映画B学校を旗揚げした時、座談会企画ともう一つ、柱にしようと思っていたコーナーがある。映画美学校周辺に暮らす誰かに、みっちり話を聞いて書くということ。「今、なにしてる?」と題されたそのコーナーを、初心に返って更新してみる。9月の「俳優養成講座(アクターズ・コース)」開講を前にご登場いただくのは、アクターズ・コース第1期生にして、同コースのキーパーソンである小田篤。当時事務局にいた局長オガワの主観満載でお届けします!(小川志津子) ※苦みばしったお写真たちは本人による自撮りです

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 2011年、映画美学校で産声を上げた「アクターズ・コース」の、彼は第1期生である。その思いのこもった願書を、当時事務局でバイトしていた私は受け取った記憶がある。封を開け、言いつけられていた通りの判を押し、ファイルに収めてから私は、奥にいる上司たちに向かって「1人め、来ましたー」とか何とか言ったんだと思う。そう、彼の願書が届いたのは、他の誰よりも早かった。おーー、と上司たちがやってきて、その願書を覗き込み、言った。

「……小田くんじゃん」「何しに来るんだ?」

 小田篤。願書を出してきた時点で、すでに彼は俳優だった。映画美学校OBたちの作品を観ると、その顔を散見することができる。「何しに来るんだ?」と上司が言ったのは、つまり「すでに俳優なのに何を勉強する気だ?」的な意味合いだろう。けれどやがて「アクターズ・コース」が開講し、ライターとして講師陣としばしば話を交わすうちに、腑に落ちたことがある。

 どんなにキャリアを重ねても、学び続ける、ということに意味がある。

「ちょうど、3.11の直後だったんですね。たぶん多くの人が考えたと思うんですけど、僕も考えたんです。これからの人生、やりたいことをちゃんとやって生きなきゃいけないって。その頃、映画美学校でアクターズ・コースが開講すると知って」

 初夏の夜、都内のカフェで彼に話を聞いた。この時間に人と会っても、酒を飲めない理由が彼にはあった。彼の副業は牛乳配達。夜中の0時に始動するため、土曜日以外はまるで飲めないのだという。

「僕は映画美学校に集まる人たちが大好きだったんです。どこか偏屈で、たまにケンカしたりしてて、しかもよく聞くとみんなそんなに若くなかったりして(笑)。多少は社会を知っている人たちが、無理矢理時間を空けて映画を作ってる。こういう人たちが集まる学校が俳優クラスを作るんだから、そりゃもちろん面白いだろう!と思いました。演劇なんてほとんど観てなかったから、青年団(首脳講師陣の所属劇団)のことも知らなかったですね」

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 その時点で、35歳。ここに来る前、彼はどんな道のりを歩いてきたのか。

「地元は三重なんですけど、映画も演劇もまったく観なかったし、大学に入ってからも授業には出ずに、仲間と遊んでばっかりいたんですよ。長野で野菜作ったりとか(笑)。でもその仲間も時が来れば卒業していくわけです。どんどん置いて行かれて、このまま親に学費を出させ続けるわけにもいかないし、よし、東京にでも逃げるか、と」

 その口実として思いついたのが「役者になりたい」だったのだという。そう言われたら、さすがの親たちも、ぐうの音も出ないだろうと。

「それでひとまず東京に行って、養成所のオーディションを受けて、部屋を決めて、三重に戻って」

 この時点で、順序がおかしい。親の許しを得てから上京すれば、三重−東京間の交通費が1往復分お得である。でも彼にとっての据わりのいい順序はこっちだったのだ。「役者になりたいから東京に行く」のではなく「すでに役者になることが決まったから東京に行く」。

「だから、もうその時点で、俺には他に逃げ場がないんですよ。いろんなことから逃げ続けた末、ここにいるので」

 23歳。東京でとある養成所に入り、同年代の仲間たちと酒を飲んでは芝居を語る。

「そうすると、みんな『30歳になるまでに芽が出なかったら辞める』って言うんですよ。何言ってんだろう?って思いました。そりゃね、すごく顔がいいとか、面白いとか才能があるとか、そういう奴らはそうだろうけど、俺たちみたいにとりたてて何もないような人間が、30までに芽が出るわけがないだろう、と。頑張って頑張って、40とか50になってようやく、ちょっとだけ芽が出るぐらいのもんなんじゃないの?と」

 だから、一生やっていくしかない。そのために得たのが「副業」だった。しかも幸運なことに、とても性に合った仕事。

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「芝居をすると、すごく相手と向き合うじゃないですか。でも牛乳配達は基本、1人作業なんですよね。1人で会社行って、1人で配って、1人で荷物片して、1人で帰る。芝居で嫌なことがあったり、暗い気持ちになっても、配達してるとフラットに戻れるし、『人と会いたいな』っていうエネルギーも取り戻せる。動きもほとんどルーティンだから、身体を動かしながら、何か面白いことを思いついたりもするんですよね。巧さで言ったら、俳優業よりも牛乳配達の方がずっと巧いです。すごいですよ、僕の配達は。もうね、流れるようなフォーム!」

 後に彼が映画美学校の仲間たちと一緒に撮った短編『牛乳配達』で、その勇姿を拝むことができる。

 アクターズ・コースの第1期が動き出したのは、2011年初夏のことだ。できたばかりの「KINOHAUS」の「地下ミニスタジオ」はまだ真新しく、俳優たちはそこを裸足で歩きまわり、たまに寝転んだりして感覚を確かめ、それぞれのアンテナを研ぎ澄ましていく。他コースに通う受講生たちから見ると、それはちょっと異様な光景だったようだ。 

「アクターズの人たちはリア充に見える、っていう声を聞いたことがあるんですよ。男女問わず仲が良すぎるって。芝居をする上ではどうしても、相手との距離を心理的にも物理的にも縮める必要があるから、互いの垣根を崩していく作業がとても大切。僕は他の同期生とは10歳近く離れていたけど、まるで関係なかったですね。普通にタメ口。普通にただの同期。考えてみたら、10歳年下の人と普通に友だちになるなんて、そうそうないことですよね」 

 小田篤が同級生から「おじさん」と呼ばれているのを私はたびたび見聞きしている。「おじさんおじさん、ちょっとアレ取って!」的なやりとり。 

「最初はみんな引っ込み思案集団だったので、もうガッツガツ行きましたね。もちろん、自分の演技を磨くことも大きな目的の1つだったけど、でも僕がやりたいことは、1人じゃできないことだから。みんなを巻き込まなくちゃ、何も始まらないと思って」 

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 彼の「巻き込み方」を私は一度、身を持って体験している。アクターズ1期生のみんなが、なぜか「たこパー(たこ焼きパーティー)」に招いてくれたのだ。焼いちゃあ飲み食い、そして語り、私は小田篤に、ケンカを売られた。 

「売っちゃうんです。アクターズのほぼ全員とケンカしてます。最初にやったのは中川(ゆかり)さん。聞いた話によると、僕のいないところで『ほんっっっとうにウザい奴がいる!』って言ってたみたいです(笑)」 

 そう、何だか知らないけれど、奴は人のダメ出しをしてくるのである。それも、こっちがとても大切にしていることについて。酔いすぎて中身は忘れてしまったけれど、その時に口をついて出た言葉を私ははっきり覚えている。「小田さんはそこんとこ、わかってくれてると思ってたよー!」。つまり私はその時点で、すでに彼を「理解者」の1人として認識していたことになる。……まじか。術中にハマりまくりじゃないか。 

「アクターズのみんなはどちらかというと、殻が厚い人たちだったから、是が非でも崩してやりたいと思ってました。だからまず、そういうコミュニケーションを取っちゃう。で、そこから、回復していく。あまりいい方法ではないですけどね」 

 そう思う。あまりいい方法ではない。でも何らかの「腹を割った感」が生まれるのだろう。というか、腹を割らないと、何も始まらないのだろう。 

「授業では課題を出されるんですけど、1人でやる課題は、1人でやればいいんですよ。でもペアを組んでやる課題が出されると、次の授業までにその人と時間を合わせて、場所を決めて、考えてきたものを持ち寄って、とにかくコミュニケーションが必要なんですよね。言葉にならないコミュニケーションもいっぱいありました。この人は言葉が苦手なんだな、だったらこうしてみよう、とか。互いが互いの思いをどう読み取っていくか。常にそのことにさらされていました」 

 思えば芝居はそういうものでできている。言語以外の脳みそをフル稼働する営み。簡単には通じ合えない相手とも、どう伝え合うかを試し続ける営み。 

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「もちろん、器用に言葉にすることを求められる現場もあると思うんです。アクターズでは許されたことが、社会では許されないという体験を、アクターズ生は少なからずしていると思う。でも、そういうふうに傷ついた人でも、映画や演劇に関わることをあきらめる必要はないし、そういう人がゆっくりでも着実に学んでいける場を、この学校は作ろうとしているんだと思うんですね」 

 聞くところによると「俳優レッスン」というカリキュラムがあるという。修了生たちが期を越えて集い、講師陣と共に演技について模索する。 

「自分を語ることが得意な人も苦手な人も、俳優を続けていく上では、『自分とは何か?』だけでは立ちゆかなくなる時がきっと来ると思います。俳優って、自分のことだけわかっててもダメで、例えば与えられた役柄のことを考えるにあたっては、俳優自身の人間観や世界観が問われてくる。俳優は、必ずしも自分を語る必要はない。むしろ、宇宙を語れる方がいいんじゃないかと思いますね」

高等科が修了しても、彼らは何かと映画美学校に顔を出した。もう授業なんてやってないはずなのに、彼らは何かと集まっていた。「場」がある、ということの豊かさを思う。埋もれそうだった小さな光たちが、「場」を得て集まり、光を放つ。決して同系色ではなく、強さも色合いも様々な光を。

 第1期生が高等科修了制作として作った映画が、今年春に劇場公開された『ジョギング渡り鳥』である。鈴木卓爾監督の指揮のもと、深谷に合宿して、ごはんもみんなで作って食べて、誰もが自分の仕事を臆せず果たしていて、つまり全員野球じゃなくて「全員映画」だった。あの映画はクランクインの日ではなく、2011年春、地下ミニスタジオで全員が初めて顔を合わせた、あの日に始まったものなのである。 

「『ジョギング渡り鳥』で僕はギターを弾いて、劇中歌を作ったんですね。なんだ、結局何でもいいんじゃねーか!と思って(笑)。演技を学びに来たけど、要は音楽だろうが何だろうが、"作る"ことさえやれてれば俺は幸せなんだなっていうのが、大きな発見でしたね」 

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 彼は1年後輩のアクターズ修了生・長尾理世と自主映画を共同監督している。タイトルは『牛乳配達』。ごく普通の牛乳配達員が、理不尽すぎるクレーマーと対決。20分間の全力喜劇が、廣木隆一やいとうせいこうら審査員勢に認められ、「したまちコメディ大賞2015」で準グランプリを取った。 

「僕や長尾さんに特別な力があったわけじゃなくて、カメラを回してくれた中瀬(慧)くんとか、佐野(真規)さんとか石川(貴雄)さんとか、そういういろんな人と出会って一緒に遊べたことが一番大きかったと思いますね。創意工夫次第で何でもできるってことがわかりました」 

 今挙がった名前はフィクション・コースの修了生である。期を越えてつながり続ける人たちだ。 

「だから僕はね、映画美学校でやりたかったことを全部、しこたまやってやりましたよ!」 

 じゃあアクターズ・コースで学んだこと、できるようになったことって何ですか。そう尋ねると、返ってきた答えはこうだ。 

「1つの物事にいろんな可能性があるとして、それを自分で取捨選択できるようになったことですかね。まず講師陣が投げてくれるものを全力で受け取って、丸呑みして、その中で、自分が欲しいのはどれなのかっていうことを考えられるようになった」 

 まず、全部丸呑みする。そのための胃袋を、受講生たちは整えておかなければならない。 

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「俳優って、台本もらってセリフを覚えて芝居を考えて、『自分で持っていくもの』に固執してしまうことがあるんです。でも大事なのはそうじゃなくて、その場で起きることに反応すること。最近難しいなあって思うのは、芝居って結局『自分以外の人間にはなれないよね』っていう認識からスタートするんですよね。演技する上で使えるのは、どうひっくり返っても自分自身でしかない。っていうことを、僕はアクターズ・コースで教えられた。どんなに隠しても表に出てしまう『個性』にこそ価値があるのだと。でも俳優を目指すような人間は、みんなどこかで『自分じゃない人生を生きたい』って思ってるはずなんですよ。自分の個性よりも、相手と自分の間にあるものを求めていきたいと思うんです。だから今の僕は、アクターズで習ったことを『果たして本当にそうだろうか』って思っています。むしろなるべく、個性を消したいとさえ思っていて」 

 彼らの足元は、いつだって揺れ続けている。アクターズ・コースで学んだからといって、揺るぎない道が保証されるわけではまったくない。でも少なくとも、自分の変化に敏感かつ柔軟であることこそが、これから先の道しるべであることを彼らは知っている。鋼鉄の強度ではなく、しなやかな強さを。6年目のアクターズ・コースが動き出す季節は、すぐそこだ。(2016年4月取材)

※「俳優養成講座(アクターズ・コース)」ガイダンス、2016年7月24日14時より映画美学校にて開催です