがね、危ういんだけど面白い。ひとりの人間にまとわりついている宇宙人たちは、「ノイズ」以外の何なんだろうと。この宇宙人たちは本当に存在する意味があるのか。これっていわばエキストラ、ただの賑やかしじゃないのか。むしろ、宇宙人がいない方が、この映画の面白さはストレートに観客に伝わるんじゃないか。……と思ったんだけど、無くしてしまうとそれはそれで寂しいな、とも思うんですね(笑)。人間って不思議なくらい、見るものを取捨選択するんですよね。文楽を観に行くと、人形遣いの姿が見えなくなる瞬間がある。いやむしろ彼らがいるからこそ面白いのだと思えてくる。舞台上の出来事すべてが充実して見えてくる。この映画の宇宙人たちはその感じに近かった。
万田 映画を観た後に資料を読んで知ったんですけど、宇宙人側にもストーリーがあったんですね。でもこれ、観ている最中はわからなかったんです。
高橋 僕もそうです。
万田 仮にそういうストーリーをわかるように作ったとする。すると今度は宇宙人が、ノイズじゃなくなるよね。そうすると、この映画の作り方だと絶対ほころびが出てくると思うんですよ。明らかにドラマが生まれてくるので、根本的に作り方を変えていかなくちゃならなくなるだろうなという気がしますよね。
塩田 だからとても欲張りなことを言うと、『ジョギング渡り鳥第2弾』として、今度は宇宙人が前景として立っていて、人間が後景として、でも単なる風景にはならずにちゃんと立っている、という映画がもしできたら、僕はすごく観たいです。
万田 できたら、今度は1時間半でね。
高橋 宇宙人がカメラを持って、常に人間の周りを取り巻いているというのが、この映画のセントラル・アイデアですよね。この視点を導入することで、決して単体では勝負できない事柄を見せていけるという、それが構造上のメリットであり弱さでもあるんですよ。とにかく、こんなにカメラが画面の中に写り込んでいる映画は珍しいでしょう。で、その中の一台が捉えた全然画質の違った画がバン!と入る。かといって物語のメタレベルとか映画の自己言及性とか、そんなことが主題というわけではない。そこが、これまでになかった手触りを感じましたね。フィクションって、カメラの存在を消すじゃないですか。あたかもカメラなどそこにないかのように話が進んでいく。一方、ドキュメンタリーやフェイク・ドキュメンタリーは、カメラの存在を強調するんだよね。この映画では、あんなにカメラが映り込んでいながら、中瀬慧が回していたメインのカメラの存在はまるで意識されない。
塩田 単純に、画がいいからだと思うけど、どうなんだろ。宇宙人たちもカメラを回しているというのは、映画の学校の実習のあり方として、図抜けて素晴らしいコンセプトだと思うんですよ。世間に公開する映画としてどうなのかは別としてね。かつて、アクターズ・コースの最初の指針を考えた時に「君たちが映画に出たいなら、自分で作ればいい」というのが浮かんだんです。スタッフと監督と俳優の境界線をなくす。俳優として、あるいはスタッフとして、常に全員そこにいる。撮り終わった後も、仕上げや広報として深く映画に関わっていく。最初に掲げた理念の結実として完璧ですよね。
小田 卓爾さんから聞いた話によると、この作品の前から「俳優にカメラを持たせてみる」という実験をされていたそうです。そこで撮れた画がとても面白かったので、『ジョギング〜』にも持ち込んだということでした。
中川 あと、一番最初の企画会議の時に卓爾さんが、私が演じた「純子」にまつわるプロットを持っていらしたんですね。それとは別に、みんなで何がやりたいかを出しあった時、小田原くんが「映画を撮る映画を撮りたい」って言ったんです。みんなで何かを作っている様を撮りたいと。
塩田 俳優にカメラを持たせたことが、僕もあるんです。『抱きしめたい』でヒロインのリハビリ風景は、全部母親役の風吹ジュンさんに撮ってもらって。実際に撮影もしながら演技してくださいって風吹さんにカメラを渡したら、やっぱり母親というのは祈るように映像を撮るっていうか、撮るっていうことがそのまま生死を彷徨う娘への語りかけであり祈りでありっていう感じで、どんどんシナリオにない台詞が彼女からあふれ出てきた。あれはその演技も感動的だったし、その視線が捉える映像のあり方もすごくリアルだった。
小田 「モコモコ星人」としてカメラを持たされた時に言われたのは「今この瞬間、興味が向いたところにカメラを向けるように」ということでしたね。
塩田 それは、宇宙人としてなの、それとも自分自身として?
小田 そこは人それぞれですかね……。
万田 そこなんですよ。このあらすじによると宇宙人たちは「『あなた』という概念が理解できない」んだよね。でも宇宙人たちのカメラの視点はそういう視点ではなく、やっぱり現実の小田くんだったり茶円さんだったり小田原くんだったり、まあ言ってみれば人間の視点なんだよね。そこが僕は物足りなかったんです。宇宙人なら宇宙人としての役割に徹底した芝居をしてほしかったけど、僕の目には「アクターズ・コース第一期生たち」にしか見えなくて、そこからさらに別のものを見出していこうという作り方ではないような気がした。芝居って、その役についての何らかよりどころがないとできないじゃないですか。そのよりどころは現実の自分とは違うもので、役が要求しているものですよね。だからこそ芝居は日常とか現実の域を越えるものなのだと。
塩田 いわゆる「宇宙人としての自然主義は何か」問題が問われてしまうっていうことですかね。
万田 さっきの高橋くんの話で言うと、ソビエトの映画は物事を「再現」する、つまり「記録映画」と言いながら、フィクションであるという意識が強いと思うんですよ。「フィクション」を「記録」にしてしまう力業。でもそのために、背景としての現実を綿密に作り上げてる。でもこの映画はおそらく「フィクションを立ち上げるための背景を綿密に作り上げて、よし、用意ドン!」という作り方は、してないんじゃないかと思う。そこがね、僕なんかは、ゆるいなあってついつい思ってしまうんですよね。
高橋 僕はたぶんこの中で、宇宙人を描くことに一番うるさい人間だと思うんですけど(笑)、宇宙人を映画に出すなら徹頭徹尾「わけのわからないもの」として出すべきだと思うんですね。その点で言うと、モコモコ星人たちは、限りなく人間に近い連中が、同じような連中を観察しに来たんだな、というくらいの感じだった。それで『神々のたそがれ』を思い起こしたのかな? そこが構造上の「弱さ」にもつながると思うんだけど。で、メインのカメラの存在を登場人物たちも意識してないよね。だから観ている方もカメラの存在を忘れて観ている。古澤くんの演技がなんか違うなと思ったのは(笑)、突然この世界にやってきて、自分だけカメラを意識する芝居をしちゃってること。
一同 (笑)
高橋 大半のフィクションの芝居はカメラ・ポジションを意識して設計されるわけでしょう。そういう映画だったら別に違和感はないと思う。これは芝居の上手い下手とかじゃなくて、古澤くんがいることで他の人との演技の違いが判った。みんな、カメラを意識していない。そういう空気のもとに作られた映画なのだと。
万田 これはみんなに言えるんだけど、後半、物語みたいなものが見えてくると、それぞれの芝居がだんだん変わってくるんですよね。自分が何を演じるかってことを、ちょっとずつ、つかんでいったんだと思うんです。古澤は、最初から彼なりに物語とは無関係に作り込んできたキャラクターがあったわけでしょ。だから芝居が異質なんだよね。
高橋 聞いた話では、自分で芝居にストップをかけない、という約束事があったんでしょう?
中川 特別なことではなく、ごく普通のこととして、そうでしたね。でも古澤さんは自分でカットをかけていました。「今の、カット!」「もう一回やりたい!」って(笑)。
一同 (笑)
(続く)
<その2>
映画美学校首脳陣、『ジョギング渡り鳥』を考える会第2回。作り手としての視点や実感が、惜しげもなくあふれかえるのです。
塩田 中川さんも永山(由里恵)さんもすごく良かった。孤独というものが、寂寥感ではなく、ある怖さを持って背中から表れているじゃないですか。あれは素晴らしかったね。……小田くんも良かったけど。
小田 急にそんな、いいっすよ(笑)。
万田 中川さんはたぶん、普段も被写体としても「背負っている」という感じが強いのかも。だからジョギングがとても似合っていたよね。黙々とジョギングしている姿が印象深かった。
塩田 永山さんは、前半と後半ではっきりと分かれていましたね。みんなにお茶をつぐ時の永山さんと、家の2階に佇む永山さんは全然違った。
高橋 古本屋で古内さんが小田原くんを口説こうと思っているところに、永山さんが自然体で入ってきて「あ、私、おじゃま虫だった!」って後で気づくというのが、かなり本人に近いというか。最初、野蛮に入ってきて、無意識に場を壊す人、いるよねと。
塩田 そうなの(笑)?
高橋 そういう自然体の人が、2階から夫を見下ろしている。あれも、僕が嫉妬するタイプの画ですよ。なかなかできないんだよなあ、っていう。
万田 でも、それが出てくるのって終盤じゃないですか。最後の1時間ぐらい、目白押しでドラマが動くんだよね。あれってどうなんだろう。だらだらと長い前半があったからこそ後半が生きているのか。どうなんですかね、そのへん。
塩田 自分に置き換えて話すと、自分もこういう映画の撮り方がしたいなあと思うわけです。人と場所だけを決めておいて、俳優とエチュードしながら物語を探りつつ「何をやるかは当日までに考えますから!」っていう。今ここで面白いものだけを撮っていけばいい、という自由度があると思うんだけど、でも、そういうふうにして撮った映画は、僕の感覚だと、終わりが見えなくなるんです。どこで終わってもいいから、どこでも終われなくなる。その感じが、この映画にもあると思いますね。「ここで終わってもいいな」が5〜6回続いた感じがする。全員を主役として描いてきたけど、その中の誰のエピソードを残すか取捨選択するのが「編集」であるわけで。編集って、民主主義であってはいけないんです。突然強権発動が起こって、これまでの現場の優しさを裏切っていくことが観客に対する誠意さなんですよね。だから「実習」か「商業映画」かの境目は、そこに出てきちゃいます。その非情さみたいなものに、この映画はあと少しだけ直面すべきだったようにもと思います。
高橋 この映画は、単体として弱いエピソードの連なりだと思うんです。それを補強するために宇宙人たちがいて、大枠を作っているように見える。従来の物語作りとは違う方法に取り組みながら、じゃあ後半部分はどう持っていくのかなあと思っていたら、エピソードがそれぞれオーソドックスな形で収束していった。最後の1時間なんかは「決着大全集」ですよね(笑)。
塩田 正確に言うと「決着がつかないということを提示するための決着」ですね。
高橋 別のフレームを持ってくることによって物語を持たせる、という方法は、最近けっこう多いですよね。『バードマン』とかね。でもそうすることでしか、物語を生み出すことができなくなっているのかなという危惧が今あるんです。もっと強くて単独の縦軸で、面白い物語を撮ろうとすると、台本通り、かっちりと決められた芝居を撮っていくということになる。『ジョギング〜』にある開放感と、縦軸の通った物語性は果たして両立しないのか。僕としては、どっちも美味しいところ取りをしたいんですけどね。
万田 たぶん、どっちも美味しいところ取りは、できないっていうことなんだと思うんですよ。今回のような形式だと、フィクション性の強い劇というのはたぶんできない。それに今映画を観る人たちは、強いドラマを望んでいないんですよね。だから僕らは悩むんです。もちろん、やりたいことをやるしかないなとは思っているんだけれど。物語もそうだし、芝居の質もね。今は劇やフィクションより、日常とかリアルが求められているんだと思う。
高橋 うーーん……。(補註:これは話を広げると、サイレント的な画面と同録的な画面の共存ということにまで及ぶテーマかも知れない)
万田 例えば、脚本に「はぁ?」とか「えっとぉ……」とかを、僕は書きたくないわけです。そういう芝居も困る。「はぁ?」とか「えっとぉ……」とかを書き入れた途端に、芝居も物語も日常に転がっていっちゃうんですよ。だから、「はぁ?」っていう日常性を選択せずに映画を作ると、その時点で僕は、お客さんの半分以上を切り捨ててることになるんだと思ってます。「はぁ?」のない映画。日常的な時間の流れない映画は、今のお客さんからすれば「古いよね」「わざとらしいよね」っていうふうになっていってるんじゃないかなと思う。ぼくとしては「はぁ?」で表現しようとしている日常性こそわざとらしい、面白くもなんともない日常性だと思ってますけど。
高橋 テレビのエンターテイメントでいうと、西島秀俊が主演していた『MOZU』を思い出します。日本を舞台にしながら、頑張ってアメリカンなことをやるっていう。これが結構、当たったんですよね。ただ、僕らが観て育ってきた、昔の日本のフィクション性の高いドラマと比べると、せりふの技術は明らかに落ちているんです。上司と部下が屋上で、急に説明し始めるんですよ。「日本の行方不明者は年間8万人いて、そのうち半分は何らかの事件に巻き込まれたという……」なんてことをわざわざ公安職員同士で言うはずがない(笑)。作者が言いたいことを言わせてるだけなんだよね。人物にそれを言う必然はない。でも俳優にはそれを言いこなす技術があって、視聴者はごく当たり前にそれを消費しているわけです。僕も「はぁ?」とか大嫌いだったんだけど、僕らが戦っていかなければいけないのは、技術の低下を食い止めること。「はぁ?」を必然的に言わせるということ(笑)。これはどうにかすれば芝居になりうるし、日常の中に埋没しがちだけど、面白い聞かせ方があるかもしれないぞと最近は思うんです。その点では『ジョギング〜』も、基本的に必然のあることしか言っていないんですよ。時々ちょっと、「今どうしたらいいか迷ってるよね?」っていう空気感は訪れていたけど。
万田 『ジョギング〜』の台詞は、どの程度決められたものだったんですか。
中川 いくつかの「これは入れる」というポイントは決まっていました。でも基本的には、何を言ってもいいと委ねられていましたね。
万田 そうやって芝居を作ると、まず、沈黙できないんですよ。「なんか言わなきゃ!」ってみんなが思う。で、何か言うでしょ。そしたら別の誰かが「リアクションしなきゃ!」って思う。そういう状況下で突然ドラマ性の高いせりふを言えるわけがないので、それこそ「はぁ?」「えっとぉ……」が入ってしまうんだよね。
塩田 役者を集めて即興的なことを撮ろうとすると、万田さんが今おっしゃったとおり、無言のシーンが減ってしまうと思うんですね。「何かを言おうとしている人たち」を撮る映画になってしまう。「誰もしゃべっていないシーン」と「しゃべっていないことによって何かが立ち上がってくるシーン」は、意図しないと撮れないんじゃないかと思ってしまう。だから、物語の軸である中川さんがあまりしゃべらない、ということにとても好感を持ったんですよ。
(続く)
<その3>
そしてもちろん、講師陣も「映画を作る」ことにおいては当事者である。映画美学校のカリキュラムで撮った映画の「あり方」「届け方」について考えるのだ。
塩田 僕の感想には、多少の私情も入っていますけどね。当初は、アクターズの講師だったので。
高橋 それを言ったら、映画美学校の講師みんなが、この映画を観たら「うるわしい世界だなあ……」と思いますよ。あの、ラスト近くのカチンコを打つシーンとかね。何で打ってるのかよくわからないんだけど(笑)、でもあそこでじーんと来たっていう人が試写を見た人の中にもいたので、あ、伝わるんだなあと思いましたよ。
塩田 僕は、全員が並んで走ったところで終わりだと思いました。走る映画なんだから、見事なオチをつけたなあと。
万田 あれは映画を見る前にスチル写真で見てね、すごくいい画だなと思って、どこに出てくるんだろうとずっと思っていたら、終盤に出てきて。ああ、ラストシーンだったのかあ、これはいいなあ、と僕も思ってしまった。
塩田 そしたら、映画はまだそこから2〜30分続いたんです(笑)。その時に、このテの映画は終わり方に迷うんだなというのを痛切に感じましたね。
高橋 カリキュラムの一環で、学校発の映画として生まれた映画を、学外で興行するというのはここにいる講師全員が経験しているんですよね。それで思うんだけど、学外の人にとってはさっき言ったような「講師ならじーんとしてしまう話」は伝わらないわけです。じゃあどういうふうに届くのかな、というのが、実は一番気になった点です。さっきも言ったけど、冒頭に字幕で設定説明があるじゃない。あれは、何度か試写をするうちに、観た人から「話がよくわからない」って言われたからだと聞いたんですよ。でも説明内容が複雑だから、むしろわかりづらくなっちゃってる気がして。
塩田 明確にするためのディレクションが、逆にミスディレクションになっちゃっていると。
高橋 あと、「鳥」っていう字と「島」っていう字が混乱するんだよね。僕は子供の頃、しばらくの間、ヒッチコックのあの映画を「島」だとばかり思ってたんです。舞台も島っぽいしね。
一同 (笑)
中川 ベルリンに持っていく時に、あの字幕を入れようということになったんです。だからドイツ語なんですけど。それで、2種類の字幕を作りました。ファンタジックなパターンと、もっとストレートに震災を絡めてしまうパターン。それで前者をチョイスしたんですけど。
塩田 確かに登場人物の名前には、ずいぶん原発の気配がするよね。「瀬士産(せしうむ)」とか「地絵流乃(ちえるの)」とか「摺毎ルル(すりまいるる)」とか。
高橋 ああ、それで「羽位菜(うくらいな)」さんなんだ。単純に、ロシア系の陸上選手なのかなと思ってた。
塩田 お客さんがまず冒頭で物語設定をつかむことができないと、その後の映画を見進めることができないから、「じゃあファーストシーンはこれでいこう」っていうふうに多くの映画はあらかじめ情報の順番を計算して作られていく。でもそれをやっていくと、どんどん普通の映画になっていく。「とりあえず撮ってみよう」という軽やかさとは離れていくんだよね。だからいきなり中川さんが走ってるシーンから始まっても、いいような気がするんだけどな。
高橋 僕もそう思うんだけど、でも今「ドイツへ持っていく」という話を聞いて「ああ、ヨーロッパ人を騙すにはいいかもしれない!」と思っています。
一同 (笑)
塩田 この映画がどう観られるのかを気にせずに撮ることで、見えてくるものもあるんじゃないかと思います。配慮を忘れることでできる冒険がいっぱいあるから、その分、いろんな瑕疵が生まれるわけですよ。「冒頭のつかみがはっきりしない」とか「終わり方がはっきりしない」とか「登場人物の芝居が一貫していない」とか。でもそのことによって得られる厚みもある。その点、観客はいったいどこまで「これは普通の映画とは違って実習によって生まれた映画である」ということを忖度してくれるのかなと。
高橋 映画美学校のカリキュラムで生まれた映画の中で、黒沢清さんの『大いなる幻影』と、塩田さんの『どこまでもいこう』、松岡錠司さんの『アカシアの道』は、松田広子さんというプロデューサーのもと、企画段階から「この作品の興行を打つぞ」というのが戦略的に決まっていたわけです。ただ、松田さんが映画美学校から離れて以降は、講師たちが独自に、自主配給に近い形で興行を打っているのが現状。今回も、卓爾さんが「プロデューサー・ディレクター」ですよね。自分なりに企画を考えて、どう売るかも含めてコントロールしていかなきゃいけない。大変だよね。そういう映画って、学内でこんなことを試みたと言ってもお客さんから「……俺らとは関係ないよね」って言われたら返す言葉がない。
——フィクション・コースの「コラボ」(※講師である監督の作品の企画から上映までを体験する高等科のカリキュラム)はどのようなスタンスで作られていますか。
高橋 出演する俳優さんたちも、出る以上は公開してほしいと思いながら出ているわけだから、やっぱり公開しようと思うんですよ。思うんだけど、一番最初からプロデューサー的な嗅覚で企画を立てられるかというと、みんながそうとは限らないからね。自分がやりたいことをやる方が強い。これは修了制作だけど『先生を流産させる会』みたいに、お客さんがそこに乗ってくれるといいんですけど、映画美学校はまずは試みありきだから、お客さんとはそこですれ違ってしまって、よく言えば観客に媚びない、悪く言えば観客不在の映画を作っているという印象を持たれがちになってると思う。だから今回も、難解な映画だと思われたら嫌だなという思いがとてもあるんです。映画って、シンプルにした方が伝わるじゃないですか。でもこの映画はその逆を行っているなあと思ったのは、「宇宙人と地球人はダブルキャストである」ことがわかるかわからないかという軸と、それがわかった時に「じゃあそれはいったい何なのか」っていう軸が浮かんだ時。
万田 そう、「何なのか」がどうもわからない。
塩田 何を目指してダブルキャストにしたのか、っていうね。「実習だから」以外の意味は何だろうって考えちゃいますよね。でも、それを突き詰めてしまうと、この作品の本質とは離れてしまうというジレンマがある。
万田 少し話が違うかもしれないけど、お客さんに「所詮、実習だよな」って思わせてしまう大きなポイント——いや、実習であろうとなかろうと、この映画の世界観を最初に示していたのは、僕は宇宙船だと思うんですよ。ヒモで吊るした宇宙船が、ヒモ付きのまま出てきた時、これはつらいなあと思った。
高橋 ある、サブカル的な了解のもとに成立する描写ですよね。
万田 あのヒモは、中瀬か誰かに頼んで、見えなくすることはできなくもないと思うんだけど。
塩田 たぶん、ヒモが問題なんじゃなくて、この映画は手続きが大変なんですよ。「小さな宇宙船が鳥につつかれて、2つに分かれて不時着して、それぞれから人間と同じくらいの大きさの生き物がぞろぞろと出てきて、話す言葉は宇宙語で、地球人とダブルキャストなんだけど、人間の目にはその姿は見えませんよ」って、どこまで忖度しなきゃいけないんだ!っていうね(笑)。「宇宙船が地球に不時着して、その土地を調査するためにカメラを持ちました」だけでいいんじゃないのかな。
高橋 でも一番最初、山内さんのいるところに円盤が落ちてきたのは、非常に巧みな合成ですよね?
中川 あれは、ヒモがついていない宇宙船を投げたら、山内さんの足元に落ちたっていうだけです(笑)。
万田 「あの円盤、ヒモついてるよね?」っていうのは、今も通用するサブカルなのかどうか。でもこの映画はあからさまに「見えてますよ」を前提にしてるでしょ。それは、損だと思いますよ。お客さんにわかってほしい手続きがたくさんあるのに、さらに「ヒモは見えるけど見えていない」という手続きを増やしてしまっている。
高橋 ある了解のもとに、というのは判ってくれる客層を想定してるわけです。そうではなくもっと突き抜けたものであれば……とは思います。とても難しいんだけど。その辺、UFOの造形も了解のもとに、ではあったなあ。でも、それが山内さんの足元に落ちた時点でリアルを感じましたよ。「実際、宇宙船が落ちる時ってこんなふうかもしれない!」って(笑)。
塩田 あれを拾った自主映画監督が「これで映画ができる!」って思っちゃうのも妙にリアルだよね(笑)。
——そろそろまとめに入りたいのですが、何か言い残した方はおられますか。
小田 今日お話をうかがっていて一番思ったのは、やはりフィクション度の強いものとそうでないものの共存ということです。去年僕が友人たちと一緒に作った『牛乳配達』っていう短編は、こっちとは真逆のベクトルを行く作品だったんですね。エチュード的なことよりも、せりふで芝居を決めていくという作り方。僕は、どっちも素敵だなあと思うんです。うまく共存できないものか、というふうに今日改めて思いました。
塩田 そうだね。映画の作り方は、決して一つである必要はないんだけど、「1本の中で両方やろうとする贅沢」を考えていくと、簡単なことではないなあと思いますよね。(2016/02/05)
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