前回の「OB編」で「4〜50代の大人はずいぶんアツいらしい」と言及された、どんぴしゃ世代を今回は招いた。『シン・ゴジラ』座談会、映画美学校講師編である。それぞれが、それぞれのゴジラへの思いを、抱いていたりいなかったり。そのコントラストを、ほぼ全面的に掲載しよう。(小川志津子)
高橋洋
脚本家・映画監督。1959年生まれ。昭和29年版『ゴジラ』は子供の頃にテレビで見て衝撃を受けたモロ特撮映画世代。ゴジラ・シリーズに限らず、特撮映画はほぼリアルタイムで劇場で見ていたが、『ヘドラ』あたりを最後にいったん離れる。平成ゴジラから再び何本かを追いかけたが、次第に興味を失ってゆく…。
篠崎誠
1963年生まれ。映画館のリアルタイムゴジラ初体験は『怪獣総進撃』か『モスラ対ゴジラ』(再映)。高1年で「大特撮」(初版)に感銘を受け、文芸坐のスーパーSF大会、日劇のゴジラ大会で改めて昭和29年版『ゴジラ』の凄さに圧倒されるも、1984年版『ゴジラ』に失望。『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』『ゴジラ対へドラ』を偏愛。
鈴木卓爾
映画監督・俳優。1967年生まれ。小学校時、児童文化館で上映してた『ゴジラの息子』『怪獣総進撃』などのソフトな奴から入り好きになる。『ゴジラ対ヘドラ』がトラウマになる。『ゴジラ対メカゴジラ』のテレビ放映時、ラジカセで音のみ録音し毎日聴く。平成ゴジラからはたまにしか見なくなる。
松井周
演出家・劇作家・俳優。1972年生まれ。ゴジラ・シリーズの作品を何かしら観ているかもしれませんが、覚えていません。『ゴジラ』第一作を今回の座談会のために観て、戦後9年でコレをやったのかと驚嘆しました。日本人が抱えていたであろうトラウマに向き合う胆力がすごい。それと似たものを『シン・ゴジラ』にも感じました。
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高橋洋
脚本家・映画監督。1959年生まれ。昭和29年版『ゴジラ』は子供の頃にテレビで見て衝撃を受けたモロ特撮映画世代。ゴジラ・シリーズに限らず、特撮映画はほぼリアルタイムで劇場で見ていたが、『ヘドラ』あたりを最後にいったん離れる。平成ゴジラから再び何本かを追いかけたが、次第に興味を失ってゆく…。
篠崎誠
1963年生まれ。映画館のリアルタイムゴジラ初体験は『怪獣総進撃』か『モスラ対ゴジラ』(再映)。高1年で「大特撮」(初版)に感銘を受け、文芸坐のスーパーSF大会、日劇のゴジラ大会で改めて昭和29年版『ゴジラ』の凄さに圧倒されるも、1984年版『ゴジラ』に失望。『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』『ゴジラ対へドラ』を偏愛。
鈴木卓爾
映画監督・俳優。1967年生まれ。小学校時、児童文化館で上映してた『ゴジラの息子』『怪獣総進撃』などのソフトな奴から入り好きになる。『ゴジラ対ヘドラ』がトラウマになる。『ゴジラ対メカゴジラ』のテレビ放映時、ラジカセで音のみ録音し毎日聴く。平成ゴジラからはたまにしか見なくなる。
松井周
演出家・劇作家・俳優。1972年生まれ。ゴジラ・シリーズの作品を何かしら観ているかもしれませんが、覚えていません。『ゴジラ』第一作を今回の座談会のために観て、戦後9年でコレをやったのかと驚嘆しました。日本人が抱えていたであろうトラウマに向き合う胆力がすごい。それと似たものを『シン・ゴジラ』にも感じました。
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篠崎 今回の企画の趣旨は、もう、とにかく高橋さんの意見が聞きたい、と。
高橋 (笑)
篠崎 かつて「映画王」という同人誌があって、そこに『ゴジラvsビオランテ』(89年)の後くらいに、高橋さんがゴジラについて書かれたんです(「ゴジラの最期」、『映画の魔』所収)。自分だったら作り手として、今ゴジラを作るとしたらこうする。最期はこう終える、と。それが素晴らしかった。でも、メジャー映画の中で高橋さんがお書きになったような展開は無理だろうと。ところが今回『シン・ゴジラ』を見たら…。途中まで冷静に見ていました。蒲田に上陸するゴジラ第二形態にしても「DAICON FILMの『八岐大蛇の逆襲』みたいだな…」とか「似たような自衛隊のやりとりは、平成『ガメラ』で見た」とか。劇中の中村育二さんの台詞じゃないですが、面白いけど、想定内かな、と。それが、多摩川の攻防戦を経て、中盤の東京が壊滅しかかったところで、「この映画は本気なんだ!」と。米軍の軍用機が撃ち落され、政府首脳陣を乗せたヘリコプターが爆発し、あそこで身を乗り出しました。フィクションとしてこの後、どこまで飛躍するのか。ひょっとして高橋さんが考えた以上の展開になるか、と。ただ、その後が……。面白かったけれども違和感も残りました。で、その正体を見極めようと、翌日また見て(笑)。映画の初日に駆けつけたのも久しぶりでしたが、2日間続けて見るなんて何年ぶりのことか…。でも、2回目はさらに冷静にみてしまったんです。そう言いながら、鈴木卓爾さんの4回にはおよびませんが、今日の鼎談に備えて、昨夜公開まもない『君の名は。』とハシゴして、3回目を見まして(笑)。ようやくいろいろ腑に落ちました。いきなり長々とすみません。
高橋 実際、すごいヒットになりましたよね。興収60億ぐらい行きそうなんでしょう(*9月26日現在すでに動員500万人興収73億円突破)
鈴木 今日また観て来ましたけど、いっぱいでした。しかも年齢層が相当広い。
篠崎 公開初日は、ほとんど40代、50代以上の男性ばかりでしたが、昨日は女性客が多かったです。確実に裾野が広がっていますね。
高橋 興収的に、もっと上を行く映画ってあるじゃないですか。ジブリとかディズニーとか、100億行っちゃうような映画。動員力で言えばそういう映画の方が強いんだけど、でもSNSとかで『シン・ゴジラ』観た人の反応を見てると、明らかに画期的なものを観てしまった興奮にあふれてますよね。それがさらに新しい観客を呼んでいる。これは、昭和29年の『ゴジラ』を観た人がずっと期待していたことが起きてるぞと思ったんです。怪獣バトルもののゴジラしか知らない人たちも「え、ゴジラって怖いじゃん!」っていうのを目の当たりにして、衝撃を受けてる。それを成し遂げた庵野監督はえらい、ということを、まず言いたいです。みんな言ってるんだけど。
篠崎 よくこれを東宝という大メジャーでやりきったと思います。
高橋 「平成ガメラ」の時点で、方法論としてはみんなわかってたわけです。「これをゴジラでやればいいんだ」と。でもなかなかできなかった。その憤り感がずっとあって、僕らは半ば、あきらめてたんだよね。
松井 それは、「平成ガメラ」の時点で、怪獣同士のバトルではない何かが発見されていたということですか?
篠崎 怪獣同士のバトルはありましたが、突然現れた怪獣に対して、たとえば自衛隊が出動したとして、どういう対応をするか。シュミレーションして、ある程度リアルな形で最初に見せてくれたのが「平成ガメラ」シリーズでした。
高橋 怪獣を「怖いもの」として見せる、というアプローチを、その時なりのリアリティでちゃんと描いてみせるっていう。それは、本編の監督をやった金子修介さんと、特撮監督の樋口真嗣さん、脚本の伊藤和典さん、彼らが相当冴えていたんです。大映というマイナーなマーケットで、「これをゴジラでやればいいんじゃん!」っていうことをやってのけた。その後、樋口さんは東宝で映画が撮れるようになったわけですけど。
篠崎 金子さんも『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年)を撮っておられますよね。
高橋 怪獣を三体出すというかなり苦しい条件のもとで、しかもバラゴンまで出てくるという(笑)。
鈴木 バラゴン。かわいそうでしたねえ。
高橋 一番最初に、ゴジラになぶり殺しにされちゃうからね。
鈴木 しかもバラゴンがエポックなのは、ゴジラよりちょっとちっちゃいんですよ。
松井 へええ。
篠崎 松井さん、置いてきぼりじゃないですか(笑)。松井さんにバラゴンの説明しないと。まず『フランケンシュタイン対地底怪獣』(65年、本多猪四郎監督)っていう映画がありまして。その映画の中でバラゴンは家畜を食べたり、いろいろと悪さをしたあげくに、巨大化したフランケンシュタインと戦うんです、って余計わからないか(笑)。僕も好きな怪獣ですけども、どちらかといえば、ややマイナーな存在。それがなぜかキングギドラはじめ、スター怪獣揃い踏みの中に1匹まぎれこんでいて。「よし、バラゴンだそう」って決めたのは、金子監督なのですかね?
高橋 金子さんは、そこで一度トライしたんですよね。「ゴジラを怖く見せる」ということに。
篠崎 太平洋戦争による死者たちの怨念の集合体がゴジラになるんですよね。
高橋 そう。ゴジラ映画の特徴はそういう発想を呼び寄せるということで。これはガメラでは起きない。
松井 なるほど。ある種のタブーに触れてきたわけですね。
高橋 昭和29年からずっと続く、ゴジラ映画でしか起き得ない変な現象なんです。ゴジラという架空の存在が暴れることによって、国民的な悲劇を追体験するという奇妙な風習が、日本にはある。
松井 (笑)
高橋 一番最初の『ゴジラ』も、敗戦から9年後に、東京がもう一度焼け野原になる映画をみんなが観に行くという不思議なことが起きたんです。今回の『シン・ゴジラ』は、3.11の追体験だとみなが受け止めて見ている。震災から5年後に、暴走する放射能炉と人間が戦う話を作った。
鈴木 しかも、状況としては全然収束しないんですよね。
松井 それも、今の日本と似てますよね。
鈴木 原発事故が過去化したかのような空気を感じつつある5年後の今、曖昧な状況の中でこれが公開された。
篠崎 これまではゴジラを、海に追い返すか、どうやって殺すかで悪戦苦闘していたのに、今回の最後は「共存するしかない」ですからね。メタファーというよりも、あからさまに原発の話じゃないですか。現実は、アンダーコントロールどころか、いまだに汚染水漏れも止められないけど、今度の映画では、一応ゴジラの凝固に成功しますが、いつまた暴走するかわからないと言う余韻を持たせつつ映画が終わる。
高橋 まあ、そういうふうに読めるように作られているわけです。で、金子さんのゴジラだと「太平洋に散った英霊の思念の集合体である」という説明があるんだけど、僕はそれを観た時に、すごい発明だとは思いつつ、「さすがにこの台詞には無理があるだろう」と思ったんです。いくら天本英世が言ってもね。ちょっと、観念的すぎる。スピリチュアルな方向に、金子さんは行っちゃった気がしたんですね。
鈴木 平成ガメラをやったからですかね。ガメラは古代の人たちが作った、守り神的な存在なんですよね。
篠崎 オリジナルのガメラは違いますが、平成シリーズは、生物兵器と言う設定で。
松井 すっごいな、どの話も全部面白そうですね!
一同 (笑)
松井 この対談のために第一作の『ゴジラ』を観たんですけど、そこには古来からの神みたいな意味合いが含まれていましたよね。いろいろ掘り起こせる要素を最初から含んでた映画なんだということが、今回よくわかりました。
篠崎 そんなにゴジラに強い思い入れのなかった松井さんが、なぜ『シン・ゴジラ』を見ようと思われたんですか?
松井 友だちの俳優が出てたので。現場がすごく面白かったらしいんですよ。いろいろ大変なことが起こるんだけど、とにかく庵野さんがやりたいことを、最後まで粘ってやっていて、その姿に俳優のモチベーションも上がったらしくて。「現場が面白かったし、映画も面白かった」って聞かされて、その翌日に観に行きました。面白かったですね。今ゴジラが来たら起きそうなことをシミュレーションしている感じが。「何が起きてるかわからない」ということはほぼなくて、まずいろんな事態がスマホの映像で判明していって、それが嘘か本当かわからないという。最初はみんな、ちょっとナメてるじゃないですか。でも後半、ゴジラが形態を変えていって、東京がどんどんめちゃくちゃになって、指揮系統がまず崩れる。そこで急にチームワークみたいなもので乗り越えていくっていうのがちょっとあんまり……
篠崎 プロジェクトX的展開に。
松井 乗れなかったんです、そこは。
高橋 重要な論点ですね。作り手がみんなぶつかる「前半後半問題」。前半がいくら面白くても、後半を面白くするのは本当に大変だということ。怪獣映画には怪獣映画としての要件を満たすためにそうなるしかない物語のパターンというか、約束事みたいなことがあるんですよね。お決まりの芝居や画を撮らなきゃいけないみたいなことも含む。典型的なのは、海辺で釣りしてる人が「わあ、ゴジラだ!」って叫ぶ、とかね。そういうのを、金子修介さんはちゃんと撮るんだよね。伝統を大事にしている。それはとても大事なことなんだけど、一方でそれだけだと決まり切った物語にしかならないって面もあって、庵野さんはアプローチとして、昭和29年にゴジラが発明された時と同じポジションに立とうとした。ゴジラを発明するにあたって、昭和29年の人たちはどう考えただろうかと。彼らが感じ取ったリアリティから現代の物語を発想したらこうなる、ということを庵野さんはやってみせたんだと思うんです。ロッセリーニが『無防備都市』(45年)を初めて公開した時に、ハリウッドの人たちはみんな打ちのめされたじゃないですか。自分たちはウェルメイドな映画を作ってきたのに、全部ぶっ壊されたぞと。今まで「これが映画だ」と思っていた形を壊された、という体験を今、多くの映画人がしてるんじゃないかと思うんです。特に前半は。
鈴木 主人公が家に帰ったり、家族の視点で描いたりしないじゃないですか。政治家としてもそれなりの野心を持っていて、上司に「余計なこと言うな」って釘を差されたりはするけれど、何だか知らないけどやたらガッツがあるっていう。主人公像としては、決して共感しやすい対象ではないですよね。実はとっつきにくい主人公像だなあというのを、最初に観た時に思いました。
篠崎 それは思いました。今よくSNSで映画を批判するのに「主人公に共感できなかった。感情移入できなかった」ってだからダメ、詰まらないって書く人多いですけど、僕自身は、映画の登場人物に感情移入出来たかどうかはさして重要視しない。いや、むしろ、自分とは何の共通点もないような、全く感情移入できないような登場人物の言動に心が動かされるってことの方が遥かに凄いことだと思っています。つまり共感できない主人公で一向に構わない。だけど……。正直に言うと、政治家と官僚が主役ということに乗っていけなかったんです。彼らも所詮は歯車であり、替えのきく存在だってことも描かれているけど。
松井 僕は、匂いがしない感じがあったんですよね。一ヶ所だけ「シャツが臭います」っていうせりふが出てくるけど、それ以外、五感を刺激してくる描写はほとんどない。例えば文化祭で、徹夜作業が延々続いてる時みたいな高揚感はあるんですけど、そのわりにはあまり身体性を感じない。そこも僕は、乗れない感じがしました。何かがそこで起きている、ということからずっと遠ざけられているような感じがして。
篠崎 身体性…あまり感じられなかったですね。最初に蒲田に上陸するゴジラに一番身体性がありました。体液をだしたり、シズル感が(笑)。松井さんの指摘通り、登場人物たちの匂いとか、体温も…。「臭いますよ」って言われた長谷川博己が胸元のシャツを嗅ぐんだけど、全然汚れているようにも見えないし。でも、そういう匂いとか体温とか身体性をはぎ取りたかったのか知れないですね。そもそも興味がないのか。
鈴木 そうですね。つるつるしてましたよね。プラスチックの質感。やたら椅子が出てきたり、コピー機が出てきたり。
篠崎 凝ったフレームの中に物がたくさんレイアウトされて並んでいました。でも、物が物として、そこにある、って感じがしない。仕事でこの数か月、加藤泰の映画をずっと見直していたんですが、こっちは人間と物が、同じ力で画面に存在しているんです。被写体である以上は人間も物も変わりはない。一切差別しないっていう、究極の民主主義が実現されていまして(笑)。『シン・ゴジラ』もほぼ同じことをしているんだけど、画面としてこっちに迫って来ないんですよね。不思議です。
高橋 そうだ、庵野さんは、岡本喜八の大ファンなんだよね。
篠崎 改めて『日本のいちばん長い日』(67年)も見直しました。政府の高官や役人、軍人しか出てこなくて、民間人がほとんどいない状態で物語が成立している構成は全く一緒でした。庵野さんは思い切った選択されたんだと思います。『日本のいちばん長い日』の構成でやれば、これは行けると。僕は、『シン・ゴジラ』が始まって2〜30分は「いつまで会議しているんだろう」「この話はいつ、別の場所へ移るんだろう」と思っていましたが、あ、これは最後まで『日本のいちばん長い日』でいくつもりなのか、と。同じ岡本喜八監督なら、『日本のいちばん長い日』ではなく、『激動の昭和史 沖縄決戦』(71年)のような展開にならないかと期待してしまったところがあったんですが、そうはならなかった(笑)。『沖縄決戦』は軍部の人たちと民間人の話が入り乱れるんです。あと、シナリオを読んだ知人に聞いたんですけど、普通に撮ったら3時間はかかるような分量があったらしい。それを、俳優たちがあれだけの早口でまくしたてている。早口ということで言えば、岡本喜八さんや市川崑さんが、通常の1.5倍ぐらいの速さで俳優にしゃべらせている映画が山のようにありますよね。今よくある、リアルというかナチュラルにちょっと言いよどんだりする間をとるんじゃなくて、とにかく台詞をワーッと言わせるやり方を庵野さんは貫いた。
鈴木 情報ばっかりですよね、ほぼ。
高橋 『沖縄決戦』って東宝の戦争映画にしては実は意外にミニマムって感じがします。防空壕での会議と局所的な戦闘の繰り返しで。そういうところは予算の使い方も含めて参考にしてるのかも。ゴジラ映画の鬼門って、会議シーンなんですよ。たいがい、巨大モニターがあるところに首脳たちが集まって、「今、品川方面に移動中です!」「うむーーー」とか言ってる。これもさっき言った、怪獣映画の決まりきったお約束の絵面なんだけど、今回はそういうことも最初から疑った上で、会議シーンを構築しようとしていた。ああいう事態に陥った時、行政部がどんな対応をするのかっていうことを徹底的にリサーチしたらしいけど、あれくらい、ばばばばばってしゃべるみたいね。まあ、そうしないと会議の時間は限られてるから物事が決まらない。
篠崎 なるほど、リアリティの追求ゆえなんですかね。僕は、てっきり上映時間2時間を切るための方便なのかと思っていました。「2時間切りたいんでもっと早く喋ってください」とは言うより、実際の政治家や官僚が早口なんですと説得する方が納得させやすいからか、と。トリュフォーも映画の上映時間をすごく気にしていて、「今のは良かったけど、1分半かかった。芝居の調子はそのままで、それを1分に収められるかな」ってテイクを重ねることがあったって聞いたことがあります。『沖縄決戦』に関しては、僕は必ずしもミニマルな映画とは思えなくて。いや、構成はそうかも知れないですが、シーン毎の描写、様々な語りの混在はむしろ過剰です。いろんな形式を貪欲に取り込んでいるし、大本営や上層部だけで完結させない。客観的に軍部のやりとり写しているかと思うと、戦死する男の独白(モノローグ)で、シーンを主観的に展開させたり、沖縄知事に任命される男の家族も短いながら描かれる。で、もって、いちばんの要は、政治家も軍人も決して美化していないことです。そこなんですね。あと、戦場で親が泣き叫ぶ子供を手にかける無残にシーンとか。描写の苛烈さの数々に、岡本さんの怒りと憤りが漲っています。それと『シン・ゴジラ』見て、思い出したのが、オリジナルの『日本沈没』と、円谷英二が特撮を手がけた松林宗恵監督の『世界大戦争』でした。特に後者は、猛烈に見直したくなって、こっちも再見したんですが、1時間50分に満たない上映時間の中に、政治家たちや各国の軍部の動きと一緒に、庶民の生活が活写されていく。しかも決してお涙頂戴だけで終らないんです。諦念の果てにちょっと背筋が寒くなるようなシーンが用意されていて。もう日本に核ミサイルが到達することが疑いのない現実になった時に、フランキー堺扮するタクシーの運転手が「母ちゃんのご馳走だ」って、家族そろって、食事をして。その後、夕暮れの空に向かって、「娘はスチュワーデスにするし、息子は俺がいけなかった大学に行かせるはずだったんだ」って慟哭するんですが、最後の瞬間は、妻と一緒に、冷静に眠った子供たちを抱いてじっとしてるんです。一方、保育園でも親たちが迎えに来れなかった子供たちが何も知らずにスヤスヤ眠っている隣の部屋で、ひとり残った保母の白川由美子がじっと虚空を見つめて座っている。最早逃げ場はなく、死ぬことは分かっていて、その瞬間をただ待っている。「ああ、せめて子供たちが眠っている時で良かった」と思わずにいれない…。僕自身も人の子の親になったこともあるんでしょうが、見ていて、何とも言えない心映えになりました。そのあとは円谷プロの特撮が炸裂するんですが、今の眼から見たらやはりミニチュアまるだしなんですが、でも、映画全体が固まりとして、こっちに迫ってくるんです。こういう感覚が『シン・ゴジラ』には欠けていて…。いや、無いものネダリなんですけどね。そういうのが鬱陶しくて、一切のメロドラマ的な要素や描写をはずしたことが今度の映画の勝因であることは間違いないわけで。でも、全体の構成も変えず、でも何かもうちょっとでも登場人物たちの存在、現場の末端で動いている人の生活や汗がちゃんと見えるワンカットがあったら、もっとよかったなあという気がしました。ただ、それをやっちゃうと、最後の痛快さが目減りしちゃうんでしょうけど。
鈴木 「無人在来線爆弾」ね。最後のジャンプですよね。あそこまでやっときながらそれかい!っていう(笑)。そこに、乗れるか乗れないかは結構大きい。
高橋 劇中で「怪獣」って呼ばないのはかなり大事ですよね。
篠崎 いや、そこも最初に見た時は…(笑)。ゴジラが初めて出現したっていう設定自体はいいんですが、あそこまで登場人物の誰もが頑なに「巨大不明生物」って言い続けていると「TVでも映画でも怪獣なんて今まで一度も見たことない!」っていうフリをみんなが必死にしているような(笑)。誰ひとり「怪獣」って言わないってことの方が不自然というか。ゴジラどころか、ウルトラマンや怪獣が出てくる特撮番組も一切作られていない世界ってことじゃないですか。初見の時にはそういうモヤモヤも、ちょっとありました。で、もう一度見た時に、ああ、これは現実の日本じゃなく、日本によく似たパラレル・ワールドの出来事なんだと。「怪獣」という言葉、概念自体が存在しない、もうひとつの世界。政治家も官僚もこんなに立派なのは、現実の日本じゃないからか。パラレル・ワールドだからなのかと思って(笑)
高橋 でも自衛隊が攻撃するまではかなり面白い。自衛隊の着弾ってあんなに正確なんだ、とかね(笑)。軍事マニアの人に聞いたんですよ。戦車が後退しながら砲塔を回転させて撃ってるじゃないですか。あれは、一度照準を決めたら、戦車がどう移動しようが、ロックオンされてるから絶対外れないんだって。
一同 おーーー。
鈴木 意外に、それをちゃんとやった怪獣映画ってないんですよね。
高橋 ちょっと会議シーンに話を戻すと、今回はかなりの戦略がちゃんとあったと思うんですね。だからこそあれだけ長いこと芝居が持ったし、俳優の顔の選び方とかも、単に「大物っぽく見えそうな人」じゃない人を連れて来て、ちゃんと芝居させて作っている。モニター画面を見る芝居も使い所を絞り込んでいる。ただ、ド正面のアップは弱いですよね。あれって何なんだろう。岡本喜八はあんなにやってないよね。
篠崎 岡本さんの『日本のいちばん長い日』はそれほどアップにはしていないですよ。芝居の熱量はすごいですが、たいていバストショットかウェストショット、複数の人物を同時に捉えるフルショットが多いです。極端なクローズアップは、玉音放送の件とか、本当に重要なところだけ。『シン・ゴジラ』はメインカメラ近くでiPhoneを構えて撮ったりもしたみたい。でもどうしても広角気味になっちゃうせいなのか、実相寺昭雄さんの後期の映画のような「レイアウト感」が先に立ってしまって。黒沢明なら、会議のシーンでも照明をガンガンあてて、絞りに絞って、パンフォーカスにして、俳優もじっと座ってないように動きを導入するし、加藤泰だったら、スタジオでカメラをかなり引いて、望遠で狙って、複数の人物のピント一つで、空間がダイナミックに変動するんですが、『シン・ゴジラ』は、あれだけ、極端なクローズアップで、顔のシミや眼(まなこ)の感じまでクッキリ写っているのに、高橋さんの言うように、画として弱い。不思議と希薄なんです。リアルさを狙って作戦会議室の照明がフラットなせいもあるのでしょうが、人もあれだけたくさんいるのに、静的。カットはたくさん割っているし、カット尻は短く、テンポは速い。時々カメラもグルグル動くんだけども、ウネリがない。唯一、総理が部屋に入った瞬間に、全員一斉に立ち上がるロングショットは、いいな、と。ああいうちょっとした動きがもっとあると良かったです。むしろ、映画的な運動を感じたのは、特撮パートでした。ゆっくりと進むゴジラを捉えた超ロングショットとか。仰角のショット。夜、ゴジラの頭のまわりを旋回しながら捉えたショットとか。
高橋 それは庵野さんが、あの感じが好きだってことなんですかね。
篠崎 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(07〜12年)も頻繁に会議していましたね。会議というよりも密談なのかな。ネルフとかゼーレとか。そこも動きはほとんどない。好きなんでしょうね。庵野さんの中では「会議」と「バトル」が対にあるんじゃないかと思って。とにかく潔いまでに自分の好きなもので勝負している感じはしました。
松井 これは映画の大変なところかもしれないんですけど、俳優の芝居が分断されてるじゃないですか。俳優のアクションに対するリアクションが、つながっているようには全然見えなくて。それを混乱させるくらいのスピード感でやるから、芝居というよりも「インパクト」だけを並べてるような感じがしました。
鈴木 すべて絵コンテで作られている感じがしましたね。この映画に関しては「プレビジュ(プレビズアライゼーション略)」が話題になりましたけど、それってスタッフみんなでそれぞれの役をやってみて、それを撮って編集して研究してるってことなんですかね。クレジットを見たら「A班」から「D班」までプレビジュ班がいたじゃないですか。
篠崎 台詞に関しては、この分量で本当に2時間に収まるかどうかを、声優を雇って全部やったそうです。「こんなに分厚いけど、必ず2時間以内に収まりますからシナリオは切りません!」っていう意思表示で。
松井 へええ、なるほど。
鈴木 僕は観る前に想像していた感触とは違って、すごく実録ものっぽいゴジラを観ることができたのが意外でしたね。一瞬では読めないくらいの情報量を画面に詰め込むというのは、庵野さんがずっとアニメでやってきた手法じゃないですか。それを実写で初めて観たなと。しかもここまで理詰めで、本当に都庁にある一室を借りて撮ったなんていう話を聞くと、分断された芝居のたたみかけで作られたものが「実録」の色を帯びてくる。怪獣が出てくるシーンも非常に面白くて生々しかった。大田区の運河にボートが押し寄せてくる画なんて、はっきりと3.11ですよね。あの時に新しいビジュアルが生まれて、それがここに結実しているんだなと思いました。僕は4回観たんですけど、自分の中でも相当面白かったんだと思うし、「よくこれを作ったな!」という思いがありますね。この根性、すごいな!っていう。陸上自衛隊とかの協力をあそこまで仰ぎながら、はっきりと放射能の脅威についての映画になってますもんね。それを想定してこれを作ろうとしたというのは、東宝、よくやったなと思います。寝た子を起こすようなことに、このタイミングでなっている。一応希望をはらみつつ、大変なものをあそこに放置したまま終わっていく映画なんですよね。そのニガさが、こういう作りであるからこそたくさんの人に娯楽映画として受け取られている。大人だなあ、という感じがしました。
篠崎 ラスト、ゴジラのしっぽの先に、それこそ津波で流されてしまった方々の死骸なのか、太平洋戦争で沈んでしまった人の死骸なのか、それとも岡本喜八さんの行方不明の博士が仕掛けた何かのせいなのか、人型のようなものがいっぱいはみ出ているじゃないですか。実は何も解決していない。いつ暴走しだすかわからないものを放置したまま終わる。かなりダークな世界観のはずなんですけども、後味が悪くないようにサラッと終わりますね。
鈴木 うちのかみさんが観に行って、プラント施設で凝固剤を作っているところに音楽がかかってて、「工場で働いているだけの場面でも、すごくわくわくするなんてね!」って言ってたんですよ。それが普通の受け取り方なのかなと。後半の「みんな頑張れ」みたいな流れに、みんな乗っかって行ってるんだと思うんですね。
篠崎 もはや高度成長が望めない時代のプロジェクトXですね。巨災対の人たちもエリートはエリートなんだけども、組織の中では充分に活躍できず、そこからはみ出した人たちが集まって何かを起こす。そうすることで、娯楽映画としてうまく収まった感じはたしかにある。
高橋 最初に観た時には、しっぽの先に貼り付いているのは、たたきつぶされた人たちの死骸だと思ったんですよ。9.11の映像にクローズアップしていけば、落ちていく人たちの姿が見えるみたいな感じで。でも2回目を観たら、人間みたいな形をしてるのに、ちょっと背びれがついてるんだよね。
篠崎 劇中でも、アメーバのように、ゴジラが自己分裂して単体で増殖する可能性が語られますよね。あれが、新たなゴジラに育っていくのかもしれないですね。でもそれって『ガメラ2 レギオン襲来』でもやってますね。
高橋 アクロバティックなことをやれてるな、すごいなと思うのは、今回「ゴジラって怖いんだ」という、昭和29年に立ち返るような発見があって。これは恐怖映画としてのアプローチなんだけど、ゴジラ自身はそんなに攻撃的ではない、ということなんですよね。
篠崎 「生きものだから、ただ移動しているだけなんじゃないですか」っていう高橋一生さんの台詞があったけど、本当にそうなんですよね。熱線を放射するのも、ゴジラとしては攻撃がしたいわけではなくて、そうしないと体内でメルトダウンを起こしてしまうから。エネルギーを使い果たすまで吐き続けざるを得ないという設定らしい。
高橋 怪獣映画が抱える根本的な矛盾として、「あいつら東京に上陸して何がしたいんだ?」っていうね。たまに何かが憎いみたいにビルを壊してる怪獣がいるけど、「何怒ってんの?」っていうことですよね。
松井 (笑)
高橋 それを考えぬいた結果、たぶん庵野さんは「あれはただ歩いてるだけだ」ということに行き着いたんでしょうね。ゴジラは「怖い」と思わせるけど、攻撃的な存在ではない。言ってしまうと、僕はそこがちょっと不満でした。やっぱり、放射能炎をいつ吐くかってことに、観客はわくわくするじゃないですか。そして米軍の攻撃によって、東京駅でそれを吐く。でもそこに、僕がかねてから「エンヤ症候群」と呼びたい、……
篠崎 出た! 高橋さんが忌み嫌う、女性コーラスの楽曲。
一同 (笑)
高橋 別に歌手のエンヤには何の恨みもないけど、最近の映画って悲惨なことが起こるたびに、すぐああいう歌が流れるじゃないですか。
篠崎 絶対そう言うと思った。鎮魂歌的な、ね。僕は好きでしたよ。
高橋 伊福部音楽がすごいなと思うのは、人外の立場から曲をつけてるってことなんですよ。でも「エンヤ」的な曲がかかると、急に情緒的に寄り添ったものになる。「何やってんだよ……」と思った。
篠崎 すみません。僕はあそこ泣きそうになりました。あのシーンの飛躍には作り手たちの本気が伝わってきて。でも、泣きそうになりながら「あー高橋さんはきっと怒るだろうなー」って思いました(笑)。
鈴木 つまり、持ち上げ方ですよね。人間が絶対叶う相手ではない、神に等しい存在として。
松井 そういえば、ファースト・ゴジラでも歌ってましたね。あの感じなら、僕もわかるんですけど。
高橋 「平和の祈り」ね。あれは凄いんですよ。本当にどうしようもなくなった中での祈りの歌だから。で、東京駅で背びれが光るのはいいんですけど、背びれから放射状に熱線が出るじゃないですか。あれが、ゴジラとしては、攻撃じゃなくて防御なんだよね。ハリネズミみたいに。
篠崎 『伝説巨神イデオン』もチラッと頭をかすめましたが。
高橋 そこも僕は物足りなかった。「……え、防御なんだ……」と。あそこは面と向かって、敵を狙って吐いてほしいんです。でもそういうふうに持っていくと、攻撃対攻撃のぶつかり合いになっていって、現代の映画としての落とし所が見えにくくなっていくのかもしれないな、とも思うんですけどね。
松井 なるほど。
高橋 そしてゴジラが停止して、そこから「プロジェクトX」でしょ。「止まってる間にみんなで頑張ろう!」っていう。そこがちょっと、ダレた感じがしたんだよね。
篠崎 僕自身は、チームワークものが嫌いなわけでは決してないんです。組織に属しているけどはみ出している連中の活躍って発想も悪くない。あそこ巨災対メンバーの設定なんて絶妙です。たとえば、塚本さんの役を「教授」じゃなくって、「准教授」にしているとか。年齢的には「教授」でおかしくないのに。つまり、国から莫大な研究助成金を引っ張ってこれない異端な研究をしているのか。それとも対人関係がうまくないのか。在野の研究者っていうのが、現実的に今はなかなか成り立たない時代ですから、巨災対メンバーも、大学や組織に属するだけの社交性を持った人物にしている。その辺りは、庵野さん、リアリストなんでしょうね。当然、政治家や官僚たちに比べたら、ずっと彼らの方にアイデンティファイしやすい。演じている俳優陣の魅力もあって、個々のキャラクターは良かったんだけども、松井さんと同じく、僕も後半いま一つ乗り切れなかったんですね。どうしてだろう。なんか震災後の「絆」って言葉が一人歩きしはじめたり、「日本人よ、一つになって立ち上がれ」的なフレーズに対する違和…を思い出したのかな。ただ、救いだったのは、ヤシオリ作戦が成功した瞬間に、万歳したり、全員で抱き合ったり、大袈裟に喜ばないところは良かったです。みんな疲労困憊していて。喜んでいるけど、ナショナリズムを顕揚するような熱狂的な描写になってなくて、そこはホッとしました。
松井 思ったんですけど、それまでパキパキと物事を決めていた長谷川博己さんが、後半も相変わらずパキパキできちゃうから、感情移入できなかったなと思うんです。長谷川さんが頭真っ白になるくらいに打ちのめされて、ゴジラと一緒に動けなくなっちゃって、しょうがないから周りが頑張る!っていう展開ならまだ乗れたかなと。
鈴木 確かに、不屈すぎますよね。
篠崎 一瞬、矢口も気が動転するけどね。水を飲んで復活する。「まず君が落ち着け!」って松尾諭君の台詞、あれは良かったです。すでに巷で流行っていますが(笑)。
高橋 へええ。流行る台詞が生まれるっていうのはすごいことだけど、あそこのシーンがそうなんだ(笑)。僕は余貴美子が面白かったけどね。
——冒頭におっしゃっていた、高橋さんが書いた「ゴジラの最期」というのは?
高橋 ちょっと脚本コースのブログ(「バトル・オブ・円山町」)にも書いたことなんですけど、ゴジラは核攻撃によってこそ倒されるべきだということなんですよ。放射能が生み出した化け物として。『シン・ゴジラ』も後半、アメリカが核を使うからみんな避難しなきゃいけないという展開がありましたよね。それを未然に防ぐために、凍結作戦が行われる。でも、僕が「ゴジラの最期」に書いたのは、日本人の手で核を落とすべきである、ということだったんです。もちろん苦渋の決断なんだけど、そうしないとこの生物は消滅させられないから、クライマックスにそれを持ってくるべきだと。1回しか使えない手ですけどね。それをやったら、ゴジラ映画は終わってしまう。
篠崎 でも、一度ゴジラを本気で終わらせるつもりでやらないと成立しないような気がします。高橋さんがそこに書いたのは、中性子爆弾とかではなく、どんな理屈をつけてでも原子力爆弾でなくてはいけないと。しかもそれは米軍から譲渡されたものであってはならず、あくまでも日本人の手で作られたものでなければならない。風向きも何もかも計算し尽くして、日本人の手で東京に落とす。その様子を日本全国それぞれの場所で、全日本国民がテレビ中継で注視している。
松井 キツいですね。トラウマになるかも。
篠崎 それでようやくゴジラが絶命する代わりに、東京も木っ端微塵になって、放射性物質の汚染で二度と人が立ち入れない場所になる。『シン・ゴジラ』がそこまで行けたらすごいことになるなと思ったんですよ。でも、「ニッポンまだまだ頑張れる」って話になっていた。だからこそ、これだけ当たったんでしょう。そんな暗い結末じゃエンターテメントとして成立しないって言われそうですが、でもかつての、最初の『日本沈没』は、まさにそれをやっていたわけで。もはや日本の国土がこの地上から消えてしまい、日本人は世界各国に散り散りになってしまう。だけれども、それゆえに、あの映画の最後で呟かれる「私は日本人を信じたい」って言葉には、丹波哲郎や小林桂樹の演技の力とも相まって、ナショナリズムに回収されない響きがあったんです。今回見直してもそう感じました。
高橋 凝固剤注入のシーンは僕は勝手に「黒い看護婦作戦」って呼んでますね。看護婦たちが寄ってたかってシュコシュコ!って胃にチューブで酒を流し込む「黒い看護婦事件」ってのが昔あって、どうしてもその光景が思い浮かぶ。
一同 (笑)
篠崎 それ、高橋さんだけですよ(笑)どうみたって、震災直後の決死の消防活動を思い出さざるをえないじゃないですか。僕はあのヤシオリ作戦開始に際して演説する長谷川博己ではなく、聞いている自衛官たちの顔を見たかったです。ひょっとしたら、本物の自衛官に出てもらったから顔を写せなかったのかなあ…。ある脚本家の方も、自分だったら凍結させる重機を運転する人間の側のことを書いてしまうんじゃないかとおっしゃっていましたが…。巨災対の津田寛治さんが一瞬、携帯で子供の写真を見る描写が入りましたが、あんな風にバックミラーに子どもの写真が入ったキーホルダーをぶら下げておくとか、ちょっとしたことでいい。それじゃウェットでクサイというなら、せめて、第一陣が全滅となった時に悲しむ矢口蘭童(長谷川)を写すんじゃなくって、「第一陣全滅!」っていうのを聞いている、第二陣の、名もない人々の顔が見たいと思ったんです。2秒でいいから。
松井 そうですね。ぱっと視点が切り替わっても、いいところはたくさんあった気がします。
高橋 矢口があそこで一瞬瞑目するみたいな芝居を入れない方がいいよね。あそこで矢口は絶対に揺らいじゃだめなんだよ。
篠崎 指揮官としては、内心どうあろうと平気な顔して「第二陣!」って言わないといけないってことですね。それはわかります。ただ、矢口自身のリアクションは…。矢口蘭堂は、東京の被災区域を訪れた時も、他の人たちがサッサと移動した後でたった一人、手を合わせて死者を悼むようなキャラだから、あれはあれで一貫している気もします。でも、やっぱり一瞬でもいいから、矢口じゃなく、実際に作戦に従事する第1陣、第2陣の人々の顔が見たかったです。
高橋 最初、新幹線爆弾がガーッと行くじゃない。そこで「宇宙大戦争マーチ」がかかる。……言うことがどんどん原理主義みたいになってきてますけど(笑)、「新幹線で『宇宙大戦争マーチ』!?」っていうのは、ちょっと思った。
一同 (笑)
高橋 やっぱり、自衛隊が突っ込んでいく時にかからなきゃだめですよ。あの曲に合わせて、自衛隊がジェット戦闘機で突っ込んで行ってほしいですよね。
篠崎 あそこで物凄く前のめりで昂奮した人と、「え、自衛隊の攻撃でもびくともしなかったのに、電車爆弾でやられちゃうわけ」って冷静になった人もいるみたいですね。高橋さんなら、後半の展開はどうしますか。
高橋 人外の存在による、途方も無い悲劇が起きている時に、人間ドラマでは太刀打ちできないという思いがまずあります。前半は、いいんです。これだけの事象に対して人間ができることは、会議と自衛隊の出動しかない。けれど後半、ゴジラが停止した時に、人間は何をやれば面白いのかという大問題に行き当たりますよね。そこで「プロジェクトX」をみんなで一生懸命頑張るっていうのは、ちょっと違うなと。海外の怪獣映画だと、だいたい怪獣が小さいんですよ。『グエムル—漢江の怪物—』(06年)なんか典型的だけど、人間が等身大で立ち向かうというドラマの作り方をしますよね。でも日本の怪獣映画が面白いのは、そんな手は一切通用しないよ、っていうところです。それくらい、相手がデカい。じゃあ一体人間は何をやればいいんだ?というのは本当に難しい問題で。
鈴木 難しいよなあ……
高橋 今回、被災者の視点がないという指摘があって、確かにびっくりするくらい、人死にが描かれていないんですよね。
篠崎 マンションの一室で幼い子供と両親が逃げる準備していて、そのまま倒壊するビルもろとも巻き込まれるシーンはありましたね。
高橋 死者数も最初にゴジラが上陸した後の死者・行方不明者が「現時点で100名」というニュースが流れるのみ。といって、逃げ遅れた被災者の脱出ドラマをパラレルで描けば面白いのかっていうと、そんなことないなと思うわけです。話が割れるだけだよなと。だから本当に、日本の怪獣映画に人間ドラマをどうぶち込んで行くのかというのは、大変な問題。それで原爆を落とさざるを得なくなるドラマに持ち込む、というのが僕なりの結論だったんですけど。
鈴木 高橋さんがおっしゃることは強烈ですけど、確かにその通りだなと思います。その、ものすごいアンビバレントを映画でやりきった時にこそ、その映画ははっきりと娯楽映画になる。ゴジラがまだ「子どもも観る」前提のスター映画として作られていた頃は、「平和ボケしている日本に鉄槌を下す」みたいな気配がありましたよね。「死」は遠いものである、という認識があの頃はあったから、人がキレたり爆死したりという描き方があったんだけど、3.11を経験してからは「人が死ぬ様を本当に観たいか?」という問いが生まれた。そう考えると、「死」というものの捉え方が、あれを機に大きく変わってしまったのかもしれないなと思います。
篠崎 『ガメラ3』では、センター街を派手に壊して、巻き込まれる犠牲者たちをしっかりと描写していましたが、確かに今それをフィクションでやるのはキツいですよね。東宝から圧力がかかったとかそういうことではなく、「人が亡くなっていく」ということの重さを画として撮り切るべきだという思いと、いや、もうそれは表象不可能なものとして、想像させるべきだということの間でのギリギリの決断ではないかと…。『SHARING』で、田口清隆さんに特撮をお願いして、あんな爆破シーンを撮った僕が言っても説得力ないかも知れないですけども。
松井 でも『シン・ゴジラ』の一番最初の襲来から、日常が戻ってくる早さは面白かったですけどね。何ごともなかったかのように通勤通学してる人たちがいる。そういうある種の軽さというか、「今回はこれくらいの騒ぎで済ますけれども、可能性としては世界が破滅するかも」くらいの大きさに物事を限定しているその設定力が、この映画が成功している理由のひとつかもしれないなと。例えば僕は『風の谷のナウシカ』(84年)を思い出したんです。この世を一度破滅させた「巨神兵」が、ものすごく大量の「王蟲」に負けていき、全世界を王蟲が覆い尽くしたところにナウシカが立って奇跡を起こす。『シン・ゴジラ』も、ゴジラが東京を破壊し始めるあたりまでは「世界が終わる」方向に行くんだろうなという感じがしたんですけど、後半は全力でそっちへ行かないように、ものすごいブレーキをかけている映画だなと思ったんですね。
鈴木 確かに「世界が終わる」感はなかったですね。エメリッヒの『2012』(09年)も世界が終わる映画だけど、ああなっちゃうと困っちゃうなっていうのがあるじゃないですか。だから、あっち見たりこっち見たりする映画。
高橋 昭和29年の『ゴジラ』の後半戦は、東京が野戦病院みたいになって、完全に戦時中みたいになっていきますよね。ゴジラに対するみんなのものすごい怒りが湧き起こる。「平和の祈り」もそこで歌われる。そういう、単純に言うと「ゴジラぶっ殺したる!」感みたいなものが、後半に発動することでこそゴジラ映画は盛り上がると思うんだけど、『シン・ゴジラ』は「怒り」ではなくなっていくんですよね。
松井 「工夫」みたいなことになっていきますよね。
篠崎 実はただ、移動しているだけと言う点で、ゴジラは意思をもった破壊神というより、自然災害に近い…。
高橋 「完全生物だ」っていう台詞があるけど、まさにそれですよ。ゴジラという個体をどうするって問題ではなくなっていく。そしてゴジラが幼体として出現して変化していくっていうのも今回のすごい発明のひとつだけど、「じゃあ発端は一体何?」っていう、今までのゴジラ映画では考えずに済んだ問いを生み出してしまった。
篠崎 「私は好きにした、君たちも好きにしろ」っていうところですよね。
高橋 岡本喜八がやらかした、としか思えないですよね。
鈴木 でもそれだと「ゴジラはただ歩いてるだけなんです」っていう純粋さが、失われることにもなりかねないわけじゃないですか。ゴジラを東京に向けてぜんまいを巻いて、「行ってこい」みたいなことを、博士は本当にやったんですかね……?
高橋 『機動警察パトレイバー the movie』(89年)も、博士が自分の死後に作動するような仕掛けを残して、その謎解きをみんなでしていくっていう話じゃないですか。このパターンを発明した脚本の伊藤(和典)さんは凄いなと思うけど、そういうお話が、特撮系とかアニメ系の人は本当に好きなんだなあ!って思いますよね。「やらかしといて行方をくらました人のケツをみんなで拭く」話。僕はそれがどうも納得がいかなくて。『シン・ゴジラ』もあの鶴の折り紙のあたりでかなりイラっと来たというか…。「わかるように書いとけ!」と。
一同 (爆笑)
松井 確かに。なんでわざわざ謎を残すんだろう。
鈴木 思わせぶりにね。というか「わかるように書いとけ」ってすごいですね(笑)。
篠崎 いや、まあ、アメリカに秘密が知られて兵器として利用されることを危惧して、日本人にだけわかるように鶴の折り紙に託した、ということなのでは(笑)宮沢賢治の「春と修羅」が一緒にありましたが、あれもきっと意味はあるんでしょうね。
高橋 「今からゲームの始まりです」的に人を試す物語に、僕はどうしても乗れないんです。作り手がそういうフレームを用意して、登場人物がその中で必死にさせられてるという構図が。
鈴木 そして中盤から後半あたりで「そうか! あいつはこうしようとしていたに違いない!」ってなりますね。すると誰かが言うでしょう。「一番怖いのは人間だな……」
松井 (笑)
篠崎 今ってストーリーを全部説明しないと観客はウケないとか、理解できない映画には乗らない、つまらないという前提が信じられているじゃないですか。でもそんなことはないですよね。そもそも「エヴァ」もそうだけど、『シン・ゴジラ』はこうやってみんなで話をすること自体がすでに作り手たちの術中にはまっているようなところがあると思うんです。肯定するにしろ、そうでないにしろ。それがあって、みんな2回3回見る。もしこれが、すごくうまく整合性がとれて、全ての謎が見事に回収される映画だったら、こんなことにはならないのかもしれない。多くの謎を残すことで、みんなが前のめりになるって構造は、「エヴァ」と全く同じかも。
鈴木 そういう意味であのラストは、とてつもなく完成度が高いとか、そういうことではないのかもなあと思いながら観ましたけどね。
篠崎 かつてのゴジラのコンセプトとは、「黒い大きな塊がやってくる」ことの怖さだと高橋さんは書いたでしょう。それで言えば、まさに今回の『シン・ゴジラ』は、それが実現されていました。でも高橋さんは、「意志もなくただ歩いている」だけでは物足りないとおっしゃいましたよね。だとすると、どうだったらよかったんですか?
高橋 それはもう、攻撃されたら、……
篠崎 倍返し?
高橋 そうそう。
一同 (笑)
高橋 ただ無闇に暴れるんじゃなくて、攻撃すると怖い…取り返しがつかない感じが欲しいんです。だから余計必死で攻撃するしかない、そういう怖さ。東京駅で最後の攻撃が始まって、飛んできた米軍機に背びれから熱線を出して、撃ち落とされるのが無人機だっていうあたりも、物足りないなあと。多摩川での、自衛隊との決戦の昂ぶりを超えるものがなかったなあと。だって東京駅っていえば皇居の手前なわけだから、本当の意味での「決定的防衛ライン」だよね。面白かったのは、矢口たちが立っている作戦司令本部が科学技術館だっていうところ。東京駅を挟んで、皇居の反対側なんだよね。矢口たちの頭上に光線が走る、あの画はめちゃくちゃカッコよくて。「あの光は皇居の頭上を超えて飛んでるんだな」と思ったら、たまらないものがありますよね(笑)。
篠崎 最初の『日本沈没』には、皇居も出て来ましたよね。避難民を宮城内に入れるか入れないかで問答する。今回は、そこには一切触れませんでしたが、ただ、科学技術館といえば『太陽を盗んだ男』(79年)の舞台だった場所ですよね。菅原文太とジュリーが原爆を持って落っこちるところ。
鈴木 『太陽を盗んだ男』はすごく思い出しました。原爆を奪い返しに、ジュリーがターザンみたいに出てくるところがあるじゃないですか。あれってフィクションが現実味からジャンプする瞬間という意味では、「在来線爆弾」とおんなじだなあと思って。
篠崎 ところで、あのキャラは、どうだったですか。「カヨコ・アン・パタースン」(石原さとみ)は。
高橋 ああ……ねえ。
松井 僕は、「こういうもんだ。」と思って観てました。
篠崎 例えば、すでに高橋さんは、30年以上前の8ミリ映画時代からナチスの残党を、どこからどう見ても日本人にしか見えない人に演じさせ、シナリオを手がけた『発狂する唇』や監督・脚本を手がけた『狂気の海』(07年)にもアメリカ人という設定で…。
高橋 あれに似た人が出てくるっていうのを事前に聞いた上で観てしまったので、出てきた途端に「コイツか……」と思いました。
一同 (笑)
高橋 名門の出なんでしょ。しかも大統領の椅子を狙ってる人。なんでそこまで持ち上げるんだろう。被爆三世っていう設定ですよね。それもあんまり生かしきれてなかったし、矢口と2人で歩いてる芝居とか、あってもなくてもどっちでもいいなって思った(笑)。でも、あの人がいないと、中盤以降、政府を動かせないからね。必要な人物ではあるんだけれども。批判の標的になりやすいポジションではあリますね。一番もろいところに置かれた人。僕は自分の映画でもそういう人物を出してるだけに擁護したいというか…、でも正直、予告編で彼女が出てきたカットだけ、「マズいかも」って思った。
篠崎 極めてディフォルメされた芝居の仕方ですよね。たとえば、市川実日子さんと比べると、芝居の質があまりにも違いすぎる。
鈴木 確かに、空気が違う。
篠崎 でも彼女の芝居で「この映画、単なるリアリズム一辺倒じゃなくって、こういうノリで見てもいいんだ」ってことがわかって、物語にすんなり入っていけたという人もいるみたいですけれど。
松井 そうですよね。意図的に位相を変えてるんだな、っていう気がしました。
篠崎 僕は躓いちゃったんですよね。ごく身近に国際結婚している人間が何人もいて、ダブルの子供たちもいるということも大きいのですが。受け入れるのに時間がかかりました。庵野さん、こういう跳ねたキャラクターが好きなんでしょうね。アスカ・ラングレーみたいな。それに葛城ミサトを合わせた感じも。
鈴木 『ジョギング渡り鳥』の古澤健の芝居に似てるのかも。アクターズコースの1期の面々とは、明らかに違う、ある種の過剰な芝居を古澤健は演じている。そこに私としては映画の舞台となってる町の、外部から来た人物を想像したりもしているのですが、松井さんの仰るような、リアルやナチュラル、あるいはディフォルメなどのいろいろな言葉で言われる芝居の位相の違いが、一つの映画の上に混在する事になっている。
篠崎 それって難しいところだと思うんですよ。リアルだから、ナチュラルな芝居だから無条件にいい、というわけではもちろんない。ちゃんとキャラクターを捕まえた上での作りこんだリアクションも大事ですもんね。たとえば、巨災対の人たちがいよいよアメリカ空軍の攻撃も始まる、ゴジラがやってくるからみんな逃げるぞ、ってなった時に、塚本晋也さんは机に広げまくった資料をそのままガーッとダンボールに一気に詰め込む。市川実日子さんは平然と、最小限の荷物を抱えて悠然と去っていく。あそこ、いいんですよ。ちゃんと、それぞれが考えて作って芝居しているのがわかる。高橋一生さんも、「こんなのありか!」ってワーってなったあとの「ごねんなさい」とか。でもあそこ以上に生き残ったあとで何も言わないで、矢口の話にじっと耳を傾けている表情が良かった。いろんな思いを胸に秘めてじっと聞いている顔。ただ、感情や状況を説明するんじゃない演技。物語に回収されない佇まいは、ああいう映画にこそ必要だと思いました。
鈴木 そういう意味で言うと、俳優としてはとてもやりづらい芝居を要求される映画ですね。狭いストライクゾーンを指定されて「ここに放ってください」って言われてるみたいな芝居。
松井 僕も、それは強く思いました。どの俳優さんも、みんなすごいなと。
篠崎 しかも早口。ちょうど増村保造がやたら大声でしゃべらせたり、小津安二郎が一定のリズムやトーンでしゃべらせたりするのと同じで。早口にすることで、俳優の自意識を消させて、余計なことをさせない。リアルだけでない、もう一個の強さが芝居には必要だ、というのはわかるんです。高橋さん、自然な演技はあまりお好きではないでしょ? 僕はちょっと違って、ある種のナチュラルな芝居は好きですし、なるべくリアルな芝居がいいと思っているんです。ぶっ飛んだ設定をぶっとんだ芝居で見せられるよりも、基本リアリズムがいいと思っていて。むしろ、フィクション性の高い物語を、とことんリアルな演技でみせたい。ごく最近見た映画だと、決してド派手なエンテーティメントではないんですが、ジェフ・ニコルズの『ミッドナイト・スペシャル』が良かったです。俳優たちが本当にみんな良かった。
高橋 リアリズムっていうより、自然っぽさ、ナチュラリズムが性に合わないってことだと思うけど。ある強さから入って、現実をなぞるのではないリアリズムに行けないかなって思います。
篠崎 それはわかります。すごく。ただ…。「映画的」な「強さ」ばかりが全面に出ている映画が僕は最近ますますダメなんです。こういうといろんな人から怒られそうですけど、増村でさえ、映画によっては凄さよりも先に違和感を覚えてしまう時があります。これは演技だけの話でもないんですが…映画は所詮作り物。たかが映画じゃないか。映画であれば何でも許される、目くじら立てるなよ、とも思えなくて。「映画は現実の反映ではなくて、反映された現実なんだ」ってゴダールのオッサンの言う通りだと思うんですが、映画原理主義者にはなれないです。というか、そもそも映画って、本来映画の原理だけで廻ってるわけじゃないんですけどね。世界と無関係に映画はありえない。
鈴木 『陸軍中野学校』(66年)の冒頭の、加東大介さんの長台詞とか、言ってみたいなと思うんですよ。監督の要求に、見事に応えられているなあと。確かに「息継ぎ、いつしてるの?」っていうキャラクターだけど、強力ですよね。
篠崎 それで言うと、加藤泰がまさにそれなんです。映画の強さと、その俳優が持っているものが、一緒に出ているんですよ。異様にテンションが高いんだけど、ただ感情に任せて芝居しているんじゃないんですよね。小津や増村のように、演技を統制してその果てに強さを掴もうとするんじゃなくて、その人自身が持っているものととことん向かいあっている。マキノなんかは、一方で仕草や体重移動まで細々と芝居を事細かにつけまくるかと思えば、芸人は平気で放し飼いにして雑多な演技を受け入れるじゃないですか。あるいは、日活時代の清順さんみたいに、演技の巧い役者をあえてオブジェのように撮るというのとも違う。なんだろうなあ…。濃い芝居ではあるんですよ、でも、凄くダイレクトに迫ってくるんですよね。加藤泰は。例えばフレームの中に6人の登場人物がいるとして、加藤さんって最低でも6回、リハーサルするんですって。大木実さんにお聞きしました。「加藤さんは1回のリハにつき1人しか観てないんだ」って。声にこそ出さないけれど、一人一人、何度もテストを繰り返して、「よし、君はOK。次!」っていう感じで。
鈴木 なるほど、順番に観ていくのか!
篠崎 だから本当に群衆シーンなんかすごいですよ。20人全員に芝居をつけている、というかそれぞれ「その他大勢」って芝居じゃなくってみんながそこに生きている。加藤さんは、時に主役以上に、後ろの方で賭けをしている俳優に「あなたは今勝ってますか、負けてますか」「もしも、今日負けて帰ったらどうなりますか」って、演じる目的をちゃんと持たせたそうです。そのためにどんな芝居をするのかっていうことを、俳優自身に考えさせているから、画にも勝手に厚みが出てくるんですよね。段取りで動きだけつけたりしない。ああいう、人物がフレームの外にはみ出すような画面が問答無用にガンとつきつけられる感じが、『シン・ゴジラ』の群像シーンや会議のシーンにはあまりなかったかなあ。
松井 確かに、しゃべってる人だけを映すカットが、なんでこんなに多いんだろうと思ったし、みんな決めぜりふ調なんですよね。
篠崎 そう、決め台詞のオンの顔が圧倒的に多い。聞いている人の表情があまり写されない。たとえば、アルドリッチの『合衆国最後の日』(77年)みたいに画面分割して、しゃべっている人と聞いている人も同時に写したら、どうだったのか。
松井 そしたらこっちは勝手に「今何かがここで起きている」感じを受け取るのに。今回は全部を説明されてしまってる感じがして、そこがちょっと……
篠崎 そのフレーム、ショットの中だけで芝居が「画として完結」してしまっている感じでしたよね。台詞の応酬だけでも、お互いに影響しあって、片方が言い淀むとか、そういうのがほんのちょっとでも見えると、それだけで…。
鈴木 つまり、もうひとグルーブ欲しいぞ、っていうことですね。会議のシーンに。
篠崎 そう。そうなんです。
鈴木 庵野さんも、それをやったら自分が崩壊すると思ったんじゃないですかね。この映画ってどこか、紙芝居なんですよ。人間を撮るということに関しては、かなり割り切ってると思う。だから撮れたんだと思うし、それで良かったと思う。……って何の立場で言ってるのかわからないけど、監督としてはそれで良かったのかもしれないなと。
——そろそろまとめに入りたいのですが。『シン・ゴジラ』以前と以後で、日本映画はどう変わっていくでしょうか。
高橋 少なくとも、これからゴジラ映画を作る人は皆、大変なハードルを課されたなと思いますよね。
篠崎 それは間違いないです。次にゴジラを作る人は大変ですね…。でも『シン・ゴジラ』以前以後で、日本映画全体がどう変わるのかっていうのは、よくわかりません。
松井 今度、虚淵玄(うろぶちげん・『魔法少女まどか☆マギカ』など)さんの脚本で、アニメ版が作られますよね。あの人が作るからには、たぶんとんでもないだろうなと思うんですけど。『シン・ゴジラ』がシミュレーション方向の映画だったとして、これからはもっとSF方向だったり、あるいは「触れてはいけない現実に人間が対峙する」ということのバリエーションがもっと観たいなと思いました。「倒す」だけじゃなくて、例えば人間が生み出した負の産物を、人間が信仰の対象にしたりとか。タブーだとして避けて通ったりとか。『シン・ゴジラ』では、国会前のデモが描かれてましたよね。ああいうのが、もっと観たい。ゴジラというものが一体どういう対象として、人の心に巣食ってきたのか。ゴジラが街を破壊することに、自分の破滅願望を重ねる人たちが出てきたりとか、文化人類学的なアプローチをする人たちがゴジラにどんな反応をするのかとか。そういう周辺のことをもっと観たいなと思います。
高橋 あのデモのシーンは面白かったよね。国会前のデモって行政側からすれば、騒音なんだなって見える(笑)。
松井 「やってるなあ今日も!」っていう感じがありましたね(笑)。
高橋 あれは、リベラルな人が観たらムカッとするんですかね。体制側の映画、っていうふうに見えちゃうのかな。
篠崎 実際に国会議事堂前にデモにいっていた一人としては…腹は立たないけど、面白いとも思えませんでした。どういう意図であのデモのシーンを入れたのか見えてこなかったです。揶揄しているのか、それとも2015年の日本には、ああいう現実があったことを、フィクションの中に、それもメジャー映画に残しておきたかったのか。そこもわからなくて。録音の応援した人の証言だと「ゴジラを殺せ!」と「ゴジラを守れ!」とシュプレヒコールを2パターン、録ったそうです。あと、不思議なのは、『シン・ゴジラ』って、右寄りの人だけでなく、左寄りの人からも褒められてるんですよね。右左って単純化するのも嫌なんですが、右寄りの人が誉めるのはわかるんです。「がんばれ日本」「日本もまだまだやれる」感があるから。でも、リベラルとか左寄りの人でもっと怒るひとが出るんじゃないかと思ったけど、思ったほど、そうでもないのが不思議です。「米国の属国だ」「戦後は続くよ、どこまでも」みたいな台詞があったり、シニカルな視線が見えるからですかね。本来、映画に政治的なメッセージだけを過剰に読み込もうとしたり、その是非だけで映画を評価するのは大嫌いなのですが…。ただ、最初に『シン・ゴジラ』を観た時、これサミュエル・フラー言うところの徴兵映画として機能しないか?と思ったんですよ。あと、政治家や官僚を主人公にして、庶民がメインの役で出てこないのも、「この国は、重要なことは、政治家と官僚が密室で決めて、庶民には何も知らされず右往左往しているだけ」っていう、今の日本の縮図を見せられているようにも思えて…。そこには違和を覚えたんです。でもまあ、二度、三度見るうちに、シン(新)ナショナリズム映画とか、そういうことでもないな、と思い直したんですが、そういう誤解を生むきわどさはある。
鈴木 そういう解釈の方向性をどう扱うのかということについて、相当腐心されたんじゃないかというのは思いました。ゴジラ映画は右へ行っても左へ行っても失敗なのだ、という碑を作ったと思うし、僕自身もそうしてほしかったなと。何があっても、「娯楽映画じゃん、これ」っていう。思惑みたいなことではなく、対象化させて楽しめるものを作れたことが、ひとつ、大きかったなあと思います。僕も3.11の後、ゴジラ映画を作った方がいいし、観たい!ってずっと思ってきたので。
高橋 ラストでゴジラの放射能の半減期が短いってことに、映画評論家の千浦(僚)さんは引っかかってたみたいだね。
篠崎 僕も引っかかりました。一応あれはゴジラの中にある「新しい物質」だという設定ですけど、それでも避難民360万人がそう簡単に東京に戻れない方がいいんじゃないかと思いました。フィクションであっても東京都民も東京から一生離れて暮らさざるをえなくなった方が…。市川実日子さんの笑顔は良かったですけどね。あれは…好意的に解釈すれば、ある種の希望なのかも、とも。高橋さんはどうなんですか?
高橋 僕は千浦さんに「どう思います?」って聞かれて「どうでもいいんじゃない?」って答えました。だって映画はもう終わってるから、僕にとってはどうでもいいんです。
一同 (笑)
篠崎 うーん…そうなんですかねえ…。
高橋 でも考えたらゴジラって、あの後もあそこにずっといるんだよね。どうするんだろう。昔の『キングコング対ゴジラ』(62年)みたいに、ヘリで網を吊って、ぐーって持ち上げて、海に捨てればいいのにとかって思うんだけど、それはダメなの?
鈴木 そうか、吊ればいいんだ。
篠崎 国際的な不法投棄だからダメでしょう(笑)それより、3.11を経た表現ということについてはどうでしょう? 高橋さんはやはり、そんなことはどうでもいいですか?(笑)。
高橋 うん。あんまり影響受けてない。でも『シン・ゴジラ』は、こういう画期的なものを作れば観客は来るのだ、ということを証明してくれたので、すごく勇気づけられるんです。ただ、どの日本映画もこのテンションで作られたら、みんな過労死してしまいますよ。
一同 (笑)
鈴木 確かに、かなり命がけで作られているという印象を持ちました。庵野監督の、譲らなさというか。
篠崎 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q』(12年)は、黒澤明の『どですかでん』(70年)を思い出しました。映画としては全く似てないし、全然違いますよ。でも、あの映画、特にホームレスが子供を死なせてしまうエピソードなんて、『生きものの記録』とは全く違う形で黒沢さんの暗黒を反映している気がして。僕の友人の映画監督は「『どですかでん』の時、完全に黒澤はうつ病だったんじゃないかな」って言うんですが…。そう言うヤバさが、画面に滲んでいる。それで言うと、エヴァを操縦する人たちの、顔つきが尋常じゃなかったんです。歯を食いしばって、瞳孔がひらいたような目で…。実写だったら、俳優の演技でたまたまそうなりましたって言えるけど、あれをアニメーションで描く途方もない手間と労力を考えると…。だからこそ『シン・ゴジラ』は内面的なものを一切捨て、メロドラマ捨てて作りこむ!という姿勢がはっきりしていたけど、さらに命を削ったんじゃないかと思います。全然エヴァのリハビリになっていないと思う。
鈴木 次、やるんですかね、庵野さん。ゴジラ。
篠崎 東宝は作って欲しいでしょうけど。
鈴木 やらざるを得ないと思うんですよ。これだけ大ヒットしたら。作らない理由がないくらい。庵野さんというブランドありきのゴジラになっちゃったから。
篠崎 でも、さすがにすぐ来年ってことにはならないでしょう。アニメ版もあれば、ハリウッド版もまた作られるし。しかも、あそこから話を作ってもねえ……終わらせ方の問題もあるし。
鈴木 ほんとに吊って、海に投棄してもらいましょうか(笑)。
高橋 でもしっぽの先に、人間型の新たなゴジラが生まれつつあるんでしょう。ということは、羽根の生えたような人間たちがたくさん襲来するってことだよね。それはもはや、ゴジラじゃないよね(笑)。
篠崎 『エイリアン』から『エイリアン2』が生まれたように…。『シン・ゴジラズ』ってことになるのか。「現実対虚構 今度は戦争だ!」。「現実」には「ニッポン」ではなく、「セカイ」ってルビを振って。で、米軍と国連軍が今度こそ日本を核攻撃しようとしたら、ゴジラズが各国に散って飛来するので、もはや日本なんかに構っていられなくなる(笑)庵野さんがおやりにならないなら、個人的には塚本晋也さんの『ゴジラ』が見たいです。ご自身も同じ役で再登場していただいて。対戦相手の怪獣に関してアイデアがある、と言われていたから、今度は壮絶なバトル物に。
高橋 あるいは東宝の伝統的な力を使って、東京駅で固まってるゴジラに対して平然と、キングギドラを襲わせるとかね(笑)。平然とそういうことをやるのが東宝のすごいところじゃないですか。ゴジラ映画の歴史って、大半はそれでしのいできたんだからね。
篠崎 それはそれですごいですけどね(笑)。
高橋 今回、新規にキャラ化できたゴジラと、ギャオスに匹敵するくらい怖い怪獣を対決させて、「平成ガメラ」みたいなリアリティの上で描けたら、これはこれで大娯楽になりそうな気がしますけどね。そうだ、今回やってないことの一つに海の怖さがありますよね。以前、僕が『ゴジラvsメカゴジラ』のプロットを依頼された時にこだわったのも海の怖さだったんですよ。最初に大戸島みたいな島嶼部が壊滅して、みんな次にいつゴジラが襲ってくるか判らないし、自衛隊の救助は間に合わないから、一か八かで漁船で脱出する。で、甲板から黒々とした夜の海をジッと見つめている。
篠崎 いいですねえ。息を潜めて暗い海を…。その海が怖いって感覚が『リング』に…。高橋さん、本当にブレないですね。一貫しているなあ。でもイチかバチかで漁船で脱出って最初の『日本沈没』でやっていましたね。結局津波に呑まれてしまって…。いっそ、シン・メカゴジラを出すというのは(笑)
鈴木 この世界観に「メカゴジラ」って成立するのかな。
篠崎 普通に考えたらダメでしょう。せっかく「スーパーX」をやめて、「プロジェクトX」で勝負したのに(笑)。でも高橋さんの考えたメカゴジラのプロットは面白いです。
高橋 宇宙から送られてきたロボットと対決するという。基本的に、ゴジラの形をしていないんですよ。攻撃してくる相手に合わせて変形するんです。最後にゴジラと対決する時に、ゴジラの形になる。
松井 それ、すごく面白そうですね。
高橋 そうだね、それなら、ちょっとメカニックなゴジラの完コピと戦わせることができる。
篠崎 最期はメルトダウンして終わるんでしたね。そして東京が死都になる…。でも、たとえ、ゴジラが襲って来なくても、僕たちはそういう可能性がゼロとは言えない世界で暮らしているんですけどね。 (2016/09/01)
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高橋 (笑)
篠崎 かつて「映画王」という同人誌があって、そこに『ゴジラvsビオランテ』(89年)の後くらいに、高橋さんがゴジラについて書かれたんです(「ゴジラの最期」、『映画の魔』所収)。自分だったら作り手として、今ゴジラを作るとしたらこうする。最期はこう終える、と。それが素晴らしかった。でも、メジャー映画の中で高橋さんがお書きになったような展開は無理だろうと。ところが今回『シン・ゴジラ』を見たら…。途中まで冷静に見ていました。蒲田に上陸するゴジラ第二形態にしても「DAICON FILMの『八岐大蛇の逆襲』みたいだな…」とか「似たような自衛隊のやりとりは、平成『ガメラ』で見た」とか。劇中の中村育二さんの台詞じゃないですが、面白いけど、想定内かな、と。それが、多摩川の攻防戦を経て、中盤の東京が壊滅しかかったところで、「この映画は本気なんだ!」と。米軍の軍用機が撃ち落され、政府首脳陣を乗せたヘリコプターが爆発し、あそこで身を乗り出しました。フィクションとしてこの後、どこまで飛躍するのか。ひょっとして高橋さんが考えた以上の展開になるか、と。ただ、その後が……。面白かったけれども違和感も残りました。で、その正体を見極めようと、翌日また見て(笑)。映画の初日に駆けつけたのも久しぶりでしたが、2日間続けて見るなんて何年ぶりのことか…。でも、2回目はさらに冷静にみてしまったんです。そう言いながら、鈴木卓爾さんの4回にはおよびませんが、今日の鼎談に備えて、昨夜公開まもない『君の名は。』とハシゴして、3回目を見まして(笑)。ようやくいろいろ腑に落ちました。いきなり長々とすみません。
高橋 実際、すごいヒットになりましたよね。興収60億ぐらい行きそうなんでしょう(*9月26日現在すでに動員500万人興収73億円突破)
鈴木 今日また観て来ましたけど、いっぱいでした。しかも年齢層が相当広い。
篠崎 公開初日は、ほとんど40代、50代以上の男性ばかりでしたが、昨日は女性客が多かったです。確実に裾野が広がっていますね。
高橋 興収的に、もっと上を行く映画ってあるじゃないですか。ジブリとかディズニーとか、100億行っちゃうような映画。動員力で言えばそういう映画の方が強いんだけど、でもSNSとかで『シン・ゴジラ』観た人の反応を見てると、明らかに画期的なものを観てしまった興奮にあふれてますよね。それがさらに新しい観客を呼んでいる。これは、昭和29年の『ゴジラ』を観た人がずっと期待していたことが起きてるぞと思ったんです。怪獣バトルもののゴジラしか知らない人たちも「え、ゴジラって怖いじゃん!」っていうのを目の当たりにして、衝撃を受けてる。それを成し遂げた庵野監督はえらい、ということを、まず言いたいです。みんな言ってるんだけど。
篠崎 よくこれを東宝という大メジャーでやりきったと思います。
高橋 「平成ガメラ」の時点で、方法論としてはみんなわかってたわけです。「これをゴジラでやればいいんだ」と。でもなかなかできなかった。その憤り感がずっとあって、僕らは半ば、あきらめてたんだよね。
松井 それは、「平成ガメラ」の時点で、怪獣同士のバトルではない何かが発見されていたということですか?
篠崎 怪獣同士のバトルはありましたが、突然現れた怪獣に対して、たとえば自衛隊が出動したとして、どういう対応をするか。シュミレーションして、ある程度リアルな形で最初に見せてくれたのが「平成ガメラ」シリーズでした。
高橋 怪獣を「怖いもの」として見せる、というアプローチを、その時なりのリアリティでちゃんと描いてみせるっていう。それは、本編の監督をやった金子修介さんと、特撮監督の樋口真嗣さん、脚本の伊藤和典さん、彼らが相当冴えていたんです。大映というマイナーなマーケットで、「これをゴジラでやればいいんじゃん!」っていうことをやってのけた。その後、樋口さんは東宝で映画が撮れるようになったわけですけど。
篠崎 金子さんも『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年)を撮っておられますよね。
高橋 怪獣を三体出すというかなり苦しい条件のもとで、しかもバラゴンまで出てくるという(笑)。
鈴木 バラゴン。かわいそうでしたねえ。
高橋 一番最初に、ゴジラになぶり殺しにされちゃうからね。
鈴木 しかもバラゴンがエポックなのは、ゴジラよりちょっとちっちゃいんですよ。
松井 へええ。
篠崎 松井さん、置いてきぼりじゃないですか(笑)。松井さんにバラゴンの説明しないと。まず『フランケンシュタイン対地底怪獣』(65年、本多猪四郎監督)っていう映画がありまして。その映画の中でバラゴンは家畜を食べたり、いろいろと悪さをしたあげくに、巨大化したフランケンシュタインと戦うんです、って余計わからないか(笑)。僕も好きな怪獣ですけども、どちらかといえば、ややマイナーな存在。それがなぜかキングギドラはじめ、スター怪獣揃い踏みの中に1匹まぎれこんでいて。「よし、バラゴンだそう」って決めたのは、金子監督なのですかね?
高橋 金子さんは、そこで一度トライしたんですよね。「ゴジラを怖く見せる」ということに。
篠崎 太平洋戦争による死者たちの怨念の集合体がゴジラになるんですよね。
高橋 そう。ゴジラ映画の特徴はそういう発想を呼び寄せるということで。これはガメラでは起きない。
松井 なるほど。ある種のタブーに触れてきたわけですね。
高橋 昭和29年からずっと続く、ゴジラ映画でしか起き得ない変な現象なんです。ゴジラという架空の存在が暴れることによって、国民的な悲劇を追体験するという奇妙な風習が、日本にはある。
松井 (笑)
高橋 一番最初の『ゴジラ』も、敗戦から9年後に、東京がもう一度焼け野原になる映画をみんなが観に行くという不思議なことが起きたんです。今回の『シン・ゴジラ』は、3.11の追体験だとみなが受け止めて見ている。震災から5年後に、暴走する放射能炉と人間が戦う話を作った。
鈴木 しかも、状況としては全然収束しないんですよね。
松井 それも、今の日本と似てますよね。
鈴木 原発事故が過去化したかのような空気を感じつつある5年後の今、曖昧な状況の中でこれが公開された。
篠崎 これまではゴジラを、海に追い返すか、どうやって殺すかで悪戦苦闘していたのに、今回の最後は「共存するしかない」ですからね。メタファーというよりも、あからさまに原発の話じゃないですか。現実は、アンダーコントロールどころか、いまだに汚染水漏れも止められないけど、今度の映画では、一応ゴジラの凝固に成功しますが、いつまた暴走するかわからないと言う余韻を持たせつつ映画が終わる。
高橋 まあ、そういうふうに読めるように作られているわけです。で、金子さんのゴジラだと「太平洋に散った英霊の思念の集合体である」という説明があるんだけど、僕はそれを観た時に、すごい発明だとは思いつつ、「さすがにこの台詞には無理があるだろう」と思ったんです。いくら天本英世が言ってもね。ちょっと、観念的すぎる。スピリチュアルな方向に、金子さんは行っちゃった気がしたんですね。
鈴木 平成ガメラをやったからですかね。ガメラは古代の人たちが作った、守り神的な存在なんですよね。
篠崎 オリジナルのガメラは違いますが、平成シリーズは、生物兵器と言う設定で。
松井 すっごいな、どの話も全部面白そうですね!
一同 (笑)
松井 この対談のために第一作の『ゴジラ』を観たんですけど、そこには古来からの神みたいな意味合いが含まれていましたよね。いろいろ掘り起こせる要素を最初から含んでた映画なんだということが、今回よくわかりました。
篠崎 そんなにゴジラに強い思い入れのなかった松井さんが、なぜ『シン・ゴジラ』を見ようと思われたんですか?
松井 友だちの俳優が出てたので。現場がすごく面白かったらしいんですよ。いろいろ大変なことが起こるんだけど、とにかく庵野さんがやりたいことを、最後まで粘ってやっていて、その姿に俳優のモチベーションも上がったらしくて。「現場が面白かったし、映画も面白かった」って聞かされて、その翌日に観に行きました。面白かったですね。今ゴジラが来たら起きそうなことをシミュレーションしている感じが。「何が起きてるかわからない」ということはほぼなくて、まずいろんな事態がスマホの映像で判明していって、それが嘘か本当かわからないという。最初はみんな、ちょっとナメてるじゃないですか。でも後半、ゴジラが形態を変えていって、東京がどんどんめちゃくちゃになって、指揮系統がまず崩れる。そこで急にチームワークみたいなもので乗り越えていくっていうのがちょっとあんまり……
篠崎 プロジェクトX的展開に。
松井 乗れなかったんです、そこは。
高橋 重要な論点ですね。作り手がみんなぶつかる「前半後半問題」。前半がいくら面白くても、後半を面白くするのは本当に大変だということ。怪獣映画には怪獣映画としての要件を満たすためにそうなるしかない物語のパターンというか、約束事みたいなことがあるんですよね。お決まりの芝居や画を撮らなきゃいけないみたいなことも含む。典型的なのは、海辺で釣りしてる人が「わあ、ゴジラだ!」って叫ぶ、とかね。そういうのを、金子修介さんはちゃんと撮るんだよね。伝統を大事にしている。それはとても大事なことなんだけど、一方でそれだけだと決まり切った物語にしかならないって面もあって、庵野さんはアプローチとして、昭和29年にゴジラが発明された時と同じポジションに立とうとした。ゴジラを発明するにあたって、昭和29年の人たちはどう考えただろうかと。彼らが感じ取ったリアリティから現代の物語を発想したらこうなる、ということを庵野さんはやってみせたんだと思うんです。ロッセリーニが『無防備都市』(45年)を初めて公開した時に、ハリウッドの人たちはみんな打ちのめされたじゃないですか。自分たちはウェルメイドな映画を作ってきたのに、全部ぶっ壊されたぞと。今まで「これが映画だ」と思っていた形を壊された、という体験を今、多くの映画人がしてるんじゃないかと思うんです。特に前半は。
鈴木 主人公が家に帰ったり、家族の視点で描いたりしないじゃないですか。政治家としてもそれなりの野心を持っていて、上司に「余計なこと言うな」って釘を差されたりはするけれど、何だか知らないけどやたらガッツがあるっていう。主人公像としては、決して共感しやすい対象ではないですよね。実はとっつきにくい主人公像だなあというのを、最初に観た時に思いました。
篠崎 それは思いました。今よくSNSで映画を批判するのに「主人公に共感できなかった。感情移入できなかった」ってだからダメ、詰まらないって書く人多いですけど、僕自身は、映画の登場人物に感情移入出来たかどうかはさして重要視しない。いや、むしろ、自分とは何の共通点もないような、全く感情移入できないような登場人物の言動に心が動かされるってことの方が遥かに凄いことだと思っています。つまり共感できない主人公で一向に構わない。だけど……。正直に言うと、政治家と官僚が主役ということに乗っていけなかったんです。彼らも所詮は歯車であり、替えのきく存在だってことも描かれているけど。
松井 僕は、匂いがしない感じがあったんですよね。一ヶ所だけ「シャツが臭います」っていうせりふが出てくるけど、それ以外、五感を刺激してくる描写はほとんどない。例えば文化祭で、徹夜作業が延々続いてる時みたいな高揚感はあるんですけど、そのわりにはあまり身体性を感じない。そこも僕は、乗れない感じがしました。何かがそこで起きている、ということからずっと遠ざけられているような感じがして。
篠崎 身体性…あまり感じられなかったですね。最初に蒲田に上陸するゴジラに一番身体性がありました。体液をだしたり、シズル感が(笑)。松井さんの指摘通り、登場人物たちの匂いとか、体温も…。「臭いますよ」って言われた長谷川博己が胸元のシャツを嗅ぐんだけど、全然汚れているようにも見えないし。でも、そういう匂いとか体温とか身体性をはぎ取りたかったのか知れないですね。そもそも興味がないのか。
鈴木 そうですね。つるつるしてましたよね。プラスチックの質感。やたら椅子が出てきたり、コピー機が出てきたり。
篠崎 凝ったフレームの中に物がたくさんレイアウトされて並んでいました。でも、物が物として、そこにある、って感じがしない。仕事でこの数か月、加藤泰の映画をずっと見直していたんですが、こっちは人間と物が、同じ力で画面に存在しているんです。被写体である以上は人間も物も変わりはない。一切差別しないっていう、究極の民主主義が実現されていまして(笑)。『シン・ゴジラ』もほぼ同じことをしているんだけど、画面としてこっちに迫って来ないんですよね。不思議です。
高橋 そうだ、庵野さんは、岡本喜八の大ファンなんだよね。
篠崎 改めて『日本のいちばん長い日』(67年)も見直しました。政府の高官や役人、軍人しか出てこなくて、民間人がほとんどいない状態で物語が成立している構成は全く一緒でした。庵野さんは思い切った選択されたんだと思います。『日本のいちばん長い日』の構成でやれば、これは行けると。僕は、『シン・ゴジラ』が始まって2〜30分は「いつまで会議しているんだろう」「この話はいつ、別の場所へ移るんだろう」と思っていましたが、あ、これは最後まで『日本のいちばん長い日』でいくつもりなのか、と。同じ岡本喜八監督なら、『日本のいちばん長い日』ではなく、『激動の昭和史 沖縄決戦』(71年)のような展開にならないかと期待してしまったところがあったんですが、そうはならなかった(笑)。『沖縄決戦』は軍部の人たちと民間人の話が入り乱れるんです。あと、シナリオを読んだ知人に聞いたんですけど、普通に撮ったら3時間はかかるような分量があったらしい。それを、俳優たちがあれだけの早口でまくしたてている。早口ということで言えば、岡本喜八さんや市川崑さんが、通常の1.5倍ぐらいの速さで俳優にしゃべらせている映画が山のようにありますよね。今よくある、リアルというかナチュラルにちょっと言いよどんだりする間をとるんじゃなくて、とにかく台詞をワーッと言わせるやり方を庵野さんは貫いた。
鈴木 情報ばっかりですよね、ほぼ。
高橋 『沖縄決戦』って東宝の戦争映画にしては実は意外にミニマムって感じがします。防空壕での会議と局所的な戦闘の繰り返しで。そういうところは予算の使い方も含めて参考にしてるのかも。ゴジラ映画の鬼門って、会議シーンなんですよ。たいがい、巨大モニターがあるところに首脳たちが集まって、「今、品川方面に移動中です!」「うむーーー」とか言ってる。これもさっき言った、怪獣映画の決まりきったお約束の絵面なんだけど、今回はそういうことも最初から疑った上で、会議シーンを構築しようとしていた。ああいう事態に陥った時、行政部がどんな対応をするのかっていうことを徹底的にリサーチしたらしいけど、あれくらい、ばばばばばってしゃべるみたいね。まあ、そうしないと会議の時間は限られてるから物事が決まらない。
篠崎 なるほど、リアリティの追求ゆえなんですかね。僕は、てっきり上映時間2時間を切るための方便なのかと思っていました。「2時間切りたいんでもっと早く喋ってください」とは言うより、実際の政治家や官僚が早口なんですと説得する方が納得させやすいからか、と。トリュフォーも映画の上映時間をすごく気にしていて、「今のは良かったけど、1分半かかった。芝居の調子はそのままで、それを1分に収められるかな」ってテイクを重ねることがあったって聞いたことがあります。『沖縄決戦』に関しては、僕は必ずしもミニマルな映画とは思えなくて。いや、構成はそうかも知れないですが、シーン毎の描写、様々な語りの混在はむしろ過剰です。いろんな形式を貪欲に取り込んでいるし、大本営や上層部だけで完結させない。客観的に軍部のやりとり写しているかと思うと、戦死する男の独白(モノローグ)で、シーンを主観的に展開させたり、沖縄知事に任命される男の家族も短いながら描かれる。で、もって、いちばんの要は、政治家も軍人も決して美化していないことです。そこなんですね。あと、戦場で親が泣き叫ぶ子供を手にかける無残にシーンとか。描写の苛烈さの数々に、岡本さんの怒りと憤りが漲っています。それと『シン・ゴジラ』見て、思い出したのが、オリジナルの『日本沈没』と、円谷英二が特撮を手がけた松林宗恵監督の『世界大戦争』でした。特に後者は、猛烈に見直したくなって、こっちも再見したんですが、1時間50分に満たない上映時間の中に、政治家たちや各国の軍部の動きと一緒に、庶民の生活が活写されていく。しかも決してお涙頂戴だけで終らないんです。諦念の果てにちょっと背筋が寒くなるようなシーンが用意されていて。もう日本に核ミサイルが到達することが疑いのない現実になった時に、フランキー堺扮するタクシーの運転手が「母ちゃんのご馳走だ」って、家族そろって、食事をして。その後、夕暮れの空に向かって、「娘はスチュワーデスにするし、息子は俺がいけなかった大学に行かせるはずだったんだ」って慟哭するんですが、最後の瞬間は、妻と一緒に、冷静に眠った子供たちを抱いてじっとしてるんです。一方、保育園でも親たちが迎えに来れなかった子供たちが何も知らずにスヤスヤ眠っている隣の部屋で、ひとり残った保母の白川由美子がじっと虚空を見つめて座っている。最早逃げ場はなく、死ぬことは分かっていて、その瞬間をただ待っている。「ああ、せめて子供たちが眠っている時で良かった」と思わずにいれない…。僕自身も人の子の親になったこともあるんでしょうが、見ていて、何とも言えない心映えになりました。そのあとは円谷プロの特撮が炸裂するんですが、今の眼から見たらやはりミニチュアまるだしなんですが、でも、映画全体が固まりとして、こっちに迫ってくるんです。こういう感覚が『シン・ゴジラ』には欠けていて…。いや、無いものネダリなんですけどね。そういうのが鬱陶しくて、一切のメロドラマ的な要素や描写をはずしたことが今度の映画の勝因であることは間違いないわけで。でも、全体の構成も変えず、でも何かもうちょっとでも登場人物たちの存在、現場の末端で動いている人の生活や汗がちゃんと見えるワンカットがあったら、もっとよかったなあという気がしました。ただ、それをやっちゃうと、最後の痛快さが目減りしちゃうんでしょうけど。
鈴木 「無人在来線爆弾」ね。最後のジャンプですよね。あそこまでやっときながらそれかい!っていう(笑)。そこに、乗れるか乗れないかは結構大きい。
高橋 劇中で「怪獣」って呼ばないのはかなり大事ですよね。
篠崎 いや、そこも最初に見た時は…(笑)。ゴジラが初めて出現したっていう設定自体はいいんですが、あそこまで登場人物の誰もが頑なに「巨大不明生物」って言い続けていると「TVでも映画でも怪獣なんて今まで一度も見たことない!」っていうフリをみんなが必死にしているような(笑)。誰ひとり「怪獣」って言わないってことの方が不自然というか。ゴジラどころか、ウルトラマンや怪獣が出てくる特撮番組も一切作られていない世界ってことじゃないですか。初見の時にはそういうモヤモヤも、ちょっとありました。で、もう一度見た時に、ああ、これは現実の日本じゃなく、日本によく似たパラレル・ワールドの出来事なんだと。「怪獣」という言葉、概念自体が存在しない、もうひとつの世界。政治家も官僚もこんなに立派なのは、現実の日本じゃないからか。パラレル・ワールドだからなのかと思って(笑)
高橋 でも自衛隊が攻撃するまではかなり面白い。自衛隊の着弾ってあんなに正確なんだ、とかね(笑)。軍事マニアの人に聞いたんですよ。戦車が後退しながら砲塔を回転させて撃ってるじゃないですか。あれは、一度照準を決めたら、戦車がどう移動しようが、ロックオンされてるから絶対外れないんだって。
一同 おーーー。
鈴木 意外に、それをちゃんとやった怪獣映画ってないんですよね。
高橋 ちょっと会議シーンに話を戻すと、今回はかなりの戦略がちゃんとあったと思うんですね。だからこそあれだけ長いこと芝居が持ったし、俳優の顔の選び方とかも、単に「大物っぽく見えそうな人」じゃない人を連れて来て、ちゃんと芝居させて作っている。モニター画面を見る芝居も使い所を絞り込んでいる。ただ、ド正面のアップは弱いですよね。あれって何なんだろう。岡本喜八はあんなにやってないよね。
篠崎 岡本さんの『日本のいちばん長い日』はそれほどアップにはしていないですよ。芝居の熱量はすごいですが、たいていバストショットかウェストショット、複数の人物を同時に捉えるフルショットが多いです。極端なクローズアップは、玉音放送の件とか、本当に重要なところだけ。『シン・ゴジラ』はメインカメラ近くでiPhoneを構えて撮ったりもしたみたい。でもどうしても広角気味になっちゃうせいなのか、実相寺昭雄さんの後期の映画のような「レイアウト感」が先に立ってしまって。黒沢明なら、会議のシーンでも照明をガンガンあてて、絞りに絞って、パンフォーカスにして、俳優もじっと座ってないように動きを導入するし、加藤泰だったら、スタジオでカメラをかなり引いて、望遠で狙って、複数の人物のピント一つで、空間がダイナミックに変動するんですが、『シン・ゴジラ』は、あれだけ、極端なクローズアップで、顔のシミや眼(まなこ)の感じまでクッキリ写っているのに、高橋さんの言うように、画として弱い。不思議と希薄なんです。リアルさを狙って作戦会議室の照明がフラットなせいもあるのでしょうが、人もあれだけたくさんいるのに、静的。カットはたくさん割っているし、カット尻は短く、テンポは速い。時々カメラもグルグル動くんだけども、ウネリがない。唯一、総理が部屋に入った瞬間に、全員一斉に立ち上がるロングショットは、いいな、と。ああいうちょっとした動きがもっとあると良かったです。むしろ、映画的な運動を感じたのは、特撮パートでした。ゆっくりと進むゴジラを捉えた超ロングショットとか。仰角のショット。夜、ゴジラの頭のまわりを旋回しながら捉えたショットとか。
高橋 それは庵野さんが、あの感じが好きだってことなんですかね。
篠崎 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(07〜12年)も頻繁に会議していましたね。会議というよりも密談なのかな。ネルフとかゼーレとか。そこも動きはほとんどない。好きなんでしょうね。庵野さんの中では「会議」と「バトル」が対にあるんじゃないかと思って。とにかく潔いまでに自分の好きなもので勝負している感じはしました。
松井 これは映画の大変なところかもしれないんですけど、俳優の芝居が分断されてるじゃないですか。俳優のアクションに対するリアクションが、つながっているようには全然見えなくて。それを混乱させるくらいのスピード感でやるから、芝居というよりも「インパクト」だけを並べてるような感じがしました。
鈴木 すべて絵コンテで作られている感じがしましたね。この映画に関しては「プレビジュ(プレビズアライゼーション略)」が話題になりましたけど、それってスタッフみんなでそれぞれの役をやってみて、それを撮って編集して研究してるってことなんですかね。クレジットを見たら「A班」から「D班」までプレビジュ班がいたじゃないですか。
篠崎 台詞に関しては、この分量で本当に2時間に収まるかどうかを、声優を雇って全部やったそうです。「こんなに分厚いけど、必ず2時間以内に収まりますからシナリオは切りません!」っていう意思表示で。
松井 へええ、なるほど。
鈴木 僕は観る前に想像していた感触とは違って、すごく実録ものっぽいゴジラを観ることができたのが意外でしたね。一瞬では読めないくらいの情報量を画面に詰め込むというのは、庵野さんがずっとアニメでやってきた手法じゃないですか。それを実写で初めて観たなと。しかもここまで理詰めで、本当に都庁にある一室を借りて撮ったなんていう話を聞くと、分断された芝居のたたみかけで作られたものが「実録」の色を帯びてくる。怪獣が出てくるシーンも非常に面白くて生々しかった。大田区の運河にボートが押し寄せてくる画なんて、はっきりと3.11ですよね。あの時に新しいビジュアルが生まれて、それがここに結実しているんだなと思いました。僕は4回観たんですけど、自分の中でも相当面白かったんだと思うし、「よくこれを作ったな!」という思いがありますね。この根性、すごいな!っていう。陸上自衛隊とかの協力をあそこまで仰ぎながら、はっきりと放射能の脅威についての映画になってますもんね。それを想定してこれを作ろうとしたというのは、東宝、よくやったなと思います。寝た子を起こすようなことに、このタイミングでなっている。一応希望をはらみつつ、大変なものをあそこに放置したまま終わっていく映画なんですよね。そのニガさが、こういう作りであるからこそたくさんの人に娯楽映画として受け取られている。大人だなあ、という感じがしました。
篠崎 ラスト、ゴジラのしっぽの先に、それこそ津波で流されてしまった方々の死骸なのか、太平洋戦争で沈んでしまった人の死骸なのか、それとも岡本喜八さんの行方不明の博士が仕掛けた何かのせいなのか、人型のようなものがいっぱいはみ出ているじゃないですか。実は何も解決していない。いつ暴走しだすかわからないものを放置したまま終わる。かなりダークな世界観のはずなんですけども、後味が悪くないようにサラッと終わりますね。
鈴木 うちのかみさんが観に行って、プラント施設で凝固剤を作っているところに音楽がかかってて、「工場で働いているだけの場面でも、すごくわくわくするなんてね!」って言ってたんですよ。それが普通の受け取り方なのかなと。後半の「みんな頑張れ」みたいな流れに、みんな乗っかって行ってるんだと思うんですね。
篠崎 もはや高度成長が望めない時代のプロジェクトXですね。巨災対の人たちもエリートはエリートなんだけども、組織の中では充分に活躍できず、そこからはみ出した人たちが集まって何かを起こす。そうすることで、娯楽映画としてうまく収まった感じはたしかにある。
高橋 最初に観た時には、しっぽの先に貼り付いているのは、たたきつぶされた人たちの死骸だと思ったんですよ。9.11の映像にクローズアップしていけば、落ちていく人たちの姿が見えるみたいな感じで。でも2回目を観たら、人間みたいな形をしてるのに、ちょっと背びれがついてるんだよね。
篠崎 劇中でも、アメーバのように、ゴジラが自己分裂して単体で増殖する可能性が語られますよね。あれが、新たなゴジラに育っていくのかもしれないですね。でもそれって『ガメラ2 レギオン襲来』でもやってますね。
高橋 アクロバティックなことをやれてるな、すごいなと思うのは、今回「ゴジラって怖いんだ」という、昭和29年に立ち返るような発見があって。これは恐怖映画としてのアプローチなんだけど、ゴジラ自身はそんなに攻撃的ではない、ということなんですよね。
篠崎 「生きものだから、ただ移動しているだけなんじゃないですか」っていう高橋一生さんの台詞があったけど、本当にそうなんですよね。熱線を放射するのも、ゴジラとしては攻撃がしたいわけではなくて、そうしないと体内でメルトダウンを起こしてしまうから。エネルギーを使い果たすまで吐き続けざるを得ないという設定らしい。
高橋 怪獣映画が抱える根本的な矛盾として、「あいつら東京に上陸して何がしたいんだ?」っていうね。たまに何かが憎いみたいにビルを壊してる怪獣がいるけど、「何怒ってんの?」っていうことですよね。
松井 (笑)
高橋 それを考えぬいた結果、たぶん庵野さんは「あれはただ歩いてるだけだ」ということに行き着いたんでしょうね。ゴジラは「怖い」と思わせるけど、攻撃的な存在ではない。言ってしまうと、僕はそこがちょっと不満でした。やっぱり、放射能炎をいつ吐くかってことに、観客はわくわくするじゃないですか。そして米軍の攻撃によって、東京駅でそれを吐く。でもそこに、僕がかねてから「エンヤ症候群」と呼びたい、……
篠崎 出た! 高橋さんが忌み嫌う、女性コーラスの楽曲。
一同 (笑)
高橋 別に歌手のエンヤには何の恨みもないけど、最近の映画って悲惨なことが起こるたびに、すぐああいう歌が流れるじゃないですか。
篠崎 絶対そう言うと思った。鎮魂歌的な、ね。僕は好きでしたよ。
高橋 伊福部音楽がすごいなと思うのは、人外の立場から曲をつけてるってことなんですよ。でも「エンヤ」的な曲がかかると、急に情緒的に寄り添ったものになる。「何やってんだよ……」と思った。
篠崎 すみません。僕はあそこ泣きそうになりました。あのシーンの飛躍には作り手たちの本気が伝わってきて。でも、泣きそうになりながら「あー高橋さんはきっと怒るだろうなー」って思いました(笑)。
鈴木 つまり、持ち上げ方ですよね。人間が絶対叶う相手ではない、神に等しい存在として。
松井 そういえば、ファースト・ゴジラでも歌ってましたね。あの感じなら、僕もわかるんですけど。
高橋 「平和の祈り」ね。あれは凄いんですよ。本当にどうしようもなくなった中での祈りの歌だから。で、東京駅で背びれが光るのはいいんですけど、背びれから放射状に熱線が出るじゃないですか。あれが、ゴジラとしては、攻撃じゃなくて防御なんだよね。ハリネズミみたいに。
篠崎 『伝説巨神イデオン』もチラッと頭をかすめましたが。
高橋 そこも僕は物足りなかった。「……え、防御なんだ……」と。あそこは面と向かって、敵を狙って吐いてほしいんです。でもそういうふうに持っていくと、攻撃対攻撃のぶつかり合いになっていって、現代の映画としての落とし所が見えにくくなっていくのかもしれないな、とも思うんですけどね。
松井 なるほど。
高橋 そしてゴジラが停止して、そこから「プロジェクトX」でしょ。「止まってる間にみんなで頑張ろう!」っていう。そこがちょっと、ダレた感じがしたんだよね。
篠崎 僕自身は、チームワークものが嫌いなわけでは決してないんです。組織に属しているけどはみ出している連中の活躍って発想も悪くない。あそこ巨災対メンバーの設定なんて絶妙です。たとえば、塚本さんの役を「教授」じゃなくって、「准教授」にしているとか。年齢的には「教授」でおかしくないのに。つまり、国から莫大な研究助成金を引っ張ってこれない異端な研究をしているのか。それとも対人関係がうまくないのか。在野の研究者っていうのが、現実的に今はなかなか成り立たない時代ですから、巨災対メンバーも、大学や組織に属するだけの社交性を持った人物にしている。その辺りは、庵野さん、リアリストなんでしょうね。当然、政治家や官僚たちに比べたら、ずっと彼らの方にアイデンティファイしやすい。演じている俳優陣の魅力もあって、個々のキャラクターは良かったんだけども、松井さんと同じく、僕も後半いま一つ乗り切れなかったんですね。どうしてだろう。なんか震災後の「絆」って言葉が一人歩きしはじめたり、「日本人よ、一つになって立ち上がれ」的なフレーズに対する違和…を思い出したのかな。ただ、救いだったのは、ヤシオリ作戦が成功した瞬間に、万歳したり、全員で抱き合ったり、大袈裟に喜ばないところは良かったです。みんな疲労困憊していて。喜んでいるけど、ナショナリズムを顕揚するような熱狂的な描写になってなくて、そこはホッとしました。
松井 思ったんですけど、それまでパキパキと物事を決めていた長谷川博己さんが、後半も相変わらずパキパキできちゃうから、感情移入できなかったなと思うんです。長谷川さんが頭真っ白になるくらいに打ちのめされて、ゴジラと一緒に動けなくなっちゃって、しょうがないから周りが頑張る!っていう展開ならまだ乗れたかなと。
鈴木 確かに、不屈すぎますよね。
篠崎 一瞬、矢口も気が動転するけどね。水を飲んで復活する。「まず君が落ち着け!」って松尾諭君の台詞、あれは良かったです。すでに巷で流行っていますが(笑)。
高橋 へええ。流行る台詞が生まれるっていうのはすごいことだけど、あそこのシーンがそうなんだ(笑)。僕は余貴美子が面白かったけどね。
——冒頭におっしゃっていた、高橋さんが書いた「ゴジラの最期」というのは?
高橋 ちょっと脚本コースのブログ(「バトル・オブ・円山町」)にも書いたことなんですけど、ゴジラは核攻撃によってこそ倒されるべきだということなんですよ。放射能が生み出した化け物として。『シン・ゴジラ』も後半、アメリカが核を使うからみんな避難しなきゃいけないという展開がありましたよね。それを未然に防ぐために、凍結作戦が行われる。でも、僕が「ゴジラの最期」に書いたのは、日本人の手で核を落とすべきである、ということだったんです。もちろん苦渋の決断なんだけど、そうしないとこの生物は消滅させられないから、クライマックスにそれを持ってくるべきだと。1回しか使えない手ですけどね。それをやったら、ゴジラ映画は終わってしまう。
篠崎 でも、一度ゴジラを本気で終わらせるつもりでやらないと成立しないような気がします。高橋さんがそこに書いたのは、中性子爆弾とかではなく、どんな理屈をつけてでも原子力爆弾でなくてはいけないと。しかもそれは米軍から譲渡されたものであってはならず、あくまでも日本人の手で作られたものでなければならない。風向きも何もかも計算し尽くして、日本人の手で東京に落とす。その様子を日本全国それぞれの場所で、全日本国民がテレビ中継で注視している。
松井 キツいですね。トラウマになるかも。
篠崎 それでようやくゴジラが絶命する代わりに、東京も木っ端微塵になって、放射性物質の汚染で二度と人が立ち入れない場所になる。『シン・ゴジラ』がそこまで行けたらすごいことになるなと思ったんですよ。でも、「ニッポンまだまだ頑張れる」って話になっていた。だからこそ、これだけ当たったんでしょう。そんな暗い結末じゃエンターテメントとして成立しないって言われそうですが、でもかつての、最初の『日本沈没』は、まさにそれをやっていたわけで。もはや日本の国土がこの地上から消えてしまい、日本人は世界各国に散り散りになってしまう。だけれども、それゆえに、あの映画の最後で呟かれる「私は日本人を信じたい」って言葉には、丹波哲郎や小林桂樹の演技の力とも相まって、ナショナリズムに回収されない響きがあったんです。今回見直してもそう感じました。
高橋 凝固剤注入のシーンは僕は勝手に「黒い看護婦作戦」って呼んでますね。看護婦たちが寄ってたかってシュコシュコ!って胃にチューブで酒を流し込む「黒い看護婦事件」ってのが昔あって、どうしてもその光景が思い浮かぶ。
一同 (笑)
篠崎 それ、高橋さんだけですよ(笑)どうみたって、震災直後の決死の消防活動を思い出さざるをえないじゃないですか。僕はあのヤシオリ作戦開始に際して演説する長谷川博己ではなく、聞いている自衛官たちの顔を見たかったです。ひょっとしたら、本物の自衛官に出てもらったから顔を写せなかったのかなあ…。ある脚本家の方も、自分だったら凍結させる重機を運転する人間の側のことを書いてしまうんじゃないかとおっしゃっていましたが…。巨災対の津田寛治さんが一瞬、携帯で子供の写真を見る描写が入りましたが、あんな風にバックミラーに子どもの写真が入ったキーホルダーをぶら下げておくとか、ちょっとしたことでいい。それじゃウェットでクサイというなら、せめて、第一陣が全滅となった時に悲しむ矢口蘭童(長谷川)を写すんじゃなくって、「第一陣全滅!」っていうのを聞いている、第二陣の、名もない人々の顔が見たいと思ったんです。2秒でいいから。
松井 そうですね。ぱっと視点が切り替わっても、いいところはたくさんあった気がします。
高橋 矢口があそこで一瞬瞑目するみたいな芝居を入れない方がいいよね。あそこで矢口は絶対に揺らいじゃだめなんだよ。
篠崎 指揮官としては、内心どうあろうと平気な顔して「第二陣!」って言わないといけないってことですね。それはわかります。ただ、矢口自身のリアクションは…。矢口蘭堂は、東京の被災区域を訪れた時も、他の人たちがサッサと移動した後でたった一人、手を合わせて死者を悼むようなキャラだから、あれはあれで一貫している気もします。でも、やっぱり一瞬でもいいから、矢口じゃなく、実際に作戦に従事する第1陣、第2陣の人々の顔が見たかったです。
高橋 最初、新幹線爆弾がガーッと行くじゃない。そこで「宇宙大戦争マーチ」がかかる。……言うことがどんどん原理主義みたいになってきてますけど(笑)、「新幹線で『宇宙大戦争マーチ』!?」っていうのは、ちょっと思った。
一同 (笑)
高橋 やっぱり、自衛隊が突っ込んでいく時にかからなきゃだめですよ。あの曲に合わせて、自衛隊がジェット戦闘機で突っ込んで行ってほしいですよね。
篠崎 あそこで物凄く前のめりで昂奮した人と、「え、自衛隊の攻撃でもびくともしなかったのに、電車爆弾でやられちゃうわけ」って冷静になった人もいるみたいですね。高橋さんなら、後半の展開はどうしますか。
高橋 人外の存在による、途方も無い悲劇が起きている時に、人間ドラマでは太刀打ちできないという思いがまずあります。前半は、いいんです。これだけの事象に対して人間ができることは、会議と自衛隊の出動しかない。けれど後半、ゴジラが停止した時に、人間は何をやれば面白いのかという大問題に行き当たりますよね。そこで「プロジェクトX」をみんなで一生懸命頑張るっていうのは、ちょっと違うなと。海外の怪獣映画だと、だいたい怪獣が小さいんですよ。『グエムル—漢江の怪物—』(06年)なんか典型的だけど、人間が等身大で立ち向かうというドラマの作り方をしますよね。でも日本の怪獣映画が面白いのは、そんな手は一切通用しないよ、っていうところです。それくらい、相手がデカい。じゃあ一体人間は何をやればいいんだ?というのは本当に難しい問題で。
鈴木 難しいよなあ……
高橋 今回、被災者の視点がないという指摘があって、確かにびっくりするくらい、人死にが描かれていないんですよね。
篠崎 マンションの一室で幼い子供と両親が逃げる準備していて、そのまま倒壊するビルもろとも巻き込まれるシーンはありましたね。
高橋 死者数も最初にゴジラが上陸した後の死者・行方不明者が「現時点で100名」というニュースが流れるのみ。といって、逃げ遅れた被災者の脱出ドラマをパラレルで描けば面白いのかっていうと、そんなことないなと思うわけです。話が割れるだけだよなと。だから本当に、日本の怪獣映画に人間ドラマをどうぶち込んで行くのかというのは、大変な問題。それで原爆を落とさざるを得なくなるドラマに持ち込む、というのが僕なりの結論だったんですけど。
鈴木 高橋さんがおっしゃることは強烈ですけど、確かにその通りだなと思います。その、ものすごいアンビバレントを映画でやりきった時にこそ、その映画ははっきりと娯楽映画になる。ゴジラがまだ「子どもも観る」前提のスター映画として作られていた頃は、「平和ボケしている日本に鉄槌を下す」みたいな気配がありましたよね。「死」は遠いものである、という認識があの頃はあったから、人がキレたり爆死したりという描き方があったんだけど、3.11を経験してからは「人が死ぬ様を本当に観たいか?」という問いが生まれた。そう考えると、「死」というものの捉え方が、あれを機に大きく変わってしまったのかもしれないなと思います。
篠崎 『ガメラ3』では、センター街を派手に壊して、巻き込まれる犠牲者たちをしっかりと描写していましたが、確かに今それをフィクションでやるのはキツいですよね。東宝から圧力がかかったとかそういうことではなく、「人が亡くなっていく」ということの重さを画として撮り切るべきだという思いと、いや、もうそれは表象不可能なものとして、想像させるべきだということの間でのギリギリの決断ではないかと…。『SHARING』で、田口清隆さんに特撮をお願いして、あんな爆破シーンを撮った僕が言っても説得力ないかも知れないですけども。
松井 でも『シン・ゴジラ』の一番最初の襲来から、日常が戻ってくる早さは面白かったですけどね。何ごともなかったかのように通勤通学してる人たちがいる。そういうある種の軽さというか、「今回はこれくらいの騒ぎで済ますけれども、可能性としては世界が破滅するかも」くらいの大きさに物事を限定しているその設定力が、この映画が成功している理由のひとつかもしれないなと。例えば僕は『風の谷のナウシカ』(84年)を思い出したんです。この世を一度破滅させた「巨神兵」が、ものすごく大量の「王蟲」に負けていき、全世界を王蟲が覆い尽くしたところにナウシカが立って奇跡を起こす。『シン・ゴジラ』も、ゴジラが東京を破壊し始めるあたりまでは「世界が終わる」方向に行くんだろうなという感じがしたんですけど、後半は全力でそっちへ行かないように、ものすごいブレーキをかけている映画だなと思ったんですね。
鈴木 確かに「世界が終わる」感はなかったですね。エメリッヒの『2012』(09年)も世界が終わる映画だけど、ああなっちゃうと困っちゃうなっていうのがあるじゃないですか。だから、あっち見たりこっち見たりする映画。
高橋 昭和29年の『ゴジラ』の後半戦は、東京が野戦病院みたいになって、完全に戦時中みたいになっていきますよね。ゴジラに対するみんなのものすごい怒りが湧き起こる。「平和の祈り」もそこで歌われる。そういう、単純に言うと「ゴジラぶっ殺したる!」感みたいなものが、後半に発動することでこそゴジラ映画は盛り上がると思うんだけど、『シン・ゴジラ』は「怒り」ではなくなっていくんですよね。
松井 「工夫」みたいなことになっていきますよね。
篠崎 実はただ、移動しているだけと言う点で、ゴジラは意思をもった破壊神というより、自然災害に近い…。
高橋 「完全生物だ」っていう台詞があるけど、まさにそれですよ。ゴジラという個体をどうするって問題ではなくなっていく。そしてゴジラが幼体として出現して変化していくっていうのも今回のすごい発明のひとつだけど、「じゃあ発端は一体何?」っていう、今までのゴジラ映画では考えずに済んだ問いを生み出してしまった。
篠崎 「私は好きにした、君たちも好きにしろ」っていうところですよね。
高橋 岡本喜八がやらかした、としか思えないですよね。
鈴木 でもそれだと「ゴジラはただ歩いてるだけなんです」っていう純粋さが、失われることにもなりかねないわけじゃないですか。ゴジラを東京に向けてぜんまいを巻いて、「行ってこい」みたいなことを、博士は本当にやったんですかね……?
高橋 『機動警察パトレイバー the movie』(89年)も、博士が自分の死後に作動するような仕掛けを残して、その謎解きをみんなでしていくっていう話じゃないですか。このパターンを発明した脚本の伊藤(和典)さんは凄いなと思うけど、そういうお話が、特撮系とかアニメ系の人は本当に好きなんだなあ!って思いますよね。「やらかしといて行方をくらました人のケツをみんなで拭く」話。僕はそれがどうも納得がいかなくて。『シン・ゴジラ』もあの鶴の折り紙のあたりでかなりイラっと来たというか…。「わかるように書いとけ!」と。
一同 (爆笑)
松井 確かに。なんでわざわざ謎を残すんだろう。
鈴木 思わせぶりにね。というか「わかるように書いとけ」ってすごいですね(笑)。
篠崎 いや、まあ、アメリカに秘密が知られて兵器として利用されることを危惧して、日本人にだけわかるように鶴の折り紙に託した、ということなのでは(笑)宮沢賢治の「春と修羅」が一緒にありましたが、あれもきっと意味はあるんでしょうね。
高橋 「今からゲームの始まりです」的に人を試す物語に、僕はどうしても乗れないんです。作り手がそういうフレームを用意して、登場人物がその中で必死にさせられてるという構図が。
鈴木 そして中盤から後半あたりで「そうか! あいつはこうしようとしていたに違いない!」ってなりますね。すると誰かが言うでしょう。「一番怖いのは人間だな……」
松井 (笑)
篠崎 今ってストーリーを全部説明しないと観客はウケないとか、理解できない映画には乗らない、つまらないという前提が信じられているじゃないですか。でもそんなことはないですよね。そもそも「エヴァ」もそうだけど、『シン・ゴジラ』はこうやってみんなで話をすること自体がすでに作り手たちの術中にはまっているようなところがあると思うんです。肯定するにしろ、そうでないにしろ。それがあって、みんな2回3回見る。もしこれが、すごくうまく整合性がとれて、全ての謎が見事に回収される映画だったら、こんなことにはならないのかもしれない。多くの謎を残すことで、みんなが前のめりになるって構造は、「エヴァ」と全く同じかも。
鈴木 そういう意味であのラストは、とてつもなく完成度が高いとか、そういうことではないのかもなあと思いながら観ましたけどね。
篠崎 かつてのゴジラのコンセプトとは、「黒い大きな塊がやってくる」ことの怖さだと高橋さんは書いたでしょう。それで言えば、まさに今回の『シン・ゴジラ』は、それが実現されていました。でも高橋さんは、「意志もなくただ歩いている」だけでは物足りないとおっしゃいましたよね。だとすると、どうだったらよかったんですか?
高橋 それはもう、攻撃されたら、……
篠崎 倍返し?
高橋 そうそう。
一同 (笑)
高橋 ただ無闇に暴れるんじゃなくて、攻撃すると怖い…取り返しがつかない感じが欲しいんです。だから余計必死で攻撃するしかない、そういう怖さ。東京駅で最後の攻撃が始まって、飛んできた米軍機に背びれから熱線を出して、撃ち落とされるのが無人機だっていうあたりも、物足りないなあと。多摩川での、自衛隊との決戦の昂ぶりを超えるものがなかったなあと。だって東京駅っていえば皇居の手前なわけだから、本当の意味での「決定的防衛ライン」だよね。面白かったのは、矢口たちが立っている作戦司令本部が科学技術館だっていうところ。東京駅を挟んで、皇居の反対側なんだよね。矢口たちの頭上に光線が走る、あの画はめちゃくちゃカッコよくて。「あの光は皇居の頭上を超えて飛んでるんだな」と思ったら、たまらないものがありますよね(笑)。
篠崎 最初の『日本沈没』には、皇居も出て来ましたよね。避難民を宮城内に入れるか入れないかで問答する。今回は、そこには一切触れませんでしたが、ただ、科学技術館といえば『太陽を盗んだ男』(79年)の舞台だった場所ですよね。菅原文太とジュリーが原爆を持って落っこちるところ。
鈴木 『太陽を盗んだ男』はすごく思い出しました。原爆を奪い返しに、ジュリーがターザンみたいに出てくるところがあるじゃないですか。あれってフィクションが現実味からジャンプする瞬間という意味では、「在来線爆弾」とおんなじだなあと思って。
篠崎 ところで、あのキャラは、どうだったですか。「カヨコ・アン・パタースン」(石原さとみ)は。
高橋 ああ……ねえ。
松井 僕は、「こういうもんだ。」と思って観てました。
篠崎 例えば、すでに高橋さんは、30年以上前の8ミリ映画時代からナチスの残党を、どこからどう見ても日本人にしか見えない人に演じさせ、シナリオを手がけた『発狂する唇』や監督・脚本を手がけた『狂気の海』(07年)にもアメリカ人という設定で…。
高橋 あれに似た人が出てくるっていうのを事前に聞いた上で観てしまったので、出てきた途端に「コイツか……」と思いました。
一同 (笑)
高橋 名門の出なんでしょ。しかも大統領の椅子を狙ってる人。なんでそこまで持ち上げるんだろう。被爆三世っていう設定ですよね。それもあんまり生かしきれてなかったし、矢口と2人で歩いてる芝居とか、あってもなくてもどっちでもいいなって思った(笑)。でも、あの人がいないと、中盤以降、政府を動かせないからね。必要な人物ではあるんだけれども。批判の標的になりやすいポジションではあリますね。一番もろいところに置かれた人。僕は自分の映画でもそういう人物を出してるだけに擁護したいというか…、でも正直、予告編で彼女が出てきたカットだけ、「マズいかも」って思った。
篠崎 極めてディフォルメされた芝居の仕方ですよね。たとえば、市川実日子さんと比べると、芝居の質があまりにも違いすぎる。
鈴木 確かに、空気が違う。
篠崎 でも彼女の芝居で「この映画、単なるリアリズム一辺倒じゃなくって、こういうノリで見てもいいんだ」ってことがわかって、物語にすんなり入っていけたという人もいるみたいですけれど。
松井 そうですよね。意図的に位相を変えてるんだな、っていう気がしました。
篠崎 僕は躓いちゃったんですよね。ごく身近に国際結婚している人間が何人もいて、ダブルの子供たちもいるということも大きいのですが。受け入れるのに時間がかかりました。庵野さん、こういう跳ねたキャラクターが好きなんでしょうね。アスカ・ラングレーみたいな。それに葛城ミサトを合わせた感じも。
鈴木 『ジョギング渡り鳥』の古澤健の芝居に似てるのかも。アクターズコースの1期の面々とは、明らかに違う、ある種の過剰な芝居を古澤健は演じている。そこに私としては映画の舞台となってる町の、外部から来た人物を想像したりもしているのですが、松井さんの仰るような、リアルやナチュラル、あるいはディフォルメなどのいろいろな言葉で言われる芝居の位相の違いが、一つの映画の上に混在する事になっている。
篠崎 それって難しいところだと思うんですよ。リアルだから、ナチュラルな芝居だから無条件にいい、というわけではもちろんない。ちゃんとキャラクターを捕まえた上での作りこんだリアクションも大事ですもんね。たとえば、巨災対の人たちがいよいよアメリカ空軍の攻撃も始まる、ゴジラがやってくるからみんな逃げるぞ、ってなった時に、塚本晋也さんは机に広げまくった資料をそのままガーッとダンボールに一気に詰め込む。市川実日子さんは平然と、最小限の荷物を抱えて悠然と去っていく。あそこ、いいんですよ。ちゃんと、それぞれが考えて作って芝居しているのがわかる。高橋一生さんも、「こんなのありか!」ってワーってなったあとの「ごねんなさい」とか。でもあそこ以上に生き残ったあとで何も言わないで、矢口の話にじっと耳を傾けている表情が良かった。いろんな思いを胸に秘めてじっと聞いている顔。ただ、感情や状況を説明するんじゃない演技。物語に回収されない佇まいは、ああいう映画にこそ必要だと思いました。
鈴木 そういう意味で言うと、俳優としてはとてもやりづらい芝居を要求される映画ですね。狭いストライクゾーンを指定されて「ここに放ってください」って言われてるみたいな芝居。
松井 僕も、それは強く思いました。どの俳優さんも、みんなすごいなと。
篠崎 しかも早口。ちょうど増村保造がやたら大声でしゃべらせたり、小津安二郎が一定のリズムやトーンでしゃべらせたりするのと同じで。早口にすることで、俳優の自意識を消させて、余計なことをさせない。リアルだけでない、もう一個の強さが芝居には必要だ、というのはわかるんです。高橋さん、自然な演技はあまりお好きではないでしょ? 僕はちょっと違って、ある種のナチュラルな芝居は好きですし、なるべくリアルな芝居がいいと思っているんです。ぶっ飛んだ設定をぶっとんだ芝居で見せられるよりも、基本リアリズムがいいと思っていて。むしろ、フィクション性の高い物語を、とことんリアルな演技でみせたい。ごく最近見た映画だと、決してド派手なエンテーティメントではないんですが、ジェフ・ニコルズの『ミッドナイト・スペシャル』が良かったです。俳優たちが本当にみんな良かった。
高橋 リアリズムっていうより、自然っぽさ、ナチュラリズムが性に合わないってことだと思うけど。ある強さから入って、現実をなぞるのではないリアリズムに行けないかなって思います。
篠崎 それはわかります。すごく。ただ…。「映画的」な「強さ」ばかりが全面に出ている映画が僕は最近ますますダメなんです。こういうといろんな人から怒られそうですけど、増村でさえ、映画によっては凄さよりも先に違和感を覚えてしまう時があります。これは演技だけの話でもないんですが…映画は所詮作り物。たかが映画じゃないか。映画であれば何でも許される、目くじら立てるなよ、とも思えなくて。「映画は現実の反映ではなくて、反映された現実なんだ」ってゴダールのオッサンの言う通りだと思うんですが、映画原理主義者にはなれないです。というか、そもそも映画って、本来映画の原理だけで廻ってるわけじゃないんですけどね。世界と無関係に映画はありえない。
鈴木 『陸軍中野学校』(66年)の冒頭の、加東大介さんの長台詞とか、言ってみたいなと思うんですよ。監督の要求に、見事に応えられているなあと。確かに「息継ぎ、いつしてるの?」っていうキャラクターだけど、強力ですよね。
篠崎 それで言うと、加藤泰がまさにそれなんです。映画の強さと、その俳優が持っているものが、一緒に出ているんですよ。異様にテンションが高いんだけど、ただ感情に任せて芝居しているんじゃないんですよね。小津や増村のように、演技を統制してその果てに強さを掴もうとするんじゃなくて、その人自身が持っているものととことん向かいあっている。マキノなんかは、一方で仕草や体重移動まで細々と芝居を事細かにつけまくるかと思えば、芸人は平気で放し飼いにして雑多な演技を受け入れるじゃないですか。あるいは、日活時代の清順さんみたいに、演技の巧い役者をあえてオブジェのように撮るというのとも違う。なんだろうなあ…。濃い芝居ではあるんですよ、でも、凄くダイレクトに迫ってくるんですよね。加藤泰は。例えばフレームの中に6人の登場人物がいるとして、加藤さんって最低でも6回、リハーサルするんですって。大木実さんにお聞きしました。「加藤さんは1回のリハにつき1人しか観てないんだ」って。声にこそ出さないけれど、一人一人、何度もテストを繰り返して、「よし、君はOK。次!」っていう感じで。
鈴木 なるほど、順番に観ていくのか!
篠崎 だから本当に群衆シーンなんかすごいですよ。20人全員に芝居をつけている、というかそれぞれ「その他大勢」って芝居じゃなくってみんながそこに生きている。加藤さんは、時に主役以上に、後ろの方で賭けをしている俳優に「あなたは今勝ってますか、負けてますか」「もしも、今日負けて帰ったらどうなりますか」って、演じる目的をちゃんと持たせたそうです。そのためにどんな芝居をするのかっていうことを、俳優自身に考えさせているから、画にも勝手に厚みが出てくるんですよね。段取りで動きだけつけたりしない。ああいう、人物がフレームの外にはみ出すような画面が問答無用にガンとつきつけられる感じが、『シン・ゴジラ』の群像シーンや会議のシーンにはあまりなかったかなあ。
松井 確かに、しゃべってる人だけを映すカットが、なんでこんなに多いんだろうと思ったし、みんな決めぜりふ調なんですよね。
篠崎 そう、決め台詞のオンの顔が圧倒的に多い。聞いている人の表情があまり写されない。たとえば、アルドリッチの『合衆国最後の日』(77年)みたいに画面分割して、しゃべっている人と聞いている人も同時に写したら、どうだったのか。
松井 そしたらこっちは勝手に「今何かがここで起きている」感じを受け取るのに。今回は全部を説明されてしまってる感じがして、そこがちょっと……
篠崎 そのフレーム、ショットの中だけで芝居が「画として完結」してしまっている感じでしたよね。台詞の応酬だけでも、お互いに影響しあって、片方が言い淀むとか、そういうのがほんのちょっとでも見えると、それだけで…。
鈴木 つまり、もうひとグルーブ欲しいぞ、っていうことですね。会議のシーンに。
篠崎 そう。そうなんです。
鈴木 庵野さんも、それをやったら自分が崩壊すると思ったんじゃないですかね。この映画ってどこか、紙芝居なんですよ。人間を撮るということに関しては、かなり割り切ってると思う。だから撮れたんだと思うし、それで良かったと思う。……って何の立場で言ってるのかわからないけど、監督としてはそれで良かったのかもしれないなと。
——そろそろまとめに入りたいのですが。『シン・ゴジラ』以前と以後で、日本映画はどう変わっていくでしょうか。
高橋 少なくとも、これからゴジラ映画を作る人は皆、大変なハードルを課されたなと思いますよね。
篠崎 それは間違いないです。次にゴジラを作る人は大変ですね…。でも『シン・ゴジラ』以前以後で、日本映画全体がどう変わるのかっていうのは、よくわかりません。
松井 今度、虚淵玄(うろぶちげん・『魔法少女まどか☆マギカ』など)さんの脚本で、アニメ版が作られますよね。あの人が作るからには、たぶんとんでもないだろうなと思うんですけど。『シン・ゴジラ』がシミュレーション方向の映画だったとして、これからはもっとSF方向だったり、あるいは「触れてはいけない現実に人間が対峙する」ということのバリエーションがもっと観たいなと思いました。「倒す」だけじゃなくて、例えば人間が生み出した負の産物を、人間が信仰の対象にしたりとか。タブーだとして避けて通ったりとか。『シン・ゴジラ』では、国会前のデモが描かれてましたよね。ああいうのが、もっと観たい。ゴジラというものが一体どういう対象として、人の心に巣食ってきたのか。ゴジラが街を破壊することに、自分の破滅願望を重ねる人たちが出てきたりとか、文化人類学的なアプローチをする人たちがゴジラにどんな反応をするのかとか。そういう周辺のことをもっと観たいなと思います。
高橋 あのデモのシーンは面白かったよね。国会前のデモって行政側からすれば、騒音なんだなって見える(笑)。
松井 「やってるなあ今日も!」っていう感じがありましたね(笑)。
高橋 あれは、リベラルな人が観たらムカッとするんですかね。体制側の映画、っていうふうに見えちゃうのかな。
篠崎 実際に国会議事堂前にデモにいっていた一人としては…腹は立たないけど、面白いとも思えませんでした。どういう意図であのデモのシーンを入れたのか見えてこなかったです。揶揄しているのか、それとも2015年の日本には、ああいう現実があったことを、フィクションの中に、それもメジャー映画に残しておきたかったのか。そこもわからなくて。録音の応援した人の証言だと「ゴジラを殺せ!」と「ゴジラを守れ!」とシュプレヒコールを2パターン、録ったそうです。あと、不思議なのは、『シン・ゴジラ』って、右寄りの人だけでなく、左寄りの人からも褒められてるんですよね。右左って単純化するのも嫌なんですが、右寄りの人が誉めるのはわかるんです。「がんばれ日本」「日本もまだまだやれる」感があるから。でも、リベラルとか左寄りの人でもっと怒るひとが出るんじゃないかと思ったけど、思ったほど、そうでもないのが不思議です。「米国の属国だ」「戦後は続くよ、どこまでも」みたいな台詞があったり、シニカルな視線が見えるからですかね。本来、映画に政治的なメッセージだけを過剰に読み込もうとしたり、その是非だけで映画を評価するのは大嫌いなのですが…。ただ、最初に『シン・ゴジラ』を観た時、これサミュエル・フラー言うところの徴兵映画として機能しないか?と思ったんですよ。あと、政治家や官僚を主人公にして、庶民がメインの役で出てこないのも、「この国は、重要なことは、政治家と官僚が密室で決めて、庶民には何も知らされず右往左往しているだけ」っていう、今の日本の縮図を見せられているようにも思えて…。そこには違和を覚えたんです。でもまあ、二度、三度見るうちに、シン(新)ナショナリズム映画とか、そういうことでもないな、と思い直したんですが、そういう誤解を生むきわどさはある。
鈴木 そういう解釈の方向性をどう扱うのかということについて、相当腐心されたんじゃないかというのは思いました。ゴジラ映画は右へ行っても左へ行っても失敗なのだ、という碑を作ったと思うし、僕自身もそうしてほしかったなと。何があっても、「娯楽映画じゃん、これ」っていう。思惑みたいなことではなく、対象化させて楽しめるものを作れたことが、ひとつ、大きかったなあと思います。僕も3.11の後、ゴジラ映画を作った方がいいし、観たい!ってずっと思ってきたので。
高橋 ラストでゴジラの放射能の半減期が短いってことに、映画評論家の千浦(僚)さんは引っかかってたみたいだね。
篠崎 僕も引っかかりました。一応あれはゴジラの中にある「新しい物質」だという設定ですけど、それでも避難民360万人がそう簡単に東京に戻れない方がいいんじゃないかと思いました。フィクションであっても東京都民も東京から一生離れて暮らさざるをえなくなった方が…。市川実日子さんの笑顔は良かったですけどね。あれは…好意的に解釈すれば、ある種の希望なのかも、とも。高橋さんはどうなんですか?
高橋 僕は千浦さんに「どう思います?」って聞かれて「どうでもいいんじゃない?」って答えました。だって映画はもう終わってるから、僕にとってはどうでもいいんです。
一同 (笑)
篠崎 うーん…そうなんですかねえ…。
高橋 でも考えたらゴジラって、あの後もあそこにずっといるんだよね。どうするんだろう。昔の『キングコング対ゴジラ』(62年)みたいに、ヘリで網を吊って、ぐーって持ち上げて、海に捨てればいいのにとかって思うんだけど、それはダメなの?
鈴木 そうか、吊ればいいんだ。
篠崎 国際的な不法投棄だからダメでしょう(笑)それより、3.11を経た表現ということについてはどうでしょう? 高橋さんはやはり、そんなことはどうでもいいですか?(笑)。
高橋 うん。あんまり影響受けてない。でも『シン・ゴジラ』は、こういう画期的なものを作れば観客は来るのだ、ということを証明してくれたので、すごく勇気づけられるんです。ただ、どの日本映画もこのテンションで作られたら、みんな過労死してしまいますよ。
一同 (笑)
鈴木 確かに、かなり命がけで作られているという印象を持ちました。庵野監督の、譲らなさというか。
篠崎 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q』(12年)は、黒澤明の『どですかでん』(70年)を思い出しました。映画としては全く似てないし、全然違いますよ。でも、あの映画、特にホームレスが子供を死なせてしまうエピソードなんて、『生きものの記録』とは全く違う形で黒沢さんの暗黒を反映している気がして。僕の友人の映画監督は「『どですかでん』の時、完全に黒澤はうつ病だったんじゃないかな」って言うんですが…。そう言うヤバさが、画面に滲んでいる。それで言うと、エヴァを操縦する人たちの、顔つきが尋常じゃなかったんです。歯を食いしばって、瞳孔がひらいたような目で…。実写だったら、俳優の演技でたまたまそうなりましたって言えるけど、あれをアニメーションで描く途方もない手間と労力を考えると…。だからこそ『シン・ゴジラ』は内面的なものを一切捨て、メロドラマ捨てて作りこむ!という姿勢がはっきりしていたけど、さらに命を削ったんじゃないかと思います。全然エヴァのリハビリになっていないと思う。
鈴木 次、やるんですかね、庵野さん。ゴジラ。
篠崎 東宝は作って欲しいでしょうけど。
鈴木 やらざるを得ないと思うんですよ。これだけ大ヒットしたら。作らない理由がないくらい。庵野さんというブランドありきのゴジラになっちゃったから。
篠崎 でも、さすがにすぐ来年ってことにはならないでしょう。アニメ版もあれば、ハリウッド版もまた作られるし。しかも、あそこから話を作ってもねえ……終わらせ方の問題もあるし。
鈴木 ほんとに吊って、海に投棄してもらいましょうか(笑)。
高橋 でもしっぽの先に、人間型の新たなゴジラが生まれつつあるんでしょう。ということは、羽根の生えたような人間たちがたくさん襲来するってことだよね。それはもはや、ゴジラじゃないよね(笑)。
篠崎 『エイリアン』から『エイリアン2』が生まれたように…。『シン・ゴジラズ』ってことになるのか。「現実対虚構 今度は戦争だ!」。「現実」には「ニッポン」ではなく、「セカイ」ってルビを振って。で、米軍と国連軍が今度こそ日本を核攻撃しようとしたら、ゴジラズが各国に散って飛来するので、もはや日本なんかに構っていられなくなる(笑)庵野さんがおやりにならないなら、個人的には塚本晋也さんの『ゴジラ』が見たいです。ご自身も同じ役で再登場していただいて。対戦相手の怪獣に関してアイデアがある、と言われていたから、今度は壮絶なバトル物に。
高橋 あるいは東宝の伝統的な力を使って、東京駅で固まってるゴジラに対して平然と、キングギドラを襲わせるとかね(笑)。平然とそういうことをやるのが東宝のすごいところじゃないですか。ゴジラ映画の歴史って、大半はそれでしのいできたんだからね。
篠崎 それはそれですごいですけどね(笑)。
高橋 今回、新規にキャラ化できたゴジラと、ギャオスに匹敵するくらい怖い怪獣を対決させて、「平成ガメラ」みたいなリアリティの上で描けたら、これはこれで大娯楽になりそうな気がしますけどね。そうだ、今回やってないことの一つに海の怖さがありますよね。以前、僕が『ゴジラvsメカゴジラ』のプロットを依頼された時にこだわったのも海の怖さだったんですよ。最初に大戸島みたいな島嶼部が壊滅して、みんな次にいつゴジラが襲ってくるか判らないし、自衛隊の救助は間に合わないから、一か八かで漁船で脱出する。で、甲板から黒々とした夜の海をジッと見つめている。
篠崎 いいですねえ。息を潜めて暗い海を…。その海が怖いって感覚が『リング』に…。高橋さん、本当にブレないですね。一貫しているなあ。でもイチかバチかで漁船で脱出って最初の『日本沈没』でやっていましたね。結局津波に呑まれてしまって…。いっそ、シン・メカゴジラを出すというのは(笑)
鈴木 この世界観に「メカゴジラ」って成立するのかな。
篠崎 普通に考えたらダメでしょう。せっかく「スーパーX」をやめて、「プロジェクトX」で勝負したのに(笑)。でも高橋さんの考えたメカゴジラのプロットは面白いです。
高橋 宇宙から送られてきたロボットと対決するという。基本的に、ゴジラの形をしていないんですよ。攻撃してくる相手に合わせて変形するんです。最後にゴジラと対決する時に、ゴジラの形になる。
松井 それ、すごく面白そうですね。
高橋 そうだね、それなら、ちょっとメカニックなゴジラの完コピと戦わせることができる。
篠崎 最期はメルトダウンして終わるんでしたね。そして東京が死都になる…。でも、たとえ、ゴジラが襲って来なくても、僕たちはそういう可能性がゼロとは言えない世界で暮らしているんですけどね。 (2016/09/01)
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