話の渦が竜巻きになるまで、そう長くはかからなかった。『SHARING』は決してコメディ映画ではないのに、この座談会ではみんなよく笑った。映画への深い理解を礎にして、彼らはあっという間につながりあう。その様子を、これからお届けします。
映画美学校HP
佐々木敦:1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。今年に入ってから『ゴダール原論』(新潮社)、『例外小説論』(朝日選書)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)と三冊新刊を出しました。
松井周:1972年東京生まれ。劇作家・演出家・俳優。1996年、俳優として劇団青年団に入団。俳優活動と共に劇作・演出家としても活動を始め、2007年、劇団サンプルを立ち上げる。2010年『自慢の息子』が第55回岸田國士戯曲賞を受賞。ハイバイ公演『おとこたち』全国公演に俳優として出演中。http://hi-bye.net/plays/otokotachi
三宅唱:1984年札幌生まれ。映画監督。『THE COCKPIT』『Playback』『やくたたず』など。「boidマガジン」にてビデオダイアリー「無言日記」シリーズを連載中。雑誌「POPEYE」にて映画評みたいなエッセイを書いたりもしています。たまにPVもつくっていて、最新作は→https://www.youtube.com/watch?v=MzMkkxAJHXo
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佐々木敦:1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。今年に入ってから『ゴダール原論』(新潮社)、『例外小説論』(朝日選書)、『ニッポンの文学』(講談社現代新書)と三冊新刊を出しました。
松井周:1972年東京生まれ。劇作家・演出家・俳優。1996年、俳優として劇団青年団に入団。俳優活動と共に劇作・演出家としても活動を始め、2007年、劇団サンプルを立ち上げる。2010年『自慢の息子』が第55回岸田國士戯曲賞を受賞。ハイバイ公演『おとこたち』全国公演に俳優として出演中。http://hi-bye.net/plays/otokotachi
三宅唱:1984年札幌生まれ。映画監督。『THE COCKPIT』『Playback』『やくたたず』など。「boidマガジン」にてビデオダイアリー「無言日記」シリーズを連載中。雑誌「POPEYE」にて映画評みたいなエッセイを書いたりもしています。たまにPVもつくっていて、最新作は→https://www.youtube.com/watch?v=MzMkkxAJHXo
佐々木 僕は、篠崎くんと長いつきあいになるんです。お互い、映画館で働いていた頃からの知り合い。でも篠崎くんがプロとして映画を作り出した頃、僕は映画から離れていたので、彼の作品の多くを観ていないんですね。『あれから』もそう。でもおそらくあの映画には、篠崎くんの誠実さとか真面目さとか、そういうものが出ていたんだろうと思うんです。そしてその一方で『死ね!死ね!シネマ』みたいな狂ったホラー好きの一面もある。その両方が合体したのが、今回の『SHARING』じゃないかと。
三宅 篠崎さんにドッペルゲンガーがいて、今回はその二人で作ったと。
佐々木 そう。「黒篠崎」と「白篠崎」が一緒になった感じ。
——でも「グレー」にはなっていないですよね。すごく黒だし、すごく白。
佐々木 そうそう、そうなんですよ。そして観ながら僕が一番思ったことは、「ヒロイン、寝すぎ!」。
一同 (笑)
三宅 研究室で寝て、図書館で寝て、家のソファーで寝て。
佐々木 これほど「夢オチ」を展開している映画があっただろうかと。
松井 僕は、立教大学の新座キャンパスに何度か芝居を観に行っているんですね。あの迷宮のような建物の中で、すきま風がずっと音を立てていて、外で何かすごいことが起きていてもわからないくらいに閉ざされた、時間が止まった空間の中にいるような、独特の感覚が好きでした。
佐々木 演劇のシーンがあったじゃないですか。兵藤公美さんが演出をしている。
松井 僕、あそこ大好きです!
一同 (笑)
松井 地味ーに稽古している様子を、すごく丁寧に撮ってくれていて、しかも彼らがやっている芝居が、この作品のあり方そのものと強い関わりがあるということがだんだん見えてくる。篠崎さんってそういう、重ね塗りがうまいなと思ったんです。
三宅 僕はまず、「ヒロイン最高!」って思いました。山田キヌヲさんの第一声を聞いた瞬間にすぐ惹かれました。小さいけれど芯のある強い声をきいて、「お、なんだこの人は」と。観終わったあとですが、知的で動けるカッコいい女優が活躍するアメリカ映画、たとえばジョディ・フォスターが演じた『コンタクト』の博士などを思い出しました。そして終盤、彼女と樋井明日香さんが少し離れたところから無言で会釈をしあうシーンも好きで。この映画にはいろんな要素がありますが、この二人の映画だったんだ、とスッと着地していく感覚がありました。あと、これはホームページに寄せたコメントにも書いたんですけど、木村知貴さんの存在感がとにかくほんとに好きで。
松井 僕もです。
佐々木 気のない感じで、いいことを言う。
三宅 居酒屋で冗談めいたことを言って、キヌヲさんに思いっきりスルーされるところは最高ですね。俺もこうありたい!って思いました(笑)。しかも、セクシャルなものがない異性の友達っていう関係が、無理なく、ごくあたりまえに描かれていたこともすごく好きで。
佐々木 戦友感、ありましたね。バディ感というか。
三宅 意外と出しづらいと思うんですよね、ああいう開かれた雰囲気って。30オーバーで、タメ口で話す異性同士なのに、いやな意味でのセクシャルなそぶりがなくて、ものすごくいい関係に見えました。あの男は、彼女の苦悩を直接的にはまったくシェアしていないけど、でも最後、隣で一緒に芝居を観ながら拍手しているのをみて、ああコイツが彼女の隣にいて本当によかったと思って。男をああ描くのはすごく難しい。強い女性を描くときって、相対的に男性を単純に弱く描いてしまうところ、木村さん演じた彼はそうではなく、なんというか、柔らかい。彼がいない映画だったらイヤです。
佐々木 決して、恋人の代わりではないんだよね。
三宅 まったくないんです。でも、横にいると安心できる。観終わった後で篠崎さんに感想のメールを送ったんですが、それを読み直すと、まずヒロイン2人と男に惹かれたということを書いたのと、あと、この映画がいかにリアルかということ、ホラー映画やSF映画ともいえるエンターテイメント映画であることに刺激を受けた……というか、嫉妬しましたって生意気に書いちゃってました。
佐々木 そう、徹底的にエンターテインメントの技法で撮られているということが、すごく効いている映画だと思いますよ。終始、すごいギミックが重ねられていくじゃないですか。あるシーンで僕は、普通に背筋が、びくっ!ってなったし。
松井 僕もなりました。
三宅 尻が上がりました。
佐々木 そういうことと、テーマのシリアスさが、とても独特な形で両立し得ている。途中で「こんなに面白くて大丈夫なのかな」とさえ思いましたもん。
三宅 あえて言うと、もし、この映画がシリアスな部分だけでできていたら、きっと僕は苦手ですね。というのも、例えば「当事者ではない人間に何ができるか」みたいな、この映画自体への批判的な視点をさきに劇中で語るようなことって、題材について考え抜いているからこそできることですが、そこばかり目立っちゃうと「閉じた映画」になりかねない。この映画はスレスレでそういう部分もあるとは思うけど、そうではない豊かな部分、やっぱり俳優たちの魅力だったり、いろんな演出だったり、そういう部分にぼくは刺激をうけました。
佐々木 すごく考え抜かれているというのは、強く感じますよね。シナリオや、現場での芝居を、固めるのではなく広げるようにして作られているんだろうなと思いました。あと、震災以後に作られた創作物の中でこの映画が特異なのは、「震災以前」を描いているということ。キヌヲさん演じる心理学者が探しているのは「震災のことを、震災以前に予知した人」だし、彼女の恋人が部屋に現れるのも「震災の前日」だし。
三宅 この物語の出発点として、「もし仮にタイムワープができて、3月10日に帰れたら、何ができるだろうか」というシンプルな命題があったんじゃないかと思うんです。すごく悲しいお題ですけど。そこから、こうした物語につながっていったのかな、と。
佐々木 そしてあの、111分版の終わり方をどう受け取るかですよ。沖島勲監督の遺作になった『WHO IS THAT MEN!? あの男は誰だ!?』もそういう不穏な終わり方をするんです。投げっぱなし感というか、観客を宙吊りのまま放り出すみたいな感じがある。
三宅 劇中、お芝居を観て、帰り道にキヌヲさんと木村さんが立川談志の話をして、お話としてはそこで終わりでもいい。そのほうが気持ちいいかもしれない。でも、この映画をいい話にしちゃうってどうなの、ともいえる。そこへ、あのラストシーンが来るんですよね。「やっつけたと思ったゾンビがまだ生きていた」的な不穏さで。
佐々木 あれを最後に足したくなっちゃうところが、「黒篠崎」的な何かなんだろうな(笑)。
松井 僕は、あの不穏なラストシーンまでやりきってくれたことで、映画から受け取ったものがこれから先も自分の中で育っていくんだろうなという予感がしました。(続く)
<その2>
「当事者か否か」ということ。「何かすることを許されているかいないか」ということ。あの春以降、そしてこの春も、みんなが考え続けているそのことについて、話はめぐります。
三宅 ちょっと愚痴を言ってもいいですか。誠実さとか、真面目さとか、真摯さとか切実さが、震災以降の社会ではなにか特別すごいことのように語られる。誤解を恐れずに言えば、それだけでできてる映画ってはっきり言ってつまんないんですよ。よく映画の紹介記事に「時代に誠実に向き合った映画」とか褒め言葉みたいに書いてあって、馬鹿なんじゃないかと。
一同 (笑)
三宅 いや、もちろん誠実さを批判する気はゼロで、むしろごくあたりまえであるべきなのに、にもかかわらず、題材とか形式の表面だけで誠実さを持ち上げて語ったり、シリアスをきどるのはいかがなものか、と。超くだらないコメディ映画とか、とんでもないホラー映画のほうが、場合によってはどれだけ救いになるだろうかと。そういうモノの作り手はたいてい「誠実」なんて言われないし、言われたくないかもしれないけど、「シリアスぶった映画」なんかよりも、ずっと「時代に向きあっている」こともあるとぼくは思っています。笑わせてくれるか、エロい気持ちにしてくれるか、怖い気持ちにしてくれるか。どんなに真面目でも、面白くないと。篠崎さんは圧倒的なホラーの技法で「怖い気持ち」にさせる。そして、観客を「当事者」にさせている。
松井 「当事者」ということについては、劇中の大学生たちも悩んでいましたよね。その感覚は僕もよくわかるんです。俳優が演じながら「自分は当事者ではない」という認識に追いつめられてしまう感じ。あるいは、自分は役柄とは距離を置いていると思いながらも、知らぬ間にバランスを崩してしまってる感じ。自分で自分のことをうまくコントロールできない、そこが人間の面白いところだと思うんです。人間は、わりとでたらめ。そのでたらめさを、篠崎さんはきっとわかっているんですよね。映画が生真面目方向へ傾かず、まっすぐに突き進んでいるのは、篠崎さんの人間の見方がすごく出ていると思う。誰のことも、何も、決めつけない眼差し。
佐々木 あるオーストリア人の劇作家が、インターネットやテレビのニュースで観た日本の震災を題材に芝居を作ったんですね。彼女がやっていることって、ある視点から見れば「震災をネタにしやがって」と思われかねないんだけど、でもそもそも、フィクションとはそういうものじゃないですか。「本当の当事者でもないのに創作物の題材にするなんて欺瞞だ」という言い分に対しては「いや、そうだとしたらすべてのフィクションは欺瞞だ」と言える。この映画も、ホラー映画というある種極端な技法で震災を取り扱っているわけだけど、でもこんな話をこんなふうに撮るっていうことこそが、篠崎くんの誠意であり真摯さなのだと僕は思うんです。
松井 すごくわかります。
佐々木 大きくて悲劇的な出来事があると、必ず「○○に何ができるのか問題」が発生するじゃないですか。音楽だったり演劇だったり映画だったり、「そんなことやってる場合じゃないだろう」という。でもその「そんなことやってる場合じゃないだろう」という言い分にこそ、僕は欺瞞を感じるんです。考えるべきは「自分がこれまでやってきたことをこの状況にどう生かすか」でしかないはずでしょう。篠崎くんは震災の時に「映画に何ができるのか」って無力感を感じていたけど、いや、映画でこそ、こういうことができるんだというふうに考えが反転した、というようなことを初日の舞台挨拶で言っていたらしいんです。「自分は映画を通して世界とつながっている。映画があってよかった」と。
三宅 『SHARING』という映画が存在すること自体と、その映画の中で起きていたことから僕が思ったのは、人間はそれなりに弱いけど、まあまあ強えな!っていうこと。「こんなことしてる場合じゃないけど、でも、しちゃうんです!」っていう、ある種の馬鹿さやしたたかさを持った、強さ。悲しいことがあっても、人は寝るし食べるし。強くはないけど、弱くもない。
佐々木 うん。あんなに居眠りしてるヒロイン、いないよね(笑)。
三宅 シリアス風映画批判をまたしますと、そういう映画の主人公って、ずっと悩んでるんですよ。そんなやついない。いや、いるかもしれないけど、それをもって「誠実」とかリアルとか評するのは、おいちょっと待て、と。
松井 そうですね。エロいことも考えるし、食べ物のことも考えるし。
三宅 そうなんですよ。だから、ぼくは『SHARING』の居酒屋とか、居眠りすることとか、ほんと好きというか、救いになってます。いまやどんな映画だって「震災以降」でしかないんだから、「直接的に震災を扱っているかいないか」とかはもはやどうでもよくて、「扱わない」という選択をしている映画も同じ「震災以降の映画」として観ます。もし『SHARING』を誠実と呼ぶのなら、原発を扱ったことと同じ重さで、居酒屋や居眠りのシーンをあのように描いたことを持ち出したいです。
佐々木 自分が持っている映画的な技能、知識とか才能とか技術とかを上限まで使い切ると、訴えたいテーマやメッセージが伝わりづらくなるから、ギミックはちょっと手控えて、伝えたいことを伝えよう、っていう作品が今は多いんだと思うんです。そのこと自体は否定できないんだけど、でも『SHARING』はそこをまったく手控えていない。それがこの映画の素晴らしいところだと思うんですね。とにかくどんどん足していく、突っ込んでいく。だから観客は引き込まれて、いつのまにかテーマのようなものが手の中に残っている。そこが希有だと思うんですよ。人間的なテーマを伝えたい篠崎さんと、映画を面白くさせたくてたまらない篠崎さんが、両方とも存分に力を発揮している。「面白い映画」と「真面目な映画」って、矛盾する存在だと思われがちだけど、そんなことはないっていう好例ですよね。持てる技術を駆使しまくっている。
松井 すごく豊かですよね。今まさにそうですけど、大きな災害が起きた時って、みんな慎重に言葉を選ぶじゃないですか。真面目さが、言葉だけで表されている。でも言葉だけの真面目さって、情報量は決して多くないんですよ。同じことを話してても、ちょっと目線を外されたり、ひそかにあくびしてたりすることで伝わってくるニュアンスってあるでしょう。それでもなお言葉だけで伝え合おうとしている人たちを見ていると、すごく窮屈に思うんですね。『SHARING』を観ている間、僕は五感でどきどきわくわくしていたし、そのことによって胸に残ったものが、言葉で伝わってきたものを軽く超えてきたんです。そこまで到達してこそ、真摯に響いてくるものがあった。
佐々木 そうなんですよね。
松井 で、なぜそんな希有な映画ができたのかってことを考えると、僕は自分が俳優だからこう思うのかもしれないんですけど、篠崎さんは俳優の演技が本当に好きなんだと思うんですよ。俳優が起こしていることを、きちんと受け取っている。最初に作った設計図通りじゃなくて「そう来たら、次はこうなるよね」という試行錯誤を、かなり重ねていたんじゃないかと思うんです。だってあんなせりふは、前もって決められたせりふとしては絶対に言えないですよ。特に、山田キヌヲさんと樋井明日香さんが、画面を分割して向き合っているところ。僕はあそこをいったいどう撮ったのか、知りたくて知りたくて聞いちゃったんですけど(笑)、二人ともカメラに向き合いながら、でも互いが視界に入る形で座っていたらしくて。
三宅 二人が斜め向かいに座って、それぞれの正面にカメラが据えてあるという。
松井 だから、二人の間に本当の反応が起こってるんですよね。そういうことを仕掛けられると、俳優はすごく乗れるんです。それがしっかりとカメラに捉えられているから、そこから伝わってくる情報量もすごく多い。
三宅 僕が一番好きなのは、恋人が部屋に現れるところ。彼女はほぼしゃべらない。でも、彼女の表情の変化だけで、何を考えてるか、その経緯がすごくよくわかるんです。自分が、彼女となにかをシェアリングする瞬間ですよ。
松井 ああーやばい、思い出した。あそこ、すごい来ますよね。
三宅 他人が考えていることが全部伝わってくるような経験って、まさに映画や芝居をみるという体験だからこそだなと。『SHARING』というタイトルは、あのシーンをみるという映画体験に掛かっているとぼくは思います。あそこでタイトルがどーんって、さすがに出るわけないけど(笑)、ぼくの中では出てました。
佐々木 あそこは確かにクライマックスですね。相当辛抱強く撮っている。
三宅 夢か現実かわからなくて、恋人はすでに死んでいるはずなのに目の前にいて、時間的にも2011年なのかいつなのか、まったく謎の時空間ですよね。そういう難しい状況なのに、それを彼女が理解していくのとほぼ同時に、ぼくたちも手にとるようにわかってしまう。簡単な感情ならまだしも、すごく難しい状況を彼女とシェアできてしまうわけで、いま思うとすごい瞬間を経験できたなと。この映画をみなかったらたぶん実人生で体感しえない瞬間だけど、もうぼくの実体験になってますから。
松井 そういうことがこの映画では起こり得ますよ、っていうことを、それまでの間にかなり積み重ねてきていますからね。
佐々木 もう何が起きても不思議じゃない、っていう境地にまで観客を連れてきてからの、あのシーンだからね。憎いな、って思う。たくさん映画を観てきた人の仕業だな、って。
三宅 シワザ感ありますね。「篠崎さんすげー楽しいだろうな!」って思います。つなぐ前から、撮影しているときから楽しい映画だろうなって。目の前の芝居に心底感動もしてるだろうし、「めっっちゃおもしろい!」「すげーの撮れたあ!」ってはっきり思ってたはず。
佐々木 うん。ほくそ笑んでるでしょう、明らかに(笑)。
三宅 ちゃんと目の前で、コトが起きてる。それが面白いんですよね。(続く)
<その3>
「『SHARING』は篠崎誠である」、という公式をふと思いつく。この映画は、篠崎誠まるごとであると。そして編集担当は胸に決めるのだ。これは「観た人」に読ませる記事ではない。「まだ観ていない人」にこそ、届けるべき記事だと。3人の大人が笑ったり怒ったり、幸福な2時間の最後のお届けです。
松井 篠崎さんってほんと、不思議な人だなあと思うんですよ。ある種のアナーキーさみたいなものがあるんだけど、それをコントロールして出せるし、でも出し方がすごく突発的。ちょっと真面目に行こうとすると、やっぱりどこかで真逆の方向に振れたいという、アーティストの狂気みたいなものを感じるんですよね。
佐々木 わかります。(パンフの写真を指して)このシーンとか、やばかったよね!(※黒板に「JESUS」についての一文が板書してあるシーン)
松井 そう! あと、何度か教会が映りこみますよね。
佐々木 「神」の存在をちらほら意識させながら、基本的には神を引きずり下ろしている映画ですよね。大きな災害みたいなことって、やっぱり神の問題と結びつきやすいじゃないですか。それをこの映画は、先回りして防いでいるみたいな感じがある。
三宅 冒頭からその話が出てきますよね。「神様の存在を信じますか」って聞かれたキヌヲさんが「いいえ」って答える。そう答えるまでの微妙な間とか、「いいえ」の言い方とか、目の表情とか、すごく好きなんです。あそこからすべてが始まってる。めっちゃカッコいい出だし。
松井 神を引きずり下ろすことも含めて、篠崎さんの壮大なスケールを感じるんですよね。職人でもあり、アーティストでもあり。超越的なものに対しての恐れもありつつ、でも「信仰」まではいかず、常に前を見ている。
佐々木 高橋洋さんとかトビー・フーパーとか、多くのホラー映画の作り手たちも、ホラー映画の枠組みを駆使する一方で、神についての問題に取り組んでいるじゃないですか。篠崎くんはそういう映画を死ぬほど観てるから、それがもはや血肉化していて、ほっといてもこういう映画になっちゃうんだろうな。
——三宅さんは、「神」との距離感はどんな感じですか。
三宅 決まった信仰心はないですが、嫌なことがあると「バチがあたった」って思うタイプです。「3日前の信号無視のせいかな……ごめんなさい……」っていう(笑)。
——私も、特別「神」的な概念の洗礼を受けていないし、ホラー映画も通ってきていないんですが、大きな災害が起きた時とかに「神様的な何かのせいにしないとやってられない」という感情はわかるんです。
佐々木 両方ですよね。「これだけひどいことが起きるなんて、神的な何かが引き起こしているとしか思えない」という面と、「これだけひどいことが起きるのだから、神様なんて存在しない」という面と。その両方とも、この映画の中には入っていると思いますね。そこへあの十字架が効いてくる。
——いろんな思いと技術を磨き上げて作られた部分と、爆発的に楽しみながら取られた部分とが、この映画の両輪になっていますね。
佐々木 だから舞台挨拶では、いい話をしたんでしょうね。「あのシーンすごいでしょう!!」とは言えないもんね(笑)。もちろん、いい話の方も本当なのだろうけど、でも8割ぐらいは「やったるで!」っていう思いで撮っていると思う。
三宅 篠崎さんの舞台挨拶での「映画があってよかった」という言葉をききながら、僕は「真面目なことと楽しいことを同時にできるのが自分にとっては映画だった」と勝手に解釈しました。
佐々木 「分身」とか「予知」とかホラー部分をもっと暴走させることもできただろうけど、でも震災に関することもはっきりと残している。お互いがお互いを邪魔しかねないのに、奇跡的にそれが両立しているんですよね。だから面白いし、残るものにもなっている。すごい勝負作だと思います。普通なら、どちらかでバランスを取ろうとするでしょう。でも『SHARING』はどっちも全力。だからこの作品は篠崎くんにとって、何らかのブレイクスルーの1本になるでしょうね。今後の篠崎くんがとても気になる。
松井 本当にそう思います。
——『死ね!死ね!シネマ』の時に篠崎さんを突き動かしていたのは「コントロールできない熱意」だったように思うんです。でも『SHARING』を観ると、ある程度制御できていたのではないかと……
三宅 僕は篠崎さんのFacebookでこの映画の経緯を読んでましたけど、「ピクチャーロックした!」って言ってしばらく経つと「2カット直しました!」みたいな投稿を何度か目にしました。
松井 あはははは。
——「ピクチャーロックがいっぱいあった」って誰かに聞きました。
佐々木 それ「ピクチャーロック」って言わないよー(笑)!
三宅 「まわりの人は大変だろうなあ」と思いながらも、自分も似たようなことを何度もしてるので、「いいね!」をポチッと。
佐々木 日本のシネフィリーな映画史においては、そういう作り手は重要なんですよ。篠崎さんはすごく繊細な人じゃないですか。極端にどかーん!とは行かない。
三宅 普段から暴れてる人が作る映画ではないですよね。繊細な人ほどどかーん!といったときは怖い。ああ、こんなこと言っていいのか俺。
松井 いや、でもそれはわかりますよ。篠崎さんと話してても、普通に社会性のある方ですし。
三宅 カフェテオでたまに顔をあわせておしゃべりするのが楽しかったです。
松井 でも僕は篠崎さんの爆発してる部分、あるいは俳優の演技をとにかく観たくてのめり込んで撮ってる部分、それから編集し直し続けてたりするのも、「やっちゃったあ!」感がすごくするんですね。
佐々木 本当はそういう人なんじゃないですかね。そういう人が、何十年かかけて、社会性を身につけている。
三宅 たぶん、いや絶対、長男だと思うんですよ篠崎さんって!
一同 (爆笑)
三宅 長男って、なかなかすんなりとは爆発できないんですよ。下の面倒見なきゃいけないから。篠崎さん、長男だろうなー!って思ってました。
松井 『ジョギング渡り鳥』の時に鈴木卓爾さんが、とにかくみんなに編集させたじゃないですか。篠崎さんもそれと同じで、「どんな終わり方もありうるよね」っていう開き方をしているなあと思ったんです。
佐々木 『ジョギング渡り鳥』と『SHARING』って、映画を観終えた感触は全然違うけど、通じ合う何かがありますよね。「自由さ」というのかな。「これはやっちゃいけないよね」「ここまではやらない方がいいよね」ってみんなが何となく思っていた不文律を、二作ともぶち破っている。そこにこそ面白さがあって。『SHARING』も、映画美学校の修了生が関わっているんでしょう?
——共同脚本・助監督の酒井善三さんと、撮影監督の秋山由樹さん、録音の百々保之さんが、篠崎さんが受け持った14期生ですね。編集の和泉陽光さんも13期の修了生です。
佐々木 そうなんだ。順調に育ってるんですね。
三宅 僕は『ジョギング〜』つながりで言うと、卓爾さんが出てるシーンもすごい好きです。「あれ、これ、日付が……」っていう絶妙なトーン。研究者ってこんな感じだよなあ……!と思って。それと、ヒロインがはっきりと泣く、卓爾さんとの電話シーン。卓爾さんがある事実を彼女に淡々と報告する、そのトーンも忘れがたいです。
佐々木 「抑えてる」っていうことすら感じさせない、淡々としたトーン。
松井 風景の一つに溶け込んでる感じ。
三宅 なにかよくないときを伝えるときって、そう言うしかないですよねえ、とじっと観ていました。芝居って、そんなのもあり!みたいにリアルを広げてくれるときとか、たしかにそれしかないという決定的なリアルをみせてくれるときがありますけど、卓爾さんが映画に出てくるとそのどちらにおいてもいつも強烈で、忘れられないシーンが多いです。
松井 本当に、俳優を乗せに乗せて作られた映画だなあと思いますね。いい現場だったんだろうなあ。うらやましいなあって思う。
三宅 低予算映画って、俳優部の自由さが最初に犠牲にされるところがある。
松井 そうなんですよ! それ、ほんとにそう思うんですよ。やっぱり現場って、美術さんとか音声さんとか照明さんたちがいろいろ作り込んだ中に俳優は入っていくから、「あとはせりふだけ言ってくれればいいから」みたいな空気をひしひしと感じるんです。そこで少し噛んだり間違えたりすると「……(舌打ち)」みたいな雰囲気になったりする。ここでは俳優が「最後にせりふを言うためだけの人」として想定されているのか……って思って悲しいんですけど、でも俳優がそう感じてしまう現場というのは、やっぱり何かがおかしい気がするんです。
三宅 そう思います。現場って、いくらでも俳優の集中が切れ得る状況が頻発しますよね。でも山田キヌヲさんはほんの一瞬もそれを切らしていないようにみえるし、撮る側もそうだっていうことが伝わってくる。たとえば、チョークで黒板に書かれているシーンにしても、書き直したりとか。それ待たなきゃいけない。
——チョークが折れたりとか。
三宅 そう! 自動に動く黒板のタイミングだったり、カーテンだったり、芝居とは関係ない要素もたくさんある。俺、飽きっぽいから、俳優は絶対できなさそうだし、監督しててもそういうの待てなかったりします。この映画のチームはすごいなと。
——というこの現象は、奇跡ですか。それとも、また起こせること?
三宅 それを、また起こし続けるのがプロなんじゃないですかね。この映画を特別視するんじゃなくて、むしろこの作品を基準にしてエンターテインメントに取り組むくらいのことをしないと、もうたぶん誰も日本映画を観てくれないと思うし、おれも観ない。『SHARING』基準で作るエンターテインメントなら、観たいし、やりたいと思います。……ってやだな、まとめみたいな言い方になったでしょう今。
——そういうこと、気にするタイプですね。
三宅 気にしますよ。俺はただ山田キヌヲさんたちについてばっかり喋ってた人、ぐらいの扱いでお願いします!(2016/04/25)
三宅 篠崎さんにドッペルゲンガーがいて、今回はその二人で作ったと。
佐々木 そう。「黒篠崎」と「白篠崎」が一緒になった感じ。
——でも「グレー」にはなっていないですよね。すごく黒だし、すごく白。
佐々木 そうそう、そうなんですよ。そして観ながら僕が一番思ったことは、「ヒロイン、寝すぎ!」。
一同 (笑)
三宅 研究室で寝て、図書館で寝て、家のソファーで寝て。
佐々木 これほど「夢オチ」を展開している映画があっただろうかと。
松井 僕は、立教大学の新座キャンパスに何度か芝居を観に行っているんですね。あの迷宮のような建物の中で、すきま風がずっと音を立てていて、外で何かすごいことが起きていてもわからないくらいに閉ざされた、時間が止まった空間の中にいるような、独特の感覚が好きでした。
佐々木 演劇のシーンがあったじゃないですか。兵藤公美さんが演出をしている。
松井 僕、あそこ大好きです!
一同 (笑)
松井 地味ーに稽古している様子を、すごく丁寧に撮ってくれていて、しかも彼らがやっている芝居が、この作品のあり方そのものと強い関わりがあるということがだんだん見えてくる。篠崎さんってそういう、重ね塗りがうまいなと思ったんです。
三宅 僕はまず、「ヒロイン最高!」って思いました。山田キヌヲさんの第一声を聞いた瞬間にすぐ惹かれました。小さいけれど芯のある強い声をきいて、「お、なんだこの人は」と。観終わったあとですが、知的で動けるカッコいい女優が活躍するアメリカ映画、たとえばジョディ・フォスターが演じた『コンタクト』の博士などを思い出しました。そして終盤、彼女と樋井明日香さんが少し離れたところから無言で会釈をしあうシーンも好きで。この映画にはいろんな要素がありますが、この二人の映画だったんだ、とスッと着地していく感覚がありました。あと、これはホームページに寄せたコメントにも書いたんですけど、木村知貴さんの存在感がとにかくほんとに好きで。
松井 僕もです。
佐々木 気のない感じで、いいことを言う。
三宅 居酒屋で冗談めいたことを言って、キヌヲさんに思いっきりスルーされるところは最高ですね。俺もこうありたい!って思いました(笑)。しかも、セクシャルなものがない異性の友達っていう関係が、無理なく、ごくあたりまえに描かれていたこともすごく好きで。
佐々木 戦友感、ありましたね。バディ感というか。
三宅 意外と出しづらいと思うんですよね、ああいう開かれた雰囲気って。30オーバーで、タメ口で話す異性同士なのに、いやな意味でのセクシャルなそぶりがなくて、ものすごくいい関係に見えました。あの男は、彼女の苦悩を直接的にはまったくシェアしていないけど、でも最後、隣で一緒に芝居を観ながら拍手しているのをみて、ああコイツが彼女の隣にいて本当によかったと思って。男をああ描くのはすごく難しい。強い女性を描くときって、相対的に男性を単純に弱く描いてしまうところ、木村さん演じた彼はそうではなく、なんというか、柔らかい。彼がいない映画だったらイヤです。
佐々木 決して、恋人の代わりではないんだよね。
三宅 まったくないんです。でも、横にいると安心できる。観終わった後で篠崎さんに感想のメールを送ったんですが、それを読み直すと、まずヒロイン2人と男に惹かれたということを書いたのと、あと、この映画がいかにリアルかということ、ホラー映画やSF映画ともいえるエンターテイメント映画であることに刺激を受けた……というか、嫉妬しましたって生意気に書いちゃってました。
佐々木 そう、徹底的にエンターテインメントの技法で撮られているということが、すごく効いている映画だと思いますよ。終始、すごいギミックが重ねられていくじゃないですか。あるシーンで僕は、普通に背筋が、びくっ!ってなったし。
松井 僕もなりました。
三宅 尻が上がりました。
佐々木 そういうことと、テーマのシリアスさが、とても独特な形で両立し得ている。途中で「こんなに面白くて大丈夫なのかな」とさえ思いましたもん。
三宅 あえて言うと、もし、この映画がシリアスな部分だけでできていたら、きっと僕は苦手ですね。というのも、例えば「当事者ではない人間に何ができるか」みたいな、この映画自体への批判的な視点をさきに劇中で語るようなことって、題材について考え抜いているからこそできることですが、そこばかり目立っちゃうと「閉じた映画」になりかねない。この映画はスレスレでそういう部分もあるとは思うけど、そうではない豊かな部分、やっぱり俳優たちの魅力だったり、いろんな演出だったり、そういう部分にぼくは刺激をうけました。
佐々木 すごく考え抜かれているというのは、強く感じますよね。シナリオや、現場での芝居を、固めるのではなく広げるようにして作られているんだろうなと思いました。あと、震災以後に作られた創作物の中でこの映画が特異なのは、「震災以前」を描いているということ。キヌヲさん演じる心理学者が探しているのは「震災のことを、震災以前に予知した人」だし、彼女の恋人が部屋に現れるのも「震災の前日」だし。
三宅 この物語の出発点として、「もし仮にタイムワープができて、3月10日に帰れたら、何ができるだろうか」というシンプルな命題があったんじゃないかと思うんです。すごく悲しいお題ですけど。そこから、こうした物語につながっていったのかな、と。
佐々木 そしてあの、111分版の終わり方をどう受け取るかですよ。沖島勲監督の遺作になった『WHO IS THAT MEN!? あの男は誰だ!?』もそういう不穏な終わり方をするんです。投げっぱなし感というか、観客を宙吊りのまま放り出すみたいな感じがある。
三宅 劇中、お芝居を観て、帰り道にキヌヲさんと木村さんが立川談志の話をして、お話としてはそこで終わりでもいい。そのほうが気持ちいいかもしれない。でも、この映画をいい話にしちゃうってどうなの、ともいえる。そこへ、あのラストシーンが来るんですよね。「やっつけたと思ったゾンビがまだ生きていた」的な不穏さで。
佐々木 あれを最後に足したくなっちゃうところが、「黒篠崎」的な何かなんだろうな(笑)。
松井 僕は、あの不穏なラストシーンまでやりきってくれたことで、映画から受け取ったものがこれから先も自分の中で育っていくんだろうなという予感がしました。(続く)
<その2>
「当事者か否か」ということ。「何かすることを許されているかいないか」ということ。あの春以降、そしてこの春も、みんなが考え続けているそのことについて、話はめぐります。
三宅 ちょっと愚痴を言ってもいいですか。誠実さとか、真面目さとか、真摯さとか切実さが、震災以降の社会ではなにか特別すごいことのように語られる。誤解を恐れずに言えば、それだけでできてる映画ってはっきり言ってつまんないんですよ。よく映画の紹介記事に「時代に誠実に向き合った映画」とか褒め言葉みたいに書いてあって、馬鹿なんじゃないかと。
一同 (笑)
三宅 いや、もちろん誠実さを批判する気はゼロで、むしろごくあたりまえであるべきなのに、にもかかわらず、題材とか形式の表面だけで誠実さを持ち上げて語ったり、シリアスをきどるのはいかがなものか、と。超くだらないコメディ映画とか、とんでもないホラー映画のほうが、場合によってはどれだけ救いになるだろうかと。そういうモノの作り手はたいてい「誠実」なんて言われないし、言われたくないかもしれないけど、「シリアスぶった映画」なんかよりも、ずっと「時代に向きあっている」こともあるとぼくは思っています。笑わせてくれるか、エロい気持ちにしてくれるか、怖い気持ちにしてくれるか。どんなに真面目でも、面白くないと。篠崎さんは圧倒的なホラーの技法で「怖い気持ち」にさせる。そして、観客を「当事者」にさせている。
松井 「当事者」ということについては、劇中の大学生たちも悩んでいましたよね。その感覚は僕もよくわかるんです。俳優が演じながら「自分は当事者ではない」という認識に追いつめられてしまう感じ。あるいは、自分は役柄とは距離を置いていると思いながらも、知らぬ間にバランスを崩してしまってる感じ。自分で自分のことをうまくコントロールできない、そこが人間の面白いところだと思うんです。人間は、わりとでたらめ。そのでたらめさを、篠崎さんはきっとわかっているんですよね。映画が生真面目方向へ傾かず、まっすぐに突き進んでいるのは、篠崎さんの人間の見方がすごく出ていると思う。誰のことも、何も、決めつけない眼差し。
佐々木 あるオーストリア人の劇作家が、インターネットやテレビのニュースで観た日本の震災を題材に芝居を作ったんですね。彼女がやっていることって、ある視点から見れば「震災をネタにしやがって」と思われかねないんだけど、でもそもそも、フィクションとはそういうものじゃないですか。「本当の当事者でもないのに創作物の題材にするなんて欺瞞だ」という言い分に対しては「いや、そうだとしたらすべてのフィクションは欺瞞だ」と言える。この映画も、ホラー映画というある種極端な技法で震災を取り扱っているわけだけど、でもこんな話をこんなふうに撮るっていうことこそが、篠崎くんの誠意であり真摯さなのだと僕は思うんです。
松井 すごくわかります。
佐々木 大きくて悲劇的な出来事があると、必ず「○○に何ができるのか問題」が発生するじゃないですか。音楽だったり演劇だったり映画だったり、「そんなことやってる場合じゃないだろう」という。でもその「そんなことやってる場合じゃないだろう」という言い分にこそ、僕は欺瞞を感じるんです。考えるべきは「自分がこれまでやってきたことをこの状況にどう生かすか」でしかないはずでしょう。篠崎くんは震災の時に「映画に何ができるのか」って無力感を感じていたけど、いや、映画でこそ、こういうことができるんだというふうに考えが反転した、というようなことを初日の舞台挨拶で言っていたらしいんです。「自分は映画を通して世界とつながっている。映画があってよかった」と。
三宅 『SHARING』という映画が存在すること自体と、その映画の中で起きていたことから僕が思ったのは、人間はそれなりに弱いけど、まあまあ強えな!っていうこと。「こんなことしてる場合じゃないけど、でも、しちゃうんです!」っていう、ある種の馬鹿さやしたたかさを持った、強さ。悲しいことがあっても、人は寝るし食べるし。強くはないけど、弱くもない。
佐々木 うん。あんなに居眠りしてるヒロイン、いないよね(笑)。
三宅 シリアス風映画批判をまたしますと、そういう映画の主人公って、ずっと悩んでるんですよ。そんなやついない。いや、いるかもしれないけど、それをもって「誠実」とかリアルとか評するのは、おいちょっと待て、と。
松井 そうですね。エロいことも考えるし、食べ物のことも考えるし。
三宅 そうなんですよ。だから、ぼくは『SHARING』の居酒屋とか、居眠りすることとか、ほんと好きというか、救いになってます。いまやどんな映画だって「震災以降」でしかないんだから、「直接的に震災を扱っているかいないか」とかはもはやどうでもよくて、「扱わない」という選択をしている映画も同じ「震災以降の映画」として観ます。もし『SHARING』を誠実と呼ぶのなら、原発を扱ったことと同じ重さで、居酒屋や居眠りのシーンをあのように描いたことを持ち出したいです。
佐々木 自分が持っている映画的な技能、知識とか才能とか技術とかを上限まで使い切ると、訴えたいテーマやメッセージが伝わりづらくなるから、ギミックはちょっと手控えて、伝えたいことを伝えよう、っていう作品が今は多いんだと思うんです。そのこと自体は否定できないんだけど、でも『SHARING』はそこをまったく手控えていない。それがこの映画の素晴らしいところだと思うんですね。とにかくどんどん足していく、突っ込んでいく。だから観客は引き込まれて、いつのまにかテーマのようなものが手の中に残っている。そこが希有だと思うんですよ。人間的なテーマを伝えたい篠崎さんと、映画を面白くさせたくてたまらない篠崎さんが、両方とも存分に力を発揮している。「面白い映画」と「真面目な映画」って、矛盾する存在だと思われがちだけど、そんなことはないっていう好例ですよね。持てる技術を駆使しまくっている。
松井 すごく豊かですよね。今まさにそうですけど、大きな災害が起きた時って、みんな慎重に言葉を選ぶじゃないですか。真面目さが、言葉だけで表されている。でも言葉だけの真面目さって、情報量は決して多くないんですよ。同じことを話してても、ちょっと目線を外されたり、ひそかにあくびしてたりすることで伝わってくるニュアンスってあるでしょう。それでもなお言葉だけで伝え合おうとしている人たちを見ていると、すごく窮屈に思うんですね。『SHARING』を観ている間、僕は五感でどきどきわくわくしていたし、そのことによって胸に残ったものが、言葉で伝わってきたものを軽く超えてきたんです。そこまで到達してこそ、真摯に響いてくるものがあった。
佐々木 そうなんですよね。
松井 で、なぜそんな希有な映画ができたのかってことを考えると、僕は自分が俳優だからこう思うのかもしれないんですけど、篠崎さんは俳優の演技が本当に好きなんだと思うんですよ。俳優が起こしていることを、きちんと受け取っている。最初に作った設計図通りじゃなくて「そう来たら、次はこうなるよね」という試行錯誤を、かなり重ねていたんじゃないかと思うんです。だってあんなせりふは、前もって決められたせりふとしては絶対に言えないですよ。特に、山田キヌヲさんと樋井明日香さんが、画面を分割して向き合っているところ。僕はあそこをいったいどう撮ったのか、知りたくて知りたくて聞いちゃったんですけど(笑)、二人ともカメラに向き合いながら、でも互いが視界に入る形で座っていたらしくて。
三宅 二人が斜め向かいに座って、それぞれの正面にカメラが据えてあるという。
松井 だから、二人の間に本当の反応が起こってるんですよね。そういうことを仕掛けられると、俳優はすごく乗れるんです。それがしっかりとカメラに捉えられているから、そこから伝わってくる情報量もすごく多い。
三宅 僕が一番好きなのは、恋人が部屋に現れるところ。彼女はほぼしゃべらない。でも、彼女の表情の変化だけで、何を考えてるか、その経緯がすごくよくわかるんです。自分が、彼女となにかをシェアリングする瞬間ですよ。
松井 ああーやばい、思い出した。あそこ、すごい来ますよね。
三宅 他人が考えていることが全部伝わってくるような経験って、まさに映画や芝居をみるという体験だからこそだなと。『SHARING』というタイトルは、あのシーンをみるという映画体験に掛かっているとぼくは思います。あそこでタイトルがどーんって、さすがに出るわけないけど(笑)、ぼくの中では出てました。
佐々木 あそこは確かにクライマックスですね。相当辛抱強く撮っている。
三宅 夢か現実かわからなくて、恋人はすでに死んでいるはずなのに目の前にいて、時間的にも2011年なのかいつなのか、まったく謎の時空間ですよね。そういう難しい状況なのに、それを彼女が理解していくのとほぼ同時に、ぼくたちも手にとるようにわかってしまう。簡単な感情ならまだしも、すごく難しい状況を彼女とシェアできてしまうわけで、いま思うとすごい瞬間を経験できたなと。この映画をみなかったらたぶん実人生で体感しえない瞬間だけど、もうぼくの実体験になってますから。
松井 そういうことがこの映画では起こり得ますよ、っていうことを、それまでの間にかなり積み重ねてきていますからね。
佐々木 もう何が起きても不思議じゃない、っていう境地にまで観客を連れてきてからの、あのシーンだからね。憎いな、って思う。たくさん映画を観てきた人の仕業だな、って。
三宅 シワザ感ありますね。「篠崎さんすげー楽しいだろうな!」って思います。つなぐ前から、撮影しているときから楽しい映画だろうなって。目の前の芝居に心底感動もしてるだろうし、「めっっちゃおもしろい!」「すげーの撮れたあ!」ってはっきり思ってたはず。
佐々木 うん。ほくそ笑んでるでしょう、明らかに(笑)。
三宅 ちゃんと目の前で、コトが起きてる。それが面白いんですよね。(続く)
<その3>
「『SHARING』は篠崎誠である」、という公式をふと思いつく。この映画は、篠崎誠まるごとであると。そして編集担当は胸に決めるのだ。これは「観た人」に読ませる記事ではない。「まだ観ていない人」にこそ、届けるべき記事だと。3人の大人が笑ったり怒ったり、幸福な2時間の最後のお届けです。
松井 篠崎さんってほんと、不思議な人だなあと思うんですよ。ある種のアナーキーさみたいなものがあるんだけど、それをコントロールして出せるし、でも出し方がすごく突発的。ちょっと真面目に行こうとすると、やっぱりどこかで真逆の方向に振れたいという、アーティストの狂気みたいなものを感じるんですよね。
佐々木 わかります。(パンフの写真を指して)このシーンとか、やばかったよね!(※黒板に「JESUS」についての一文が板書してあるシーン)
松井 そう! あと、何度か教会が映りこみますよね。
佐々木 「神」の存在をちらほら意識させながら、基本的には神を引きずり下ろしている映画ですよね。大きな災害みたいなことって、やっぱり神の問題と結びつきやすいじゃないですか。それをこの映画は、先回りして防いでいるみたいな感じがある。
三宅 冒頭からその話が出てきますよね。「神様の存在を信じますか」って聞かれたキヌヲさんが「いいえ」って答える。そう答えるまでの微妙な間とか、「いいえ」の言い方とか、目の表情とか、すごく好きなんです。あそこからすべてが始まってる。めっちゃカッコいい出だし。
松井 神を引きずり下ろすことも含めて、篠崎さんの壮大なスケールを感じるんですよね。職人でもあり、アーティストでもあり。超越的なものに対しての恐れもありつつ、でも「信仰」まではいかず、常に前を見ている。
佐々木 高橋洋さんとかトビー・フーパーとか、多くのホラー映画の作り手たちも、ホラー映画の枠組みを駆使する一方で、神についての問題に取り組んでいるじゃないですか。篠崎くんはそういう映画を死ぬほど観てるから、それがもはや血肉化していて、ほっといてもこういう映画になっちゃうんだろうな。
——三宅さんは、「神」との距離感はどんな感じですか。
三宅 決まった信仰心はないですが、嫌なことがあると「バチがあたった」って思うタイプです。「3日前の信号無視のせいかな……ごめんなさい……」っていう(笑)。
——私も、特別「神」的な概念の洗礼を受けていないし、ホラー映画も通ってきていないんですが、大きな災害が起きた時とかに「神様的な何かのせいにしないとやってられない」という感情はわかるんです。
佐々木 両方ですよね。「これだけひどいことが起きるなんて、神的な何かが引き起こしているとしか思えない」という面と、「これだけひどいことが起きるのだから、神様なんて存在しない」という面と。その両方とも、この映画の中には入っていると思いますね。そこへあの十字架が効いてくる。
——いろんな思いと技術を磨き上げて作られた部分と、爆発的に楽しみながら取られた部分とが、この映画の両輪になっていますね。
佐々木 だから舞台挨拶では、いい話をしたんでしょうね。「あのシーンすごいでしょう!!」とは言えないもんね(笑)。もちろん、いい話の方も本当なのだろうけど、でも8割ぐらいは「やったるで!」っていう思いで撮っていると思う。
三宅 篠崎さんの舞台挨拶での「映画があってよかった」という言葉をききながら、僕は「真面目なことと楽しいことを同時にできるのが自分にとっては映画だった」と勝手に解釈しました。
佐々木 「分身」とか「予知」とかホラー部分をもっと暴走させることもできただろうけど、でも震災に関することもはっきりと残している。お互いがお互いを邪魔しかねないのに、奇跡的にそれが両立しているんですよね。だから面白いし、残るものにもなっている。すごい勝負作だと思います。普通なら、どちらかでバランスを取ろうとするでしょう。でも『SHARING』はどっちも全力。だからこの作品は篠崎くんにとって、何らかのブレイクスルーの1本になるでしょうね。今後の篠崎くんがとても気になる。
松井 本当にそう思います。
——『死ね!死ね!シネマ』の時に篠崎さんを突き動かしていたのは「コントロールできない熱意」だったように思うんです。でも『SHARING』を観ると、ある程度制御できていたのではないかと……
三宅 僕は篠崎さんのFacebookでこの映画の経緯を読んでましたけど、「ピクチャーロックした!」って言ってしばらく経つと「2カット直しました!」みたいな投稿を何度か目にしました。
松井 あはははは。
——「ピクチャーロックがいっぱいあった」って誰かに聞きました。
佐々木 それ「ピクチャーロック」って言わないよー(笑)!
三宅 「まわりの人は大変だろうなあ」と思いながらも、自分も似たようなことを何度もしてるので、「いいね!」をポチッと。
佐々木 日本のシネフィリーな映画史においては、そういう作り手は重要なんですよ。篠崎さんはすごく繊細な人じゃないですか。極端にどかーん!とは行かない。
三宅 普段から暴れてる人が作る映画ではないですよね。繊細な人ほどどかーん!といったときは怖い。ああ、こんなこと言っていいのか俺。
松井 いや、でもそれはわかりますよ。篠崎さんと話してても、普通に社会性のある方ですし。
三宅 カフェテオでたまに顔をあわせておしゃべりするのが楽しかったです。
松井 でも僕は篠崎さんの爆発してる部分、あるいは俳優の演技をとにかく観たくてのめり込んで撮ってる部分、それから編集し直し続けてたりするのも、「やっちゃったあ!」感がすごくするんですね。
佐々木 本当はそういう人なんじゃないですかね。そういう人が、何十年かかけて、社会性を身につけている。
三宅 たぶん、いや絶対、長男だと思うんですよ篠崎さんって!
一同 (爆笑)
三宅 長男って、なかなかすんなりとは爆発できないんですよ。下の面倒見なきゃいけないから。篠崎さん、長男だろうなー!って思ってました。
松井 『ジョギング渡り鳥』の時に鈴木卓爾さんが、とにかくみんなに編集させたじゃないですか。篠崎さんもそれと同じで、「どんな終わり方もありうるよね」っていう開き方をしているなあと思ったんです。
佐々木 『ジョギング渡り鳥』と『SHARING』って、映画を観終えた感触は全然違うけど、通じ合う何かがありますよね。「自由さ」というのかな。「これはやっちゃいけないよね」「ここまではやらない方がいいよね」ってみんなが何となく思っていた不文律を、二作ともぶち破っている。そこにこそ面白さがあって。『SHARING』も、映画美学校の修了生が関わっているんでしょう?
——共同脚本・助監督の酒井善三さんと、撮影監督の秋山由樹さん、録音の百々保之さんが、篠崎さんが受け持った14期生ですね。編集の和泉陽光さんも13期の修了生です。
佐々木 そうなんだ。順調に育ってるんですね。
三宅 僕は『ジョギング〜』つながりで言うと、卓爾さんが出てるシーンもすごい好きです。「あれ、これ、日付が……」っていう絶妙なトーン。研究者ってこんな感じだよなあ……!と思って。それと、ヒロインがはっきりと泣く、卓爾さんとの電話シーン。卓爾さんがある事実を彼女に淡々と報告する、そのトーンも忘れがたいです。
佐々木 「抑えてる」っていうことすら感じさせない、淡々としたトーン。
松井 風景の一つに溶け込んでる感じ。
三宅 なにかよくないときを伝えるときって、そう言うしかないですよねえ、とじっと観ていました。芝居って、そんなのもあり!みたいにリアルを広げてくれるときとか、たしかにそれしかないという決定的なリアルをみせてくれるときがありますけど、卓爾さんが映画に出てくるとそのどちらにおいてもいつも強烈で、忘れられないシーンが多いです。
松井 本当に、俳優を乗せに乗せて作られた映画だなあと思いますね。いい現場だったんだろうなあ。うらやましいなあって思う。
三宅 低予算映画って、俳優部の自由さが最初に犠牲にされるところがある。
松井 そうなんですよ! それ、ほんとにそう思うんですよ。やっぱり現場って、美術さんとか音声さんとか照明さんたちがいろいろ作り込んだ中に俳優は入っていくから、「あとはせりふだけ言ってくれればいいから」みたいな空気をひしひしと感じるんです。そこで少し噛んだり間違えたりすると「……(舌打ち)」みたいな雰囲気になったりする。ここでは俳優が「最後にせりふを言うためだけの人」として想定されているのか……って思って悲しいんですけど、でも俳優がそう感じてしまう現場というのは、やっぱり何かがおかしい気がするんです。
三宅 そう思います。現場って、いくらでも俳優の集中が切れ得る状況が頻発しますよね。でも山田キヌヲさんはほんの一瞬もそれを切らしていないようにみえるし、撮る側もそうだっていうことが伝わってくる。たとえば、チョークで黒板に書かれているシーンにしても、書き直したりとか。それ待たなきゃいけない。
——チョークが折れたりとか。
三宅 そう! 自動に動く黒板のタイミングだったり、カーテンだったり、芝居とは関係ない要素もたくさんある。俺、飽きっぽいから、俳優は絶対できなさそうだし、監督しててもそういうの待てなかったりします。この映画のチームはすごいなと。
——というこの現象は、奇跡ですか。それとも、また起こせること?
三宅 それを、また起こし続けるのがプロなんじゃないですかね。この映画を特別視するんじゃなくて、むしろこの作品を基準にしてエンターテインメントに取り組むくらいのことをしないと、もうたぶん誰も日本映画を観てくれないと思うし、おれも観ない。『SHARING』基準で作るエンターテインメントなら、観たいし、やりたいと思います。……ってやだな、まとめみたいな言い方になったでしょう今。
——そういうこと、気にするタイプですね。
三宅 気にしますよ。俺はただ山田キヌヲさんたちについてばっかり喋ってた人、ぐらいの扱いでお願いします!(2016/04/25)
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