「市沢紳介」

この企画は映画美学校事務局員の市沢真吾と、周辺をふらついているスズキシンスケが、ひたすらに映画について、そして映画から大きく脱線して「ただ無責任にだべるだけ」の企画である。

今回は二人で『映画 ビリギャル』を見ながら、その本編時間内にコメンタリーという形(+30分オーバー)で「テキトーにお話」をしてみた。
(完全にネタバレですのでご注意を!) 
映画美学校HP 


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【プロフィール】
市沢真吾:(写真右)
映画美学校フィクション・コース第1期修了生。現映画美学校事務局員。本編では触れていないが、『ビリギャル』の撮影は、なんとフィクション・コース修了生の花村也寸志くんがつとめている。いずれ詳しく話を聞いてみたいところだ。 

 

スズキシンスケ:(写真左)
1988年生まれ。映画美学校フィクション・コース第12期修了生。フリーペーパー・20代のための映画情報紙「CinEmotion(シネモーション)」主筆・ライター統括。映画美学校修了生の中でも歴代屈指の器用貧乏=ハイパーメディアジェネラリスト。

収録日:
2016/05/12

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市沢 確か去年のGWくらいに公開されている映画なのでほぼ1年前の映画ですけど(2015/5/1公開)、にわかに『映画 ビリギャル(以下ビリギャル)』っていう映画がね、今年入ってからかな、学校の講義界隈で、高橋洋さんたちから、話題に上る事が多かったんですね。で、見てみたら「お、これは結構面白いな」っていうか、普通に面白いというよりも「何か意志を持って撮っている映画だな」と思った。
それは後々語っていく、我々が思う「アメリカ映画」の良さみたいなもののところに触れているようなところがあって……ということに繋がって来るんですけども。
 

シンスケ この企画の中で僕らは「アメリカ映画」って単語を無責任に言ってしまって良いわけですね?

市沢 えーだめかな(笑)。「アメリカ映画」って言った方が……まぁだから「『アメリカ映画』って何なのか」っていうのがそもそも……

シンスケ そういう「厳密さ」はここでは置いといて(笑)。

市沢 まあ、喋りながら探って行きたいわけですよ。
「アメリカ映画的」とか言った時に、じゃあそれってどういう部分なのか?っていうことを考えさせられる映画だったんですよ。この『ビリギャル』という映画は。
通常ならばやらないことを、かなり意志を持ってやっているような印象があったんです。特にいくつかのショットにそれが見える。で、それはほかならぬ監督が明確に意識してやっているような印象があると思って。それも気になって、かつ面白かったのでシンスケくんに勧めてみたわけです。

シンスケ 「お前ヒマだろ?」システムですね。

市沢 「まぁ物理的には時間あるでしょ?」「一日は
24時間あるんだから、その中の2時間くらいは取れるでしょ?」みたいな。ヒドいなぁ(笑)。

シンスケ そういう関係ですからね、我々は(笑)。

市沢 で、どうなんですかね。シンスケくんは面白かったという感触があるので、この企画を立ち上げたわけですけどね。

シンスケ あの……傑作だと思います(笑)。

市沢 ただ何て言うんですかね、燦然と輝く傑作、とかそういう話をしたいわけではなく……

シンスケ はい、もちろん。

市沢 スタンダードなことをきっちりやっていると。「スタンダードである」ということを、公開から一年も経って、別に旬でも何でもない映画にもかかわらずわざわざ取り上げるのはなぜか。それは自分たちがいま「映画のスタンダードって何なんだろう?」っていうのを考えることが多いんですよ。それにかなり合致するのがあるんじゃないかなと思って取り上げることにしました。
どういう風に取り上げるかというと……オーディオコメンタリーを録るかのように今から映画を見ながら我々二人が喋るという、ねぇ(笑)。

シンスケ (笑)

市沢 まぁこんな前置きしていますけど、おそらくダラダラ喋る感じになると思うので。

シンスケ 脱線しまくり確実ですね。

市沢 まぁ、お付き合い下さい。誰に向けて言っているんだって感じですね。

シンスケ あ、本編をはじめる前に言った方がいいかな。はじまったら最初は映画の話を多分しちゃうから。
『ビリギャル』の評判について知ったのはTwitterのリツイートで回って来たのがはじめだと思っていたんですよ。黒沢清さんが言及しているらしいという件について。読みました、それ?

※【映画企画】黒沢清監督インタビュー
 『ビリギャル』についての言及はPage2にある 
http://kenbunden.net/general/archives/5076


市沢 ああ、ありましたね。

シンスケ 僕は多分美学校の同期の人のリツイートで知ったのかな。それがはじめて『ビリギャル』の名前が俺の眼に飛び込んで来た瞬間だった、と今まで市沢さんには喋っていたと思うんですけど、違いました。さっき思い出したことがあります。
脚本コースのTAをやっていた時に、クラス講義が終わって「『ビリギャル』面白かったんです。観ました?」ってある受講生から聞かれて「いや、多分俺が観ることはないかなぁ……」って答えていたっていう。

市沢 そうねぇ。まぁ正直に言ってしまうとそういう印象をもたれかねないとは思います、やっぱり日本映画って……こういう言い方もどうか分かりませんが、いわゆる製作委員会方式で作った映画に対して、ある種の偏見がないとは言えないでしょ? だからそういう偏見で見てしまっている映画が山ほどある中で、一本『ビリギャル』みたいなものを見つける、もしくは見つけようと思う事自体なかなか難しいことなんでしょう。まぁ、そういう印象があったと。

シンスケ ですね。TV映画とかと言われる『
アンダルシア 女神の報復』なんかはたまたま観て「いやいや、これ傑作っしょ!」とか一時期勝手に一人で騒いでいたにも関わらず、そういう偏見が抜けていないところがあった、と。大変失礼致しました。
で、その後黒沢さんの感想というか、それを知って。その時、新文芸座でちょうど『ビリギャル』をやったのかな。それでも僕は行かず(笑)、で、美学校に来たら市沢さんから「『ビリギャル』が……」って言われて(笑)、それで折れてようやく見て、これはエラいことだと思って、再度今から見てみると。


市沢 だから「ちょっと悪いんだけど睡眠時間
4時間のところを2時間にしてもらって見てもらう他ないかな」みたいな感じでしたね(笑)。

シンスケ ですね(笑)。まぁ、僕が美学校にいたりして、帰りが同じ時間とかにダラダラと市沢さんと喋っていることを自分たちの中で、昔やっていた某番組にかけて「市沢紳介」と言っていて。まぁほとんど時事放談なんですけど。

市沢 そうね。時事放談を
Twitterでつぶやいてみようとか、企画の種みたいなものは何かしら思いつくんですけど、思いつくだけで一向に成立しないので(笑)、ここでえいや!って収録してしまえっていうことですね。

シンスケ 第一回目ということでやってみましょう。じゃあ本編映像流します。


※ここで本編
DVD
の再生を開始。以後は『ビリギャル』を流しながらコメンタリーのようにリアルタイムで好き勝手に喋っている。


◯ 少女時代の主人公・ビリギャル、土手で走り行く新幹線を見ている

市沢 そうそう、私、人物が画面外の何かを見ているカットからはじまる映画っていうのが好きでね。

シンスケ このシーンは後に効いてきますよね。


◯ 主人公が父親の仕事場を通って家に帰ってくる

市沢 父親が車屋さんをやっているっていうのが、サラッと……

シンスケ 今の画面に出てくる「のぼり」を見ただけで、父親の仕事も分かるんですよね。

市沢 そう。あの
1カットの中でね、オヤジさんの職業と物語上の立ち位置みたいなものが分かる。


◯ 父親(田中哲司)と弟が野球の練習をし、それを見ている主人公、妹、母親(吉田羊)

シンスケ これで家族の関係性も分かるんですよね。

市沢 そうですね。父親は息子にべったりで、母親はとにかく娘二人を育てているっていうことが、少ない情報でも分かるんですよね。


◯ 小学校の職員室、母親が教師と喋っている

市沢 主人公が怪我をして、いじめだということを……

シンスケ また教師が……(笑)

市沢 教師が分からず屋な感じなんですけど、それがね、「こんなやついねぇよ」って感じでもないのがよかったですよね。で、その後ドアを開けたらすぐ「転校しましょう」という展開になるんですよ。この早さね。


◯ 土手で主人公と母親が歩いていると、私立の制服を着た中学生とすれ違う

市沢 この「転校しましょう」っていうところから、道ですれ違った中学生の制服を見て「あそこの制服かわいいね」って主人公が言うっていうね。これで主人公が私立の中学校を受験することが決まるんですけど、お母さんが「ワクワクすることだけしてればいいの」ってセリフを言う。この理解のある感じがね〜。まぁ「理解がある」というのはいいことでもあるけど、しかし結局それが後々ビリギャルをビリギャル足らしめている要素にもなっているっていうね。実際に親の身としてはね、非常に身につまされるものがある。

シンスケ (笑)

市沢 そしてこのシーンですね。私立の中学校に合格して、制服を着た主人公が教室に入ってくる、と。

 

(教室に入ってくる主人公、通り過ぎようとするがいきなりスカートの後ろを同級生に掴まれ後ろに引っ張られる→カットが変わり腰の寄り、ティルトアップしつつジャンプカットでスカートの丈を短くされる→三人の同級生正面のショット「短くしたほうがかわいいっしょ」と言われる)

シンスケ 素晴らしいですよね、これ。

市沢 はじめて友人が出来るシーンですね。「友人が出来るということ」、「ファッションに目覚めるということ」、「ギャルに目覚めるということ」。これを非常に少ないカットで見せ切っている。


◯ その友達たちと廊下を歩いている主人公、歩いているのをトラックバックでキャメラは捉えるが、ジャンプカットのようにカットが変わり時間が飛ぶ(そのまま高校生=有村架純になる)

市沢 ここね。少女時代が終わって有村架純になるまで、映画開始からここまで
4分ですよ。


◯ 教室内、授業中にメイクをしている主人公

市沢 ここの教師役の安田顕さんのね、「クズが」って女子高生に向かって言うのがね……台詞だけだとかなりどぎついんだけど、でもそう言わざるをえないほど、クラス全体が授業を全く聞いていない(笑)。さすがにこれでは先生も腐ってこう言っちゃうかもなって(笑)。


◯ クラブで踊る主人公と友達たち

シンスケ クラブのシーンはいただけないかもと思ったんですけど(笑)。

市沢 クラブのシーンを映画で描くっていうのは、よく言われますけどなかなか難しいですよね。ただ踊り方がね、慣れてなくてかわいいっていう。慣れてなさっぷりがかわいいっていう(笑)。

シンスケ 実際にクラブに行ったことなさそうですよね……

市沢 まぁ行き慣れてないところに行っているなっていうことなのかね。


◯ 朝帰りの後、ドタバタと朝食を取った主人公、家を出ていく

市沢 このお母さんが娘に投げかける言葉っていうのがね、常に優しい感じっていうのがまたちょっとね、身につまされますよね。

シンスケ お母さんは訛らないんですね。

市沢 あ、そうだね。確かに。

シンスケ お父さんが怒っている時は訛っているんですよ。名古屋とかって男が怒っている時に訛るのかな?

(※こんな感じで裏取もせず、ひたすら好き勝手に喋っておりますがご容赦下さい)


<その2>

「市沢紳介」

この企画は映画美学校事務局員の市沢真吾と、周辺をふらついているスズキシンスケが、ひたすらに映画について、そして映画から大きく脱線して「ただ無責任にだべるだけ」の企画である。

【『映画 ビリギャル』と「アメリカ映画」編】その2(完全にネタばれですのでご注意を!)

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 ◯ 鞄の中のタバコが見つかり校長室で怒られる主人公〜自転車で学校にやってくる母親

 

市沢 校長に怒られる主人公、そのリアクションのカットからお母さんが自転車に乗って学校にやってくるまでのつなぎなど、全体が早いですね。

 

シンスケ そうですね。

 

市沢 このリアクションがね、さっきの校長先生から叱責されて主人公が校長を見て、すぐに自転車で来るカットになるっていう。このリズムがね、全体を通して続くんですよね。

 

 

◯ 家で主人公が髪の毛を染めている

 

市沢 この髪を染めながら自分のことについて語っているっていう。まぁ本当にこれもね、家で自分で髪を染める時ってこんな感じなんですよね。サランラップ頭に巻いて。ウチの兄貴もそうでした。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 リアルだなっていう感じ。家で髪染めるってこういう感じだよなぁみたいな。

 

 

◯ タイトルイン

 

シンスケ ここまで、アバンタイトルが約10分ですね。素晴らしいリズムです。

 

 

◯ 塾で塾講師(伊藤淳史)と主人公が喋るシーン

 

シンスケ 意外と有村架純、胸チラしているなぁとか余計なことを思ったんですけど。

 

市沢 やっぱりそこらへんがね、お客さんへの最初の引きになっていると思いますよ。これは明石家さんまも言っていましたからね、胸チラじゃないですけど「有村架純が金髪っていうのがちょっと色っぽいんだよね」みたいなことをね。

 

シンスケ ああ、そういうところでの引きもあるっていうことですね。

 

市沢 そう。いわゆる「いつもテレビで見ている芸能人のちょっと違う一面を見られる」みたいな引きもあると思うんだよね。だからそういうところ、つまり金髪がちゃんと輝いて見えるように、逆光になっているっていう。

 

(横位置で二人が喋っている)

 

シンスケ ここ、画面上の方にテロップが出ましたけど、そこは邦画っぽいなと思っちゃうんですけど。

 

市沢 ああ「邦画っぽい」ね……でも、邦画っぽいっていうのは何ですかね。

 

シンスケ テロップの出し方かな。

 

市沢 あぁ。

 

シンスケ 画面に文字が乗ることは全然どこの映画でもあると思うんですけど、テロップの出し方とかそれに付随する効果音の付け方とかが何となく。

 

市沢 それは最近の日本映画として見える何か、ということなんですかね、イメージとしては。

 

シンスケ そもそも最近の邦画をあまり観ていないっていう恐ろしさはあるんですけど(笑)。

 

市沢 うん(笑)。でもこういうところって最近の映画ではもはや違和感がないかな。普通にこういうことはやるんだろうなっていう風には思いましたけどね。

 

 

◯ 実家のキッチン、母親の顔のリアクションの余韻が少なく、すぐに夜の街の外観に変わる

 

シンスケ ここもカットの余韻が短い。カットの切り替わりが早いですよね。

 

市沢 そうですよね、母親に「けーおー(慶應)行くことにした」って言う時に、普通だったらそれに対する母親のリアクションをもっと見たいなって思うところなんだけど、その一瞬手前で切っているというのが、とにかくこの映画全体で一貫しているんですね。そのイメージが非常に強い。これはね、やっぱり現代の邦画ではあんまりないことなんじゃないかと。

 

 

◯ 塾、テスト結果を返す。一問正解だが、塾講師は主人公を褒める

 

市沢 この強烈なポジティブさ。それに好感を持ちますよね。

 

シンスケ この横位置で主人公と塾講師を捉えているカットで、これだけ上が空いている画だと後々そこにテロップが来るなっていうのが分かっちゃうんですよね。

 

 

◯ リビング

 

市沢 これも画面奥の見えないとこから父親が出てくるんですね。「この家族は失敗だ」っていうセリフを言うんだけど「いや、それ今の父親は言わないだろ」と思わせないのが凄いですよね。「この父親だったら言うよな」っていう。

 

シンスケ ああ、こういうセリフとかに高橋洋さんは反応するのかも、ですね。

 

市沢 かもしれないなと。でもなんでそう思えるのか。それはこの父親も何か別のこと(野球)に打ち込んでいるっていうのがちゃんと描かれているからね。それがちゃんと本気だから、彼には「娘のほうは失敗だった」としか思えない。それから、この後の展開。父親がイヤミを言って去った後にすぐ主人公が勉強をはじめるのもね、切り返してもうすぐその展開になるっていう。

 

シンスケ ですね、早いです。あと家の中・リビングのシーンは、結構な確率で手持ちキャメラですね。

 

市沢 ああ、そうだったね、確かに。

 

シンスケ まぁそれを選択したのには色んな事情がある気がしますけど。あと、父親と母親のキャラクターが、恐ろしいまでに対比的(笑)。

 

市沢 そうですね。その対比を現代的に修正しなかったっていうのがやっぱりよかったですよね。

 

シンスケ 現代的な修正というのは、この間僕が市沢さんに提言した「(そんなことは)分かってる、でも……」系のキャラクターではない、ということですね。

 

市沢 そう、非常にいい言葉ですね。「分かってる、でも……」系のキャラクター、つまり相手の心情を汲み取ってしまうキャラクターが入り始めた途端に、何か物語として小さくなるっていうのがあるよね。

 

シンスケ 多分脚本を書いている方からすると、よりお話とキャラクターに「深み」が出てくると思って書くと思うんですよね、そういうの。

 

市沢 もちろんそういうこともあるし、実際にそれで面白くなることもあるとは思うけどね。

 

 

◯ 塾で主人公と仲良くなる男子(野村周平)が塾に入る前に塾講師と面談する

 

シンスケ 市沢さんにちょっと聞きたかったんですけど、ここで塾講師が「父親に復讐するいい方法がある」って言うじゃないですか。で、ここではオフになって(その復讐方法が明示されない)、後々映画の上では明かされるんですけど、この時点でそれ、分かりますよね? ここで塾講師が言った内容について。

 

市沢 この瞬間に分かったかな?

 

シンスケ もう、絶対勉強して父親を見返すっていう……

 

市沢 まぁまぁ、勉強してってことなんだと思うんだけど、どうだったかな、分かっていたかなぁ。

 

シンスケ 何か、物語全体を通して先に起こること、僕は読めちゃったんですね。

 

市沢 読めちゃったっていうのはどういう感触だったんですか?

 

シンスケ こうなったら次はこうなるよねっていうような予測を立てつつ映画を観るんです。それが意図的な、ミスリードを誘うものなのかどうなのかっていうのも含めて。将棋指している時の感覚ですかね、そうやってお話の先を考えて「いや、さすがにそれはないかな」と思っていた方に全部行くっていう。

 

市沢 「さすがに……」って思ったっていうのは?

 

シンスケ 「さすがにその展開じゃないよな」っていう。でもそうやってお話が転がってくんですけど、それでも面白いんですよね。

 

市沢 それはいわゆるベタっていうことだったんですね? そのベタをベタのままやるんだけど、でも面白いってことですよね。

 

シンスケ ベタをベタのまま見せ切るのって本当に大変だし、この主人公が慶應に受かるのは誰もが知っている、と。それを見せ切るところがやっぱり凄かったなって思いますね。ハリウッドの超大作、最後にヒーローが勝つのは分かっていてもしっかり見せ切る、という意味で、ですね。

 

 

◯ 塾講師が主人公と面談している。「問題を出す」とその場で塾講師が机を指で叩きながら「109…」とカウントダウンをはじめる。その指のアップから次のカットに変わると、主人公の服装が変わり、映画の中で時間が経過している

 

シンスケ ここで時間を飛ばすっていうのが素晴らしいなと思って。

 

市沢 そうですね、飛ばしましたね。やっぱり省略の表現が優れている。見せない所を作るっていうね。

 

シンスケ 監督の時間経過の表し方が巧みですよね。

 

 

◯ 塾からすぐにカラオケのシーンに切り替わる

 

市沢 早いですね。「(中学英語を)速攻終わらせるよ」のリアクションのカットがすごく短いですよ。主人公がセリフを言った、それに対するリアクションが短く、もうそのまま次の場面に繋がるっていうね。

あとここもそうなんだよな。カラオケ歌っている、で、友達が主人公のノートを見て「あれ? なんか勉強してるわ」っていうところからのリアクションがほとんどなく、すぐにカラオケボックス出てチャリンコで帰るカットに変わっている。

 

 

◯ リビング、家族全員がいる

 

シンスケ でもここは手持ちじゃないかな、微妙にドリーで横移動している。

 

市沢 ああ、そうか。

 

シンスケ これ、このカットはマスターで撮っている(このシーンのお芝居全部を撮っている)っていうことですよね。

 

(弟が野球で成果を上げているのを聞いた後、すぐに部屋に戻って勉強をはじめる主人公)

 

市沢 この瞬間ね。近くにいる人間(弟)が、どんどんどんどん差をつけていくことで主人公を「もうやってやるぞ!」感に追いつめて行くわけですよね。

 

 

◯ 塾

 

シンスケ 後ろの方でうすーく「かなかなかな」っていう音、入っていますね。ちゃんと夏の終わりだっていうことを音で表現していると。

 

市沢 (耳をすまし)本当だ、そうだね。

 

シンスケ あと、主人公の「そっち系ね」っていうセリフ、この後何回か別のシーンで繰り返し出てきます。ちょっと覚えておいてほしいですね。

 

市沢 ああ……。それからこの映画は、有村架純のコスチュームプレイとしての醍醐味があるわけですよね。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 ちょっとずつ変わって行くからね、地味な方に。勉強にはまって日が経つ内に衣装とかメイクが。化粧が落ちてって、みたいな。

 

(いつの間にか主人公が疲れて寝ている)

 

シンスケ いいですよね、寝ちゃっているっていうの。

 

市沢 でも、「寝ないで頑張ってるんだな」という情緒的なリアクションではなく、寝顔の隣にある、びっしりと予定が書込まれたカレンダーを見て、「こいつ全然寝てないんじゃ…」という事実へのリアクションに着地させるんですよね。

 

 

◯ 高校2年生の2学期になった教室

 

シンスケ で、染め直すシーンを入れることなく、主人公の髪が黒になっている。

 

市沢 なっていますね、うん。

 

(主人公が教師にタンカを切って「慶應に合格します!」と宣言する)

 

シンスケ ここ、このセリフで有村架純にキャメラが寄らないですね。

 

市沢 あ! そうですね、寄らないですね。

 

(すぐに塾のシーンに切り替わる)

 

市沢 この切り替わりがまた早い。タンカ切ったあと誰のリアクションにもならないでしょ? これがねぇ、やっぱり意志を感じますよ。(塾でのやり取りを見て)あ、いま「そっち系ね」って言っていますね。

 

シンスケ 同じようなセリフをさらっと映画の中で終始繰り返す、これはキャラクターの立たせ方として、またお話のリズムを形成する上で、優れたシナリオライティング技術の1つだと思います。スピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』という作品でもありましたが、脚本でクレジットされているマット・チャーマンとコーエン兄弟もあるキャラクターに最初から最終盤まで ”Would it help?”(それは役に立つのか)というセリフを要所で何度も言わせていました。

ただ一方で、映画全体で考えると「脚本家の上手い技術」が同時に立ち過ぎてしまって、簡潔に映画を語り切る・観客がすんなりと映画を見終える上ではやり過ぎかもなぁとも思います。まぁそれが実際脚本の技術としては上手いと言っていいと思いますが、アンサンブルをぶっ壊すほどに引き倒すリードギタリストみたいな趣もある。そういうギターが魅力的な曲やギタリストに関して枚挙に暇はないのですが、要は「映画全体に奉仕しているか否か」という点でどうなのか、と考えるポイントだと僕は思うんですよね。

 

市沢 この教室は、手前と奥に人が配置されているんだけど、普通の教室と違って、手前の人と奥の人は向いている方向が違う。手間が面談机で、奥は自習机みたいな。だから奥の人は、手前の面談で何か起こると、必然的に「振り返って見る」リアクションを取る事になる。こうすることで、奥の人のリアクションをアップショットで説明しない、けれども観客はリアクションを「感じる」ことが出来るという構造、シーン設計になっている。

 

シンスケ そうですね。

 

 

◯ 土手にいる主人公

 

シンスケ これがファーストカットと……

 

市沢 そうですね、対応しているわけですね。

 

シンスケ 映画美学校の昔の課題とかだったら、ビデオ課題はここを撮ってくる感じになるんですかね(笑)。

 

市沢 そうかもね。「映画の冒頭と対応しているぞ」感を、もっとへたくそに撮ってくるだろうね(笑)。

 

 

◯ 土手から塾にやってきた主人公たち、塾から塾講師と主人公の学校の先生が出ていくのを目撃する

 

シンスケ で、この展開につながるっていうのもいいですよね。

 

市沢 はい。(喫茶店のシーンになり)もうね、安田顕さんがね、慶應合格者の偏差値グラフ表みたいなものまで作って主人公の慶應受験を反対しにくるんだけど、それってすげえ彼女のために時間割いてるじゃん(笑)って逆に思っちゃいましたけどね。

 

シンスケ この喫茶店、僕、凄く気になったんですよ。

 

市沢 どこが?

 

シンスケ 名古屋の喫茶店って、こんな感じなんですか?

 

市沢 なに? ソファーとかがってこと?

 

シンスケ 何かヤクザがいそうな……

 

市沢 ああ、そうね(笑)。

 

シンスケ あと……なんか見れば見るほど『旧支配者のキャロル』(以下キャロル)っぽいなって思ってくるんですけど。

 

市沢 『キャロル』っぽい?(笑)

 

シンスケ あの(笑)……吉田羊が貯金切り崩して、パートもして、この後塾の学費を工面するじゃないですか。あれでもし、カラダを売っていたら……(笑)

 

市沢 ああ(笑)。まぁスポ根的な要素もありますからね、『キャロル』にはね。

 

シンスケ でも、音(劇盤)の付け方、どうなんですかね、ここ。これは「アメリカ映画」かなぁ?

 

市沢 どうですかねぇ。ここはさっきまでのリアクションの切り上げ方、早さとは違って、割とたっぷり描いちゃっている部分ではありますね。

 

シンスケ そうだと思います。

 

市沢 だからこそ予告編とかにも使われるんですけど。まぁリアクションがかなりありましたよね、今のシーンでは。

 

シンスケ ここは遅かったですよね。なんかTVドラマっぽいなと思ったんですよね、ここは。

 

市沢 だから何て言うんだろうな、「それはそれで見れちゃう」んですよね。

 

シンスケ なるほど、そうですね。

 

市沢 むしろ、非常にいい違和感があったっていうかな、逆に。今まで喋った「短い」とかっていうとことね。

 

シンスケ はいはい。

 

市沢 自分はテレビドラマも大好きですが、テレビではむしろしっとりじっくり描くっていう方が普通だと思っていて。それ自体に実は違和感はない。

 

 

◯ 塾、「フランシスコ”コザビエル”」とポーズを決める主人公と塾講師

 

市沢 この辺りはね、最近のマンガ的な描写なんですかね。”コザビエル”っていうのがCGで出て来てみたいなのは。

 

シンスケ ああ、マンガ的なんですか、あれ(笑)。

 

市沢 あ、偏見かな(笑)。

 

シンスケ 従来の映画文法にないようなものが入っているという感じはします。

 

市沢 いつの頃からか、2000年代入ってからかな、映画でもテレビでも「CG表現」が容易に、かつあんまりカッコ悪くなく出来るようになって、こういうことは結構やるようになったなと思って。

 

 

◯ 夜の塾、塾講師に呼び出される母親

 

シンスケ 夜遅くのこんな時間にお母さんを呼び出すことが出来るのかどうかって凄く疑問なんですけど(笑)。

 

市沢 まぁね(笑)。

 

シンスケ (母親の娘(=主人公)を信じ切る様子を見て)もう狂信的に近いものが若干ありますよね(笑)。

 

市沢 そうですね。母親はそういう片鱗をね、やっぱ映画の最初の方で出していっていますよね。娘が退学になるかもって時に「退学になってもいいです」って言っちゃって、安田顕と校長が「え、この人……」っていうふうに顔を見合わせるリアクションを見せているよね。

 

 

◯ 母親、妹に主人公の塾の学費捻出のための相談をしている

 

シンスケ (母親が妹の預金を切り崩し、夜もパートで働くと宣言し)その「夜も働く」の内容が、その、セクシャルなものだったら『キャロル』っていう……

 

市沢 まぁそうね(笑)。で、この話を壁に隠れて主人公が聞いていると。

 

シンスケ ……これ、同時多発的に、夜も働き出した母親に外で男が出来る、みたいなことが起こったら、この映画、どうなるんですかね?

 

市沢 (笑)

 

シンスケ 「アメリカ映画」的な簡潔さとはかけ離れて、邦画をも飛び越えて、収集つかなくなっちゃうでしょうけど(笑)。

 

市沢 それは結構複雑になっちゃうんじゃない? なんか、縦の線がちょっとぶれちゃうかもしれないですよね。

 

シンスケ ……全然関係ない話、してもいいですか?(笑)

 

市沢 ええ。

 

シンスケ 俺、そうやって物語の縦の線をぶらしにぶらしまくったらどうなるんだろうっていう欲望がちょっとあって。

 

市沢 ああ。

 

シンスケ 脚本における「プログレ」になるんじゃないかなって(笑)。

 

市沢 どうかなぁ〜。まぁそうかもね。プログレッシブロックを聞いている時ってそういうイメージがありますよ、確かに。「いつまで経っても結論に辿り着かない」みたいな、ね。



<その3> 
 
「市沢紳介」

この企画は映画美学校事務局員の市沢真吾と、周辺をふらついているスズキシンスケが、ひたすらに映画について、そして映画から大きく脱線して「ただ無責任にだべるだけ」の企画である。
【『映画 ビリギャル』と「アメリカ映画」編】その3(完全にネタばれですのでご注意を!)

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◯ 塾に来た主人公、母親が収めた学費を塾講師たちから見せられる

 

シンスケ またこれ、現生で入金させているっていう、それを画で見せたっていうのが。

 

市沢 ああ、そうですね。まぁそこはやっぱり見せないとね。

 

シンスケ ここは現実にはありえないだろう大ウソで、凄くいいなと思ったんですよね。もうこれ、塾側が主人公に勉強するヤル気を出させるために仕込んだネタなんじゃねぇかっていうくらいのウソ臭さじゃないですか。

 

市沢 そうだね。主人公が来た時に、母親が持ってきた現生入りの封筒をたまたま持っている、っていうね(笑)。

 

 

◯ カラオケが終わって自転車で帰ろうとする主人公

 

シンスケ で、友達が自転車を止める。まずセリフではなく、自転車を掴むという行動で見せる。

 

市沢 そう! これね。ここも1カットの中でね。やっぱり1カットの中でちょっとした動きを入れてくるとこなんかは、まぁ「アメリカ映画」っていう感じなのかなぁ。

 

 

◯ 友達たちと温泉に来た主人公

 

シンスケ 僕、これよく撮ったなぁと思ったんですよ。

 

市沢 ああ、お風呂。

 

シンスケ 一応女子高生の設定じゃないですか。

 

市沢 確かにね……このシーン結構、律儀に撮っちゃっているシーンですよね。

 

シンスケ はい。

 

市沢 でも誰かが言っていましたけど、ここ、映画的には割と律儀過ぎる感じですけど、同世代の人からしてみるとこのシーンが号泣らしいですよ。同じような10代の人からすると、このシーンが本当に泣けるっていう。

 

シンスケ ああ〜まぁ泣かせには来ていますよね……そっか、これでやっぱりグッと来るわけですね。やっぱりここももっさりしていますよね。さっきの喫茶店のシーンに近いものを感じるんですけど。

 

市沢 そうだね。だからやっぱりリズムが混在している部分があるんですよね。

 

シンスケ だから多分それで映画全体のリズム・緩急は出来ているんですよね。

 

市沢 そうだね、確かに。でもだからこそ「普通に」見られちゃうんですよ。

 

 

◯ 高校3年生の春、家の前で家族写真を撮る主人公たち

 

シンスケ この撮っている写真、その場で見せないんですよね。

 

市沢 あ、見せないですね、確かに。

 

 

◯ 塾、主人公が塾講師から新しい課題を渡される

 

シンスケ 僕、この「うす!」っていう主人公のセリフを聞いて、井上真央が「キッズ・ウォー」っていうTVドラマで出て来た時と似たようなものを感じたんですよ。

 

市沢 ああ(笑)。

 

シンスケ 役者の方向性としたら、もしかしたら有村架純と井上真央は近いのかもしれない、という無責任な印象ですね。

 

 

◯ リビングでTVを見ている妹、それを後からきた主人公がチャンネルを変えてニュースを見始める

 

市沢 ここも結構好きなんですよね。奥からパッとビリギャルが出て来て……

 

シンスケ 見えない所からこう来るから。

 

市沢 うん、そうね。

 

 

◯ 塾、「そっち系ね」と主人公が言う

 

市沢 ああ、また来ましたね。

 

シンスケ これは本当に脚本家の技術ですよ。

 

市沢 自分はどっちかって言うと、「安倍ちゃんは?」っていうビリギャルの言い方の方が記憶に残っている。

 

シンスケ 素晴らしいですよね。

 

市沢 総理大臣を友達みたいに言うんだな〜って(笑)。

 

 

◯ 慶應文学部の赤本(過去問)を読む主人公

 

シンスケ ここでちゃんと躓いてくれますよね、難し過ぎて。

 

市沢 そうだね。

 

シンスケ ハードルが高くてモチベーションが下がる、と。お話の上で超えていって最終的にカタルシスを得るための仕込みが、ベタなんだけどしっかりしていると。

 

 

◯ 屋上、飛行機雲が浮かんでいる

 

シンスケ あ! 飛行機雲で対応しているのか、幼少の頃のシーンと。

 

市沢 そうね、させていますね。まぁどちらも「遠い」ってことの表現なんですかね。

 

シンスケ ちゃんと仕込んでいるんだなぁ。

 

市沢 どこまでそれ、シナリオにあるものなのか分からないけどね。

 

シンスケ さすがにホンには書いていないような気がしますね。

 

市沢 通常テレビだとそこまで書かないのかしら。

 

シンスケ ここにト書きで飛行機雲、書いていたらそれは本当に凄いなぁ……

 

市沢 このシーンでは序盤と違って、飛行機雲を主人公は見ていないからね。空に浮かんでいるだけ。

 

シンスケ ホンに書いてあったら、それは本当に凄い。あと「セリフにウソがない」っていうのは分かりますね。全体的に簡潔なんですよね。「ほのめかしのセリフ」がないんですよ、この映画。

 

市沢 あぁ〜ほのめかしか。ほのめかしってなんだろうね。

 

シンスケ 言った言葉の字義以外、他に意味がないというか。その言葉の外に意味があるセリフは、例えば「嫌いよ」と言うけれど“本当は好き”という感情を示す、みたいな。

 

市沢 あぁ〜。

 

シンスケ そういうセリフはなかったような気がしますね。

 

 

◯ 塾に現れた主人公、ケバい服装からジャージ姿に変わっている

 

市沢 どんどん地味になっていくっていうコスプレものね。

 

シンスケ ここ最初、前田敦子が来たのかと思った(笑)。

 

市沢 そうだね(笑)。

 

 

◯ 点描で勉強をしている主人公、働く母親などが描かれる

 

市沢 ここで流れている曲、こういう曲すごく多くなったよね。飾らないけどちょっとだけエモーショナルな女性ボーカルのロック。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 本当に多くなったよね。いや、嫌いじゃないんだけど。もう標準装備みたいな。

 

シンスケ この点描の、母親、父親、弟とか全部が入って来て描かれるっていうのは、画だけ見ていると確かに「アメリカ映画」だと思うんですよ。こういうカットつなぎでどんどん成長して行くのが。ただ、この曲は……

 

市沢 だからそれも違和感ない部分ですよ、テレビドラマだとむしろね。

 

 

◯ 夜の高校に呼び出されている母親

 

シンスケ またお母さんは夜に呼び出されていますね(笑)。

 

市沢 そうだね(笑)。

 

シンスケ 結構こういう時、大胆に引いていますよね、画が。

 

市沢 そうですね、それもあります。

 

シンスケ もう少し寄った画でこのシーンを最初からはじめかねないと思うんですよ。

 

市沢 通常の邦画だとそうかもね。あと、ここらへんのお母さんの狂信性が……

 

シンスケ (笑)

 

市沢 先生に向かって「娘が寝る場所は学校の授業しかないんです」って言っちゃうっていうね。ちょっといい意味で笑っちゃうんですよね。論理を曲げるなぁって。

 

シンスケ これ、ご都合主義と思われちゃうんですかね?

 

市沢 どうだろうなぁ……

 

(その後教室で寝ている主人公のシーンになる)

 

シンスケ いいですよね、これ。「担任こーにん(公認)」という紙を机において寝ているのも。凄くよかったと思います。

 

 

◯ 塾

 

シンスケ エキストラレベルの役者さん、ちゃんと学年が変わると顔ぶれが変わっています。

 

市沢 それはちゃんと考えているんだよね。

 

シンスケ 演出部の仕事としてそれは当然やりますよね。エキストラで言えば、模試のシーンとかで何故そこにこの人を!? というエキストラの配置も楽しめたんですけどね、僕は(笑)。

 

市沢 (笑)。そうそう、主人公は日本史の近現代史が苦手なんだよね……どうでもいいんですけど、俺も、日本史の近現代史苦手なんだよね。日本史の近現代史って、特に昭和以降、なんか覚えるのが面倒くさくなって(笑)。

 

シンスケ 面倒くさいっていうのはどういうことですか?(笑)

 

市沢 なんか、キャラクターがどんどんいなくなる感じしない?

 

シンスケ キャラクターってなんですか(笑)。

 

市沢 近代や明治維新くらいまではキャラが出てくる。

 

シンスケ キャラ(笑)。

 

市沢 いるじゃない、坂本龍馬とか。昭和入ってからだとそういう人がどんどんいなくなっちゃうんだよね。俺の中では。

 

シンスケ 市沢さんの中ではいなくなっちゃう(笑)。

 

市沢 そうそう(笑)。いや別に近現代より前も日本史自体詳しくはないんだけどね。ただ現代史って、キャラがよくつかめないうちにいつの間にか戦争になっている、みたいな感じがして。そこちょっと共感しましたね。

 

シンスケ いや、いっぱいいるんですけどね、キャラ(笑)

 

市沢 そうかあ、いるのかぁ(笑)。でもなんかキャラが見えないなっていう認識があるんだよな〜。だから「近現代史苦手ってわかる〜」と思った。

 

シンスケ メインキャラクターが消えるってことですか?

 

市沢 そう……あ、こんなどうでもいい話をしていて、結構大事なシーンを語らずに見逃してしまいました。

 

シンスケ でも、大丈夫です(笑)。そういう企画ですから。とは言え、相変わらず喋りながら見ていましたけど、家の中はやっぱり手持ち撮影が多かったですね。人が大胆に動く時は手持ち、っていう発想なのかなぁ。最初の時も主人公が階段を下りてリビングで朝食をとって家を出るワンカットはそれで動きをフォローして撮っていたし。

 

 

◯ 模試を受けている主人公

 

シンスケ 文房具、ひたすらピンクのものを持っているんだなぁ。

 

市沢 それはね、分かりやすいキャラクター表現としてあるんですかね。

 

シンスケ ……ムダなところで複雑にさせていないっていうことなんですかね。

 

市沢 うんうん。複雑にさせない、ムダな所で描き過ぎないでおくっていうことね。そこがいい。でもそれって、逆に「さらっと見られてしまう」ということなので、良さとして指摘しづらい部分でもある……あ、また近現代史出てきた……「マンガで覚える日本史の16巻以降を読め」と。そうね、やっぱ難しいと思うんだよなぁ。

 

シンスケ 読んでいましたか、ああいうの?

 

市沢 いや、読んでないけど……水木しげるの『コミック昭和史』っていうのを昔読んだことがあって、その時昭和史、全く詳しくなかったんで、マンガで昭和史を読むんだったら面白く読めるかもと思ったんだけど、最初全然読めなかったんだよね。色々なことが複雑に起こり過ぎて、何かキャラ立ってないように思えちゃって。

 

シンスケ キャラが立ってないっていうのがウケますね(笑)。

 

市沢 水木しげるの個人史としても描かれていて、水木しげる本人のキャラは立ちまくりなんだけどね。でも、世界情勢と日本がどうなっているかみたいなのが、なんかね、よく分かんなかったんだよ、最初。

 

シンスケ ……またまた結構重要なシーンを全く関係のない話で過ごしてしまいましたね(笑)。

 

市沢 ここでね、主人公に名古屋弁が出てくるんですよ。

 

シンスケ 感情が高ぶると方言を出すんですかね。ちゃんと一回ここで塾講師と主人公の決別、みたいなドラマを出すんですよね。きっちり雨を降らしてますね(笑)。

 

市沢 降らしていますねぇ……まぁここは本当にアメリカンというよりも普通にベタとしていいんですけどね。

 

 

◯ 雨に濡れた主人公、母親の職場に来て泣いてしまう

 

シンスケ 高校生の時に母親に抱きついて泣けるって、羨ましいですよね。

 

市沢 それはまぁそうだけどね。

 

シンスケ 母親もそうだけど、基本的に男はオヤジに対しても絶対ないだろうし。

 

市沢 ないねぇ。まぁでも、ちょっとちがうけど、俺が高校生の時にね、確か大学受験の前だったかな、俺の兄貴が、いつも俺をあごで使ってる兄貴がね、酔っぱらって俺の部屋に来たんですよ。その時兄貴は高校出て何にもしてなかったんだけど、その兄貴が「まぁ、俺はダメだったけどお前は頑張れよ」って言ってさ。

 

シンスケ ほぉ……

 

市沢 酔っぱらって昔を思い出しながら「あん時の俺、本当に何やってたんだろうなって思ってさ……」ってちょっとポロッと泣いていましたけどね(笑)。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 今思い出したわ(笑)。うつむいて話していたから、泣いた顔は見せてなかったんだけど、涙が膝の上にポトッと落ちて、「あ、泣いてんだ」って思ったんだ。

 

シンスケ めっちゃいい話ですよ(笑)。

 

市沢 まあ、俺は結局大学落ちたんだけどね(笑)。でも確かに、そういう意味では兄貴はビリギャルに重なるところがある。ていうか、慶應目指す前の主人公と、弟のキャラクターを合わせ持っていたかな。スポーツ、特に野球が得意で、遊びも得意で、友達といつもつるんでいて、そしてやんちゃだった(笑)。だからね、最初の「面白いことだけしていたら、ギャルになっちゃった」っていうのが凄いリアルで。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 俺の兄貴も、何か毎日楽しそうなこと、やっていたんだよね。それで気がついたらこんなんになっていたって、ポロッと涙を……

 

シンスケ (笑)

 

市沢 何かそういう印象なのよ(笑)。本人がどう思っていたかは知らないけど。楽しそうなことやってんなぁと思っていたのにいつの間にかこんな感じになっちゃったっていう感じね。

 

シンスケ ……多分俺らは凄く重要なシーンをこの話で……

 

市沢 そうですね、すみませんね。ちなみに、今はもう兄貴は立派にペンキ屋さんを営んでいます。


<その4>
 
「市沢紳介」

この企画は映画美学校事務局員の市沢真吾と、周辺をふらついているスズキシンスケが、ひたすらに映画について、そして映画から大きく脱線して「ただ無責任にだべるだけ」の企画である。
 
【『映画 ビリギャル』と「アメリカ映画」編】その4(完全にネタばれですのでご注意を!)

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◯ 居酒屋で主人公の父親と塾講師がたまたま居合わせる

 

市沢 そうね、ここで会うんだよね。

 

シンスケ ……方言を喋る女の人って、いいですよね。

 

市沢 (父親のぼやき台詞を聞いた後、何故か小声で)ねぇ……もう、しかたがないですよね。

 

シンスケ しかたがない(笑)……市沢さんも娘に強く当たられたりしたら、あんな感じで飲むんですかね。

 

市沢 どうですかねぇ……そうねぇ、一人で飲むかなぁ……ドカ食いするんじゃないかなぁ。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 あんな風にしっとり飲まないと思う。ドカ食いしちゃうと思うけどね(笑)。

 

 

◯ 家の前、野球を無断で辞めた弟を叱る父親、それを見ている主人公たち

 

市沢 よく見ると父親が弟をガチでは殴れていなくて、そこがまたリアルですね(笑)。

 

(母親が金属バットを持ち、父親所有の少年野球用のバスの窓を叩き割る)

 

シンスケ ここでバスに行くんですよね、やっぱり。仮に、バスをバットで殴ると見せかけて……

 

市沢 ……うん(笑)。

 

シンスケ 夫を殴り殺すっていう展開だったら、どうですか? アバンギャルドですかね?(笑)

 

市沢 アバンギャルドだし……(笑)

 

シンスケ 母ちゃん刑務所編みたいな(笑)。また弟も分かりやすく不良の格好になっていますよね。

 

市沢 そうですね。また弟の立ち去り方も早かったですね。色々と出来事はあったのに、リアクションなしでこの場所を出ましたよね。この後の展開もよかったんだよなぁ。お父さん、ギリギリまで自分の家族に歩み寄らないんだよね。

 

シンスケ これ、普通だったら離婚コースですよね(笑)。

 

市沢 そうそうそう、そういう物語のブレがあってもおかしくない。

 

シンスケ いいはずですよね(笑)。

 

 

◯ 夜の街で主人公と弟が言い争う

 

市沢 この弟役の人、いいよなぁ。いい顔してるなぁって。

 

シンスケ ……いい顔してます?(笑)

 

市沢 いい顔してますよ。私の好きな「余裕のない顔」ですよ。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 やっぱり余裕のなさが出ていますよ……そう、ここでちゃんと主人公はね、弟との対話を通じて昔の自分とも決別するというね。それでこのシーンの最後、歩いて終わるんですが、それもやっぱり短いんですよ。

 

 

◯ 東京に来て慶應大学のキャンパスに来る主人公と母親、大学の学食にて

 

市沢 (画面の端を指差して)ちなみにここに映ってるこの人、リアルビリギャルらしいですよ。どうでもいい話ですけど(笑)。

 

シンスケ そうなんですか。(「こういう大学に来てたら人生変わったなぁ」という母親のセリフがあり)……あんまりこういう大学通っても人生変わんないと思う。

 

市沢 (笑)

 

シンスケ 僕が言うので、確かです(笑)。※似たような大学出身のため

 

市沢 ええ、ええ(笑)。

 

シンスケ でも受験した時の思い出として、実際その場所に、行きたい学校に行くというのは、効果ありますよ。無根拠な自信が生まれる。

 

市沢 ああ、イメージするっていうね。

 

シンスケ 大学もそうですけど、映画美学校も俺、受講申込書は郵送じゃなくて直接山口さん(当時の事務局長)に手渡しで渡したんですよ。

 

市沢 やっぱりね、行きたい場所に行ってイメージするっていうのはね。確かにね。

 

シンスケ だからなんとなく、映画の製作の上でのバーター的にわざわざ入れ込んだシーンではないような気がします。ちゃんと効いているような気がします。

 

市沢 まぁね。これは原作に書いてあるような気がするけど(※二人とも原作本は未読)。なによりね、有村架純演じる主人公がキャラクターとして成長するきっかけが、「自分の心の中」だけに起因していないっていうのもよかったですよね。

 

シンスケ そうですね。

 

市沢 野球で成功を掴みつつあった、そしてそれを手放した弟っていうのがいて、それに対して何か言うことで主人公の変化を作っているっていうのがいいのよね。最近は、自分の気持ちの中の変化、気の持ち様でキャラクターが変わる、それがドラマ上の変化になっている、というのってよくあるじゃないですか。

 

シンスケ ありますね。

 

市沢 「それはお前の気持ちの都合でどうにでもなるんじゃね?」っていうやつね。そういうことをしていないのは好感が持てましたね。

 

シンスケ キャラ配置でそれを実現している。

 

市沢 相手へのリアクションでちゃんと変わって行ったっていうのがね。

 

シンスケ 他のキャラを上げたり落としたりっていう、その中の関係性でやっているっていう。

 

市沢 そうですね。

 

 

◯ 家に帰った主人公。父親が家の前で「お兄ちゃんを解放する儀式(妹のセリフ)」として弟の野球道具を燃やしている

 

市沢 ここもいいですよね。前のシーンでの模試の結果をすぐには観客に見せていない。模試の結果をどこで見せるのかっていうとこで、このシーンが間に入ってくるっていうのもよかったんだよなぁ。

 

シンスケ ここで模試結果を出すのって凄いですよね。

 

市沢 うん、これは本当によかった。「ここで来るか!」っていうね。この引っ張り方はやっぱりシナリオには書いてあったと思うんだけど。編集のリズムとしても、開封する瞬間→自転車で走るカット→からのこのシーンという一連がね、よかったと思う。弟に投げかける「さやかは(慶應に)行くよ」という台詞、かっこいいですよ。

 

シンスケ ちなみに僕はここで(も)泣きました。

 

市沢 そうですね、泣けると思います。

 

 

◯ 滑り止めで(慶應の前の腕試し受験として)受ける近畿大学試験の朝、雪が積もっている

 

市沢 さっきのショットもよかった。今の、一つなぎになっていますけど、本当は階段を下りていますからね。

 

※推測ではあるが、窓を開けて雪が降っているのを確認しているカット(窓から見える枝の位置から考えておそらく2階)→窓外から外を覗くビリギャル・お母さん・妹のカット(ここでもうリビング)→次のカットでリビングのTVを映す、という流れになっている、はず

 

シンスケ あっさりやっていますよね、これ。それが凄い。

 

市沢 このお父さんが奥から出てくるのもいいですよね。

 

(「バスに乗れ」と主人公を受験会場まで送る)

 

シンスケ かっこいい! オヤジカッコいい!

 

市沢 それまでの偏見に満ち満ちたキャラの人にこういうこと言われると効くよね(笑)。

 

シンスケ ……でもこれ、本当にこの車(バス)しかないのか?(笑)

 

市沢 そうね(笑)。

 

シンスケ 地方の一軒家に住むご家庭って、普通に車二台とか、一人に一台ずつとか、ありますよね?

 

市沢 まぁねぇ。ウチは親父が中古車のディーラーだったから車はとっかえひっかえだったんですけど(笑)。

 

シンスケ もうズルいですよ!(笑) 中古車のディーラーって面白過ぎますから!

 

市沢 別に店を持っているわけでなく、個人営業のディーラーだったんでねぇ……そうか、考えてみれば、オヤジが車屋で兄貴が野球を目指しているって『ビリギャル』と設定同じじゃねぇか(笑)。

 

シンスケ 同じ設定(笑)。

 

(バスが受験会場に着く)

 

シンスケ ちゃんと滑り止めっていうか、腕試しで近くの大学を受けさせている。

 

市沢 そうか、その中でドラマを作ったってことか。

 

シンスケ 試験会場が関東になるから、いきなり慶應だとムリなので。

 

 

◯ 稼業に勤しむ父、そこに弟が来る

 

市沢 この弟、声もいいなぁ。

 

シンスケ ……どんだけ市沢さんの琴線に触れているんですか?(笑)

 

市沢 まぁ無理やりですけど、車を整備しているっていうのがさぁ、「アメリカ映画」でよく見るよね。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 しかもこう、車が上がっていてさ、下に潜り込んで整備しているとかよくあるよね、まぁこじつけですけど。

 

 

◯ 自分の部屋、ネットで合格発表を見る主人公

 

市沢 あ、「合格発表っていまこんななんだ」って思っちゃった。

 

シンスケ 僕の時にはもうネット発表、当然ありましたよ。

 

市沢 本当に? もうネットなんだなぁってね。ここは掲示板とか見ないんだなぁ……そしてまたしても、その後のリアクションがなくてね、塾に行く流れとかも本当に早い。いいですね。

 

シンスケ もう全体的に早いですよ。

 

(最後の夜の塾で勉強をする主人公に「合格」と書かれた缶コーヒーを渡す塾講師)

 

市沢 この缶コーヒーが後々足を引っ張るっていうね。

 

シンスケ ……この引きの画。

 

市沢 うん。

 

シンスケ これ、普通出来ないですよね。

 

市沢 そうねぇ。でもね。テレビの人が映画をとにかくちゃんと見ているよなぁとは昔から思っていて。むしろ自主映画出身で本当にドラマを何にも紡げない人よりもテレビの人の方が全然ちゃんと考えているんじゃない?っていう意識が昔からあるんですよ。

 

シンスケ それは本当にそう思います。

 

市沢 もちろんこの演出家の人がアメリカ映画好きっていう趣向はあるかもしれないけど、本当に場数を積み重ねて行った何かがあるような気はする。

 

 

◯ 慶應大学の試験に臨む主人公

 

シンスケ お腹痛くなるの、笑っちゃうんですよね。

 

(「合格」コーヒーで腹を下し、試験中に何度もトイレに駆け込む主人公)

 

シンスケ ここに関しては「アメリカ映画」じゃなくても何でもいいから、是非パンツをおろしてトイレの中で悶える有村架純、というカットも撮っていてほしかった。

 

市沢 それは、諸条件鑑みると難しいんじゃないですか(笑)。

 

シンスケ これ、お腹痛くなるの、本当なんですかね?

 

市沢 どうなんだろうね……あ、あとね、こういう、カット変わりのアタマで人物がもう動いてるっていうようなことね。このちょっとした性急さがね、映画全体のリズムを作っている。そこが良かったんだよなぁ。

 

シンスケ ……市沢さん、大学受験の時って浪人していたんですよね?

 

市沢 うん。

 

シンスケ その時ってもう東京に住んでいたんですか?

 

市沢 住んでいましたよ。新聞配達しながらね!

 

シンスケ じゃあこうやってビジネスホテル的なところに泊まったりは……

 

市沢 最初の受験の時はそうだったかな。こうやって主人公みたいに東京に行って、ビジネスホテルに泊まって受験してみたいな。そんなことをやっている時に阪神大震災が起こりましたけど。それで浪人して、新聞配達しながら浪人生活をはじめようかって新聞屋さんの下宿先で寝ていたら、サリン事件が起こりましたね、そういえば。

 

シンスケ 凄い時期でしたね。単純に……大変ですね、地方から受験しに来るって。今更ながら思いますね。

 

 

◯ 別の学部の慶應大学受験に臨んでいる主人公

 

市沢 やっぱりね、何度も言いますけど、この映画、とにかく「見せ過ぎない」ところがいいんですけど、それって演出家がかなり自分を律しないと出来ないと思うんですよ。リアクションを見せ過ぎないとか。カット尻を長く見せ過ぎないとかってね。

 

 

◯ 塾で結果発表を待っている塾講師たち

 

シンスケ ここも、本当はウソなんですよ。塾って、受験番号大抵は全員分把握していますからね。連絡待ちのドキドキってあまりないはず。しかも主人公からの結果の連絡は、塾の固定電話ではなく塾講師の携帯にかかってくるんですね……文学部落ちたのも本当なんですかね。

 

市沢 確かにね、展開としてはこっちのほうがドラマチックだけど。

 

 

◯ 家で慶應大学の合格結果を見て、自転車で走り出す主人公

 

シンスケ これ、2連発なんですね。結果を観客に見せないの。

 

市沢 そうですね。あと、結構重要な所で自転車を走らせているよね。

 

シンスケ そうですね。

 

市沢 「溜めのシーン」というのかな、「さあどうなる?」と観客が思う次の瞬間に目に入る映像は、自転車で走っているところ、っていうね。

 

 

◯ 父親の職場に来た母親、父親に合格を報告する

 

シンスケ よくもまぁ会社に来る家族ですね、これ(笑)。

 

市沢 そうね。これ、家からどんくらい離れているのかなぁ。同じ敷地内なのか?

 

 

◯ 土手で塾講師からの手紙を読む主人公

 

シンスケ はじめて土手の下の方(中腹)に来ましたね。父親との距離感の暗示だったりするのかなぁ。

 

市沢 あ、そうですね。どこまで意識しているのか分からないけれど。

 

 

◯ 高校の卒業式、慶應合格で賭けていた教師が素っ裸で写真に撮られている

 

市沢 この伏線すっかり忘れていたけど、しっかり出てくるんですね。

 

シンスケ 忘れていたんですか(笑)。

 

市沢 思いっきり忘れていましたね(笑)。

 

 

◯ 主人公、実家を出ていく

 

市沢 ビリギャルの服装が少し変わっていますね。

 

シンスケ あれだけ塾の学費のためにお金を切り崩していた家庭なのに、私立の慶應に行って大丈夫なのかっていう(笑)。

 

市沢 それは確かにそうですね。

 

シンスケ でも弟の野球のお金が減るから大丈夫なのかなぁ。

 

 

◯ 家の前、父親の背中に飛びついて幼い頃のおんぶと同じ格好になる主人公

 

市沢 このねぇ、田中哲司の顔がいいんですよ。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 俺の好きな余裕のない顔ですよねぇ。何て言うのかなぁ、不意に愛情表現をされ戸惑っている、というね。「え!?」っていう。いい顔ですよ。

 

シンスケ この後、弟が傷害致死事件とか起して……

 

市沢 (笑)

 

シンスケ そういう展開は、ダメですかね?

 

市沢 あのね、現実はむしろそうなったりするのよね(笑)。

 

シンスケ それで有村架純が弁護士を目指す続編、みたいな。

 

市沢 『キューティー・ブロンド』みたいになるね(笑)。それこそ「アメリカ映画」ですけど。

 

 

(エンドロールが流れはじめる)
※ここからが「市沢紳介」の本題!?


<その5>

「市沢紳介」

この企画は映画美学校事務局員の市沢真吾と、周辺をふらついているスズキシンスケが、ひたすらに映画について、そして映画から大きく脱線して「ただ無責任にだべるだけ」の企画である。
本編を見終わった最終回のここからが「市沢紳介」の本題!? 

IMG_3707 
 
(『映画 ビリギャル』のエンドロールが流れはじめる)


シンスケ というわけで本編は終わったわけなんですが(笑)、意外に真面目に話してしまったような気がするんですけど。もっと死ぬほど脱線するかと思っていましたが。

 

市沢 マジメに話しちゃうしね、兄貴の話もしちゃうしね……なんでしょうね、難しいよね、多分この映画は「やり過ぎていない」というところがあるのは結構大きいんだよね。だからやらないところがあるっていう、やらないことがいいことだっていう印象なんですよね。それって中々見えない部分なので指摘しづらい部分なんですけど、逆に他にね、同じような日本映画とかを見比べてみると分かりやすいかもしれないなぁ。

でもやっぱりあれだよね、「アメリカ映画」を作ろうっていうのは、監督の中ではもしかしたらそういうマナーをちょっと取り入れようっていう意図があったのかもしれないですけど、まぁこの映画の製作委員会がそれを意識してやったわけではないでしょうから。

 

シンスケ まずないと思いますよ。

 

市沢 その時に、規模はそんなに大きくないかもしれないけど、まぁ言ってもメジャーな映画でそのマナーを保ち続けるっていうのが、やっぱり違うな。それってねぇ、意志がないと出来ないことだと思う。でもそれは「作家性」っていうのとも違うよなって。

 

シンスケ それは面白いですね、「作家性」とは違う、と。

 

市沢 そう、違う。突き詰めるとにじみ出ちゃっている「作家性」なのかもしれないけど、それは映画を作る「動機」とは違うじゃないですか、はっきり言うと。

「企画書書いて」って言われた時に「ちょっと、カット尻の短い映画を作りたいんですよ」って言わないからね(笑)。

 

シンスケ 言ってみたいもんですけどね(笑)。本質的にお話を超えて、映画を監督するってきっとそういうことなのだと僕は思いますけど、絶望だとかは一切思わずに単純な事実として「ビジネス」がそれを許しはしないし、アメリカでもそんな企画は当然通るワケがない。

 

市沢 絶対に「それは企画じゃない」と言われるし、それを全面に標榜して映画を作ったらこういう映画にならないでしょうからね。

 

シンスケ そういう世の中ですね。

 

市沢 だからそういう「矜持」っていうか「マナー」っていうかなんていうかなぁ、そういうのをテレビドラマの演出家の人(※監督の土井裕泰はTBSで数々の「TVドラマ」を手がけている)がやれたっていうのがね。と言うのは、テレビの人の方がやっぱり映画に対する意識とか憧れとかが高いんじゃないかっていうのが実はあると思うんですよ。

 

シンスケ 僕はTVの仕事もよくしていたから現場感覚で分かりますけど、それはTV畑の人たちの心の中にあると思いますよ。

 

市沢 で、むしろいまテレビドラマをやっている人の方が映画っていうのを意識していて、かつ意識したことを実現する何か、環境もある程度整っているっていうかね。映画だけをやっている人っていうのは、11本がどうしてもプログラムなピクチャーになりえないから。「プログラムの中で量産する」っていう体制の中で地力をつけた上で、ある意志を持ったものを作れるっていう環境に、実はテレビの人の方がいるんじゃないかっていうね。もしかして古澤健さんが行っている方向っていうのもそうかもしれないんですけど。

で、やっぱり、実際にテレビドラマを見ないとそういうのはちゃんと分からないんで、テレビドラマの劇場版だけ観てテレビドラマをけなされると割と腹が立つんですけど、私は。

 

シンスケ え、市沢さんが腹立つんですか?

 

市沢 うん。まぁ誰かも言っていましたけど、テレビドラマの劇場版ってさ、テレビドラマを見たファンが、「同窓会」として見たい、つまり「あいつらにまた会いたい」という側面があってね。全ての劇場版がそうだとは言わないけど。

すごい大規模な、かつ「クラス出身じゃない人も入場自由ですよ〜」という体の同窓会が開かれている感じ、っていうのかな。クラス出身じゃない、つまりテレビシリーズを見ていない人たちからすれば、「こいつら何でこんなに盛り上がっているの?」と思う。そりゃそうだよね、自分の知らないクラスの同窓会行って楽しいわけない。盛り上がっていれば盛り上がっているほど腹が立つだろう。でも、だからってそのクラス自体がつまらないということではない、というか。なんかよく分かんない例えだな(笑)。 

つまりプログラムなピクチャーとして展開しているのは、本当は毎週放送されているドラマであるわけですよ。この映画の監督である土井裕泰さんも結構前から相当な数のドラマをやっているわけじゃないですか。

 

シンスケ そうみたいですね。

 

市沢 そんな、テレビドラマというプログラムピクチャーの中で地力をつけていった人が、演出として「何かをやらない」という選択肢を映画の中で貫いているっていうのが面白かったんだよなぁ。

……しかし根本的な話ですが、『ビリギャル』を2時間見て行く中で「何かをしない」「早い」っていうことをしきりに言っていましたけど、それって何がいいってことなんだろうね?

それは「アメリカ映画的だ」と言えるのかもしれないけど、この軽々しく使ってしまっている「アメリカ映画」と呼んでいるものって、果たしてなんなのか、っていうことを今更ながら考えてしまいましたね。

 

シンスケ まぁ、アメリカの映画以外でという意味で、一般的なヨーロッパの映画と比べれば分かりますよね。ヨーロピアンとかと言われるものとは尺も違うだろうし、そうじゃなくて……「溜め」ですかね。カット尻とかも含め、芝居とかも。それを「効率的」って呼んでいいんですかね、「アメリカ映画」を。お話を進める上で「商業的に合理的」、かなぁ。

 

市沢 というのは、そういう「商業としての合理性」だとか、それが「グッドデザイン」であったとかいうことが、時代の要求とがっちりハマったのは、どうも50年代60年代、いやもっと言うと40年代くらいのアメリカ映画だったらしい。で、60年代後半から70年代にかけて、どうもそれが崩れて行ったようだと。正確に言うと「崩れて行ったのだった」と本に載っている言葉を読んだだけで。つまり自分達の世代は、同時代に経験したのではなく知識として知った歴史観に触れて「そうだそうだ。そういうことだ」と後追いの歴史認識を持っているという事なんだけど、それでも「アメリカ映画的」な何かを、現代の映画の中に見ちゃう、これはなんなのかっていうことですよね。

40年代から60年代の映画の、商品としてのグッドデザインっていうのは、その時・その当時おそらく求められていたであろうグッドデザインなんだけど、いまの映画を考えた時に「カットを短くすること=機能的」ということなのか?っていう。もしくは、「機能的」なこと「グッドデザイン」であることが果たして求められているのか?っていうことを思うわけです。そういうことをみんな別に共有しているわけじゃないよねっていう。

自分自身は、「それはグッドデザインなんだ」と力強く言うことで「『アメリカ映画』というものがあるんだ」と信じたいところがあるんだけれども、その事を、知らない人にどこまで共有出来るものなのかっていうのが分からないところがあって。

 

シンスケ はい。我々がよく喋っている話ですね、それは。

 

市沢 まぁ、それを探れるいい機会になるんじゃないかなっていう感じなんですね。

 

シンスケ これ、収録するのは一回目なんですけど、実は市沢さんと1年くらいずっと考え続けているネタなんですよね(笑)。

 

市沢 でも一個、今回のポイントだったのは、メジャーな日本映画を積極的には観ないシンスケくんが(笑)、珍しく好感触であって、かつ喋ってくれることになったっていうのは、そこに引きつける何かがあったということだし、あと「日本映画の中に『アメリカ映画』的なものを見た」っていうことの方が、本質に近付けるかもなって思ったんですよね。つまり、いわゆるアメリカ的な豊かさみたいなことが、例えばこの間観た『ズートピア』みたいに一画面一画面から溢れ出ているわけではないじゃないですか。

 

シンスケ リビングや台所のシーンなんかはもろ日本ですからね。高校の教室や塾内なんかも全部そうですし。

 

市沢 だから本当にテレビドラマの延長で観ることも全然出来るし、別に異形なものではないんだけれど、本当にちょっとしたところに意志・こだわりが見える映画だったと。それを「わりとよく出来た映画」ではなく、「アメリカ映画だ」って言った時に「じゃあそれってなんなんだろう?」というのが見えるのかなぁと思いましたですね。

 

シンスケ 思いましたですね(笑)。

 

市沢 それを今挙げ連ねることがぶっちゃけ何の得になるのか、ということも含めてね(笑)。さっきの「機能性」とか「合理性」っていうのを突き詰めたからといって「商品」として何かに繋がるのか。例えば売り上げだったりなんだったりに繋がるのかっていうと、それとはまた違うじゃないですか。

 

シンスケ 絶対に違いますね。

 

市沢 それこそ「矜持」の部分というか「プライド」の部分っていうかさ。そういうところに関わってくる部分なのかもしれない。

 

シンスケ 僕にとっては単純な話で、「歌が“普通に”上手い」みたいなのものと感覚的には同じだと思うんですけどね。「個性的な魅力を持つ歌手」が「作家性」と対応しているとすれば。

 

市沢 ああ〜。

 

シンスケ 音程がズレていなくて、メロディが聞きやすくて、歌詞の内容も聞き取れて、それでいてムダがなくシンプルに、こぶしがむちゃくちゃ効いているわけでもない、みたいな。日本だと「およげ!たいやきくん」とか「仮面ライダー」の歌を歌っていた子門真人とかは根本的に歌がめちゃくちゃ上手いから、元々は単体歌手(?)としてデビューしたけれど売れなくて、一旦廃業して音楽業界でサラリーマンをしつつそれとは別でレコーディングの現場に来て一曲いくらで歌を入れる、みたいなアルバイト的な仕事が回って来ていたらしいんです。

だからそれはリスナー側の都合ではなくて、作り手・業界側の人間が「これが上手い」「こいつは上手い」っていうこと、その基準を分かっていて共有していれば、その歌手を起用するわけじゃないですか。それはレコーディングする曲について、その曲がいいとか歌詞がグッと来るとかっていうことではない。それは多分に「好き/嫌い」という「好み」というファクターも関わって来ちゃうから。

 

市沢 そうだよね。それに乗せていくと「歌い上げ過ぎない」というね。

 

シンスケ で、しっかり曲は壊さず歌う。

 

市沢 そうだね。

 

シンスケ で、もちろん歌手ですから、根本的な上手さの上で、さらに少なからずの歌い手の個性が積まれて曲になる、曲にも個性がある、それで「およげ!たいやきくん」が出来上がると。で、まぁ子門真人が歌っても売れていない曲、いくらでもありますよね。でもなぜか「およげ!たいやきくん」がスーパースマッシュヒットをしてしまうっていうのと映画の興行成績は近いものがあって。

 

市沢 ああ〜なるほどね。

 

シンスケ なので、ある映画を観てそれを「アメリカ映画」かどうかっていうことを判断するのは、正直プロデューサーとかがすればいい話だと思うんですよね。「こいつに腕があるか、ないか」っていうことを分かるか分からないか、その感覚があるのかないのか、本来ならばそれだけのはずなんですけど。

はっきり言ってハリウッドのブロックバスターから邦画まで、商業映画って、売れちまえばそれでいい「商品」という側面がある。売れるならば「腕のある/なし」を第一条件にする必要なんてなくて、コミュニケーションの取りやすさや人柄、納期や予算にきっちり収める力や大人の事情を汲み取れる能力とかに長ける、あるいは単純に「好み」やこれまでの付き合いで、プロデューサーが扱いやすい特定の監督にやってもらった方が当然国内では金も回るし仕事もやりやすいに決まっている。その人の歌が上手いとかヘタとかではなくて、単純に「売れるか売れないか」っていうところだけで20世紀までの「大企業」としてはそれで充分になってしまう。
観客側から考えてみても、実際に人間って、自分自身のことを考えてみてもそうですが、日常的に「善し/悪し」で物事を判断するというより「好き/嫌い」で判断することも多いですからね。特に近年は「客観的な評価軸」なんてないかのごとく(現実にそんなものはないのかもしれないですが)、自分が理解出来る範囲だけの「共感」「あるある」「好き/嫌い」というものが世間的にも受け入れられているような気もするし、そのことの方がもはや当たり前の「モード」として機能しているような気がします。世間でも認められるような「客観的な評価軸」があるとすれば、それは「興行成績=金」が一番分かりやすい、という感じだし。だから「映画を観る」なんて行為は「好み」の領域の話で済ませてしまって充分だろう、と思うこともありますよ。

ただ、そうやって歌が上手いかヘタかって考えると、これまで連呼して来た「アメリカ映画」とは完全なイコールではないのですが、アメリカのハリウッドで撮っている映画たちっていうのは、その作品が面白いかどうかってことはとりあえず置いておいたとしても、間違いなく「上手い」監督が多いと思うんですよね。そういう感覚で僕は『ビリギャル』を見て「あ、これは上手い、スゴい!」って思ったし興奮もした。だから傑作だって言い方をしたんです。一方で「この作品、好きか嫌いか」って聞かれたら、そんなに好きではないかもしれない。

 

市沢 ほうほう。

 

シンスケ 「めっちゃ傑作! 面白過ぎて心の1本です!」っていうわけではないですからね。それは単純に「そんなに好みではないかも」というだけの話です。「カレーはライスで食べるよりも、ナンで食べる方が好き、でも、このカレーはライスで食べても充分に美味い!」というのと同じ話ですよ(笑)。
だから「上手い」ということ、それが多くの観客に受け入れてもらえるのかどうかってとこですよね。服で考えれば分かりやすいですよね。デザインで気に入る部分があったり値段の上での納得があれば
多くの人にとっては日常的にはファストファッションくらいで充分なわけで、専門家や好事家でもなければ超一流の上質な服をわざわざ買いに行くことはないでしょうからね。

ただ、この学校(映画美学校)は作り手を養成するわけで……

 

市沢 ああ、そうね。「上手さってなんだろうね」っていうことをね。

 

シンスケ だからある水準としてはその「上手さ」がある程度は必要なのかもしれないし、あるいははもう時代遅れでそういう「上手さ」とかは必要じゃないって言い切ってしまう人もいるのかもしれない。

そんなものよりも「個性」だとか「アーティスト性」だとかが肝要でメインストリームになる/なっていると飄々と言い切ってしまう人もいるのかもしれないですし。それは、アウトサイダー・アートやロック、パンクみたいなものを考えると「『アウトサイダー』の『インサイダー』化」だという見方をしても良いのかもしれない。

 

市沢 「上手さ」とか「よく出来ている」だとか、クオリティっていうところは一旦ご破算になってしまったと思っているところがあって。だいぶ前に映画において「上手い」とかなんとかっていうことは一旦もうなくなっちゃったんだよっていうところから、改めて一個ずつ「上手い」っていうのはあるっていうことを積んでいっているような気がするというか。

私の中で、映画っていうのを歴史的に、90年代後半からの映画を同時代として感じた時に、いまあえてわざわざ「上手い」と言ってみたけれど、それはなんなのかねっていうこと、「これがスタンダードだ」みたいなことが、自分の中で見えていないなというのがあって今の話をしているということになるのかな。そしてそれは少なからず映画の側に身を置いているのでそう思っている部分もある、と。

あと、アメリカっていう存在。ポップミュージックを含めてですけど、まぁ言うても1020代の自分にとって憧れの対象であったというところから比べると、いまはもう若い世代がアメリカに対して思い描いていることっていうのはどうも違っている気がするのね。アメリカっていうのは「圧倒的な豊かさ」の象徴で、ポップミュージックやアメリカ映画といった文化の中にそれをギリギリ見ていた世代なんですけど、いまはそれもあるのかどうなのか、よく分からないっていう。

ただ『ズートピア』とかを観ると、やっぱり圧倒的な感じはするんだけどね。

 

シンスケ 僕はまだ観てないですが『ズートピア』にそれはあったんですね?

 

市沢 『ズートピア』に対するある種の「信頼」っていうか、ピクサー・ディズニーに対するクオリティとしての信頼を割とみんなが持っているっぽい。

 

シンスケ なるほど。

 

市沢 なんだかんだと「クオリティ」っていうものを皆がちゃんと認識しているなぁっていう気がするんですよ。

 

シンスケ それは確かにそうかもしれないですね。

 

市沢 それが、昔は「アメリカ」っていう存在そのものと同一だった気がする。「アメリカ」が作る物っていうのは、アメリカの映画だったりアメリカの音楽だったりっていうものが大きく一括りでグッドデザインでハイクオリティのものであるっていう意識があり、それがいまは違っているという認識なんだけれど、ただ全くなくなったわけでもないなぁっていう、この捉えづらさね。捉えづらい「いま」という状況を捉えたくて仕方がない……日々を送っている。

 

シンスケ おお(笑)。

 

市沢 自分の性格ですよね、これは(笑)。「別にそんなのどうでもいいんじゃね?」っていうことを座標軸に置いてみたくなっちゃうんですよね。

 

シンスケ 僕は多分そういう面から言うと映画をそれなりに見始めた時に「なんでいまの日本に『アメリカ映画』はないんだろう?」っていう考え方をしてきたのかなぁ。もちろんこの『ビリギャル』や一番最初に触れた『アンダルシア 女神の報復』のように、僕が勉強不足なだけでいまでもいくらでもあるのかもしれないんですけど。

ハリウッドではこれだけクオリティの高い「アメリカ映画」が出来ている。で、日本で僕が知っている監督たちが、例えば売れていないとか名が知れていないとか、あるいは実力があるのは分かり切っているけれどまだそんなに作品を作っていない人も含めて、「作家性」の強い映画とかじゃなくて普通の映画、「日本で『アメリカ映画』を撮る」、それが実現可能な能力と才能と知性を持っていると思う方がいくらでもいるんですよ。

「この人の映画を観たい」だとか「この人のビッグバジェットの商業邦画があってもいいんじゃないか」と思う人は、少なくとも両手の指で数えなければならないくらいはいる。でも、そういう人にはそういうチャンスが巡ってこないっていうのがあって、それが若い時には凄く不思議だったんですよ。なんでだろうって。いまはもうその理由が何となく分かってしまうんですけど(笑)。

 

市沢 いま聞いていて思ったんですけど、映画になると身近な存在がいっぱい出てくるので逆に距離感が取れないんですけど、音楽で例えると、例えばアメリカン・ポップミュージックというものを凄いなって思った基準からして、日本のミュージシャンでそういうことを感じさせる人っていたりするんですか?

 

シンスケ 日本のミュージシャンで? マイケルとかプリンスレベルってことですか?

 

市沢 なんていうのかな、いわゆるグッドデザイン、ハイクオリティに対して拍手を送りたい人っていうんですかね。

 

シンスケ ポップスでか……

 

市沢 でも音楽は確かに、やっぱり80年代までは日本のポップミュージックっていうのはアメリカと比べられて、クオリティの部分で圧倒的に違うと思われていたはずなんですよ。本当のところはともかく自分やまわりがそう思っていた。それがどんどんどんどん自宅でかなりのクオリティの音楽が作れるようになったようだと。そういう環境の中で、日本の音楽をアメリカと比べて聞くっていうことがもうなくなったっていう意味では、日本映画と「アメリカ映画」の関係性でも近いなと。

自分の中での日本映画と「アメリカ映画」っていうのは、10代の頃は厳然と「イケてる/イケてない」と段違いに開いていたはずのものが、今はあんまり開いている気がしないなぁという意識があって。逆に音楽にそういう人っているのかしらと思ってね。

 

シンスケ 作家ではなく「ウェルメイド」ってことですよね? かつ「作家性」とかに対応するような、例えばメタルとかノイズとかアバンギャルドとかそういう「ジャンル」でもなく、ポップということで。

 

市沢 そうね。

 

シンスケ 現代の人を挙げるとあれだから……初期の荒井由美の何曲かはそれに近かったんじゃないんですかね。

 

市沢 そうね、そうだね。

 

シンスケ 例えば「はっぴいえんど」とかって名前を出しちゃうと、それは違うと思うんですよ。ちょっと意味っていうか趣向性が。

 

市沢 そうね、荒井由美、山下達郎……

 

シンスケ 山下達郎の場合は、多分凄くポップなんでしょうけど、昔、寺尾次郎さんとかとやっていたあのバンドのこととかも考えると……

 

市沢 「シュガーベイブ」ですね。

 

シンスケ もうちょっとAORだったりジャンルを汲んでいるイメージがあって。だから「ポップです」って言い切るとなると、僕としてはちょっと歯切れが悪くなる……でもプリンスがそうならヤマタツもそうなのかもなぁ。ジャンルにこだわらなかったとして、単純に個々のミュージシャンの技量で言えば、日本に幾らでもワールドクラスの人は当然いる。僕は灰野敬二さんとか吉田達也さんとか、そういうスーパーな人たちの音楽も心から大好きですし。

だからポップでしょ……本当に高度なレベルで「Jポップ」というものを極め尽くしたと言っても過言ではない「スピッツ」の曲に、英語の歌詞を乗せても世界では売れないですよね、多分。「Jポップ」と「ポップミュージック」って僕にとってはかなり異なるジャンルの音楽だと思うし、前者は曲それぞれの善し悪しは別として、ローカルな、ドメスティック・エンターテインメントな部分を感じてしまうから。

 

市沢 逆にそういう眼で見ると、全然日本のメジャー音楽とか俺はすげぇ好きなんで……

 

シンスケ ちょっと! 僕は嫌いなんて一言も言ってないですよ! 「スピッツ」めっちゃ凄いって言っているじゃないですか! 昭和歌謡、大好きですからね!

 

市沢 一個例えば固有名詞を言いましょう(笑)。「サザン」と言った瞬間に、非常にその、ある洗練はされているんだけども、何か自分たちが聞いていた「アメリカン・ポップミュージック」というものと並べていった時に考えると、「サザン」は日本人が日本人のために日本人に向けて作っている音楽として凄くよく出来ているっていう、日本人の何かに触れているっていう風に感じるんですよね。

 

シンスケ 凄くよく分かります。そうですよね。それが「Jポップ」なんだと思います。

 

市沢 でも、アメリカのポップミュージックって今のものは分からないんだけど、まぁマイケル・ジャクソンとかでもいいんですけど、それって別にアメリカ人のために作っているっていうよりは……っていうことじゃないですか。

 

シンスケ ですね。

 

市沢 そのどちらも別にグッドデザインだと思うんだけど、その違いって何なんですかねっていう。

 

シンスケ それは日本の企業とかとも同じなんですかね。よくガラパゴス化とか言われるじゃないですか。

 

市沢 うん、そうね。

 

シンスケ もう言語とか文化的にそういう風になっちゃっているんですか?

 

市沢 かもしれないですけどねぇ……もしかするとさっきの『ビリギャル』の中でも、やっぱり日本人の琴線に触れるようにデザインされている部分って……

 

シンスケ ありますよね。「アメリカ映画的」でありつつ「Jポップ・シネマ」としても完璧に成立している。

 

市沢 だからヒットしているわけですよね。

 

シンスケ ですね。そうだと思います。多分、我々がカット尻だと言っている部分は……

 

市沢 「カット尻が……」とか言っている価値観をどんどん追いつめていくと、もしかすると排除されてしまうかもしれないっていう部分があるはず。例えばなんだろう、さっきの温泉のシーンとかもそうなのかもしれないけど、それってよく見るタイプのシーンだし、よく撮れているのかもしれないけれど、その「よく撮れている」と「カット尻が短い」っていうものの良さって違う良さだよねって。

それはどっちが良い/悪いじゃなくてね。今回の『ビリギャル』では具体的にどのシーンかって言うと、我々がこの映画について喋ってないシーンね。日本史の話とか兄貴の話とかしていたところね。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 喋んなかった部分は別につまらないわけじゃなくて普通に見られるんだけど、その「普通に見られる」っていうのは、TVドラマを見ていて「ああ、いいなぁ」って思って見ている、っていう意味で普通に見られるんだけど、それって実は極めて日本的な情緒を共有しているっていうことなのかもしれないですよね……「サザン」という話をしだしたら急激にそう思えてきましたけど。

 

シンスケ 基本的にこの「市沢紳介」の趣旨は、市沢さんの無意識を僕が言語として引き出す、という対談ですからね。

 

市沢 (笑)

 

シンスケ ……そろそろですかね。

 

市沢 すげぇしゃべっちゃったよね。あ、時間もうないや……いや、だからね……

 

シンスケ 続けるんですね(笑)。

 

市沢 音楽で例えると、っていうところから、自分の思ってることが引き出せたのは凄く良かったですね……結局自分のことかっていう(笑)。例えば「スピッツ」とかも、もちろん彼らの中でのポップミュージックのマナーっていうのがあるんだろうけど、何か違う所があるんだろうね。「王道」という言葉を使うと引っかかりが出ちゃうんだけど、アメリカの音楽を聞いていた時のあの感じとはまた違う……

 

シンスケ 前に市沢さんに喋ったファレル・ウィリアムスの「Happy」っていう曲があるじゃないですか。歌い手も作り手も確実に「カーティス・メイフィールド」を汲んで、カーティスの歴史ありきの曲。あれとかって、当然日本デザインじゃないしアメリカンデザインでもないとは思うんですよ。それなのに世界的に大ヒットして、一時期日本のチェーンのオシャレ系飲食店でも死ぬほどかかっていた。

 

市沢 ファレル・ウィリアムスとか2000年代前半は凄く聞いていましたけど、いまや「Happy」という曲の存在を知っていても聞いたことがなかったというくらい、現在のブラックミュージックを聞かなくなりましたが……でもそうだね。もう一回聴いてみようかな。

 

シンスケ (笑)

 

市沢 ファレルの「Happy」、聴いてみます!

 

シンスケ ……こんな感じで唐突に終わりますので(笑)。

 

市沢 ええ、いつまでも続いてしまいますので……じゃあ終わりにします!

 


 

(次回掲載の有無、時期は不明ですが、こんな話を二人でしょっちゅうしております)