【1】
映画美学校界隈に生息する人間をひっとらえて、最新映画について大いに語らう恒例座談会。この作品についてはぜひ、女子のみで催したいと編集担当は胸に決めていた。昨年、新宿武蔵野館で2週間のみレイトショー公開され、今年の2月に再び同館で上映されるという異例の人気ぶりを見せた『At the terrace テラスにて』。ブルジョワジーなパーティーの後で、なんとなくテラスに残った男女7人の会話劇である。「お前酔ってるの?」「酔ってないわよ」の牽制球。「あなたお綺麗よー」「そんなことないですあなたこそー」と熾烈なゆずり合い。そう、女たちは、熾烈にゆずり合うのだ。こういう光景、見覚えないですか。あるいは、身に覚えがないですか。それぞれにチョコ菓子を持ち寄って、こんな顔ぶれが集まった。
兵藤公美
1973年生まれ
1996年青年団入団 俳優として舞台を中心に活動。
2011年より映画美学校アクターズコースに講師として参加。
近年の出演は、演劇 「ソウル市民」「愛のおわり」
映画 「SHARING」「ジョギング渡り鳥」「ふきげんな過去」
鈴木智香子
1977年生まれ。青年団、有限会社レトル所属。近年は、アジア舞台芸術祭への参加や、フランス人ボイスパフォーマーと2度に渡って共同作品を制作し、出演とプロデュースも手掛ける。香川県善通寺市を活動拠点とする劇団サラダボールでの活動も多く、四国学院大学・市民劇『私たちの街の記憶』(3/18-19)では演出補として参加。
中川ゆかり
1984年生まれ。俳優・制作など。会社勤めと並行し、映画美学校アクターズ・コース1期高等科修了。映画『ジョギング渡り鳥』で出演のほか現場中から宣伝、公開後も走りまくる。見せる人・見る人双方の力で像が成長する芸術を志して引き続き走ってます。
映画美学校界隈に生息する人間をひっとらえて、最新映画について大いに語らう恒例座談会。この作品についてはぜひ、女子のみで催したいと編集担当は胸に決めていた。昨年、新宿武蔵野館で2週間のみレイトショー公開され、今年の2月に再び同館で上映されるという異例の人気ぶりを見せた『At the terrace テラスにて』。ブルジョワジーなパーティーの後で、なんとなくテラスに残った男女7人の会話劇である。「お前酔ってるの?」「酔ってないわよ」の牽制球。「あなたお綺麗よー」「そんなことないですあなたこそー」と熾烈なゆずり合い。そう、女たちは、熾烈にゆずり合うのだ。こういう光景、見覚えないですか。あるいは、身に覚えがないですか。それぞれにチョコ菓子を持ち寄って、こんな顔ぶれが集まった。
兵藤公美
1973年生まれ
1996年青年団入団 俳優として舞台を中心に活動。
2011年より映画美学校アクターズコースに講師として参加。
近年の出演は、演劇 「ソウル市民」「愛のおわり」
映画 「SHARING」「ジョギング渡り鳥」「ふきげんな過去」
鈴木智香子
1977年生まれ。青年団、有限会社レトル所属。近年は、アジア舞台芸術祭への参加や、フランス人ボイスパフォーマーと2度に渡って共同作品を制作し、出演とプロデュースも手掛ける。香川県善通寺市を活動拠点とする劇団サラダボールでの活動も多く、四国学院大学・市民劇『私たちの街の記憶』(3/18-19)では演出補として参加。
中川ゆかり
1984年生まれ。俳優・制作など。会社勤めと並行し、映画美学校アクターズ・コース1期高等科修了。映画『ジョギング渡り鳥』で出演のほか現場中から宣伝、公開後も走りまくる。見せる人・見る人双方の力で像が成長する芸術を志して引き続き走ってます。
——今日はお集まりいただきありがとうございます。お仕事で遅くなる中川さん抜きで、とりあえず始めてしまいます。まずは軽く、ご感想から。
兵藤 私は、すごく面白かったです。映画なんだけど演劇、という感じがして(※同作品は城山羊の会『トロワグロ』(2014)を映画化したもの。今回の監督である山内ケンジは、この作品で岸田國士戯曲賞を受賞している)。改めて舞台版の戯曲を見てみると、映画版と、ほぼ同じなんですよね。
兵藤 映画って、編集で空気感を作り出すことができるものだと思うんですね。芝居のテンポやリズム感はもちろん、たとえ同じ脚本であっても、恋愛ものにも文芸作品にも振り切ることができる。でも演劇はそれができなくて、そういう作業を担っているのは主に俳優だと思うんです。でもこの映画は、映画であるにもかかわらず、俳優がそれらを担っていて、俳優が空気感を変えていたなあと。突然変わる時もあるし、なだらかに、にょろーーっと変わっていく瞬間もあるし。俳優が映画のテンポを作り出していて。それを映画で観るっていうのは、なかなかない体験だなあと思いました。
——私は演劇作品が映画化されるたびに、具現化されてしまうことのちゃちさを感じることが多いです。ああ、そこでここに寄っちゃうのか!とか、そこはこっちの想像力を信じてくれよ!とか。巨大な化け物と戦うクライマックスを、豪奢なCGにされてしまったとたん、心の底からがっかりした経験があります。
兵藤 映画って2次元だから、セットと俳優が等価に映ると思うんですよ。背景の一部として。そうやっていろんなものが映っているから、お客さんはスクリーン上のいろんなところを観ている。でも演劇って、圧倒的に俳優を観るんですよね。セットと俳優は等価じゃない。そういう意味でも、この映画は演劇に近いのかなと思いました。俳優の出力がぜんぜん違う感じがして。
鈴木 私は舞台版を観てはいないんですけど、ぶっちゃけてしまうと、「あれ、この作品は舞台の方が面白いのでは……?」って思いながら観てました。そもそも、舞台を映画化するって何だろう、っていう思いがあったんですね。それでこの映画も最初のうちは、彼らがしゃべることが全部、言葉が浮いていって文字で表示されているような感覚がずっとあって。いま公美ちゃんが言ったような「舞台のような映画」っていう感覚は、私は『ジョギング渡り鳥』(※映画美学校アクターズ・コース高等科第一期生の修了作品。鈴木卓爾がメガホンを取った)に強く感じたんです。それを踏まえて考えると、やっぱり『At the terrace〜』はどう考えても演劇の方が面白いはずだ、と思えてきて。
——例えば、どういったあたりで?
鈴木 演劇だと、テラスと室内を隔てるカーテンの向こうは、実際に目に見えないので、どんな風になっているのか想像するしかないじゃないですか。でも映画だったら、カメラはいくらでも動けるわけだから、カーテンの向こう側へ行けるはず。どうして行かないんだろう?行ったらいいのに!そっちが見たい!って思って。じゃあ徹頭徹尾、同じ距離から撮ってるのかというと、そうじゃない。たまにアップになったりする。だったら、あのカーテンの向こうが見たいよ!って思っちゃいました。これは一緒に行った人が言ってたんですけど、演劇は生身の人が現れて、観客と「今から嘘をやりますよ」「了解しました」っていう関係作りから始まるじゃないですか。でも映画はそういうお膳立てがないから、「ほんとに起きてることかも……」っていう前提から始まる感じがするんです。だから決してカーテンを超えないカメラアングルに、むしろ想像を阻まれたような気がして窮屈だった。これが舞台だったらほんとに、女同士の嫌〜な感じの、呼吸の変化とかが伝わって「ああもうひりひりする!」っていう感じだったんだろうなあ、それを味わいたかったなって思いました。
——わかる気がします。演劇は、舞台上にあるものが世界のすべて、みたいな前提の上で観ている気がする。
兵藤 映画って、お芝居が行われているその反対側では、ガンマイクを持ってる人がいたり、お化粧のパフを持ってる人がいたり、スーツ姿のマネージャーさんがいたり、何だかわからないけどエコバッグをいっぱい持ってる人がいたりするわけだけど(笑)、作品からはそれらは、みじんも匂わないじゃないですか。本当に起きてることのように見せるのが、映画。で、山内さんも、それをやろうと思えばできたと思うんですよ。カーテンを超えて、室内で交わされた会話を書き足して、「本当に起きてること」のように作ることはできたと思うんだけど、それを山内さんは、あえてしなかったんだろうなと。
鈴木 そう、それを、なんでしなかったんだろうと思って。
兵藤 私はそこが、「これは『本当のこと』じゃなくて映画ですよ」っていうことなのかなと思ったの。あくまで観察の対象というか。それを、私はエンディングで「なるほどー」って思ったんですけど。
鈴木 ああ。ムササビだ、ムササビ。
兵藤 そう。ムササビが出てきて、いきなりナレーターが「偶然撮れたムササビをご覧いただきながら俳優紹介です」っていう流れだったじゃない。私、イングマール・ベルイマン監督がすごく好きなんですよ。
鈴木 ベルイマン……(メモる)
兵藤 『ある結婚の風景』っていう、6時間のドラマがあるのね。映画も舞台も作れるベルイマンが、たぶんクドカンみたいに売れて、ドラマ作らせようってことになって、1時間のドラマを6本作った、みたいな企画で。それを、ベルイマンは、全編二人芝居でやりきったの。
鈴木 へえ、すごい!
兵藤 世間からは理想的と思われている、弁護士と大学教授の夫婦の本質がどんどん暴かれて、関係がどんどん崩れて、離婚するんだけど再会したりしながらとにかくしゃべりまくる、ちょっともう耐えられないくらいに壮絶なお話なの。でも1時間ドラマだから、毎回終わるたびに画面が変わって、ナレーションで「では、ノルウェーの△△島の美しい景色をご覧いただきながら、今日の出演者とスタッフを紹介します。マリアンヌ役、リヴ ウルマン」って。
鈴木 わあ!
兵藤 そういうドラマの終わり方に、観てる側はすごく救われるんです。何ともいえない「なーんちゃって!」感に。「これ、フィクションですけど、何か?」みたいな。『At the teracce〜』にもそういう一貫性があった。「この人たち、本当みたいだけど演技してますよー」っていうスタンス。軽やかだし、やりたいことがすごくはっきりしているなあって思ったんです。
鈴木 私は「これはムササビが見たお話なのかな」と思いました。だとしたらすごく納得できるなあって。カーテンの向こうにもいけないし。
——映画にはムササビが必要で、演劇には要らないのはなぜでしょう。演劇は「これはムササビの視点です」って言わなくても、観客はそういう視点で観るでしょう。
兵藤 約束事が違いますもんね。演劇で「ここはイタリアです!」って言われたら「イタリアだ!」って全力で信じ込むし(笑)。映画でそれをされると「イタリアごっこだなー」って思っちゃうけど。
——そういう違いに、俳優さんはどう対処されるんですか。
兵藤 お芝居自体はほとんど変わらないと思うんですけど、呼吸(テンポ)がちょっとだけ違う気がしますね。演劇って、俳優が見ているものを見るじゃないですか。あるいは、しゃべっている人を見る。照明がガイドしてくれたり。でも映画はその情報がじかに伝わってこないから、行動線が分解される感じがあります。
鈴木 わあ。難しいこと言った!
兵藤 演劇は、観客は俳優に集中しているから、たとえば「このお茶が飲みたい」と「お茶を手に取る」が同時でいいんだけど、映画の場合は「お茶を見る」→「取る」っていうふうに、行動をバラす感覚があるかな。ほんの一瞬だけ、タイムラグがある気がする。だから、映画の呼吸は、演劇より少し遅い気がします。
鈴木 それはちょっとわかる気がします。私は映画の出演経験が本当に少ないんですけど、映画ってマイクがすぐそばにあるから、呼吸を録られているっていう感覚がすごく強かったんですね。せりふを言う前に吸い込む小さな息さえ、録られているというような。だから映画の方が、呼吸をゆっくりていねいにしよう、って思ったことがあります。正しいのかどうかはわからないけど。
兵藤 あと、カメラと一緒に芝居する、みたいな感覚もあるかな。だって、ものすごい至近距離から撮られるでしょう。「今の芝居、カメラさんに伝わったかなあ」って思いながら芝居してます。
鈴木 ああ、そう思えばカメラにビビらなくて済むんだ!(メモる)
兵藤 前に、すごく忙しくしながら画面を横切るっていう芝居をした時に、「その早さだとカメラが追いつけない」って言われたことがあって。そうか、映画はカメラと一緒に芝居するんだ、と。カメラは、共演者だし相手役でもあるし観客でもある。すごい存在感ですよ。
鈴木 そう。その存在感に、たいてい私は負けてます(笑)。
兵藤 「いる!!」っていう感じがあるよね。「めっちゃこっち見てるよ!」って私も思うもん(笑)。
【2】
ここらで、今回の企画趣旨へと踏み入ろう。あの映画で、女たちが繰り広げていた「熾烈なゆずり合い」について。演劇の現場で、対等にものを創り合う劇団に籍を置く二人は、あの光景をどう見たのだろうか。
兵藤 なんというか……私も無自覚のうちにやってるのかもな、って思っちゃいました。
鈴木 (笑)
兵藤 やってないとは思いたいけど、そうは言い切れない。わからないな、って思いましたね。誰しも、誰かのことがうらやましいときってあるでしょう。それを自分の中でどう消化してどう表出させてるか、自分ではわからない。何かの拍子に言っちゃってるんじゃないかなと思って。私はどちらかというと毒っ気担当なので(笑)。ただ、それが、ユーモラスかどうかがすごく大事だと思ったな。愛を込めるか込めないか。
鈴木 すごくそう思う。
——そして、あそこで繰り広げられていたのは「私のほうが綺麗」ではなく、「あなたのほうが綺麗」という勝負だったでしょう。自分は憐れまれるべき存在であり、優劣で言えば「劣」なのだ、という主張。すごくそこに「女」を感じたんです。
兵藤 あれって実は「綺麗さ」というよりはその場の中心でありたい、っていう欲求で、それがねじ曲がった形で出てきてるのかな。だから、なんかさあ……ぶっちゃけられたらいいよね!って。「いいなあー!」「うらやましー!」って、言えちゃったら楽なのに!
鈴木 (笑)
兵藤 あの人たちは、それが言えなくてキツいんだろうな。どうして言えないんだろう。
鈴木 富裕層のプライド?
兵藤 プライドかあ。
——身近にそういう景色を見たことはありますか。
兵藤 そうですね……自分も無自覚にやってしまっているのかもしれない、という件については置いといて(笑)、演劇周辺では、あんまり遭遇しない気がしますね。
鈴木 富裕層じゃないから(笑)。
兵藤 貧乏争いとかはありますね。いかに貧乏か合戦。
鈴木 演劇周辺の、特に女性は十中八九、持ってるものを褒められると「いや、安かったの安かったの!」って言うっていう説を聞いたことがあります。褒められると、否定する習性がある。
兵藤 ある!なんでだろう!
鈴木 「そうでしょ、いいのよー」って言っちゃうと、自慢になるから鼻につくでしょう。
兵藤 そうか。だから演劇周辺では、マウンティングとか起きづらいのかも。基本的に私たちって、作り手から選ばれる立場じゃないですか。オーディションとかで、優劣をはっきりと思い知らされる仕事。もちろん選ばれたら嬉しいし、勝負で言ったら「勝ち」なんだけど、でもそれを上回るくらい、回数的には負けてきてるから。そこで妙に劣等感をくすぶらせてたり、「私の方が上なのに!」とか思ってちゃ、やっていけないんですよ。
——「こんなにこっぴどく落とされた!」自慢になったりは、しませんか。
兵藤 自慢っていうか、なぐさめ合ったり、痛みを分け合ったりする感じはあるかも。それでお互いに「私たち、すごいよね!」って称え合うという(笑)。
鈴木 あと、私たちは劇団員だから、ある作品にキャスティングされなくても、次回以降にまた一緒に芝居を作る可能性があるわけですよ。内心「くっそー!」って思ってても、励まし合いながらやっていった方が、自分も周りも幸せっていうのはあるかもしれませんね。
兵藤 だから、(中川)ゆかりさんとかは、また違う実感を持っているのかもね。
——あと、女には、「私が一番可愛そう」という名の悦楽がある気がするんです。「私が一番可愛そうだと思いたい!」という欲求が。
兵藤 たしかにそうかもね。「悲しみの中にいたい」みたいな気持ち。ある飲み会で、「私たちは同じぐらいブスだ」という認識の中にある女子二人のうち、片方がみんなに注目されだすと、もう片方は自虐に走るっていうパターンがありましたね。「私の方がブスなんだから!」とアピールのごとく、ものすごく醜く鶏を食らうという(笑)。
鈴木 自分のキャラを守るっていうのは、たしかにありますよね。自分で上乗せしちゃう感。
兵藤 あとはやっぱり、富裕層だからじゃない?(笑) 時間とお金に恵まれて、平坦な人生を生きてたら、多少の悲しみがあった方が生きてる実感あるでしょう。人はやっぱり、変化したいじゃない。「つらいって、いいなあ!」っていう感じがあるかもね。
鈴木 私は『サド侯爵夫人』をすごく思い出したんです。「あたくし本当につらいの、もうダメ、苦しいの!」「何言ってるの、あたくしの方がよっぽどつらくて苦しいわよ、だって考えてもごらんなさいよ!」ってずーーーっと言い合ってる女たち。
兵藤 そしてあの人たちも金持ちだ(笑)!『トロワグロ』の戯曲本を見たら、ト書きに細かく指定されてるんですよ。はる子さんは「ミウミウのノースリーブのワンピース」を着てらっしゃるって。
兵藤 あと、和美さんは、「シャネルの胸のあいたドレス」って。
鈴木 だから「ちょっと今日はこういう趣向で、悲劇のヒロインを楽しみませんこと?」みたいなプレイなんじゃないですか。翌朝にはもう二人とも、けろっとしていて。
兵藤 そうね。私たちの、想像もつかないようなスパに行ったり。
鈴木 だからこの映画を富裕層の人たちが観たら、どう思うんだろうと思って。「やだ、これ、あたし……!」ってなるのかな。
兵藤 すごいね。金持ち、すごいねえ!
鈴木 完全にイメージでしゃべってますけど(笑)。
兵藤 そうだ。あのね、私の身の回りで起きることについて、ひとつ聞きたいことがあるんですけど。
鈴木 ほうほう。
兵藤 電車の中で、隣に座ってる人が、スマホ見ながらピッポピッポしてるのね。
鈴木 まあ、今時のスマホは「ピッポ」とは言わないですけれども(笑)。
兵藤 そしたら、その人の肘が、私の肘の上に乗っかるの。
鈴木 どういう状態?
兵藤 こういう状態。
兵藤 こういう状態になると、私はそうっと自分の肘を、その人の肘の上に置き直すんですけど、これはマウンティングですか?
鈴木 (爆笑)
——相手の性別はあまり関係ない?
兵藤 いや、だいたい男性ですね。幅ばっかり取ってゲームしてる。いろいろあるんでしょうね、肘の具合が。
鈴木 わー。その戦い、見たいわー(笑)。
——肘を上に乗っけられた瞬間の、気持ちの動きってどんなですか。
兵藤 乗っけてきた相手が、私の存在をまったく無視しているのを感知した瞬間に、何かが動き出しますよね。「隣に人間がいるんだよ……!」っていう主張が。
鈴木 最終的に、どうなったら勝ち?
兵藤 物理的に、上に乗せた方が勝ち。
鈴木 そこから攻防戦になったりは?
兵藤 それは、さすがにないかなあ。……あと、もう一つ思い出した。駅のホームでせっかく整列してるのに、電車が来てドアが開いたとたん、後ろから追い越して乗り込んでいく人がいるのは、マウンティングですかね。私はすごく、マウンティングされた気持ちになるんですけれども。
鈴木 あー。ありますね。
兵藤 自分が座ってても、そういう光景を見たりするじゃない。追い越された人の顔が、ものすごいことになっていて。
鈴木 ひー。怖いーー。
兵藤 電車の中は、戦いですよ。入り口に立ったまま、頑として動かない人とかね。でも、他の人は気づかないんですよね。みんなスマホを見てるから。
鈴木 私はほとんど電車に乗らないからなあ。それに争いごとの気配があると、すぐ逃げちゃうたちだから。
兵藤 うん。逃げるが勝ちだよね。
兵藤 そうやって戦いの渦中にある時、「恥ずかしさ」って発動しないのかなあって思う。和美さんたちの攻防も、一般人から見たらちょっと恥ずかしいじゃない。でも平気なのかな、お金持ちだし。
——恥ずかしさの種類が違うのかなと思いました。恥ずかしいと思うことの種類が違う。二の腕をぷるぷるさせるところとか、必死じゃないですか。
兵藤 しかも、誰も止めない(笑)。
鈴木 めんどくさいんでしょうね。この人たちはこういう人たちなのだから、やりたいだけやらせておけ、みたいな見解なのかもしれない。一応、止めはするけど、どうせ止まらないだろうし。だったら行くところまで行ったらいいよ、という。
——そして和美さんは、ぷるぷるの二の腕をさらしてまでも、守りたい何かがある気がするんです。
兵藤 それはでも何だか、気持ちがわからなくもないですよ。集団の中で、誰かが中心になった時に生まれる、「自分は蚊帳の外にいるんじゃないか」という不安。誰しも、抱いたことがあるじゃないですか。そこまではわかる。でも、ああいう感じにはしないですよね(笑)。だから、ある意味、和美さんはすごく素直な人なのかもしれない。強さなのかもしれないですね。普通は、踏みとどまるじゃないですか。あそこまでじたばたしてみせることを。「恥ずかしい」っていう気持ちが働くから。でも私、80歳くらいの女性と知り合いなんですけど、「あなたには負けないから!」みたいなことを普通に言われますよ。「あなたよりも私の方が、ここはすごい!」とか「あの人はばあさんに見えるけど、私は80歳に見えないって言われる!」とか。それを、生命力と呼ぶのかもしれないですけどね。
【3】
ここで、仕事終わりの中川ゆかりが到着。アクターズ・コース高等科第1期修了作品『ジョギング渡り鳥』(鈴木卓爾監督)でひたむきに走っていたヒロイン像が記憶に新しい。ほぼ入れ替わりで京都へ向かう予定だった兵藤が、彼女の顔を見たとたん、「やっぱりゆかりさんと話したいことがある!」とスマホ片手に乗り換え検索に勤しむ。「うん。あと30分ぐらい大丈夫!」。頼もしいひと声と共に、後半戦のスタートだ。
兵藤 今、和美さんとはる子さんのやりとりについて今話してたんだけど。智香子と私は同じ組織の中にいるから、「そこまでのマウンティングはあんまり見ないよね」っていう話になったのね。自分の存在が危うくなる不安感とかはわからなくはないんだけど、それを相手にぶつけずにいられないという衝動については、あんまり心当たりがない。でもゆかりさんは会社勤めをしているから、こういうことの心当たりが……
中川 (即答)めっちゃくちゃありますよ。過去に在籍した女性の方が多い会社で、誰かを「ターゲット」にするみたいな、特定の人に対して、例えば情報の制限をしたりダメな人扱いしたりすることはありました。
兵藤 「いじられてる」とは違うの?
中川 違うんですよ、「この人はちょっとダメだから」っていうのを、周りに対して周到に知らしめるみたいな感じで。今思うと集団の中に、そういう人を置かずにはおれなかったのかもしれない。階層を作るっていうか。
兵藤 マウンティングとハラスメントって、とても近いけど、でも何だろうね、「マウンティング」の方が明るい感じがするのは。
一同 (笑)
兵藤 『At the terrace〜』もさ、「腕が白い」っていうちっちゃーーいことで優劣争ってるでしょう。「白いわよ!」「綺麗だわよ!」って。
中川 可愛いですよね。
兵藤 そうなってきたら、もう楽しいわ。
鈴木 楽しい!
兵藤 「殺される!」感がないじゃない。
中川 ないですね。悲壮感がない。
兵藤 でも気をつけなくちゃいけないなと思うのは、人って年齢を重ねるとどうしても、経験則とか価値観が出来あがっていくじゃない。それを、相手に押し付けてしまうっていうことは、ある気がする。演劇の作り方にしても、自分がやってきた作り方とは違う若い人に出会った時に、「それは違う!」「演劇の作り方って、もっとこうでしょ!」って言いたくなったり、しなくもないもん。だから、ちょっとドキっとした。フラットさを保つのって、年々、難しくなっていくでしょう。そんなこと、ない?
鈴木 ある、ある。いつでもそうなれちゃう可能性が、多かれ少なかれ、あると思う。
兵藤 私は学生と関わったりもしているから、常に意識的に、自覚的にフラットでいないといけないなあって今思った。若い時って、なんにもできない分、すべてを「そっかあ!」って受け止めるじゃない。ダメ出しされても、いちいち自己否定に陥らずに「なるほどー!」みたいな。でもある程度自分の演劇観が出来ちゃってる人は、それができないって聞いたことがあって。
中川 私は舞台経験がほとんどなくて。小劇場にめっちゃ出たことのある子とワークショップに行った時に、すごく明るいしいい子なんですけど、とてもさりげないながらも「あたし舞台にいっぱい出てるから」ってやたら言うな、と。
一同 (爆笑)
中川 メンバーの中で映画畑は私ひとりで、他の子はみんな演劇畑だったのもあって、私がその台詞をキャッチしたってことかもしれないんですけど(笑)。
兵藤 でもそれも、ちっちゃーーいことだよね(笑)。自慢って、嫌だけど、めでたいなって思う。自慢と愚痴を聞くのなら、自慢を聞く方がいいような気がする。「そっかあ、それが言いたいんだねー」「やっすいなあー」って、心の中で馬鹿にしてるけど。(笑)。
中川 10代とか20代くらいの頃の方が、マウンティングがひどかった気が私はしますね。自分で制御ができないから、ああいう衝突があった気がする。
兵藤 思春期ねえー。たしかに、もじゃもじゃしてたわ。子どもだからこその残酷さね。
中川 グループとか。スクールカーストまでは行かなくても、特定の相手に対するちょっとした優越感みたいなものが、あったなあと。
兵藤 そう考えると和美さんは、まだ子どものままなのかもね。
中川 例えば女子校育ちで、学校を出てからも外で働いたことがなくて、社会へ出たことがないまま結婚していれば、学校のルールとかヒエラルキーを引きずってしまうかもしれないですよね……って、そろそろ公美さんの時間が気になるんですけど。
兵藤 うん。そろそろ、出ないと。……あー。楽しかったなあー! またやりましょうね。ありがとうございました!(退場)
——では改めて、中川さんの感想を聞きたいんですが。
中川 面白かったですよ。「フィクションですよ!」「お芝居やってます!」っていうのを隠さずに、時間とか状況を作っていくのが、単純にすごいなあと思いました。俳優の力量を観たぜ!と。で、この映画を観たって言う俳優が周りにすごく多いので、一般のお客さんがこの映画をどう捉えるのかなというのはとても気になります。映画的リアリズムとは違う種類のお芝居を、どんな層の人たちが、どんなふうに捉えて面白がっているのかがとても気になります。
鈴木 私、この映画にはあんまり乗れなかったんですね。でも交わされている会話はとても秀逸で、戯曲がとても優れているのがよくわかる。でも……何だろうなあ、やっぱり演劇で観た方が面白かったんじゃないか、という思いが拭いきれなくて。
中川 あの映画の、俳優たちが「フィクションを作りにいってる感じ」にどう乗ったらいいのか、私も序盤は少し迷いました。でもすべてが緻密に積み重ねられていくのを観て、純粋に「すごいな!」って思いましたね。話がどう転がるかは、途中からわりとどうでもよくなってしまって、「なるほど、こうやって笑いに持っていけるんだな!」みたいなことを思いながら。「名人芸」を観るみたいな安心感でしたね。落語を聴く面白さに近かった。戯曲も出ハケも俳優陣も、技術を観てきた!っていう満足度がとても高かったです。書いてあることを自然に見えるようにやるのではない、ということが明確にわかる。「狙ってやってます!」感というか。芝居って、リアリズム的な表現であろうがなかろうが、観てる人が信じられればいいじゃないですか。中途半端なことをするより振り切った方が遥かに面白い。だから、やっぱこの人たちすげーな!って、俳優としての向学心を刺激される感じでした。「映画を観る」のとは違う種類の満足感でしたね。
鈴木 うん、うん。
中川 私は今まで、目の前の人のことだけに集中するというよりは、自分の視点をガーンって引いて全体像を見渡した中で、誰かが出ていったり入ってきたりっていう、人も物も「もの」として「等価であること」をより面白がってきたんですね。でもこの映画に関しては完全に、まぎれもなく俳優たちが人間同士でアンサンブルを起こしていて、これってどうやったんだろう、やっぱりすごく稽古したんだろうな、演劇すげー……!っていう感じでした。明らかに、私がなかなかやれたことがない何かを観ているという感じ。
——やれるようになりたいですか?
中川 今「俳優レッスン」(※アクターズ・コース修了生による自主ゼミ)をやっているので、次回の目標はああいう「意図的にやる」ことにトライしてみようかと。相手役と一緒に、ちゃんと狙って状況を作っていくっていう——いや、すごく普通なことだと思うんですけど。いやむしろ俳優なら「できなきゃ」ってことだと思うんですけど、でも美学校にいた頃の自分には、それは「その場に面白いことが起きる/を起こすための準備」とイコールではなかったので、そこに強いモチベーションを感じてなかったんです。それが、今回はっきり実物を見せられたので、「ああ、こういうことか!」ってしみじみ思っているところです。
鈴木 私、この映画のお芝居が、ずっと気恥ずかしい感じがしていて。この映画で山内さんは何をやりたいんだろう?っていうことをずっと考えながら観てたから、大きい芝居が出て来るたびに、どこか空々しいというか、ざわっ、としてしまって。あの芝居が映像になっていることが、ずっと不思議だった。
中川 たしかに。不思議ですよね。映画にする必然性は、たぶん、ないですよね。
鈴木 そう。それでも、やってみた。っていうことなのかな。あの映画は『トロワグロ』の公演が終わってすぐ、あまり間を開けずに短期間で撮ったそうなんですね。純粋に楽しかったんだろうなあと思うんです。黙っててもせりふが出てくる感じとか、お客さんの前でやりきった高揚感とか、芝居が身体に馴染んでいる状態のままで、映画を作るっていうのはどんな感じだったのだろう。
中川 映画のアフタートークでマルチカメラを使ったと言っていたので、今回の俳優たちはきっとカメラの存在を気にせずに演じていたのではないかと。カメラへの意識がないのか、あるいは、だいぶ外に置いている感じがした。観客に「見せる」意識の持ち方・アウトプットの違いっていうか、そのちぐはぐはありますよね。映画の見せ方をしていないから。
——面白い。俳優が観ると、そういうふうに見えるんですね。
中川 あんまり、物語的な展開という意味での内容についてどうこうっていうのは思わなかったです。
鈴木 そうですね、そうです。
中川 マウンティングとかも、もちろん面白かったけど……ああいうマウンティングだったら、後腐れなくてよさそうですよね。ガツン!とぶつかって、「じゃ!」って帰る(笑)。普通はあんな盛り上がり方、ないですよね。みんな終息する方を選ぶでしょう、普通は。
鈴木 揚げ足を、あげて下げてまたあげて、っていうね(笑)。
中川 智香子さんは、ああいうことが起こった時、どういう立場に立ちます?
鈴木 私は、争いごとが大嫌いなので。
中川 あ、わかる(笑)。
鈴木 これはふっかけられてるな、と思っても、ふっかけられていないように振る舞います。自分がすごく怒っているのがわかっても、それを表に見せないことに全力を尽くす。
中川 我慢できない!っていう時は?
鈴木 1年に1回あるかどうかくらいで、キレることはあります。すごい低いトーンで、じとーーーっと。淡々とキレます。
中川 私も、本当に争いごとはただひたすら避けたいんですけど。でも我慢がわりときかない方なので、相手によっては、出す時は出します。でもこの映画の女性陣って、かしこいじゃないですか。相手が嫌であろうことを、あえて戦略的に言っていくみたいな。ああいう器用な応酬はできないので、「今のはないでしょ!」ってストレートにぶちキレて、手がつけられない人になります(笑)。
鈴木 ほんと、根気強いと思いますよ、あの人たちは。あと、集中力。そこに費やす労力は、ちょっともう……ねえ。
中川 よっぽどですよね。
鈴木 そう、よっぽど楽しんでるようにしか見えないですよね。
中川 でもずっと昔にさかのぼると、私はよく爆発をしていたんですよね。大学の時とかも……なんかどんどん思い出してきちゃったけど(笑)、今もすっごく謝りたい同級生がいるんですよ。最初、なぜか私を気に入ってくれて仲良くなったんですけど、その子の「いつも一緒にいよう」っていうある種の「女子っぽさ」に耐えられなくなってしまって、その子のことを下に見るようになったんです。相当ひどいことをしました。当時の私はぐちゃぐちゃしていて、最ーー悪でしたね。なるべく穏やかにかわす、みたいなことができるようになったのは、ごく最近のことです。
鈴木 ……言われてみればたしかに、大学の時の方が、あったかも。知識と知識で戦おうぜ!みたいなノリが私の周辺にはあって、「そんなことも知らないのか」「お前は何をやってるんだ」みたいな格付けに、巻き込まれてたな。思い出したな。
中川 イタいですよね。大学時代って。
鈴木 イタいですね。今が一番いい。周りの人たちとの関係っていうことで言うと。
中川 ほんとそう。年々、楽になる。
鈴木 私は、20代後半もキツかったな。一緒に芝居してた人たちが、どんどん売れていくのを見ると、すごく心がざわついてた。でも、それを表に出すのはカッコ悪いよなっていうプライドもあったし。
中川 私は、今は全然感じないんですけど、アクターズ・コースにいた頃、それがありましたね。同期の活躍に対して。初等科の修了公演に平田オリザさんの『カガクするココロ』をやったんですけど、同期の(永山)由里恵ちゃんと(古内)啓子ちゃんの出演時間が長くて、私の出番は後半ちょっとだけだったんですよ。単純に、その分量の差にすごいショックを受けて。1年間やってきてこれか!っていう。で、次に撮った『イヌミチ』(2014年、万田邦敏監督)で、私にアテ書きされていた役を由里恵ちゃんが演じたんです。またか!と思って、実際泣きました(笑)。
鈴木 うん。わかるよーー。
中川 その後も由里恵ちゃんはいろんな作品にめっちゃ呼ばれて活躍していて、今は「よかったよかった!」ってすごく思うんですけど、当時は得も言われぬ感情が。まあ、嫉妬なんですけど(笑)。自分は、ああはなれないのだと。
鈴木 わかります。わかりますわかります。
——どうやって、その気持ちから抜け出せたんですか。
中川 自分の得意分野とか、居心地のいい立ち位置とか、気に入られるポイントとか、仲良くなれる人とかに、ある種の傾向があることが納得できてきたんですよ。だから今は「人それぞれ居心地がいい場所は違う」って当たり前のことを受け入れられるようになった。
鈴木 ほんと、後から思い返すと、若かったなあ、って思いますよね。
中川 近いところしか見えないですからね。まだ視野が狭いから。
鈴木 劇団内オーディションとかで、やりたかった役がやれないと決まったら、昔は「もう、手伝いすらしたくない!」って思ってたんですよ(笑)。
中川 ある(笑)。
鈴木 今も悔しいことは悔しいんだけど、「なんでだろう?」「こういうことかな?」って、納得できる道筋ができてきたので……いや、でも、……でもつい最近……わあーーー!(何かを思い出している)
——どうされましたか。
鈴木 ある演出家がずっと私に、次回作の構想を話していて。「出演メンバーの1人として考えておいてもらっていいかな」って言われて「もちろん、いいよ!」って答えてたんですけど、後日、別の俳優さんから「あれ、スズキさん出ないんですか?」「共演するの楽しみにしてたのに!」って言われて。私は何にも聞かされていなかったから、その瞬間にものすごい速度で状況を察して「……あ、うん。出ないや」って平然と言ってる自分がすごくおかしくて(笑)。それが、まだ、1〜2年ぐらい前の話です。演出家は、くれぐれも言葉に気をつけてねと言いたいです。
中川 ありますね。演出家や監督の何気ない言葉に一喜一憂してしまうことが。
——面白いな。俳優さんの生態。
中川 でも私たちは比較的、落ち着いたタイプじゃないかと思います(笑)。少なくとも、私がやりたいこととかいたい場所って、同期のそれとは違うらしいんですよ。だから嫉妬されることとかも、あんまりない気がする。
鈴木 なるほどー。
中川 智香子さんは、何かありますか。やりたいこととか、いたい場所が。
鈴木 そこが今、一番問題なんですよ。身体を使う、ということに興味が行っているけど、じゃあいきなりダンスを習うっていうのも違う気がするし。あと、今年私は40歳になるんですけど、平田さんの戯曲に40代の女性ってあんまり出てこないんですね。さらに、同世代の作り手がちょっとずつ、創作の道からリタイヤしていくのを見ていると、じゃあ私はどこへ行けばいいのか、自分で「場」を作るしかないのではないか、みたいなところに踏み込み始めてます。そのためのノウハウは、青年団で身につけてはいるけれど、それとはまた違った次元で「外」に出ないとな、と思い始めていますね。と言いながらもすごく人見知りなので、がんがんオーディション受けるぞ!っていう感じにはならないんですけど。
中川 同じです。
鈴木 でも待ってるだけじゃ何も来ないのよ、っていうのも知っているんですよね。その匙加減で、自分をどういう場所に連れていくのか、真剣に考えないとな、逃げちゃだめだ!みたいな感じです。かっこよく言えば。
中川 いつまでも同じ場所にはいられないですもんね。内側からも、外側からも、変化は訪れますから。昔は能動的に「こうしてやろう!」って思わなくちゃいけないんだと自分を責めていたんですけど、だんだん力が抜けてきたというか、来た流れに流されてみよう、みたいな感覚が生まれてきたんです。訪れる変化を、あまり大仰にとらえずに、身を任せるというか。そうすると自然と、居心地のいい方向へ身体が向かっていく。
鈴木 やりたいことを、やりたいときに、やりたい人とやるのって、実はなかなか難しいじゃないですか。それだけやってたらただの趣味になっちゃうし、かといって、できないことをやろうとして無理をするのも違うし。じゃあ何をどうするの?っていうのを、今はずっと考えているところですね。(2017/02/24)
兵藤 私は、すごく面白かったです。映画なんだけど演劇、という感じがして(※同作品は城山羊の会『トロワグロ』(2014)を映画化したもの。今回の監督である山内ケンジは、この作品で岸田國士戯曲賞を受賞している)。改めて舞台版の戯曲を見てみると、映画版と、ほぼ同じなんですよね。
兵藤 映画って、編集で空気感を作り出すことができるものだと思うんですね。芝居のテンポやリズム感はもちろん、たとえ同じ脚本であっても、恋愛ものにも文芸作品にも振り切ることができる。でも演劇はそれができなくて、そういう作業を担っているのは主に俳優だと思うんです。でもこの映画は、映画であるにもかかわらず、俳優がそれらを担っていて、俳優が空気感を変えていたなあと。突然変わる時もあるし、なだらかに、にょろーーっと変わっていく瞬間もあるし。俳優が映画のテンポを作り出していて。それを映画で観るっていうのは、なかなかない体験だなあと思いました。
——私は演劇作品が映画化されるたびに、具現化されてしまうことのちゃちさを感じることが多いです。ああ、そこでここに寄っちゃうのか!とか、そこはこっちの想像力を信じてくれよ!とか。巨大な化け物と戦うクライマックスを、豪奢なCGにされてしまったとたん、心の底からがっかりした経験があります。
兵藤 映画って2次元だから、セットと俳優が等価に映ると思うんですよ。背景の一部として。そうやっていろんなものが映っているから、お客さんはスクリーン上のいろんなところを観ている。でも演劇って、圧倒的に俳優を観るんですよね。セットと俳優は等価じゃない。そういう意味でも、この映画は演劇に近いのかなと思いました。俳優の出力がぜんぜん違う感じがして。
鈴木 私は舞台版を観てはいないんですけど、ぶっちゃけてしまうと、「あれ、この作品は舞台の方が面白いのでは……?」って思いながら観てました。そもそも、舞台を映画化するって何だろう、っていう思いがあったんですね。それでこの映画も最初のうちは、彼らがしゃべることが全部、言葉が浮いていって文字で表示されているような感覚がずっとあって。いま公美ちゃんが言ったような「舞台のような映画」っていう感覚は、私は『ジョギング渡り鳥』(※映画美学校アクターズ・コース高等科第一期生の修了作品。鈴木卓爾がメガホンを取った)に強く感じたんです。それを踏まえて考えると、やっぱり『At the terrace〜』はどう考えても演劇の方が面白いはずだ、と思えてきて。
——例えば、どういったあたりで?
鈴木 演劇だと、テラスと室内を隔てるカーテンの向こうは、実際に目に見えないので、どんな風になっているのか想像するしかないじゃないですか。でも映画だったら、カメラはいくらでも動けるわけだから、カーテンの向こう側へ行けるはず。どうして行かないんだろう?行ったらいいのに!そっちが見たい!って思って。じゃあ徹頭徹尾、同じ距離から撮ってるのかというと、そうじゃない。たまにアップになったりする。だったら、あのカーテンの向こうが見たいよ!って思っちゃいました。これは一緒に行った人が言ってたんですけど、演劇は生身の人が現れて、観客と「今から嘘をやりますよ」「了解しました」っていう関係作りから始まるじゃないですか。でも映画はそういうお膳立てがないから、「ほんとに起きてることかも……」っていう前提から始まる感じがするんです。だから決してカーテンを超えないカメラアングルに、むしろ想像を阻まれたような気がして窮屈だった。これが舞台だったらほんとに、女同士の嫌〜な感じの、呼吸の変化とかが伝わって「ああもうひりひりする!」っていう感じだったんだろうなあ、それを味わいたかったなって思いました。
——わかる気がします。演劇は、舞台上にあるものが世界のすべて、みたいな前提の上で観ている気がする。
兵藤 映画って、お芝居が行われているその反対側では、ガンマイクを持ってる人がいたり、お化粧のパフを持ってる人がいたり、スーツ姿のマネージャーさんがいたり、何だかわからないけどエコバッグをいっぱい持ってる人がいたりするわけだけど(笑)、作品からはそれらは、みじんも匂わないじゃないですか。本当に起きてることのように見せるのが、映画。で、山内さんも、それをやろうと思えばできたと思うんですよ。カーテンを超えて、室内で交わされた会話を書き足して、「本当に起きてること」のように作ることはできたと思うんだけど、それを山内さんは、あえてしなかったんだろうなと。
鈴木 そう、それを、なんでしなかったんだろうと思って。
兵藤 私はそこが、「これは『本当のこと』じゃなくて映画ですよ」っていうことなのかなと思ったの。あくまで観察の対象というか。それを、私はエンディングで「なるほどー」って思ったんですけど。
鈴木 ああ。ムササビだ、ムササビ。
兵藤 そう。ムササビが出てきて、いきなりナレーターが「偶然撮れたムササビをご覧いただきながら俳優紹介です」っていう流れだったじゃない。私、イングマール・ベルイマン監督がすごく好きなんですよ。
鈴木 ベルイマン……(メモる)
兵藤 『ある結婚の風景』っていう、6時間のドラマがあるのね。映画も舞台も作れるベルイマンが、たぶんクドカンみたいに売れて、ドラマ作らせようってことになって、1時間のドラマを6本作った、みたいな企画で。それを、ベルイマンは、全編二人芝居でやりきったの。
鈴木 へえ、すごい!
兵藤 世間からは理想的と思われている、弁護士と大学教授の夫婦の本質がどんどん暴かれて、関係がどんどん崩れて、離婚するんだけど再会したりしながらとにかくしゃべりまくる、ちょっともう耐えられないくらいに壮絶なお話なの。でも1時間ドラマだから、毎回終わるたびに画面が変わって、ナレーションで「では、ノルウェーの△△島の美しい景色をご覧いただきながら、今日の出演者とスタッフを紹介します。マリアンヌ役、リヴ ウルマン」って。
鈴木 わあ!
兵藤 そういうドラマの終わり方に、観てる側はすごく救われるんです。何ともいえない「なーんちゃって!」感に。「これ、フィクションですけど、何か?」みたいな。『At the teracce〜』にもそういう一貫性があった。「この人たち、本当みたいだけど演技してますよー」っていうスタンス。軽やかだし、やりたいことがすごくはっきりしているなあって思ったんです。
鈴木 私は「これはムササビが見たお話なのかな」と思いました。だとしたらすごく納得できるなあって。カーテンの向こうにもいけないし。
——映画にはムササビが必要で、演劇には要らないのはなぜでしょう。演劇は「これはムササビの視点です」って言わなくても、観客はそういう視点で観るでしょう。
兵藤 約束事が違いますもんね。演劇で「ここはイタリアです!」って言われたら「イタリアだ!」って全力で信じ込むし(笑)。映画でそれをされると「イタリアごっこだなー」って思っちゃうけど。
——そういう違いに、俳優さんはどう対処されるんですか。
兵藤 お芝居自体はほとんど変わらないと思うんですけど、呼吸(テンポ)がちょっとだけ違う気がしますね。演劇って、俳優が見ているものを見るじゃないですか。あるいは、しゃべっている人を見る。照明がガイドしてくれたり。でも映画はその情報がじかに伝わってこないから、行動線が分解される感じがあります。
鈴木 わあ。難しいこと言った!
兵藤 演劇は、観客は俳優に集中しているから、たとえば「このお茶が飲みたい」と「お茶を手に取る」が同時でいいんだけど、映画の場合は「お茶を見る」→「取る」っていうふうに、行動をバラす感覚があるかな。ほんの一瞬だけ、タイムラグがある気がする。だから、映画の呼吸は、演劇より少し遅い気がします。
鈴木 それはちょっとわかる気がします。私は映画の出演経験が本当に少ないんですけど、映画ってマイクがすぐそばにあるから、呼吸を録られているっていう感覚がすごく強かったんですね。せりふを言う前に吸い込む小さな息さえ、録られているというような。だから映画の方が、呼吸をゆっくりていねいにしよう、って思ったことがあります。正しいのかどうかはわからないけど。
兵藤 あと、カメラと一緒に芝居する、みたいな感覚もあるかな。だって、ものすごい至近距離から撮られるでしょう。「今の芝居、カメラさんに伝わったかなあ」って思いながら芝居してます。
鈴木 ああ、そう思えばカメラにビビらなくて済むんだ!(メモる)
兵藤 前に、すごく忙しくしながら画面を横切るっていう芝居をした時に、「その早さだとカメラが追いつけない」って言われたことがあって。そうか、映画はカメラと一緒に芝居するんだ、と。カメラは、共演者だし相手役でもあるし観客でもある。すごい存在感ですよ。
鈴木 そう。その存在感に、たいてい私は負けてます(笑)。
兵藤 「いる!!」っていう感じがあるよね。「めっちゃこっち見てるよ!」って私も思うもん(笑)。
【2】
ここらで、今回の企画趣旨へと踏み入ろう。あの映画で、女たちが繰り広げていた「熾烈なゆずり合い」について。演劇の現場で、対等にものを創り合う劇団に籍を置く二人は、あの光景をどう見たのだろうか。
兵藤 なんというか……私も無自覚のうちにやってるのかもな、って思っちゃいました。
鈴木 (笑)
兵藤 やってないとは思いたいけど、そうは言い切れない。わからないな、って思いましたね。誰しも、誰かのことがうらやましいときってあるでしょう。それを自分の中でどう消化してどう表出させてるか、自分ではわからない。何かの拍子に言っちゃってるんじゃないかなと思って。私はどちらかというと毒っ気担当なので(笑)。ただ、それが、ユーモラスかどうかがすごく大事だと思ったな。愛を込めるか込めないか。
鈴木 すごくそう思う。
——そして、あそこで繰り広げられていたのは「私のほうが綺麗」ではなく、「あなたのほうが綺麗」という勝負だったでしょう。自分は憐れまれるべき存在であり、優劣で言えば「劣」なのだ、という主張。すごくそこに「女」を感じたんです。
兵藤 あれって実は「綺麗さ」というよりはその場の中心でありたい、っていう欲求で、それがねじ曲がった形で出てきてるのかな。だから、なんかさあ……ぶっちゃけられたらいいよね!って。「いいなあー!」「うらやましー!」って、言えちゃったら楽なのに!
鈴木 (笑)
兵藤 あの人たちは、それが言えなくてキツいんだろうな。どうして言えないんだろう。
鈴木 富裕層のプライド?
兵藤 プライドかあ。
——身近にそういう景色を見たことはありますか。
兵藤 そうですね……自分も無自覚にやってしまっているのかもしれない、という件については置いといて(笑)、演劇周辺では、あんまり遭遇しない気がしますね。
鈴木 富裕層じゃないから(笑)。
兵藤 貧乏争いとかはありますね。いかに貧乏か合戦。
鈴木 演劇周辺の、特に女性は十中八九、持ってるものを褒められると「いや、安かったの安かったの!」って言うっていう説を聞いたことがあります。褒められると、否定する習性がある。
兵藤 ある!なんでだろう!
鈴木 「そうでしょ、いいのよー」って言っちゃうと、自慢になるから鼻につくでしょう。
兵藤 そうか。だから演劇周辺では、マウンティングとか起きづらいのかも。基本的に私たちって、作り手から選ばれる立場じゃないですか。オーディションとかで、優劣をはっきりと思い知らされる仕事。もちろん選ばれたら嬉しいし、勝負で言ったら「勝ち」なんだけど、でもそれを上回るくらい、回数的には負けてきてるから。そこで妙に劣等感をくすぶらせてたり、「私の方が上なのに!」とか思ってちゃ、やっていけないんですよ。
——「こんなにこっぴどく落とされた!」自慢になったりは、しませんか。
兵藤 自慢っていうか、なぐさめ合ったり、痛みを分け合ったりする感じはあるかも。それでお互いに「私たち、すごいよね!」って称え合うという(笑)。
鈴木 あと、私たちは劇団員だから、ある作品にキャスティングされなくても、次回以降にまた一緒に芝居を作る可能性があるわけですよ。内心「くっそー!」って思ってても、励まし合いながらやっていった方が、自分も周りも幸せっていうのはあるかもしれませんね。
兵藤 だから、(中川)ゆかりさんとかは、また違う実感を持っているのかもね。
——あと、女には、「私が一番可愛そう」という名の悦楽がある気がするんです。「私が一番可愛そうだと思いたい!」という欲求が。
兵藤 たしかにそうかもね。「悲しみの中にいたい」みたいな気持ち。ある飲み会で、「私たちは同じぐらいブスだ」という認識の中にある女子二人のうち、片方がみんなに注目されだすと、もう片方は自虐に走るっていうパターンがありましたね。「私の方がブスなんだから!」とアピールのごとく、ものすごく醜く鶏を食らうという(笑)。
鈴木 自分のキャラを守るっていうのは、たしかにありますよね。自分で上乗せしちゃう感。
兵藤 あとはやっぱり、富裕層だからじゃない?(笑) 時間とお金に恵まれて、平坦な人生を生きてたら、多少の悲しみがあった方が生きてる実感あるでしょう。人はやっぱり、変化したいじゃない。「つらいって、いいなあ!」っていう感じがあるかもね。
鈴木 私は『サド侯爵夫人』をすごく思い出したんです。「あたくし本当につらいの、もうダメ、苦しいの!」「何言ってるの、あたくしの方がよっぽどつらくて苦しいわよ、だって考えてもごらんなさいよ!」ってずーーーっと言い合ってる女たち。
兵藤 そしてあの人たちも金持ちだ(笑)!『トロワグロ』の戯曲本を見たら、ト書きに細かく指定されてるんですよ。はる子さんは「ミウミウのノースリーブのワンピース」を着てらっしゃるって。
兵藤 あと、和美さんは、「シャネルの胸のあいたドレス」って。
鈴木 だから「ちょっと今日はこういう趣向で、悲劇のヒロインを楽しみませんこと?」みたいなプレイなんじゃないですか。翌朝にはもう二人とも、けろっとしていて。
兵藤 そうね。私たちの、想像もつかないようなスパに行ったり。
鈴木 だからこの映画を富裕層の人たちが観たら、どう思うんだろうと思って。「やだ、これ、あたし……!」ってなるのかな。
兵藤 すごいね。金持ち、すごいねえ!
鈴木 完全にイメージでしゃべってますけど(笑)。
兵藤 そうだ。あのね、私の身の回りで起きることについて、ひとつ聞きたいことがあるんですけど。
鈴木 ほうほう。
兵藤 電車の中で、隣に座ってる人が、スマホ見ながらピッポピッポしてるのね。
鈴木 まあ、今時のスマホは「ピッポ」とは言わないですけれども(笑)。
兵藤 そしたら、その人の肘が、私の肘の上に乗っかるの。
鈴木 どういう状態?
兵藤 こういう状態。
兵藤 こういう状態になると、私はそうっと自分の肘を、その人の肘の上に置き直すんですけど、これはマウンティングですか?
鈴木 (爆笑)
——相手の性別はあまり関係ない?
兵藤 いや、だいたい男性ですね。幅ばっかり取ってゲームしてる。いろいろあるんでしょうね、肘の具合が。
鈴木 わー。その戦い、見たいわー(笑)。
——肘を上に乗っけられた瞬間の、気持ちの動きってどんなですか。
兵藤 乗っけてきた相手が、私の存在をまったく無視しているのを感知した瞬間に、何かが動き出しますよね。「隣に人間がいるんだよ……!」っていう主張が。
鈴木 最終的に、どうなったら勝ち?
兵藤 物理的に、上に乗せた方が勝ち。
鈴木 そこから攻防戦になったりは?
兵藤 それは、さすがにないかなあ。……あと、もう一つ思い出した。駅のホームでせっかく整列してるのに、電車が来てドアが開いたとたん、後ろから追い越して乗り込んでいく人がいるのは、マウンティングですかね。私はすごく、マウンティングされた気持ちになるんですけれども。
鈴木 あー。ありますね。
兵藤 自分が座ってても、そういう光景を見たりするじゃない。追い越された人の顔が、ものすごいことになっていて。
鈴木 ひー。怖いーー。
兵藤 電車の中は、戦いですよ。入り口に立ったまま、頑として動かない人とかね。でも、他の人は気づかないんですよね。みんなスマホを見てるから。
鈴木 私はほとんど電車に乗らないからなあ。それに争いごとの気配があると、すぐ逃げちゃうたちだから。
兵藤 うん。逃げるが勝ちだよね。
兵藤 そうやって戦いの渦中にある時、「恥ずかしさ」って発動しないのかなあって思う。和美さんたちの攻防も、一般人から見たらちょっと恥ずかしいじゃない。でも平気なのかな、お金持ちだし。
——恥ずかしさの種類が違うのかなと思いました。恥ずかしいと思うことの種類が違う。二の腕をぷるぷるさせるところとか、必死じゃないですか。
兵藤 しかも、誰も止めない(笑)。
鈴木 めんどくさいんでしょうね。この人たちはこういう人たちなのだから、やりたいだけやらせておけ、みたいな見解なのかもしれない。一応、止めはするけど、どうせ止まらないだろうし。だったら行くところまで行ったらいいよ、という。
——そして和美さんは、ぷるぷるの二の腕をさらしてまでも、守りたい何かがある気がするんです。
兵藤 それはでも何だか、気持ちがわからなくもないですよ。集団の中で、誰かが中心になった時に生まれる、「自分は蚊帳の外にいるんじゃないか」という不安。誰しも、抱いたことがあるじゃないですか。そこまではわかる。でも、ああいう感じにはしないですよね(笑)。だから、ある意味、和美さんはすごく素直な人なのかもしれない。強さなのかもしれないですね。普通は、踏みとどまるじゃないですか。あそこまでじたばたしてみせることを。「恥ずかしい」っていう気持ちが働くから。でも私、80歳くらいの女性と知り合いなんですけど、「あなたには負けないから!」みたいなことを普通に言われますよ。「あなたよりも私の方が、ここはすごい!」とか「あの人はばあさんに見えるけど、私は80歳に見えないって言われる!」とか。それを、生命力と呼ぶのかもしれないですけどね。
【3】
ここで、仕事終わりの中川ゆかりが到着。アクターズ・コース高等科第1期修了作品『ジョギング渡り鳥』(鈴木卓爾監督)でひたむきに走っていたヒロイン像が記憶に新しい。ほぼ入れ替わりで京都へ向かう予定だった兵藤が、彼女の顔を見たとたん、「やっぱりゆかりさんと話したいことがある!」とスマホ片手に乗り換え検索に勤しむ。「うん。あと30分ぐらい大丈夫!」。頼もしいひと声と共に、後半戦のスタートだ。
兵藤 今、和美さんとはる子さんのやりとりについて今話してたんだけど。智香子と私は同じ組織の中にいるから、「そこまでのマウンティングはあんまり見ないよね」っていう話になったのね。自分の存在が危うくなる不安感とかはわからなくはないんだけど、それを相手にぶつけずにいられないという衝動については、あんまり心当たりがない。でもゆかりさんは会社勤めをしているから、こういうことの心当たりが……
中川 (即答)めっちゃくちゃありますよ。過去に在籍した女性の方が多い会社で、誰かを「ターゲット」にするみたいな、特定の人に対して、例えば情報の制限をしたりダメな人扱いしたりすることはありました。
兵藤 「いじられてる」とは違うの?
中川 違うんですよ、「この人はちょっとダメだから」っていうのを、周りに対して周到に知らしめるみたいな感じで。今思うと集団の中に、そういう人を置かずにはおれなかったのかもしれない。階層を作るっていうか。
兵藤 マウンティングとハラスメントって、とても近いけど、でも何だろうね、「マウンティング」の方が明るい感じがするのは。
一同 (笑)
兵藤 『At the terrace〜』もさ、「腕が白い」っていうちっちゃーーいことで優劣争ってるでしょう。「白いわよ!」「綺麗だわよ!」って。
中川 可愛いですよね。
兵藤 そうなってきたら、もう楽しいわ。
鈴木 楽しい!
兵藤 「殺される!」感がないじゃない。
中川 ないですね。悲壮感がない。
兵藤 でも気をつけなくちゃいけないなと思うのは、人って年齢を重ねるとどうしても、経験則とか価値観が出来あがっていくじゃない。それを、相手に押し付けてしまうっていうことは、ある気がする。演劇の作り方にしても、自分がやってきた作り方とは違う若い人に出会った時に、「それは違う!」「演劇の作り方って、もっとこうでしょ!」って言いたくなったり、しなくもないもん。だから、ちょっとドキっとした。フラットさを保つのって、年々、難しくなっていくでしょう。そんなこと、ない?
鈴木 ある、ある。いつでもそうなれちゃう可能性が、多かれ少なかれ、あると思う。
兵藤 私は学生と関わったりもしているから、常に意識的に、自覚的にフラットでいないといけないなあって今思った。若い時って、なんにもできない分、すべてを「そっかあ!」って受け止めるじゃない。ダメ出しされても、いちいち自己否定に陥らずに「なるほどー!」みたいな。でもある程度自分の演劇観が出来ちゃってる人は、それができないって聞いたことがあって。
中川 私は舞台経験がほとんどなくて。小劇場にめっちゃ出たことのある子とワークショップに行った時に、すごく明るいしいい子なんですけど、とてもさりげないながらも「あたし舞台にいっぱい出てるから」ってやたら言うな、と。
一同 (爆笑)
中川 メンバーの中で映画畑は私ひとりで、他の子はみんな演劇畑だったのもあって、私がその台詞をキャッチしたってことかもしれないんですけど(笑)。
兵藤 でもそれも、ちっちゃーーいことだよね(笑)。自慢って、嫌だけど、めでたいなって思う。自慢と愚痴を聞くのなら、自慢を聞く方がいいような気がする。「そっかあ、それが言いたいんだねー」「やっすいなあー」って、心の中で馬鹿にしてるけど。(笑)。
中川 10代とか20代くらいの頃の方が、マウンティングがひどかった気が私はしますね。自分で制御ができないから、ああいう衝突があった気がする。
兵藤 思春期ねえー。たしかに、もじゃもじゃしてたわ。子どもだからこその残酷さね。
中川 グループとか。スクールカーストまでは行かなくても、特定の相手に対するちょっとした優越感みたいなものが、あったなあと。
兵藤 そう考えると和美さんは、まだ子どものままなのかもね。
中川 例えば女子校育ちで、学校を出てからも外で働いたことがなくて、社会へ出たことがないまま結婚していれば、学校のルールとかヒエラルキーを引きずってしまうかもしれないですよね……って、そろそろ公美さんの時間が気になるんですけど。
兵藤 うん。そろそろ、出ないと。……あー。楽しかったなあー! またやりましょうね。ありがとうございました!(退場)
——では改めて、中川さんの感想を聞きたいんですが。
中川 面白かったですよ。「フィクションですよ!」「お芝居やってます!」っていうのを隠さずに、時間とか状況を作っていくのが、単純にすごいなあと思いました。俳優の力量を観たぜ!と。で、この映画を観たって言う俳優が周りにすごく多いので、一般のお客さんがこの映画をどう捉えるのかなというのはとても気になります。映画的リアリズムとは違う種類のお芝居を、どんな層の人たちが、どんなふうに捉えて面白がっているのかがとても気になります。
鈴木 私、この映画にはあんまり乗れなかったんですね。でも交わされている会話はとても秀逸で、戯曲がとても優れているのがよくわかる。でも……何だろうなあ、やっぱり演劇で観た方が面白かったんじゃないか、という思いが拭いきれなくて。
中川 あの映画の、俳優たちが「フィクションを作りにいってる感じ」にどう乗ったらいいのか、私も序盤は少し迷いました。でもすべてが緻密に積み重ねられていくのを観て、純粋に「すごいな!」って思いましたね。話がどう転がるかは、途中からわりとどうでもよくなってしまって、「なるほど、こうやって笑いに持っていけるんだな!」みたいなことを思いながら。「名人芸」を観るみたいな安心感でしたね。落語を聴く面白さに近かった。戯曲も出ハケも俳優陣も、技術を観てきた!っていう満足度がとても高かったです。書いてあることを自然に見えるようにやるのではない、ということが明確にわかる。「狙ってやってます!」感というか。芝居って、リアリズム的な表現であろうがなかろうが、観てる人が信じられればいいじゃないですか。中途半端なことをするより振り切った方が遥かに面白い。だから、やっぱこの人たちすげーな!って、俳優としての向学心を刺激される感じでした。「映画を観る」のとは違う種類の満足感でしたね。
鈴木 うん、うん。
中川 私は今まで、目の前の人のことだけに集中するというよりは、自分の視点をガーンって引いて全体像を見渡した中で、誰かが出ていったり入ってきたりっていう、人も物も「もの」として「等価であること」をより面白がってきたんですね。でもこの映画に関しては完全に、まぎれもなく俳優たちが人間同士でアンサンブルを起こしていて、これってどうやったんだろう、やっぱりすごく稽古したんだろうな、演劇すげー……!っていう感じでした。明らかに、私がなかなかやれたことがない何かを観ているという感じ。
——やれるようになりたいですか?
中川 今「俳優レッスン」(※アクターズ・コース修了生による自主ゼミ)をやっているので、次回の目標はああいう「意図的にやる」ことにトライしてみようかと。相手役と一緒に、ちゃんと狙って状況を作っていくっていう——いや、すごく普通なことだと思うんですけど。いやむしろ俳優なら「できなきゃ」ってことだと思うんですけど、でも美学校にいた頃の自分には、それは「その場に面白いことが起きる/を起こすための準備」とイコールではなかったので、そこに強いモチベーションを感じてなかったんです。それが、今回はっきり実物を見せられたので、「ああ、こういうことか!」ってしみじみ思っているところです。
鈴木 私、この映画のお芝居が、ずっと気恥ずかしい感じがしていて。この映画で山内さんは何をやりたいんだろう?っていうことをずっと考えながら観てたから、大きい芝居が出て来るたびに、どこか空々しいというか、ざわっ、としてしまって。あの芝居が映像になっていることが、ずっと不思議だった。
中川 たしかに。不思議ですよね。映画にする必然性は、たぶん、ないですよね。
鈴木 そう。それでも、やってみた。っていうことなのかな。あの映画は『トロワグロ』の公演が終わってすぐ、あまり間を開けずに短期間で撮ったそうなんですね。純粋に楽しかったんだろうなあと思うんです。黙っててもせりふが出てくる感じとか、お客さんの前でやりきった高揚感とか、芝居が身体に馴染んでいる状態のままで、映画を作るっていうのはどんな感じだったのだろう。
中川 映画のアフタートークでマルチカメラを使ったと言っていたので、今回の俳優たちはきっとカメラの存在を気にせずに演じていたのではないかと。カメラへの意識がないのか、あるいは、だいぶ外に置いている感じがした。観客に「見せる」意識の持ち方・アウトプットの違いっていうか、そのちぐはぐはありますよね。映画の見せ方をしていないから。
——面白い。俳優が観ると、そういうふうに見えるんですね。
中川 あんまり、物語的な展開という意味での内容についてどうこうっていうのは思わなかったです。
鈴木 そうですね、そうです。
中川 マウンティングとかも、もちろん面白かったけど……ああいうマウンティングだったら、後腐れなくてよさそうですよね。ガツン!とぶつかって、「じゃ!」って帰る(笑)。普通はあんな盛り上がり方、ないですよね。みんな終息する方を選ぶでしょう、普通は。
鈴木 揚げ足を、あげて下げてまたあげて、っていうね(笑)。
中川 智香子さんは、ああいうことが起こった時、どういう立場に立ちます?
鈴木 私は、争いごとが大嫌いなので。
中川 あ、わかる(笑)。
鈴木 これはふっかけられてるな、と思っても、ふっかけられていないように振る舞います。自分がすごく怒っているのがわかっても、それを表に見せないことに全力を尽くす。
中川 我慢できない!っていう時は?
鈴木 1年に1回あるかどうかくらいで、キレることはあります。すごい低いトーンで、じとーーーっと。淡々とキレます。
中川 私も、本当に争いごとはただひたすら避けたいんですけど。でも我慢がわりときかない方なので、相手によっては、出す時は出します。でもこの映画の女性陣って、かしこいじゃないですか。相手が嫌であろうことを、あえて戦略的に言っていくみたいな。ああいう器用な応酬はできないので、「今のはないでしょ!」ってストレートにぶちキレて、手がつけられない人になります(笑)。
鈴木 ほんと、根気強いと思いますよ、あの人たちは。あと、集中力。そこに費やす労力は、ちょっともう……ねえ。
中川 よっぽどですよね。
鈴木 そう、よっぽど楽しんでるようにしか見えないですよね。
中川 でもずっと昔にさかのぼると、私はよく爆発をしていたんですよね。大学の時とかも……なんかどんどん思い出してきちゃったけど(笑)、今もすっごく謝りたい同級生がいるんですよ。最初、なぜか私を気に入ってくれて仲良くなったんですけど、その子の「いつも一緒にいよう」っていうある種の「女子っぽさ」に耐えられなくなってしまって、その子のことを下に見るようになったんです。相当ひどいことをしました。当時の私はぐちゃぐちゃしていて、最ーー悪でしたね。なるべく穏やかにかわす、みたいなことができるようになったのは、ごく最近のことです。
鈴木 ……言われてみればたしかに、大学の時の方が、あったかも。知識と知識で戦おうぜ!みたいなノリが私の周辺にはあって、「そんなことも知らないのか」「お前は何をやってるんだ」みたいな格付けに、巻き込まれてたな。思い出したな。
中川 イタいですよね。大学時代って。
鈴木 イタいですね。今が一番いい。周りの人たちとの関係っていうことで言うと。
中川 ほんとそう。年々、楽になる。
鈴木 私は、20代後半もキツかったな。一緒に芝居してた人たちが、どんどん売れていくのを見ると、すごく心がざわついてた。でも、それを表に出すのはカッコ悪いよなっていうプライドもあったし。
中川 私は、今は全然感じないんですけど、アクターズ・コースにいた頃、それがありましたね。同期の活躍に対して。初等科の修了公演に平田オリザさんの『カガクするココロ』をやったんですけど、同期の(永山)由里恵ちゃんと(古内)啓子ちゃんの出演時間が長くて、私の出番は後半ちょっとだけだったんですよ。単純に、その分量の差にすごいショックを受けて。1年間やってきてこれか!っていう。で、次に撮った『イヌミチ』(2014年、万田邦敏監督)で、私にアテ書きされていた役を由里恵ちゃんが演じたんです。またか!と思って、実際泣きました(笑)。
鈴木 うん。わかるよーー。
中川 その後も由里恵ちゃんはいろんな作品にめっちゃ呼ばれて活躍していて、今は「よかったよかった!」ってすごく思うんですけど、当時は得も言われぬ感情が。まあ、嫉妬なんですけど(笑)。自分は、ああはなれないのだと。
鈴木 わかります。わかりますわかります。
——どうやって、その気持ちから抜け出せたんですか。
中川 自分の得意分野とか、居心地のいい立ち位置とか、気に入られるポイントとか、仲良くなれる人とかに、ある種の傾向があることが納得できてきたんですよ。だから今は「人それぞれ居心地がいい場所は違う」って当たり前のことを受け入れられるようになった。
鈴木 ほんと、後から思い返すと、若かったなあ、って思いますよね。
中川 近いところしか見えないですからね。まだ視野が狭いから。
鈴木 劇団内オーディションとかで、やりたかった役がやれないと決まったら、昔は「もう、手伝いすらしたくない!」って思ってたんですよ(笑)。
中川 ある(笑)。
鈴木 今も悔しいことは悔しいんだけど、「なんでだろう?」「こういうことかな?」って、納得できる道筋ができてきたので……いや、でも、……でもつい最近……わあーーー!(何かを思い出している)
——どうされましたか。
鈴木 ある演出家がずっと私に、次回作の構想を話していて。「出演メンバーの1人として考えておいてもらっていいかな」って言われて「もちろん、いいよ!」って答えてたんですけど、後日、別の俳優さんから「あれ、スズキさん出ないんですか?」「共演するの楽しみにしてたのに!」って言われて。私は何にも聞かされていなかったから、その瞬間にものすごい速度で状況を察して「……あ、うん。出ないや」って平然と言ってる自分がすごくおかしくて(笑)。それが、まだ、1〜2年ぐらい前の話です。演出家は、くれぐれも言葉に気をつけてねと言いたいです。
中川 ありますね。演出家や監督の何気ない言葉に一喜一憂してしまうことが。
——面白いな。俳優さんの生態。
中川 でも私たちは比較的、落ち着いたタイプじゃないかと思います(笑)。少なくとも、私がやりたいこととかいたい場所って、同期のそれとは違うらしいんですよ。だから嫉妬されることとかも、あんまりない気がする。
鈴木 なるほどー。
中川 智香子さんは、何かありますか。やりたいこととか、いたい場所が。
鈴木 そこが今、一番問題なんですよ。身体を使う、ということに興味が行っているけど、じゃあいきなりダンスを習うっていうのも違う気がするし。あと、今年私は40歳になるんですけど、平田さんの戯曲に40代の女性ってあんまり出てこないんですね。さらに、同世代の作り手がちょっとずつ、創作の道からリタイヤしていくのを見ていると、じゃあ私はどこへ行けばいいのか、自分で「場」を作るしかないのではないか、みたいなところに踏み込み始めてます。そのためのノウハウは、青年団で身につけてはいるけれど、それとはまた違った次元で「外」に出ないとな、と思い始めていますね。と言いながらもすごく人見知りなので、がんがんオーディション受けるぞ!っていう感じにはならないんですけど。
中川 同じです。
鈴木 でも待ってるだけじゃ何も来ないのよ、っていうのも知っているんですよね。その匙加減で、自分をどういう場所に連れていくのか、真剣に考えないとな、逃げちゃだめだ!みたいな感じです。かっこよく言えば。
中川 いつまでも同じ場所にはいられないですもんね。内側からも、外側からも、変化は訪れますから。昔は能動的に「こうしてやろう!」って思わなくちゃいけないんだと自分を責めていたんですけど、だんだん力が抜けてきたというか、来た流れに流されてみよう、みたいな感覚が生まれてきたんです。訪れる変化を、あまり大仰にとらえずに、身を任せるというか。そうすると自然と、居心地のいい方向へ身体が向かっていく。
鈴木 やりたいことを、やりたいときに、やりたい人とやるのって、実はなかなか難しいじゃないですか。それだけやってたらただの趣味になっちゃうし、かといって、できないことをやろうとして無理をするのも違うし。じゃあ何をどうするの?っていうのを、今はずっと考えているところですね。(2017/02/24)
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