『ゾンからのメッセージ』特集
高橋洋・鈴木卓爾・古澤健
(※ネタバレを避けたい方は観終えてから読んでください)
高橋洋と鈴木卓爾は、98年に古澤健が映画美学校フィクション科生時代に撮った『怯える』という映画で共演している。古澤によれば彼らは「VHSを送る謎の男と、受け取る通り魔」の役であったらしい。この二人が顔を合わせることは、映画人にとってはなかなかのことなのだということは、『ラブ&ピース』座談会で確認済みだ。今回はアクターズ・コース第二期修了作品『ゾンからのメッセージ』について、高橋洋と、監督の鈴木卓爾、製作と脚本の古澤健が、大いに語る。
高橋洋
脚本家・映画監督。7月に韓国のプチョン映画祭で『霊的ボリシェヴィキ』上映します。審査員もやります!
鈴木卓爾
映画監督・俳優。出演作『菊とギロチン』(瀬々敬久監督)が公開中、出演作『きらきら眼鏡』(犬童一利監督)が9月より全国で公開。最新監督作『嵐電』は2019年公開予定。
古澤健
映画監督・脚本家・プロデューサー。主な作品に『ロスト★マイウェイ』『making of LOVE』『今日、恋をはじめます』『ReLIFE リライフ』『一礼して、キス』など。8月1日より最新監督作『青夏 きみに恋した30日』が公開。
高橋洋・鈴木卓爾・古澤健
(※ネタバレを避けたい方は観終えてから読んでください)
高橋洋と鈴木卓爾は、98年に古澤健が映画美学校フィクション科生時代に撮った『怯える』という映画で共演している。古澤によれば彼らは「VHSを送る謎の男と、受け取る通り魔」の役であったらしい。この二人が顔を合わせることは、映画人にとってはなかなかのことなのだということは、『ラブ&ピース』座談会で確認済みだ。今回はアクターズ・コース第二期修了作品『ゾンからのメッセージ』について、高橋洋と、監督の鈴木卓爾、製作と脚本の古澤健が、大いに語る。
高橋洋
脚本家・映画監督。7月に韓国のプチョン映画祭で『霊的ボリシェヴィキ』上映します。審査員もやります!
鈴木卓爾
映画監督・俳優。出演作『菊とギロチン』(瀬々敬久監督)が公開中、出演作『きらきら眼鏡』(犬童一利監督)が9月より全国で公開。最新監督作『嵐電』は2019年公開予定。
古澤健
映画監督・脚本家・プロデューサー。主な作品に『ロスト★マイウェイ』『making of LOVE』『今日、恋をはじめます』『ReLIFE リライフ』『一礼して、キス』など。8月1日より最新監督作『青夏 きみに恋した30日』が公開。
古澤 高橋さんって、卓爾さんのことを、いつぐらいから知っていたんですか。自主映画時代。
高橋 えっ! そう言われてみれば……いつだろう。
鈴木 ほとんど『怯える』からじゃないでしょうか。
高橋 たぶん、『デメキング』(98年、今岡信治監督)ですね。すごく意識したのは。その時点で僕は卓爾さんのことを、俳優さんだと思ってました。「個性派俳優登場!」っていうふうに見てたので。それと強烈だったのはJRAのCM! ワンカット出てきただけでこいつ絶対ヤバいって判るボンボンが卓爾さんで、そいつが社長に就任するんで株主総会が騒然となる。ホントにワンカットだけなのに強烈だった(笑)。
鈴木 映画美学校で集まる人たちってやっぱり、もともと早稲田だったり立教だったり、なんとなく母体となる最初の集まりがあるじゃないですか。僕とか矢口史靖は東京造形大学だから、映画美学校への接点は全然なかったです。映画美学校が始まって、僕が役者として『怯える』で呼ばれるまでは。
古澤 東京造形大学には、映画サークルってあったんですか。
鈴木 ありました。僕が部長をしたりして。
古澤 傾向として、こういう作風が多い、みたいなのはありましたか。
鈴木 教員に、かわなかのぶひろ先生がおられたので、劇場用映画にはわりと背を向けて、実験映画を熱く見つめていましたね。映画のマテリアルの問題に迫るみたいな、そういう感じでした。普通のおさまりの良いドラマ映画を撮らない人達が造形大学出身者の中に若干居る原因は、かわなか先生であることを、僕と諏訪敦彦さんが証明してるかもしれません(笑)。もちろん、普通の劇映画を教える教員もおられたんですけどね。でも少なくとも僕は、シナリオが映画の下地にあるのだという認識もないまま、8ミリカメラを振り回すというのがはじめにありました。あとは、僕は静岡県西部の出身なので、浜松に「シネマ・ヴァリエテ」っていうシネクラブがあって、そこにいた平野勝之さんや園子温さんと、8ミリ映画を通した交流がありましたね。
高橋 『ラブ&ピース』の座談会でも話したけど、早稲田や立教の映画人たちと、平野さんや園さんたちとは、流派が違うみたいな感覚でいたんですよね。年齢的にはちょっと下ぐらいだったけれど、「感覚が違う人が出てきたな」という印象で見てたんですよ。
鈴木 私は東京に出てきた頃から、黒沢清さんをすごく意識していました。あと、万田邦敏さんの映画が「シネマ・ヴァリエテ」で上映されたりしたんですよ。だからどこかで、ゴダールみたいな映画作りも、意識できるところにはいました。一方で、役者として出た『痴漢白書』シリーズの現場で山岡隆資さんと知り合って、井川耕一郎さんが脚本を書いておられて。その頃「映画美学校」が立ち上がるんですよね。僕はうらやましく眺めてたんですけど、古澤くんが初等科の修了制作『怯える』で俳優として呼んでくれたので、そこでいろんな接点が生まれたんです。青山真治さんとか黒沢さんとか塩田明彦さんとか高橋さんとか、そんな人たちを短編映画の発表会場で垣間見て「すごいなー」って思ってました。
古澤 じゃあ、高橋さんは卓爾さんの監督作を観たのはずいぶんあとになってからですか。
高橋 そうなんですよね。
鈴木 『ゲゲゲの女房』(10年)ではないでしょうか。
高橋 いやいや、あれです、あれ。ええと……
鈴木 ああ、『鋼-はがね-』(06年)!
高橋 それ! 山本のやつ。
鈴木 そう、山本直樹くんという、今は黒沢組などの映画美術をやっている人がいるんですが、彼も古澤くんと同じく映画美学校1期生で、高橋さんの講義を熱心に受けていたんですよ。で、修了制作で彼が提出した企画が『鋼-はがね-』の原型なんです。後年、山本くんの脚本で、あの企画を撮ってくれないかという依頼が来たときは、Jホラー的な文脈にある作品を、僕が撮っていいのかっていう葛藤がありました。ちょっとした、「イズム」の違いがあるだろうなと思っていたので。
というのは、山本くんと話していると、映画美学校で何が教えられているのかが全部わかるわけですよ(笑)。「はがね」という怪物を扱う目線が、根本的に違う。僕なんかは怪物に対するシンパシーを、人間的にとらえようとしていたんですね。でも山本くんのシンパシーは、そこにはなかった。もっと得体の知れないシンパシーなんですよ。
高橋 あーー。
鈴木 ただ、説得力がすごくありました。映画的破壊力について。だからJホラーとはちょっと違った亜種が生まれた感じでしたね。3本のオムニバスで公開されたんだけど、長編にすべきじゃないかなあと思います。あの映画は強烈だったと、今でもツイッターとかで発見され続けているのを見かけますもんね。
◆
鈴木 で、「『はがね』の正体は何なの?」みたいな物言いが、今回の「ゾン」についても似ているところがあって。それを映画の中でわからせることに、あまり意味はないじゃないですか。そういうところには触れない方が全然面白い。っていうことが、今回も、うまく伝わるのかなって思ってるんですけど。
古澤 僕が人づてに聞いたのは、高橋さんが『ジョギング渡り鳥』とは違う感触を持ったらしい、っていうことなんです。
高橋 2014年末の映画美学校映画祭で、仮のバージョンが上映されたわけですよね。僕はその時に初めて観て、飲み会で盛り上がったんだよね。「これは面白い」と。
鈴木 盛り上がりましたねえ。
古澤 映画美学校映画祭バージョンの上映後、深谷フィルムコミッションの強瀬誠さんから、「『一歩カメラ』が使えるんじゃないか」という話をされたんですね。登場人物の「一歩」(高橋隆大)がビデオカメラを持って、地元の人たちにインタビューしてたんです。豪雪のあとの深谷の記録として、それを入れたらどうかという話が飲み会で出て。それにプラスして、2015年に追撮をしたんです。
鈴木 井の頭線車内のシーンと、いなくなった「田村」(川口陽一)がいた頃の回想シーン。
古澤 だからどんどん尺が伸びていって、一番長いバージョン、2時間半ぐらいまでなったんだけど、劇場公開に向けてはもっと削った方がいいんじゃないかということで、今のバージョンに収まったということですね。
鈴木 劇場公開するっていうことを、当初はあんまり意識してなかったですもんね。
古澤 最初のバージョンから、インタビューとかドキュメンタリーパートが増えた時に、根本的なコンセプトのギアチェンジがあったと思うんですよ。今回、試写を回していく中で、ほぼすべてのバージョンを観ている中川ゆかり(アクターズ・コース第一期修了生)さんが「一番好きだった、最初の感じに戻った」って言っていて。
高橋 それが、僕らも観たバージョン?
古澤 そうですね。
高橋 不思議なことに、今回、あの時とはだいぶ印象が違うんですよ。特に前半が。これは何が起きてるんだろう、って思ったんです。4年前に観た記憶もあいまいだから。でも後半に入ってからは「ああ、これこれ!」って思った。「確かに俺はこれを観た!」「この盛り上がりで、飲み会をしたぞ!」と。その時、強瀬さんもおられましたよね。
鈴木 僕がよく覚えているのは、その後も編集で大事にしていた言葉なんですけど、みんながお店のセットで本読みをしてる場面のことを、「あれがすごく腑に落ちた」って高橋さんがおっしゃったんですね。バックステージの場面と、ドラマの場面が交互にレイアウトされていくという構成が、あそこでようやく腑に落ちたと。
高橋 覚えてます。でも、その感じじゃない何かが、前半にあるなと今回思った。それはたぶん、「Bar湯」の比重が上がったからじゃないですか。あの空間が、すごく重要なことになってる。
古澤 高橋さんがご覧になった最初のバージョンでは、「Bar湯」の場面の後に、ワークショップや現場での映像が入ったりして、劇中の世界観に入り込むことを、ある意味、阻害していたんですよ。「今何を観ているのか」っていうレイヤーが、何重にも重なって、わかりづらかった。
僕が一番最初に、卓爾さんと深田晃司くんに見せたのは、僕が映画美学校生と作った自主映画『古澤健のMっぽいの、大好き。』(08年)だったんですよ。その作品も、劇中劇とメイキングをごちゃごちゃにして編集してたんです。僕が劇中で過去のフルサワ役を演じる音響の川口陽一に説教をたれてるシーンがあって、それをスタッフがにやにやしながら見てる姿をメイキングが撮ってて、それをシームレスに混ぜ込んで。だから『ゾン〜』の一番最初のコンセプトは、『ゾン〜』の劇世界があって、映画を撮ってる鈴木卓爾という監督がいて、その様子を撮ってる深田晃司がいて、それらがシームレスにまとまればいいな、っていうことだったんです。
鈴木 すごくわかりやすい。あの時は強烈に、真似しようと思ったもんなあ。
古澤 ただ、のちのち振り返ると、そのコンセプトは伝わりにくかったのかなと思ったんです。『Mっぽいの〜』の時は、僕という人間がすべてを統括して、すべての素材を俯瞰して見てたんですけど、今回、卓爾さんは、僕が書いた脚本の世界に集中されているので、メイキングの場面をどう「演じる」かみたいなことは、当然、考えてなかったと思うんです。
鈴木 シームレスには関われないって言う事に気づくのが大事でした。レイヤーの断層は、はっきりその痕跡を残すべきかなってその後思うようになって行きましたね。
高橋 僕は前半、「Bar湯」でのシーンの比重が大きくて、あそこに収斂していく映画だったんだ、という印象を今回初めて持ったんだよね。「結構、日本映画じゃん……!」っていう(笑)。お店の中で展開しているドラマも、けっこう日本の情緒の世界ですよね。最初はもっとドライな映画だっていう印象だったので、意外な思いがしました。
古澤 僕がもともと書いた脚本の狙いはそっちでした。
高橋 そうなんだね。
鈴木 もうひとつ、濃いコンセプトとしてあったのは、アクターズ・コース第二期生の修了作品として、映画を作っていく過程が作品になっていくという約束があったと思うんですね。
古澤 「越境する」ことが大きなテーマでもあったので、カメラの前と後ろ、本番とそうでない時、オンとオフ、すべての越境が盛り込まれているというのが当初の狙いではありました。だから、僕が書いたドラマパートはいわゆる劇中劇という位置づけだったし、それを非常に叙情的な物語として、僕は書いたんですよ。
高橋 二宮(唐鎌将仁)のところにやってきた一歩が、ある提案をするじゃないですか。そのやりとりが、この映画では二度繰り返されるよね。一度目は、二宮が大げさに笑うんだけど、卓爾さんが横から入ってきて、その笑い方について演出をつける。すると二回目は、ちょっと抑えめに笑うんだよね。そしたらバン!とカットが変わって、麗実(長尾理世)たちの寄りの画になる。フィクションがまた進行し始めるわけですよね。あの呼吸感がすごく心地よい。
鈴木 あっち行ってこっち行って、練習と本番を行き来する感覚が、だんだん狭まっていくのが、まさにあの場面です。あれは実は深田晃司監督のカメラなんですよ。
◆
高橋 僕自身がバックステージものが好きであることも関わってくると思うんだけど、昔の映画って、路上でゲリラで撮ってて、メインの俳優が手前で芝居してるんだけど、道行く人たちが完全に奥で見物しているじゃない。今のリアリティで言うと、とてもマズい状況なんだけど。
鈴木 マズいですね(笑)。
高橋 でもあの頃の人たちって、平然とキャメラを回してるでしょう。
鈴木 『君よ憤怒の河を渉れ』(76年、監督:佐藤純彌)とか、冒頭、高倉健が交番に呼ばれてしゃべってるのを、交番の窓から見物人が、こっちを見てるんですよね。
高橋 森崎東さんの『野良犬』も最後、新宿のアクションシーンなんかは、ずらーーっとギャラリーがいて、おかしなことになってるんだけど、かまわず撮ってる。遠景で見物している皆さんと、こっちで芝居をしている皆さんとの間に、違う時空が流れていて。此岸と彼岸みたいなことになってて、すごく不思議なものを観ている!っていう感覚があるんですよね。バックステージものをやる時には、それに近いものが出てこないと、面白くないんだという認識が僕にはあって。だから僕がバックステージものに求めているものと、カチッとノリが合った瞬間があったから、僕は「腑に落ちた」って言ったのかもしれない。
古澤 それはじゃあ、『ジョギング渡り鳥』と比べて、っていうことではなかったんですか。
高橋 『ジョギング〜』は、バックステージものというよりは、多視点映画という感じなんですよね。多視点の面白さ。でも『ゾン〜』は「裏が見えてくる感じ」が立ち上がってくる映画なんだろうなあ。『ジョギング〜』の時は、バックステージ部分がどうハマってくるかとかは、あまり意識しなかった気がします。
鈴木 それに、深谷ってね、人がいないんですよね。
高橋 見事にいないですねえ!
鈴木 こっちとしては、何なら立ち止まって、僕らの異常な行為を見物してくれてる画を背景にしちゃいたいと思ってるんですけど、まあ、人がいないんです(笑)。新宿のど真ん中で同じことをやらないと、そういうものは撮れないんだろうなと思って。
古澤 この間、渋谷のスクランブル交差点で撮影したんですけど、誰も見ないんですよ。こっちを。主演の女の子が走るシーンを、僕らはすごく心配して、いろいろ策を用意してたわけですけど、拍子抜けするくらい、何もありませんでした。海外からの観光客が増えて、撮影されることが珍しいことではなくなっているのと、機材がプロ用もアマチュア用も違いがわからなくなってきているじゃないですか。よっぽどすごい芝居をしないかぎり、特にこっちを見てくれはしないんだなあって思いましたね。
高橋 意外に、今の役者さんって、人目を引きつけないのかもしれないね。昔の話だけど、『リング』を阿佐ヶ谷の駅前で撮ってた時、中谷美紀がベンチに座って演出を受けていても、誰も、見向きもしないんですよ。それが、真田広之が出てきた瞬間、「真田じゃん!!」ってみんな集まっちゃって(笑)。昔の役者はこういうオーラを出していて、真田さんはそれを継承しているタイプ。中谷さんは、それを消してるんだなあと。
古澤 いろいろ遠回りしましたが、率直に、今のバージョンの『ゾン〜』を、高橋さんはどうご覧になりましたか。
高橋 前半は「この映画ではなくても観られる日本映画」という印象で観ていて。だけどやっぱり面白いのは、登場人物が「ゾン」と向かい合うところなんですよね。「ゾン」に閉ざされていた景色の向こう側が見えた瞬間に、僕はすごく感動した。……そうだ、これ、今日言おうと思っていたんだけど、地面に穴ぼこが空いていて、その中は砂嵐ですよね。そこにビール瓶を入れたら、上から瓶が落ちてくる。これって、星新一の「おーい、でてこーい」という、SFのショートショートにとても似ているんですけど、僕が高校時代に初めて撮った映画は、その小説のパクリだったんです(笑)。
一同 (笑)
古澤 それは知らなかったですね。
高橋 SF的な物語の出発点として、何かそういう共通したものがあるのかなと思って。講師の井川(耕一郎)くんがよく言うでしょう。「映画美学校で映画を撮ろうとしてる人って、穴をよく掘る」って(笑)。穴に何か捨てたり、死体を埋めたり。それが表現に関わる人の通過儀礼なんじゃないかって説。
鈴木 古澤くんは撮影当時、すごく分厚い宇宙本を読むのが好きで。宇宙の論理は人間の想像を超えているから、空を覆っている「ゾン」とは別に、穴もまた「ゾン」である。って台本に書いてきたんですよ。結びつくようで結びつかない、もやもや感のまま書いてきて、その後、打合せも特にないんです。
古澤 (笑)
鈴木 一度、穴に落ちた晶(飯野舞耶)が、穴の中を落ちながら、何かを見てしまうっていう本を、古澤くんが書いてきたんですよ。
古澤 あれは、スティーヴン・キングの『ジョウント』っていう短編があって……
高橋 うんうん。やっぱり、そうだよね。『ジョウント』は重要な短編ですよ。
古澤 意識があるまま穴に落ちると、そこで永遠の時間を過ごしてしまって、発狂してしまうっていうのを考えたんですけど、それだと陰惨過ぎるなと思ってやめました。でも『ゾン〜』の仕上げの最中に、クリストファー・ノーランの『インターステラー』(14年)を観に行って。想像力という点では、定番のネタだからしょうがないけど、僕は「パクられた!」と思って(笑)。
鈴木 宇宙の果てで、急に本棚の裏側にたどり着いちゃうのと、似てる描写を古澤くんは書いていたんですよ。穴に落ちた晶が砂嵐の中から、前の場面でみんなで「ゾン」のビデオを観ている「Bar湯」の光景を見るんです。ビデオを観てる時、晶は誰かの視線を感じて振り向いたんだけど、その視線の主は、穴から落ちている最中の自分だったということが、あとでわかる。だから『インターステラー』を観たときは、確かに胸がざわざわしたね。そして道子(律子)さんは、穴から落ちている晶と目が合うんですよ。それで何かをつぶやくのね。だから道子さんも、何らかの何者かなんですよね。
古澤 ああ、それは忘れていました。現状のバージョンだと、道子が「あなたは私から離れられないの」って言うんですよ。あれは、その時の名残なんですよ。
鈴木 そう。「何かわかってるよ」っぽい人。
古澤 だから話は戻るけど、『ゾンからのメッセージ』という劇世界を、きっちり詰めきれてないなという思いが僕にはあるんですよ。
鈴木 そういうコンセプトじゃなかったからね。むしろいろいろ、隙間というか破け目がたくさんあって、その破け目を現場ドキュメンタリーが埋めていく、つまり「SF映画を作ろうとしている人たちの時間」というのが、目指そうとしていたものだから。
古澤 フィクションの登場人物たちは、スタッフやギャラリーがまるでいないかのように振る舞うじゃないですか。そういうとき、スタッフとかギャラリーって登場人物からすると幽霊っぽいなあと思ったんです。
鈴木 じゃあ、まあ、撮れてるわけだ。フレームに入る前の晶が、まるでいないかのように振る舞ってる(笑)。
古澤 だから『ゾン〜』の編集に関しては、徹底的に、当初何をしようとしていたかは常に捨てて、その時点その時点に何ができるか、っていうことで前に進んでた感じがしますね。
◆
鈴木 「ゾン」の空を、みんなで削ったフィルムと合成することが、どこまでできるだろうかというのがずっとあったんです。合成作業があまりできないことも想定して、空をあまり撮りすぎないようにしてたんだけど、結果的にはアクターズ二期生全員が「After Effects」を勉強して、みんなで1フレームずつ切り取って合成し始めたんですね。そのうち、手持ちカメラで撮ってた空にも合成ができるようになって。
高橋 「世界設定はこういうことです」、っていう表明だよね。本当に空があんなふうだったら、人は、気が狂っちゃいますよ。
一同 (笑)
高橋 しかも「一歩カメラ」で住民のインタビューが入ってくると、その世界設定を理解していない原住民が映るわけじゃないですか。それが面白いんだよね。「ゾン」がある世界に生きている人だとは思えないことを言うでしょう(笑)。
鈴木 何かが壊れる音が、何回かしますよね(笑)。
古澤 一歩も、いつの間にか高橋隆大に戻ってしまう瞬間があるんですよね。
一同 (笑)
古澤 だから、細部までこだわって観ていくと、非常に面白いものが見えてくると思います。二宮がいつも持ってるアタッシュケースの中身とか。そういう意味で、以前のバージョンと大きく違うのは、2時間の映画のちょうど半分あたりから、そのへんの破れ目が見え始める形になっているんですよね。一歩のカメラに「ゾン」が映り始めたり、メイキング的なものが入ってきたり。そこから、ラストに向けての助走が始まるっていうことで作っていますね。
高橋 『ストーカー』(79年、監督:アンドレイ・タルコフスキー)に出てくる「ゾーン」は、あるエリアだけがクレーターみたいに、異常なことになっていて、外からやってきた人がそこに入っていくんだよね。でもこの作品は、街がすっぽり、ドーム状に包まれているわけでしょう。どこに行っても、必ず「ゾン」の壁にぶち当たる。その壁の向こう側に何があるのか、街の人たちは誰もわからない。面白いのは、その向こう側の描かれ方なんですよ。「ゾン」が消えたら、向こう側に普通に景色が続いている。それがすごく面白いと思うんだけど、なんでこんなに面白いのかな。
一同 (笑)
古澤 その瞬間「変なものを観た!」っていう感じがしたわけですか。
高橋 うん。そうなんですよ。
鈴木 確かに、壁の向こうで一歩と麗実が目撃する光景は、よく考えると怖いですよね。あそこにいるあれは誰たちなのかとか、20年間こっち側にいた人間と、そうでない人間とはどう違うのかとか。まったく未回収ですけど(笑)。
古澤 井の頭線で撮ったシーンを観た時に思ったのは、あの人たちは20年間閉じ込められていた世界があることを、知らなかった人たちなんだなと思ったんですよ。現代日本の、どこかで何かが起きていたとしても、誰も知らないっていう。
鈴木 「Bar湯」に来ていたお客さんとかも、どうなったんだかわからないよね。まったく違う記憶で接してこられると、今まで20年間自分はどこにいたのかっていうことが、起こりかねないよね。
古澤 台本にない要素として、みんなでシネカリ(※黒味のフィルムに傷をつける技法)を作ってる場面があるじゃないですか。あれを最初に観た時に、巨人があの世界を覗き込んでいる感じがしたんですよ。「ゾン」の大空を作っている、ものすごい巨人たちがいて、そこに囲われているものを見下ろしている感じがして気味が悪かった。今まで観ていたのは、ただのミニチュアの世界なんだ、という。
鈴木 そういうことが、起きるよね。僕と古澤くんの間で、何かを申し合わせてるわけでは全然ないからね。
古澤 せりふのニュアンスは、「自分が書いたせりふだな」っていう感じがしたんですよ。だから、「思った通りの映画ではないけど、思った通りのせりふの聞こえ方だなあ」っていうのが不思議でしたね。
鈴木 そもそも、エチュード(即興稽古)で役者たちがしゃべったことを、ホンにしているから、ズレというのはそんなになかったんじゃないですかね。
高橋 いつも貫太郎(石丸将吾)がいる場所というのが、子どもの頃の秘密基地みたいな場所なわけだよね。で、「悪の組織と戦う」って言ってる。
古澤 そしてその内実は、「エロ本を集める」っていう(笑)。
高橋 「子どもはよくやるだろ、秘密基地」って言われると、「ああ、やるやる」って思うんだけど、悪の組織っていうのがね、僕は悪の組織を召喚しようとは思わない子供だったんだよね(笑)。でも、そうかやっぱり悪を設定しないと物語は動き出さないもんなんだなーって思って見ていたら、その悪が「エロ本」でしょう(笑)。その辺の感覚が違うっていうか、「悪」と「エロ本」が僕の中ではどうも結びつかなくて。
古澤 中学生の頃に友だちと話したんですよ。みんな、エロ本を自分で公園に捨てたことがあるか?と。みんな「ない」って言うんですよね。拾うばかりで、誰も捨てたことがない。となると、これはもしかしたら、厚生省か何かが、裏の性教育として、子どもたちのために、夜中にエロ本をばらまいてるんじゃないかって。そこから、「悪の組織がばらまいたエロ本を回収する人」っていうのを思いついたんです。
高橋 なるほどなあ、自分の中の蠱惑的な悪みたいなところに行っていたんだね。その意味では僕の少年時代はトム・ソーヤのように素朴で健全っていうか…。あと、一歩がすべり台にいて、そこに自転車で麗実がやってくるっていう、あそこが僕は、ショットとして一番好きです。
鈴木 仲直りの場面ですね。
高橋 あれは、いいですよ。なんでいいのかよくわからないけど(笑)、あそこ、いいショットだなあ。
鈴木 なんでか、撮れたんです(笑)。よかったですね、あれは。カメラマンの中瀬慧(フィクション・コース第13期修了生)がわりとフレキシブルに、どんどんカメラを回せていたので。できるだけ、俳優さんの動きから撮り方を見つけるという意識だったと思うんですけど。
高橋 この映画に名を連ねているスタッフ陣の、ほとんどが13期生ですよね。
古澤 音響の川口陽一は11期。佐野真規もそうですね。あと、13期の石川貴雄を助監督として呼びました。佐野と石川は、ちょっと光るところがありつつも、いまいち演出力に心もとないところがあったので、アクターズ・コース第一期のティーチング・アシスタントに佐野を呼び、二期で石川を呼んだんです。つまり、俳優が何を考えているのか、俳優のあり方みたいなことに接することで、何かひと皮、むけてくれるんじゃないかと思って。結果的に、彼らはその後撮った短編で、いくつかの映画祭に引っかかるようになって。フィクション・コースだけでは得られなかった視点を、アクターズ・コースで得られたんじゃないかと思います。
鈴木 『ジョギング〜』の時は、中瀬くんと佐野くんと石川くんに来てもらったくらいだったんだけど、ある時点で、川口くんを呼ばないと作品として完成し得ないということがわかって(笑)。その後に『ゾン〜』だったので、五十嵐皓子さんとか磯谷渚さんとか、浜田みちるさんとか本田雅英くんとか、大橋俊哉くんたち13期生が、本格的に加わってくれた。
高橋 大城亜寿馬くんは、脚本コースから来たんだよね。
古澤 大城くんは、コースを超えて、みんなで撮ってみる「自主映画レッスン」という課外活動があって、そこによく来ていたんですよ。それで仲良くなりました。
鈴木 みんな、頼もしかったですね。
古澤 彼らは修了してから数年経って、実際に現場に出ていますからね。その経験もあったんでしょうね。『ジョギング〜』もこれも、アクターズの子たちがしみじみと「映画の撮影って大変だなあ……」って圧倒されちゃうくらいだった。
鈴木 俺のせいか(笑)。やってみてわかったのは、究極の形をやってしまったなあということ。俳優陣が、関わりすぎてる。ここまで作品全体に関わると、そりゃみんな、芝居できるよね?っていうか。各方向から考え抜かれた、生々しいものとして体現しうるんだけど、果たしてここまでやる必要はあるのか?っていうのを、実は考え直しているところです。あれから4年経っているので、あの頃と今とでは、考え方が違うかもしれない。当時は「映画を作る」ということを、職業としてではない可能性を探りたかったんですよ。それをどこまでもやりこむ!っていうので生まれたのが『ジョギング渡り鳥』であり『ゾンからのメッセージ』だった。撮影が終わったあとも、自分たちの意志で合成してみたり、宣伝配給してみたり。
演劇をやる時は、自分たちで舞台を作ったり、小道具を用意したり、チケットの管理をしたりするじゃないですか。僕たちは、映画でそれをやってみたわけです。シナリオ開発から、公開まで。で、『ジョギング〜』に出てた中川ゆかりさんはその後、海外ドラマの吹き替えの会社に入って、この間初めてディレクターをやったそうなんですね。つまり「演じる」ことの枠を、中川さんは以前より広くとらえたいという興味関心があった。そういう、映画にはいろんな関わり方があるのだということを、見せることができたかなあと思いつつ、やりすぎだろう!とも思いつつ(笑)。
古澤 もちろん、参加できてない人間もいますので。そこは難しいなあと思います。現場で超短期決戦で、自分でメイクして自分で着替えて、早朝から深夜まで撮影してましたから。「映画って大変だなあ……」って思わせてしまって当然というか。
高橋 ちなみに、これは、何日くらいで撮りきったの?
鈴木 追撮を加えて10日です。
古澤 10日の撮れ高では、ないですよね(笑)。
◆
高橋 映画の作りとして、いわゆるオーソドックスな商業映画の、人物の登場の仕方とか立たせ方とは、違う感触ですよね。冒頭、ある登場人物が歩いているところから始まるけど、その人が主人公なのだとは思わない。ひょっとしたら風景の一部なのかもしれない、くらいの感じで観てるでしょう。その後、いろんな人が出てくるけれども、「この人が主人公だ」みたいなことが、パキッと立つようなフィーチャーの仕方は一切しない。「そこにいる人を見てる」感じが、ずっと続くわけです。あの感じは、なんで生まれてくるんだろう。
古澤 群像劇、っていう意識は、始めから持ってましたけど。
高橋 でも『ジョギング〜』の時は、僕は中川さんが主演なんだろうなと思ったんですよ。
鈴木 中川さんは、向こうからこっちに向かって走ってきたからじゃないですか。あと、『ゾン〜』ではすぐ一歩にカメラが向くので。
古澤 そう、タイトル明けが、一歩じゃないですか。最初に出てきた人間が、誰かに関わり始めると「この人の物語なんだな」と思うけど、歩いてて穴をのぞくぐらいだと、主人公感は出ないんだなあって思いましたね。
鈴木 出ないね。あまり引っかかってこない感じ。
高橋 そうね。何だろう。この「そこにいる人を見てる」感。
鈴木 スタンダード・サイズ……は、関係ないか……
高橋 ああ、スタンダード・サイズだもんね。
古澤 あと、会話劇だっていうのもあるんじゃないですか。「ゾン」っていうスペクタクルはあるけど、基本的にずっとしゃべってるだけですからね。
鈴木 ホンしかない段階では、ディスカッション映画だなあという印象がすごく強かった。
古澤 試写で「演劇っぽい」という感想をいただきましたね。
高橋 ああ、演劇の作劇に似てるっちゃあ似てるのかな。演劇って、映画ほど、主人公がはっきりわからないような作り方をするもんね。
古澤 もしかしたら、ワークショップとか稽古場で、エチュードしながら作っていくと、そっちに引きずられるのかなと思いますね。全員参加の現場で、誰かひとりの芝居ばかり作ってると、見学してるみんなのことの方が気になってきたりするので。みんな、一定の分量、平等に出る。っていうような配慮が、どこかで働きます。
高橋 「Bar湯」で山内健司さんが、犬の話をするじゃない。すごく意味ありげなんだけど、特に回収はされないよね。
鈴木 すごく意味深ですよね(笑)。でも、実はあの「Bar湯」のそばに犬が住んでいて、吠えてる声が入ってるんですよ。貫太郎の家のあたりにも。で、全然関係ない話をしているようでありながら、最終的には絶妙に、古澤台本に返っていくんです。あの場で、いろんなアイデアを交わしながら、最終的には古澤台本に戻るんだという意識が、僕だけじゃなくて役者たちにもあったんだと思います。
古澤 ほんと、最近になって「変だな」って気づいたんですけど、貫太郎の年齢設定を「32歳」にしてるんですね。で、劇中、ホタテを水着に見立てて彼は「武田久美子」の話をしてるんですけど、それって僕の世代、今40代半ばぐらいの人に通じる話なんですよ。
鈴木 僕でさえ、わからなかった。
古澤 「これ、どういう意味?」って聞かれて「武田久美子です」って答えたけど、よく考えると、アテ書きにしては、僕自身を投影しちゃったなっていう。
高橋 あそこも、さっきも言ったけど、「悪」と「エロ」が結びつくというのが、古澤くんの世界だなあ!って思った。
鈴木 僕もそこが、古澤くんに「他人」を感じた瞬間でしたね。
一同 (笑)
鈴木 あとになって、「田村」たちのシーンを追撮しようと思ったのは、僕がそこを一番つかみきれてなかったからかもしれないです。「エロ本を拾い集める」ことを共有した男たちの物語に、僕の力が入り切らなかった。それがうしろめたくもあったので、映画美学校映画祭が終わったあとに、「田村」たち3人組のシーンを、即興で撮ったんです。
古澤 台本上では、あの3人がバンドを組んで、彼らが出ているテレビ番組を、みんなが「Bar湯」で観てるっていうラストシーンだったんですよ。
高橋 ふううん!
古澤 でもそれは、黒沢清さんの『ニンゲン合格』(99年)のパクリで。あの映画で唯一、家族全員が集まるシーンがあるんですけど。ひとりだけその場にいない人間が、テレビをつけたら映ってるっていう。
鈴木 一歩と麗実の年齢設定は19歳ですけど、演じたふたりは20歳で、「映画美学校を修了したら僕たちはフリーターなんです」って高橋隆大が言ったんですね。だからこのふたりの行く末に関しては、はなむけとして、ちゃんとしてあげよう!っていう思いが、講師陣にはあったと思います。
◆
——最後に、この映画は、どんなふうに届いてほしいですか?
高橋 その話は、ぜひしないといけない。2014年、映画美学校映画祭で初めて観たときは「これが映画美学校修了作品として世に出ていくのだ」という納得の仕方をしたんだけど、4年経ってますます、インディペンデント映画の流通がせちがらくなっているっていう現実に気付かされるんですよ。まだ観てないんだけれど、ENBUゼミから生まれた『カメラを止めるな!』(18年、監督:上田慎一郎)ぐらいのことをしないと、自主映画は認めてもらえないっていうふうに、変化してきていると思うんですね。いや、昔からそうなんだけど、最近、より顕著になっている。
古澤 その点でいうと、『ゾンからのメッセージ』は徹底してオルタナティブなところに立っているなあと思います。僕と卓爾さんって、長いつきあいではあるけれど、資質は全然違うタイプの作家だと思うんですね。いい意味で、水と油が同居してる映画だなと。だから試写でいろんな人に感想をもらうと、本当に千差万別なんです。受け止めるポイントが、ひとりひとり違う。僕もまだ観ていないんですが、『カメラを止めるな!』と『ゾン〜』の両方を観た人の感想を聞くと、前者は映画を観ている時間内にすべてが完結されていると。後者は、観終わって、自分の生活に戻った時に、自分に引き寄せて考えることができる映画だと。どっちがいいとか悪いとかではなく。
鈴木 何名かの方が、翌日になっても、ふと空を見上げてしまったっておっしゃるんですよ。それが嬉しかった。
古澤 道子さんに共感する人もいれば、晶に共感する人もいて、貫太郎のあり方に泣いたっていう人もいて。
鈴木 貫太郎達の最後のシーンで号泣したと、私の短編映画『駄洒落が目に沁みる』に出演してくれた俳優の廣田朋菜さんが言ってくれました。
古澤 脚本家や監督が統御できない余剰があるのが、自主映画の面白さなんだろうなと思うんです。だからとにかくいろんな人に観てほしいし、それが否定的な感想であっても、その人にとっての「鏡」になるのが、この映画なんじゃないかなと思いますね。だから「こういうお客さんにぜひ!」っていうターゲッティングができないあたりが、商業的にマズいんだろうと思いますけど(笑)、それが自主映画らしさかなとも思うんですよね。
鈴木 僕は、映画を観ていろいろ考えをめぐらせてほしいなあというのが、昔から変わらない思いなんですよ。で、そういう映画が、ほんとに減ったなあ!って思うんです。バックステージものとか、メタ構造とか、即興性とか。もっと大きく、「試す」べきだと4年前は思っていたんですけど、僕自身はもう4年前と違うところにいたりするので、むしろお客さんにこの映画を見つけてもらいたいと思います。今年、まっさらな目でこの映画を観てくれる人の方が、この映画の行く末を見定めてくれるんじゃないかと思っていて。
試写会の手応えとしては、SF設定としてというよりも、自意識の問題として「ゾン」を見てる方が多いんですね。自分にとっての境界線とか、自分にとっての未来とか。それって、面白いことだなと思うんです。4年前よりも、今の世の中はずっと「自意識」を重んじる世界になってるから。思いのほか、時流に乗れてる映画かもしれない。ヒット要素じゃないですか、「自意識」(笑)。
高橋 「自意識的に観る」。へえー、そうなんだ。そういえば『勝手にふるえてろ』は古澤君と同じ1期生の大九明子監督がついに会心作を撮った!と思ったんだけど、あれも「脳内召喚」をエンタメにするっていう点で共感を得てるのかもね。
鈴木 「誰にとっても等しく起きた何か」というよりは、誰かの夢の中で起きている(という可能性も込みでの)映画実験だというふうに観てくれる人がいて。そういう意味じゃ、それこそ『惑星ソラリス』(72年、監督:アンドレイ・タルコフスキー)的じゃないですか。だといいなあって思ってるだけなんですけど。
古澤 僕が今やっている仕事は、「こういう人たちをターゲットにして、こういう映画を作ってくれ」っていうオーダーに応えることなんですよ。そういう職人仕事をやりたいという気持ちがすごくあるので、やりがいもあるし面白い。でもこういう自主映画を作る時は、「自分が観たい映画を作る」っていうことにしか意識が行かないですね。「当たる」「当たらない」とか、「ウケる」「ウケない」は考えないです。
高橋 コンセプチュアルな実験性を楽しんでくれる客層が、年々、限られてきている感じを、僕はひしひしと受けるんです。昔からあることなんだけど、もっとせちがらくなってきてる。そんな折に、『ゲット・アウト』(17年、監督:ジョーダン・ピール)を観たんです。根っこにすごくコンセプチュアルなものがあるのに、それをちゃんとエンタメに落とし込んでいた。そういうことができなければいけないという圧が、これからの映画作家には、かかってくるのかなあと思うんですね。
それを感じながら『ゾン〜』を観たら、めっちゃ反時代的なことをやっているわけです(笑)。『ジョギング〜』の頃はまだそんなに感じてなかったと思うんだけど、今、2018年になってみると、とても反時代的な流れの中で生まれてきた映画だなと思ったんです。
古澤 この映画はそもそも、出発点がタルコフスキーなわけです。タルコフスキーの映画って、観る人は観るけど、ヒットはしないじゃないですか(笑)。
高橋 そういう作家の時代が、堂々と存在していたということが、今、忘れられているよね。「え、そんなのあったんすか?」みたいなことになってきてる。ヒットしないけど、長い時間軸で考えると、観られ続ける映画。横に広がらないけど、縦にずっと、長い歳月観られ続ける映画があるってことが、どこかで置き去りにされてる感じがするんですよね。プロデューサーと話したりすると、自分が10年前に当然の前提だと思っていたこと——つまり「マイナーはマイナーとして在っていいじゃないか」ということが、だんだん言いにくくなってきた気がして。
古澤 それはもう、僕は、みんな映画に興味がなくなってるんだなと思います。かつては、一般の人も含めて映画が好きで、「普通の映画は見飽きたから、もっと変わったのを見せてくれよ!」っていうニーズがあったと思うんですよ。面白いかどうかは別として、「変わってるねえ!」「普段観てる映画と違うわー!」っていうことを楽しめる人たちがいた。でも今は、映画はいろんな趣味のうちのひとつで、たまに面白いのだけを観られればいいと。映画そのものでおなかいっぱいになれなくてもいいや、っていう人が多いんだろうなと思いますね。
高橋 そうなんだよね。僕らが変わったことをやろうとすると、プロデューサーが言うのは、「変わってることが面白いっていう人は、今はいないから、あたかも充実したエンタメであるかのように偽装して出してくれ」と。確かに、『ゲット・アウト』は、それをやっている。今、世の中を見つめる目として、新しいんですよ。それを、エンタメに落とし込んでいる。そこに気がついた監督さんは、うまいものだと思ったんです。まあ、ハリウッド映画はずっとそういうことをやってるんだから鍛えられているんだろうけど。
古澤 タルコフスキーも、上映当時は時代的にアクチュアルなことをコンセプトにしていたけど、観てる僕らはそこから離れているから、「難しい映画だねえ」って言われちゃったりするじゃないですか。『ゾン〜』も、何の係留もなくふわふわと漂うような映画なのかなと思うんですけど。
高橋 作り方も含めて、今までにない作り方をした映画であるということを、面白がる観客も絶対いると思うんだけれど、その間口がだんだん狭まってきてるなという危機感がありますね。
鈴木 何度も観に来てくれたお客さんが、『ジョギング〜』の時にいたんです。10何度も。その人たちには確実に伝わっていることがあって、つまり「この時代にこういう映画がなければ困る」ということを、共有できているんですよ。すごく現在的な問題として。だけど、これがいわゆる一般客層には、伝わらないわけです。この不思議(笑)。「理解」というものがすごく限定的なものになっていってしまうのか、だとすると宣伝はその「理解」を得ようとするのではなく、「オーロラの空の下で暮らしている、小林聡美さんともたいまさこさんみたいなほのぼのバーの物語♪」みたいなことでいいんじゃないかなあとか(笑)。世の中の主流というものがわからないまま、ついついここまで来ちゃいましたけど、いよいよわからなくなってきました。
古澤 僕が感じるのは、お客さん側が、「今日はこういう気分だから、こういう映画を観て、こういう観客になる!」っていうコスプレをしているみたいな感覚があるんですよ。だから「泣ける!」「笑える!」みたいなことが前面に出されていく。でも「え、これって、どう受け止めたらいいの……?」っていう映画に対する観客の用意が、なくなってきているように思うんです。自分の中のモードをきっちり決められないと、映画に向き合えないというか。でも『ゾン〜』をはじめとする、ある種のマイナーな映画って、観る人に裸になることを要求しているんですよね。素肌全体で映画を浴びて、どう感じますか?っていう映画なんです。
高橋 たぶん「裸になる」っていう選択肢自体がない人たちだよね。「裸になる」っていう感覚がわかる人は、ある程度、表現というものに対して自覚的な人たち。
古澤 選択肢の幅が増えすぎると、行動できなくなるじゃないですか。お店側がある程度までセレクトした3つぐらいを「松竹梅」として提示されれば、お客さんは選びやすいけど、100個用意されたら、もう、どうしたらいいかわからない。僕はいまだにNetflixとか、Amazonとかの見方がわからないんですよ。この中のどこに自分の欲しいものがあるのか、ここでどういうふうに映画に向き合えばいいのかがわからないんですよね。
——すでに欲しいものが決まっている人のためのシステムですからね。
古澤 そのシステムの中では、何にも知らない、観たことのない映画を観てみようっていう気持ちには、ならないよなあって思うんですよ。検索ワードをあらかじめ知っておかなくちゃいけないから、まるで知らないものにたどり着く方法が、非常に限定されていると思う。そう考えると、劇場で上映するってことが、最後の砦なのかなって思うんです。「ポレポレ東中野でやってるんだ、じゃあ行ってみようかな」という。だからとにかく『ゾンからのメッセージ』という映画があることだけでも、まず世の中に広めていかないとなって思っています。
(2018/07/03)
高橋 えっ! そう言われてみれば……いつだろう。
鈴木 ほとんど『怯える』からじゃないでしょうか。
高橋 たぶん、『デメキング』(98年、今岡信治監督)ですね。すごく意識したのは。その時点で僕は卓爾さんのことを、俳優さんだと思ってました。「個性派俳優登場!」っていうふうに見てたので。それと強烈だったのはJRAのCM! ワンカット出てきただけでこいつ絶対ヤバいって判るボンボンが卓爾さんで、そいつが社長に就任するんで株主総会が騒然となる。ホントにワンカットだけなのに強烈だった(笑)。
鈴木 映画美学校で集まる人たちってやっぱり、もともと早稲田だったり立教だったり、なんとなく母体となる最初の集まりがあるじゃないですか。僕とか矢口史靖は東京造形大学だから、映画美学校への接点は全然なかったです。映画美学校が始まって、僕が役者として『怯える』で呼ばれるまでは。
古澤 東京造形大学には、映画サークルってあったんですか。
鈴木 ありました。僕が部長をしたりして。
古澤 傾向として、こういう作風が多い、みたいなのはありましたか。
鈴木 教員に、かわなかのぶひろ先生がおられたので、劇場用映画にはわりと背を向けて、実験映画を熱く見つめていましたね。映画のマテリアルの問題に迫るみたいな、そういう感じでした。普通のおさまりの良いドラマ映画を撮らない人達が造形大学出身者の中に若干居る原因は、かわなか先生であることを、僕と諏訪敦彦さんが証明してるかもしれません(笑)。もちろん、普通の劇映画を教える教員もおられたんですけどね。でも少なくとも僕は、シナリオが映画の下地にあるのだという認識もないまま、8ミリカメラを振り回すというのがはじめにありました。あとは、僕は静岡県西部の出身なので、浜松に「シネマ・ヴァリエテ」っていうシネクラブがあって、そこにいた平野勝之さんや園子温さんと、8ミリ映画を通した交流がありましたね。
高橋 『ラブ&ピース』の座談会でも話したけど、早稲田や立教の映画人たちと、平野さんや園さんたちとは、流派が違うみたいな感覚でいたんですよね。年齢的にはちょっと下ぐらいだったけれど、「感覚が違う人が出てきたな」という印象で見てたんですよ。
鈴木 私は東京に出てきた頃から、黒沢清さんをすごく意識していました。あと、万田邦敏さんの映画が「シネマ・ヴァリエテ」で上映されたりしたんですよ。だからどこかで、ゴダールみたいな映画作りも、意識できるところにはいました。一方で、役者として出た『痴漢白書』シリーズの現場で山岡隆資さんと知り合って、井川耕一郎さんが脚本を書いておられて。その頃「映画美学校」が立ち上がるんですよね。僕はうらやましく眺めてたんですけど、古澤くんが初等科の修了制作『怯える』で俳優として呼んでくれたので、そこでいろんな接点が生まれたんです。青山真治さんとか黒沢さんとか塩田明彦さんとか高橋さんとか、そんな人たちを短編映画の発表会場で垣間見て「すごいなー」って思ってました。
古澤 じゃあ、高橋さんは卓爾さんの監督作を観たのはずいぶんあとになってからですか。
高橋 そうなんですよね。
鈴木 『ゲゲゲの女房』(10年)ではないでしょうか。
高橋 いやいや、あれです、あれ。ええと……
鈴木 ああ、『鋼-はがね-』(06年)!
高橋 それ! 山本のやつ。
鈴木 そう、山本直樹くんという、今は黒沢組などの映画美術をやっている人がいるんですが、彼も古澤くんと同じく映画美学校1期生で、高橋さんの講義を熱心に受けていたんですよ。で、修了制作で彼が提出した企画が『鋼-はがね-』の原型なんです。後年、山本くんの脚本で、あの企画を撮ってくれないかという依頼が来たときは、Jホラー的な文脈にある作品を、僕が撮っていいのかっていう葛藤がありました。ちょっとした、「イズム」の違いがあるだろうなと思っていたので。
というのは、山本くんと話していると、映画美学校で何が教えられているのかが全部わかるわけですよ(笑)。「はがね」という怪物を扱う目線が、根本的に違う。僕なんかは怪物に対するシンパシーを、人間的にとらえようとしていたんですね。でも山本くんのシンパシーは、そこにはなかった。もっと得体の知れないシンパシーなんですよ。
高橋 あーー。
鈴木 ただ、説得力がすごくありました。映画的破壊力について。だからJホラーとはちょっと違った亜種が生まれた感じでしたね。3本のオムニバスで公開されたんだけど、長編にすべきじゃないかなあと思います。あの映画は強烈だったと、今でもツイッターとかで発見され続けているのを見かけますもんね。
鈴木 で、「『はがね』の正体は何なの?」みたいな物言いが、今回の「ゾン」についても似ているところがあって。それを映画の中でわからせることに、あまり意味はないじゃないですか。そういうところには触れない方が全然面白い。っていうことが、今回も、うまく伝わるのかなって思ってるんですけど。
古澤 僕が人づてに聞いたのは、高橋さんが『ジョギング渡り鳥』とは違う感触を持ったらしい、っていうことなんです。
高橋 2014年末の映画美学校映画祭で、仮のバージョンが上映されたわけですよね。僕はその時に初めて観て、飲み会で盛り上がったんだよね。「これは面白い」と。
鈴木 盛り上がりましたねえ。
古澤 映画美学校映画祭バージョンの上映後、深谷フィルムコミッションの強瀬誠さんから、「『一歩カメラ』が使えるんじゃないか」という話をされたんですね。登場人物の「一歩」(高橋隆大)がビデオカメラを持って、地元の人たちにインタビューしてたんです。豪雪のあとの深谷の記録として、それを入れたらどうかという話が飲み会で出て。それにプラスして、2015年に追撮をしたんです。
鈴木 井の頭線車内のシーンと、いなくなった「田村」(川口陽一)がいた頃の回想シーン。
古澤 だからどんどん尺が伸びていって、一番長いバージョン、2時間半ぐらいまでなったんだけど、劇場公開に向けてはもっと削った方がいいんじゃないかということで、今のバージョンに収まったということですね。
鈴木 劇場公開するっていうことを、当初はあんまり意識してなかったですもんね。
古澤 最初のバージョンから、インタビューとかドキュメンタリーパートが増えた時に、根本的なコンセプトのギアチェンジがあったと思うんですよ。今回、試写を回していく中で、ほぼすべてのバージョンを観ている中川ゆかり(アクターズ・コース第一期修了生)さんが「一番好きだった、最初の感じに戻った」って言っていて。
高橋 それが、僕らも観たバージョン?
古澤 そうですね。
高橋 不思議なことに、今回、あの時とはだいぶ印象が違うんですよ。特に前半が。これは何が起きてるんだろう、って思ったんです。4年前に観た記憶もあいまいだから。でも後半に入ってからは「ああ、これこれ!」って思った。「確かに俺はこれを観た!」「この盛り上がりで、飲み会をしたぞ!」と。その時、強瀬さんもおられましたよね。
鈴木 僕がよく覚えているのは、その後も編集で大事にしていた言葉なんですけど、みんながお店のセットで本読みをしてる場面のことを、「あれがすごく腑に落ちた」って高橋さんがおっしゃったんですね。バックステージの場面と、ドラマの場面が交互にレイアウトされていくという構成が、あそこでようやく腑に落ちたと。
高橋 覚えてます。でも、その感じじゃない何かが、前半にあるなと今回思った。それはたぶん、「Bar湯」の比重が上がったからじゃないですか。あの空間が、すごく重要なことになってる。
古澤 高橋さんがご覧になった最初のバージョンでは、「Bar湯」の場面の後に、ワークショップや現場での映像が入ったりして、劇中の世界観に入り込むことを、ある意味、阻害していたんですよ。「今何を観ているのか」っていうレイヤーが、何重にも重なって、わかりづらかった。
僕が一番最初に、卓爾さんと深田晃司くんに見せたのは、僕が映画美学校生と作った自主映画『古澤健のMっぽいの、大好き。』(08年)だったんですよ。その作品も、劇中劇とメイキングをごちゃごちゃにして編集してたんです。僕が劇中で過去のフルサワ役を演じる音響の川口陽一に説教をたれてるシーンがあって、それをスタッフがにやにやしながら見てる姿をメイキングが撮ってて、それをシームレスに混ぜ込んで。だから『ゾン〜』の一番最初のコンセプトは、『ゾン〜』の劇世界があって、映画を撮ってる鈴木卓爾という監督がいて、その様子を撮ってる深田晃司がいて、それらがシームレスにまとまればいいな、っていうことだったんです。
鈴木 すごくわかりやすい。あの時は強烈に、真似しようと思ったもんなあ。
古澤 ただ、のちのち振り返ると、そのコンセプトは伝わりにくかったのかなと思ったんです。『Mっぽいの〜』の時は、僕という人間がすべてを統括して、すべての素材を俯瞰して見てたんですけど、今回、卓爾さんは、僕が書いた脚本の世界に集中されているので、メイキングの場面をどう「演じる」かみたいなことは、当然、考えてなかったと思うんです。
鈴木 シームレスには関われないって言う事に気づくのが大事でした。レイヤーの断層は、はっきりその痕跡を残すべきかなってその後思うようになって行きましたね。
高橋 僕は前半、「Bar湯」でのシーンの比重が大きくて、あそこに収斂していく映画だったんだ、という印象を今回初めて持ったんだよね。「結構、日本映画じゃん……!」っていう(笑)。お店の中で展開しているドラマも、けっこう日本の情緒の世界ですよね。最初はもっとドライな映画だっていう印象だったので、意外な思いがしました。
古澤 僕がもともと書いた脚本の狙いはそっちでした。
高橋 そうなんだね。
鈴木 もうひとつ、濃いコンセプトとしてあったのは、アクターズ・コース第二期生の修了作品として、映画を作っていく過程が作品になっていくという約束があったと思うんですね。
古澤 「越境する」ことが大きなテーマでもあったので、カメラの前と後ろ、本番とそうでない時、オンとオフ、すべての越境が盛り込まれているというのが当初の狙いではありました。だから、僕が書いたドラマパートはいわゆる劇中劇という位置づけだったし、それを非常に叙情的な物語として、僕は書いたんですよ。
高橋 二宮(唐鎌将仁)のところにやってきた一歩が、ある提案をするじゃないですか。そのやりとりが、この映画では二度繰り返されるよね。一度目は、二宮が大げさに笑うんだけど、卓爾さんが横から入ってきて、その笑い方について演出をつける。すると二回目は、ちょっと抑えめに笑うんだよね。そしたらバン!とカットが変わって、麗実(長尾理世)たちの寄りの画になる。フィクションがまた進行し始めるわけですよね。あの呼吸感がすごく心地よい。
鈴木 あっち行ってこっち行って、練習と本番を行き来する感覚が、だんだん狭まっていくのが、まさにあの場面です。あれは実は深田晃司監督のカメラなんですよ。
高橋 僕自身がバックステージものが好きであることも関わってくると思うんだけど、昔の映画って、路上でゲリラで撮ってて、メインの俳優が手前で芝居してるんだけど、道行く人たちが完全に奥で見物しているじゃない。今のリアリティで言うと、とてもマズい状況なんだけど。
鈴木 マズいですね(笑)。
高橋 でもあの頃の人たちって、平然とキャメラを回してるでしょう。
鈴木 『君よ憤怒の河を渉れ』(76年、監督:佐藤純彌)とか、冒頭、高倉健が交番に呼ばれてしゃべってるのを、交番の窓から見物人が、こっちを見てるんですよね。
高橋 森崎東さんの『野良犬』も最後、新宿のアクションシーンなんかは、ずらーーっとギャラリーがいて、おかしなことになってるんだけど、かまわず撮ってる。遠景で見物している皆さんと、こっちで芝居をしている皆さんとの間に、違う時空が流れていて。此岸と彼岸みたいなことになってて、すごく不思議なものを観ている!っていう感覚があるんですよね。バックステージものをやる時には、それに近いものが出てこないと、面白くないんだという認識が僕にはあって。だから僕がバックステージものに求めているものと、カチッとノリが合った瞬間があったから、僕は「腑に落ちた」って言ったのかもしれない。
古澤 それはじゃあ、『ジョギング渡り鳥』と比べて、っていうことではなかったんですか。
高橋 『ジョギング〜』は、バックステージものというよりは、多視点映画という感じなんですよね。多視点の面白さ。でも『ゾン〜』は「裏が見えてくる感じ」が立ち上がってくる映画なんだろうなあ。『ジョギング〜』の時は、バックステージ部分がどうハマってくるかとかは、あまり意識しなかった気がします。
鈴木 それに、深谷ってね、人がいないんですよね。
高橋 見事にいないですねえ!
鈴木 こっちとしては、何なら立ち止まって、僕らの異常な行為を見物してくれてる画を背景にしちゃいたいと思ってるんですけど、まあ、人がいないんです(笑)。新宿のど真ん中で同じことをやらないと、そういうものは撮れないんだろうなと思って。
古澤 この間、渋谷のスクランブル交差点で撮影したんですけど、誰も見ないんですよ。こっちを。主演の女の子が走るシーンを、僕らはすごく心配して、いろいろ策を用意してたわけですけど、拍子抜けするくらい、何もありませんでした。海外からの観光客が増えて、撮影されることが珍しいことではなくなっているのと、機材がプロ用もアマチュア用も違いがわからなくなってきているじゃないですか。よっぽどすごい芝居をしないかぎり、特にこっちを見てくれはしないんだなあって思いましたね。
高橋 意外に、今の役者さんって、人目を引きつけないのかもしれないね。昔の話だけど、『リング』を阿佐ヶ谷の駅前で撮ってた時、中谷美紀がベンチに座って演出を受けていても、誰も、見向きもしないんですよ。それが、真田広之が出てきた瞬間、「真田じゃん!!」ってみんな集まっちゃって(笑)。昔の役者はこういうオーラを出していて、真田さんはそれを継承しているタイプ。中谷さんは、それを消してるんだなあと。
古澤 いろいろ遠回りしましたが、率直に、今のバージョンの『ゾン〜』を、高橋さんはどうご覧になりましたか。
高橋 前半は「この映画ではなくても観られる日本映画」という印象で観ていて。だけどやっぱり面白いのは、登場人物が「ゾン」と向かい合うところなんですよね。「ゾン」に閉ざされていた景色の向こう側が見えた瞬間に、僕はすごく感動した。……そうだ、これ、今日言おうと思っていたんだけど、地面に穴ぼこが空いていて、その中は砂嵐ですよね。そこにビール瓶を入れたら、上から瓶が落ちてくる。これって、星新一の「おーい、でてこーい」という、SFのショートショートにとても似ているんですけど、僕が高校時代に初めて撮った映画は、その小説のパクリだったんです(笑)。
一同 (笑)
古澤 それは知らなかったですね。
高橋 SF的な物語の出発点として、何かそういう共通したものがあるのかなと思って。講師の井川(耕一郎)くんがよく言うでしょう。「映画美学校で映画を撮ろうとしてる人って、穴をよく掘る」って(笑)。穴に何か捨てたり、死体を埋めたり。それが表現に関わる人の通過儀礼なんじゃないかって説。
鈴木 古澤くんは撮影当時、すごく分厚い宇宙本を読むのが好きで。宇宙の論理は人間の想像を超えているから、空を覆っている「ゾン」とは別に、穴もまた「ゾン」である。って台本に書いてきたんですよ。結びつくようで結びつかない、もやもや感のまま書いてきて、その後、打合せも特にないんです。
古澤 (笑)
鈴木 一度、穴に落ちた晶(飯野舞耶)が、穴の中を落ちながら、何かを見てしまうっていう本を、古澤くんが書いてきたんですよ。
古澤 あれは、スティーヴン・キングの『ジョウント』っていう短編があって……
高橋 うんうん。やっぱり、そうだよね。『ジョウント』は重要な短編ですよ。
古澤 意識があるまま穴に落ちると、そこで永遠の時間を過ごしてしまって、発狂してしまうっていうのを考えたんですけど、それだと陰惨過ぎるなと思ってやめました。でも『ゾン〜』の仕上げの最中に、クリストファー・ノーランの『インターステラー』(14年)を観に行って。想像力という点では、定番のネタだからしょうがないけど、僕は「パクられた!」と思って(笑)。
鈴木 宇宙の果てで、急に本棚の裏側にたどり着いちゃうのと、似てる描写を古澤くんは書いていたんですよ。穴に落ちた晶が砂嵐の中から、前の場面でみんなで「ゾン」のビデオを観ている「Bar湯」の光景を見るんです。ビデオを観てる時、晶は誰かの視線を感じて振り向いたんだけど、その視線の主は、穴から落ちている最中の自分だったということが、あとでわかる。だから『インターステラー』を観たときは、確かに胸がざわざわしたね。そして道子(律子)さんは、穴から落ちている晶と目が合うんですよ。それで何かをつぶやくのね。だから道子さんも、何らかの何者かなんですよね。
古澤 ああ、それは忘れていました。現状のバージョンだと、道子が「あなたは私から離れられないの」って言うんですよ。あれは、その時の名残なんですよ。
鈴木 そう。「何かわかってるよ」っぽい人。
古澤 だから話は戻るけど、『ゾンからのメッセージ』という劇世界を、きっちり詰めきれてないなという思いが僕にはあるんですよ。
鈴木 そういうコンセプトじゃなかったからね。むしろいろいろ、隙間というか破け目がたくさんあって、その破け目を現場ドキュメンタリーが埋めていく、つまり「SF映画を作ろうとしている人たちの時間」というのが、目指そうとしていたものだから。
古澤 フィクションの登場人物たちは、スタッフやギャラリーがまるでいないかのように振る舞うじゃないですか。そういうとき、スタッフとかギャラリーって登場人物からすると幽霊っぽいなあと思ったんです。
鈴木 じゃあ、まあ、撮れてるわけだ。フレームに入る前の晶が、まるでいないかのように振る舞ってる(笑)。
古澤 だから『ゾン〜』の編集に関しては、徹底的に、当初何をしようとしていたかは常に捨てて、その時点その時点に何ができるか、っていうことで前に進んでた感じがしますね。
鈴木 「ゾン」の空を、みんなで削ったフィルムと合成することが、どこまでできるだろうかというのがずっとあったんです。合成作業があまりできないことも想定して、空をあまり撮りすぎないようにしてたんだけど、結果的にはアクターズ二期生全員が「After Effects」を勉強して、みんなで1フレームずつ切り取って合成し始めたんですね。そのうち、手持ちカメラで撮ってた空にも合成ができるようになって。
高橋 「世界設定はこういうことです」、っていう表明だよね。本当に空があんなふうだったら、人は、気が狂っちゃいますよ。
一同 (笑)
高橋 しかも「一歩カメラ」で住民のインタビューが入ってくると、その世界設定を理解していない原住民が映るわけじゃないですか。それが面白いんだよね。「ゾン」がある世界に生きている人だとは思えないことを言うでしょう(笑)。
鈴木 何かが壊れる音が、何回かしますよね(笑)。
古澤 一歩も、いつの間にか高橋隆大に戻ってしまう瞬間があるんですよね。
一同 (笑)
古澤 だから、細部までこだわって観ていくと、非常に面白いものが見えてくると思います。二宮がいつも持ってるアタッシュケースの中身とか。そういう意味で、以前のバージョンと大きく違うのは、2時間の映画のちょうど半分あたりから、そのへんの破れ目が見え始める形になっているんですよね。一歩のカメラに「ゾン」が映り始めたり、メイキング的なものが入ってきたり。そこから、ラストに向けての助走が始まるっていうことで作っていますね。
高橋 『ストーカー』(79年、監督:アンドレイ・タルコフスキー)に出てくる「ゾーン」は、あるエリアだけがクレーターみたいに、異常なことになっていて、外からやってきた人がそこに入っていくんだよね。でもこの作品は、街がすっぽり、ドーム状に包まれているわけでしょう。どこに行っても、必ず「ゾン」の壁にぶち当たる。その壁の向こう側に何があるのか、街の人たちは誰もわからない。面白いのは、その向こう側の描かれ方なんですよ。「ゾン」が消えたら、向こう側に普通に景色が続いている。それがすごく面白いと思うんだけど、なんでこんなに面白いのかな。
一同 (笑)
古澤 その瞬間「変なものを観た!」っていう感じがしたわけですか。
高橋 うん。そうなんですよ。
鈴木 確かに、壁の向こうで一歩と麗実が目撃する光景は、よく考えると怖いですよね。あそこにいるあれは誰たちなのかとか、20年間こっち側にいた人間と、そうでない人間とはどう違うのかとか。まったく未回収ですけど(笑)。
古澤 井の頭線で撮ったシーンを観た時に思ったのは、あの人たちは20年間閉じ込められていた世界があることを、知らなかった人たちなんだなと思ったんですよ。現代日本の、どこかで何かが起きていたとしても、誰も知らないっていう。
鈴木 「Bar湯」に来ていたお客さんとかも、どうなったんだかわからないよね。まったく違う記憶で接してこられると、今まで20年間自分はどこにいたのかっていうことが、起こりかねないよね。
古澤 台本にない要素として、みんなでシネカリ(※黒味のフィルムに傷をつける技法)を作ってる場面があるじゃないですか。あれを最初に観た時に、巨人があの世界を覗き込んでいる感じがしたんですよ。「ゾン」の大空を作っている、ものすごい巨人たちがいて、そこに囲われているものを見下ろしている感じがして気味が悪かった。今まで観ていたのは、ただのミニチュアの世界なんだ、という。
鈴木 そういうことが、起きるよね。僕と古澤くんの間で、何かを申し合わせてるわけでは全然ないからね。
古澤 せりふのニュアンスは、「自分が書いたせりふだな」っていう感じがしたんですよ。だから、「思った通りの映画ではないけど、思った通りのせりふの聞こえ方だなあ」っていうのが不思議でしたね。
鈴木 そもそも、エチュード(即興稽古)で役者たちがしゃべったことを、ホンにしているから、ズレというのはそんなになかったんじゃないですかね。
高橋 いつも貫太郎(石丸将吾)がいる場所というのが、子どもの頃の秘密基地みたいな場所なわけだよね。で、「悪の組織と戦う」って言ってる。
古澤 そしてその内実は、「エロ本を集める」っていう(笑)。
高橋 「子どもはよくやるだろ、秘密基地」って言われると、「ああ、やるやる」って思うんだけど、悪の組織っていうのがね、僕は悪の組織を召喚しようとは思わない子供だったんだよね(笑)。でも、そうかやっぱり悪を設定しないと物語は動き出さないもんなんだなーって思って見ていたら、その悪が「エロ本」でしょう(笑)。その辺の感覚が違うっていうか、「悪」と「エロ本」が僕の中ではどうも結びつかなくて。
古澤 中学生の頃に友だちと話したんですよ。みんな、エロ本を自分で公園に捨てたことがあるか?と。みんな「ない」って言うんですよね。拾うばかりで、誰も捨てたことがない。となると、これはもしかしたら、厚生省か何かが、裏の性教育として、子どもたちのために、夜中にエロ本をばらまいてるんじゃないかって。そこから、「悪の組織がばらまいたエロ本を回収する人」っていうのを思いついたんです。
高橋 なるほどなあ、自分の中の蠱惑的な悪みたいなところに行っていたんだね。その意味では僕の少年時代はトム・ソーヤのように素朴で健全っていうか…。あと、一歩がすべり台にいて、そこに自転車で麗実がやってくるっていう、あそこが僕は、ショットとして一番好きです。
鈴木 仲直りの場面ですね。
高橋 あれは、いいですよ。なんでいいのかよくわからないけど(笑)、あそこ、いいショットだなあ。
鈴木 なんでか、撮れたんです(笑)。よかったですね、あれは。カメラマンの中瀬慧(フィクション・コース第13期修了生)がわりとフレキシブルに、どんどんカメラを回せていたので。できるだけ、俳優さんの動きから撮り方を見つけるという意識だったと思うんですけど。
高橋 この映画に名を連ねているスタッフ陣の、ほとんどが13期生ですよね。
古澤 音響の川口陽一は11期。佐野真規もそうですね。あと、13期の石川貴雄を助監督として呼びました。佐野と石川は、ちょっと光るところがありつつも、いまいち演出力に心もとないところがあったので、アクターズ・コース第一期のティーチング・アシスタントに佐野を呼び、二期で石川を呼んだんです。つまり、俳優が何を考えているのか、俳優のあり方みたいなことに接することで、何かひと皮、むけてくれるんじゃないかと思って。結果的に、彼らはその後撮った短編で、いくつかの映画祭に引っかかるようになって。フィクション・コースだけでは得られなかった視点を、アクターズ・コースで得られたんじゃないかと思います。
鈴木 『ジョギング〜』の時は、中瀬くんと佐野くんと石川くんに来てもらったくらいだったんだけど、ある時点で、川口くんを呼ばないと作品として完成し得ないということがわかって(笑)。その後に『ゾン〜』だったので、五十嵐皓子さんとか磯谷渚さんとか、浜田みちるさんとか本田雅英くんとか、大橋俊哉くんたち13期生が、本格的に加わってくれた。
高橋 大城亜寿馬くんは、脚本コースから来たんだよね。
古澤 大城くんは、コースを超えて、みんなで撮ってみる「自主映画レッスン」という課外活動があって、そこによく来ていたんですよ。それで仲良くなりました。
鈴木 みんな、頼もしかったですね。
古澤 彼らは修了してから数年経って、実際に現場に出ていますからね。その経験もあったんでしょうね。『ジョギング〜』もこれも、アクターズの子たちがしみじみと「映画の撮影って大変だなあ……」って圧倒されちゃうくらいだった。
鈴木 俺のせいか(笑)。やってみてわかったのは、究極の形をやってしまったなあということ。俳優陣が、関わりすぎてる。ここまで作品全体に関わると、そりゃみんな、芝居できるよね?っていうか。各方向から考え抜かれた、生々しいものとして体現しうるんだけど、果たしてここまでやる必要はあるのか?っていうのを、実は考え直しているところです。あれから4年経っているので、あの頃と今とでは、考え方が違うかもしれない。当時は「映画を作る」ということを、職業としてではない可能性を探りたかったんですよ。それをどこまでもやりこむ!っていうので生まれたのが『ジョギング渡り鳥』であり『ゾンからのメッセージ』だった。撮影が終わったあとも、自分たちの意志で合成してみたり、宣伝配給してみたり。
演劇をやる時は、自分たちで舞台を作ったり、小道具を用意したり、チケットの管理をしたりするじゃないですか。僕たちは、映画でそれをやってみたわけです。シナリオ開発から、公開まで。で、『ジョギング〜』に出てた中川ゆかりさんはその後、海外ドラマの吹き替えの会社に入って、この間初めてディレクターをやったそうなんですね。つまり「演じる」ことの枠を、中川さんは以前より広くとらえたいという興味関心があった。そういう、映画にはいろんな関わり方があるのだということを、見せることができたかなあと思いつつ、やりすぎだろう!とも思いつつ(笑)。
古澤 もちろん、参加できてない人間もいますので。そこは難しいなあと思います。現場で超短期決戦で、自分でメイクして自分で着替えて、早朝から深夜まで撮影してましたから。「映画って大変だなあ……」って思わせてしまって当然というか。
高橋 ちなみに、これは、何日くらいで撮りきったの?
鈴木 追撮を加えて10日です。
古澤 10日の撮れ高では、ないですよね(笑)。
高橋 映画の作りとして、いわゆるオーソドックスな商業映画の、人物の登場の仕方とか立たせ方とは、違う感触ですよね。冒頭、ある登場人物が歩いているところから始まるけど、その人が主人公なのだとは思わない。ひょっとしたら風景の一部なのかもしれない、くらいの感じで観てるでしょう。その後、いろんな人が出てくるけれども、「この人が主人公だ」みたいなことが、パキッと立つようなフィーチャーの仕方は一切しない。「そこにいる人を見てる」感じが、ずっと続くわけです。あの感じは、なんで生まれてくるんだろう。
古澤 群像劇、っていう意識は、始めから持ってましたけど。
高橋 でも『ジョギング〜』の時は、僕は中川さんが主演なんだろうなと思ったんですよ。
鈴木 中川さんは、向こうからこっちに向かって走ってきたからじゃないですか。あと、『ゾン〜』ではすぐ一歩にカメラが向くので。
古澤 そう、タイトル明けが、一歩じゃないですか。最初に出てきた人間が、誰かに関わり始めると「この人の物語なんだな」と思うけど、歩いてて穴をのぞくぐらいだと、主人公感は出ないんだなあって思いましたね。
鈴木 出ないね。あまり引っかかってこない感じ。
高橋 そうね。何だろう。この「そこにいる人を見てる」感。
鈴木 スタンダード・サイズ……は、関係ないか……
高橋 ああ、スタンダード・サイズだもんね。
古澤 あと、会話劇だっていうのもあるんじゃないですか。「ゾン」っていうスペクタクルはあるけど、基本的にずっとしゃべってるだけですからね。
鈴木 ホンしかない段階では、ディスカッション映画だなあという印象がすごく強かった。
古澤 試写で「演劇っぽい」という感想をいただきましたね。
高橋 ああ、演劇の作劇に似てるっちゃあ似てるのかな。演劇って、映画ほど、主人公がはっきりわからないような作り方をするもんね。
古澤 もしかしたら、ワークショップとか稽古場で、エチュードしながら作っていくと、そっちに引きずられるのかなと思いますね。全員参加の現場で、誰かひとりの芝居ばかり作ってると、見学してるみんなのことの方が気になってきたりするので。みんな、一定の分量、平等に出る。っていうような配慮が、どこかで働きます。
高橋 「Bar湯」で山内健司さんが、犬の話をするじゃない。すごく意味ありげなんだけど、特に回収はされないよね。
鈴木 すごく意味深ですよね(笑)。でも、実はあの「Bar湯」のそばに犬が住んでいて、吠えてる声が入ってるんですよ。貫太郎の家のあたりにも。で、全然関係ない話をしているようでありながら、最終的には絶妙に、古澤台本に返っていくんです。あの場で、いろんなアイデアを交わしながら、最終的には古澤台本に戻るんだという意識が、僕だけじゃなくて役者たちにもあったんだと思います。
古澤 ほんと、最近になって「変だな」って気づいたんですけど、貫太郎の年齢設定を「32歳」にしてるんですね。で、劇中、ホタテを水着に見立てて彼は「武田久美子」の話をしてるんですけど、それって僕の世代、今40代半ばぐらいの人に通じる話なんですよ。
鈴木 僕でさえ、わからなかった。
古澤 「これ、どういう意味?」って聞かれて「武田久美子です」って答えたけど、よく考えると、アテ書きにしては、僕自身を投影しちゃったなっていう。
高橋 あそこも、さっきも言ったけど、「悪」と「エロ」が結びつくというのが、古澤くんの世界だなあ!って思った。
鈴木 僕もそこが、古澤くんに「他人」を感じた瞬間でしたね。
一同 (笑)
鈴木 あとになって、「田村」たちのシーンを追撮しようと思ったのは、僕がそこを一番つかみきれてなかったからかもしれないです。「エロ本を拾い集める」ことを共有した男たちの物語に、僕の力が入り切らなかった。それがうしろめたくもあったので、映画美学校映画祭が終わったあとに、「田村」たち3人組のシーンを、即興で撮ったんです。
古澤 台本上では、あの3人がバンドを組んで、彼らが出ているテレビ番組を、みんなが「Bar湯」で観てるっていうラストシーンだったんですよ。
高橋 ふううん!
古澤 でもそれは、黒沢清さんの『ニンゲン合格』(99年)のパクリで。あの映画で唯一、家族全員が集まるシーンがあるんですけど。ひとりだけその場にいない人間が、テレビをつけたら映ってるっていう。
鈴木 一歩と麗実の年齢設定は19歳ですけど、演じたふたりは20歳で、「映画美学校を修了したら僕たちはフリーターなんです」って高橋隆大が言ったんですね。だからこのふたりの行く末に関しては、はなむけとして、ちゃんとしてあげよう!っていう思いが、講師陣にはあったと思います。
——最後に、この映画は、どんなふうに届いてほしいですか?
高橋 その話は、ぜひしないといけない。2014年、映画美学校映画祭で初めて観たときは「これが映画美学校修了作品として世に出ていくのだ」という納得の仕方をしたんだけど、4年経ってますます、インディペンデント映画の流通がせちがらくなっているっていう現実に気付かされるんですよ。まだ観てないんだけれど、ENBUゼミから生まれた『カメラを止めるな!』(18年、監督:上田慎一郎)ぐらいのことをしないと、自主映画は認めてもらえないっていうふうに、変化してきていると思うんですね。いや、昔からそうなんだけど、最近、より顕著になっている。
古澤 その点でいうと、『ゾンからのメッセージ』は徹底してオルタナティブなところに立っているなあと思います。僕と卓爾さんって、長いつきあいではあるけれど、資質は全然違うタイプの作家だと思うんですね。いい意味で、水と油が同居してる映画だなと。だから試写でいろんな人に感想をもらうと、本当に千差万別なんです。受け止めるポイントが、ひとりひとり違う。僕もまだ観ていないんですが、『カメラを止めるな!』と『ゾン〜』の両方を観た人の感想を聞くと、前者は映画を観ている時間内にすべてが完結されていると。後者は、観終わって、自分の生活に戻った時に、自分に引き寄せて考えることができる映画だと。どっちがいいとか悪いとかではなく。
鈴木 何名かの方が、翌日になっても、ふと空を見上げてしまったっておっしゃるんですよ。それが嬉しかった。
古澤 道子さんに共感する人もいれば、晶に共感する人もいて、貫太郎のあり方に泣いたっていう人もいて。
鈴木 貫太郎達の最後のシーンで号泣したと、私の短編映画『駄洒落が目に沁みる』に出演してくれた俳優の廣田朋菜さんが言ってくれました。
古澤 脚本家や監督が統御できない余剰があるのが、自主映画の面白さなんだろうなと思うんです。だからとにかくいろんな人に観てほしいし、それが否定的な感想であっても、その人にとっての「鏡」になるのが、この映画なんじゃないかなと思いますね。だから「こういうお客さんにぜひ!」っていうターゲッティングができないあたりが、商業的にマズいんだろうと思いますけど(笑)、それが自主映画らしさかなとも思うんですよね。
鈴木 僕は、映画を観ていろいろ考えをめぐらせてほしいなあというのが、昔から変わらない思いなんですよ。で、そういう映画が、ほんとに減ったなあ!って思うんです。バックステージものとか、メタ構造とか、即興性とか。もっと大きく、「試す」べきだと4年前は思っていたんですけど、僕自身はもう4年前と違うところにいたりするので、むしろお客さんにこの映画を見つけてもらいたいと思います。今年、まっさらな目でこの映画を観てくれる人の方が、この映画の行く末を見定めてくれるんじゃないかと思っていて。
試写会の手応えとしては、SF設定としてというよりも、自意識の問題として「ゾン」を見てる方が多いんですね。自分にとっての境界線とか、自分にとっての未来とか。それって、面白いことだなと思うんです。4年前よりも、今の世の中はずっと「自意識」を重んじる世界になってるから。思いのほか、時流に乗れてる映画かもしれない。ヒット要素じゃないですか、「自意識」(笑)。
高橋 「自意識的に観る」。へえー、そうなんだ。そういえば『勝手にふるえてろ』は古澤君と同じ1期生の大九明子監督がついに会心作を撮った!と思ったんだけど、あれも「脳内召喚」をエンタメにするっていう点で共感を得てるのかもね。
鈴木 「誰にとっても等しく起きた何か」というよりは、誰かの夢の中で起きている(という可能性も込みでの)映画実験だというふうに観てくれる人がいて。そういう意味じゃ、それこそ『惑星ソラリス』(72年、監督:アンドレイ・タルコフスキー)的じゃないですか。だといいなあって思ってるだけなんですけど。
古澤 僕が今やっている仕事は、「こういう人たちをターゲットにして、こういう映画を作ってくれ」っていうオーダーに応えることなんですよ。そういう職人仕事をやりたいという気持ちがすごくあるので、やりがいもあるし面白い。でもこういう自主映画を作る時は、「自分が観たい映画を作る」っていうことにしか意識が行かないですね。「当たる」「当たらない」とか、「ウケる」「ウケない」は考えないです。
高橋 コンセプチュアルな実験性を楽しんでくれる客層が、年々、限られてきている感じを、僕はひしひしと受けるんです。昔からあることなんだけど、もっとせちがらくなってきてる。そんな折に、『ゲット・アウト』(17年、監督:ジョーダン・ピール)を観たんです。根っこにすごくコンセプチュアルなものがあるのに、それをちゃんとエンタメに落とし込んでいた。そういうことができなければいけないという圧が、これからの映画作家には、かかってくるのかなあと思うんですね。
それを感じながら『ゾン〜』を観たら、めっちゃ反時代的なことをやっているわけです(笑)。『ジョギング〜』の頃はまだそんなに感じてなかったと思うんだけど、今、2018年になってみると、とても反時代的な流れの中で生まれてきた映画だなと思ったんです。
古澤 この映画はそもそも、出発点がタルコフスキーなわけです。タルコフスキーの映画って、観る人は観るけど、ヒットはしないじゃないですか(笑)。
高橋 そういう作家の時代が、堂々と存在していたということが、今、忘れられているよね。「え、そんなのあったんすか?」みたいなことになってきてる。ヒットしないけど、長い時間軸で考えると、観られ続ける映画。横に広がらないけど、縦にずっと、長い歳月観られ続ける映画があるってことが、どこかで置き去りにされてる感じがするんですよね。プロデューサーと話したりすると、自分が10年前に当然の前提だと思っていたこと——つまり「マイナーはマイナーとして在っていいじゃないか」ということが、だんだん言いにくくなってきた気がして。
古澤 それはもう、僕は、みんな映画に興味がなくなってるんだなと思います。かつては、一般の人も含めて映画が好きで、「普通の映画は見飽きたから、もっと変わったのを見せてくれよ!」っていうニーズがあったと思うんですよ。面白いかどうかは別として、「変わってるねえ!」「普段観てる映画と違うわー!」っていうことを楽しめる人たちがいた。でも今は、映画はいろんな趣味のうちのひとつで、たまに面白いのだけを観られればいいと。映画そのものでおなかいっぱいになれなくてもいいや、っていう人が多いんだろうなと思いますね。
高橋 そうなんだよね。僕らが変わったことをやろうとすると、プロデューサーが言うのは、「変わってることが面白いっていう人は、今はいないから、あたかも充実したエンタメであるかのように偽装して出してくれ」と。確かに、『ゲット・アウト』は、それをやっている。今、世の中を見つめる目として、新しいんですよ。それを、エンタメに落とし込んでいる。そこに気がついた監督さんは、うまいものだと思ったんです。まあ、ハリウッド映画はずっとそういうことをやってるんだから鍛えられているんだろうけど。
古澤 タルコフスキーも、上映当時は時代的にアクチュアルなことをコンセプトにしていたけど、観てる僕らはそこから離れているから、「難しい映画だねえ」って言われちゃったりするじゃないですか。『ゾン〜』も、何の係留もなくふわふわと漂うような映画なのかなと思うんですけど。
高橋 作り方も含めて、今までにない作り方をした映画であるということを、面白がる観客も絶対いると思うんだけれど、その間口がだんだん狭まってきてるなという危機感がありますね。
鈴木 何度も観に来てくれたお客さんが、『ジョギング〜』の時にいたんです。10何度も。その人たちには確実に伝わっていることがあって、つまり「この時代にこういう映画がなければ困る」ということを、共有できているんですよ。すごく現在的な問題として。だけど、これがいわゆる一般客層には、伝わらないわけです。この不思議(笑)。「理解」というものがすごく限定的なものになっていってしまうのか、だとすると宣伝はその「理解」を得ようとするのではなく、「オーロラの空の下で暮らしている、小林聡美さんともたいまさこさんみたいなほのぼのバーの物語♪」みたいなことでいいんじゃないかなあとか(笑)。世の中の主流というものがわからないまま、ついついここまで来ちゃいましたけど、いよいよわからなくなってきました。
古澤 僕が感じるのは、お客さん側が、「今日はこういう気分だから、こういう映画を観て、こういう観客になる!」っていうコスプレをしているみたいな感覚があるんですよ。だから「泣ける!」「笑える!」みたいなことが前面に出されていく。でも「え、これって、どう受け止めたらいいの……?」っていう映画に対する観客の用意が、なくなってきているように思うんです。自分の中のモードをきっちり決められないと、映画に向き合えないというか。でも『ゾン〜』をはじめとする、ある種のマイナーな映画って、観る人に裸になることを要求しているんですよね。素肌全体で映画を浴びて、どう感じますか?っていう映画なんです。
高橋 たぶん「裸になる」っていう選択肢自体がない人たちだよね。「裸になる」っていう感覚がわかる人は、ある程度、表現というものに対して自覚的な人たち。
古澤 選択肢の幅が増えすぎると、行動できなくなるじゃないですか。お店側がある程度までセレクトした3つぐらいを「松竹梅」として提示されれば、お客さんは選びやすいけど、100個用意されたら、もう、どうしたらいいかわからない。僕はいまだにNetflixとか、Amazonとかの見方がわからないんですよ。この中のどこに自分の欲しいものがあるのか、ここでどういうふうに映画に向き合えばいいのかがわからないんですよね。
——すでに欲しいものが決まっている人のためのシステムですからね。
古澤 そのシステムの中では、何にも知らない、観たことのない映画を観てみようっていう気持ちには、ならないよなあって思うんですよ。検索ワードをあらかじめ知っておかなくちゃいけないから、まるで知らないものにたどり着く方法が、非常に限定されていると思う。そう考えると、劇場で上映するってことが、最後の砦なのかなって思うんです。「ポレポレ東中野でやってるんだ、じゃあ行ってみようかな」という。だからとにかく『ゾンからのメッセージ』という映画があることだけでも、まず世の中に広めていかないとなって思っています。
(2018/07/03)
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