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社会現象、なのだそうだ。聞くところによると、「ミュージシャン」の「伝記映画」が「右肩上がりの興収」を記録していることは「異例」なのだという。じゃあ、その異例に乗っかってしまおう。誰か、『ボヘミアン・ラプソディ』について語りませんか! そう持ちかけたら、千浦僚が、フレディ服で現れた。なるほど。これは、祭りだ。(ネタバレしまくりです!ご注意ください)
千浦僚
映写技師。映画記事ライター。1975年生まれ。高校のときALTのインド系アメリカ人のおねえちゃんと仲良くなってニルヴァーナの話をしたりグレッグ・アラキの映画を観にいったりした。そのひとはシーク教徒で教義のため髪を切ったことがないそうで超ロングヘアでニルヴァーナやダイナソーJrが好きだった。
市沢真吾
映画美学校事務局。楽器が弾けないのに高校時代はHR/HM系のコピーバンド(ボーカル)、大学時代はスーサイドみたいな二人組ユニット(サンプラー担当)をやってました。
大畑創
監督作『大拳銃』や『へんげ』など。連ドラ『拝み屋怪談』が最新作。音楽はやる側ではなく聴く側。かつてはライブやクラブやフェスなど行ってた。
内藤瑛亮
映画監督。1982年生まれ。代表作『先生を流産させる会』『ミスミソウ』など。最新作『許された子どもたち』仕上げ中。中高生の頃はマリリン・マンソンとナイン・インチ・ネイルズをよく聴いてました。
内藤 僕は2回観たんですけど、明らかにクイーン世代ではないような、若いお客さんを見かけましたね。
大畑 僕は、立川の極音上映で観たんですけど、ほぼ満席で。上映後には拍手が起きて、すごい盛り上がりでした。
千浦 私は新宿のシネコンの深夜の回に行ったんですけど、夜にしては入ってると思ったし、終わった後、すごく泣いてる人がいたり、熱心に話をしてる三人連れを目撃したり。そのひとたちは二十代半ばくらいで、この映画でクイーンを知った人たちっぽかった。あと、もっと年季の入った、クイーン世代と思われる人たちが、帰りのエスカレーターでめっちゃ歌ってたりとか。
市沢 テレビとかでも、特集してるんでしょう。
——先日は「クローズアップ現代」がクイーン特集でした。
内藤 監督の降板劇とか、よくない噂が出回っていたじゃないですか(※監督をしていたブライアン・シンガーが、秋休みから現場へ戻らず、契約を切られた)。コケるんだろうな!っていう雰囲気があったし、若い人はクイーンを知らないわけだし。なのに、当たった。
市沢 うちの小学2年生の子どもは、ビートルズは知らなかったけど、クイーンっていう名前は知っていたんですよ。
一同 へえーー。
市沢 でも今一番ホットなのはDA PUMPの「U.S.A」ですけどね。
千浦 4歳のうちの子も「U.S.A」のサビを歌い踊るわ……。
内藤 これからは学校とか保育園の行事で、クイーンの曲、ばんばんかかりそうですね。
市沢 そうだね。そういう場で、レッド・ツェッペリンとか流れないもんね(笑)。
千浦 やっぱり、クイーンの曲はキャッチーなんでしょうね。フレーズが覚えやすい。
内藤 ツェッペリン好きの父親は、クイーンを邪道に感じるらしくて、すごい馬鹿にしてて。母親はクイーンが大好きでした。
千浦 ああ、幼い内藤さんに『チャイルド・プレイ』を見せて育てたというお母さんね。
内藤 そうです(笑)。
市沢 僕は、あの頃の洋楽ロックを聞いていたけど、クイーンは通らなかったですねえ……
内藤 大畑さんは、聞くんですか。
大畑 全然聞かない。もちろんテレビとかで聞く機会はあるから、知ってはいるけど。
内藤 僕は中学の同級生に、クイーンがすごく好きな子がいて。その子が体育祭の演技種目で『We are the Champion』を使ってて、いい曲だなと思って、そこから聞き始めたんです。リアルタイムじゃないけど、中学ぐらいからずっとクイーンが好きでした。だからこの映画が微妙に史実と違うことは、たしかにちょっとだけ気になりましたね。一番最初の、ノイズとして。「あれ、そうだっけ?」みたいな。『We Will Rock You』のとき、髭あったっけ?とか。
市沢 僕が気になったのは、映画のフレディ、ちょっと線が細いなと。銀杏BOYZの峯田和伸みたいだと思った。
内藤 確かに、あの体格で、あの声量が出るのかなって心配になる(笑)。
市沢 ただ、思い返してみたら、彼が暑苦しくなかったから観れたのかも。フレディ・マーキュリーの話なのに、暑苦しくない。
内藤 そもそも「フレディ・マーキュリーは暑苦しい」っていうイメージですか?
市沢 暑苦しいですね。でも映画の方はもっと、はかない感じを受けました。もし峯田さんが筋肉ムキムキにして、いろんなことに強がりながら生きてたら、これは切ないなあ……!って思うよね。
内藤 映画のフレディは弱々しくて、居場所をずっと探し続けているっていう感じでしたもんね。ずっとキョドってた。
——子犬のような目だったです。
内藤 僕は曲だけ聴いてた浅いファンだったから、恥ずかしながらフレディがインド系だったとは知らなくて。言われてみれば、そういう顔立ちをしてたなとは思うんだけど。映画の中でも、法的に改名したって言ってたじゃないですか。それもすごいなと思って。そんなに変わりたかったんだ!と。
千浦 っていうことを僕は、映画を観て初めて知りました。
大畑 僕も、クイーンのことを全然知らないですけど、フレディってああいう「気持ち悪い奴」っていうことでいいんですかね。あの俳優さんの、外見の造形が、ちょっとこう、フリークスっぽいじゃないですか。
内藤 ブライアン・シンガーが休暇から戻ってこなかったのは、ラミ・マレックの芝居が気に入らなかったからだ、みたいな説もあって。その気持ち悪さのせいですかね(笑)。本人はそういう演技プランでやってて、ブライアン・シンガーは「なんでそんな気持ち悪い芝居するんだ」って思ってたかもしれない。
大畑 にしても、やりすぎじゃないかなと思った。歯をぺろぺろなめたりとか。
内藤 出っ歯、過剰でしたね(笑)。ただ、その過剰さを通して、彼の「普通の人と違う感じ」が、知らない人にもわかりやすく届いたのかもしれない。
千浦 あの鼻下にヒゲのあるフレディの姿って、ある種パロディみたいに使われたりするじゃないですか。大九明子さんが監督した『勝手にふるえてろ』には、上司がフレディ・マーキュリーに似てるっつって「フレディ」ってあだ名をつけて、松岡茉優が『We will Rock You』のドン、ドン、パンのリズムで机を叩いて同僚とクスクス笑う場面がある。あれは原作にない映画オリジナルのネタで、主人公のセンスを表現した良いシーンだったと思うけど、それくらいフレディは個性的で、滑稽だとも受け取られていたのに『ボヘミアン・ラプソディ』がこんなにヒットして、みんながフレディの内実や悲劇性を知ってしまうと、もうフレディをギャグにできない!っていう現象が起こる気がする。
内藤 マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』もそんな感じじゃないですか。それまで笑いものにしてたけど、すごい人だったってことにみんな気づいたというか、気づけたというか。あと、古澤さんが指摘していたところなんですけど(※この座談会への参加を古澤健に打診したが叶わず、代わりにメールで映画の感想を全員が受け取った)、ライブ・エイドの場面でフレディが投げキッスを2回するんですよね。序盤と終盤に。そのカットバックが、実家でテレビを観ているお母さんなんですよ。お父さんとの切り返しの方が大事じゃないの??って思ったんです。この映画は、僕は全体的にすごく気に入ったんですけど、親子のエピソードだけ、ちょっと引っかかっているんですね。まず父親からの期待を拒絶して「フレディ・マーキュリー」を作り上げ、最後、父と和解して、「家族」のもとに回帰してからライブ・エイドに行くっていう流れなのに。
千浦 しかもアフリカ飢餓救済のライブ・エイドにね。フレディの生まれはアフリカなんだから、すべてがぐるっと、うまいこと回収されたかのよう……。
内藤 そのわりには、お父さんとのエピソードが、記号化しすぎじゃないかなって思うくらい、サラッとしてて。しかも、フレディと家族の切り返しが、お父さんじゃないんだ!っていうのが、僕も気になっていたところで。
千浦 あの、強い投げキッスね。瞳孔が開いた感じの。
——ライブ・エイドの朝、実家に新恋人を連れて行って、お茶して帰る玄関先でフレディが「ステージから母さんに投げキッスをおくるからね」的なことを言うんです。
内藤 その前振りの回収なんでしょうけど、投げキッスのところじゃなくても、フレディと父親との切り返しを入れるべきじゃなかったのではないか、と。
千浦 僕は、そこの整合性はあまり気にならなかった。あの映画の構造として、「すごいパフォーマンスしてます!」っていうのを観客に伝えるため、映画として表現するために、彼らの演奏にリアクションしている人たちの画をすごく拾ってるじゃないですか。ライブ・エイドのお客さんもそうだし、メアリーと新恋人のハットン氏を舞台袖に置いて……
内藤 あんなにちょうどいいところに(笑)。
千浦 そう。あと、ブライアンとかロジャーとかジョンの顔をやたら拾ってる。「俺たち、今、一番いいパフォーマンスができてるよ!」っていう感動の顔。それにつられて、映画の観客もみんな感動していくっていう。
大畑 マイクをめっちゃ真剣に必死にフレディに渡す人がいたじゃないですか。たぶん、マイクを渡すためだけの係の人が(笑)。
千浦 高い足場に座ってる人とか、最前列の警備の人も、仕事しながらクイーンのパフォーマンスにニコニコしてる。
内藤 ああいうカットがあると、豊かになりますよね。
千浦 こういうのは、ホラーを撮ってる大畑さん内藤さんにとっても、重要なことなんじゃないですか。
内藤 怖がってる顔が怖い、っていう。『ヘレディタリー』もそれでしたよね。
大畑 あれも顔芸がすごかったね!
市沢 フレディ・マーキュリーのアクション自体に、リアクションが混ざってるじゃないですか。観客の空気感を感じて、高まってくるものを、フレディは自分のアクションにフィードバックしている。その昔、筒井(武文)さんが言っていた、「アクションの中にリアクションが内包されている」というやつ。
千浦 溝口健二が生きてて『ボヘミアン・ラプソディ』のラミさんを観たら、「うん、反射してますね」って誉めるかもね。
内藤 クイーンの初めてのライブシーンで、マイクスタンドをうまく持ち上げられないのも、すべて、ライブ・エイドに向けてのピース作りのような構造になっていますよね。
——こういう動画を、見つけたんです。(※映画と、本物のライブ・エイドの映像を、並べて見せてる動画。たぶん違法)
大畑 おおお。すごいな。
千浦 これは、練習したと思うよ。完コピじゃないか。……でもやっぱり、身体のボリュームが違いますね。
市沢 僕も、それが気になっちゃった。
大畑 僕、このライブ・エイドに、ポールがいてもいいんじゃないかと思ったんです。ポールがどんな顔をしてこれを観てるか、すごく知りたい。
内藤 テレビで観てても、いいですね。
大畑 俺、結構、ポールが好きだったんですよ。車の中で、ソロ話を持ちかけるときに、「俺知らねー」「何の話?」ってとぼけるじゃないですか。
市沢 そして「俺も孤独だったんだ」って、自分の実感の話をして誤魔化す(笑)。でもなぜ誤魔化せるのかといえば、あれも彼の本心だったからですよね。
千浦 自分はアイルランド人でカトリックなのにゲイで、父親は俺が死んだほうがましだと思っている、とか言う。こいつ、急に自分の説明した!という。
市沢 一番最初にフレディを誘う時の、表情とか台詞回しとか声とかはほんとに、アメリカ映画でよく見るキャラですよね。あの人、いいですよ。
内藤 あと、病院で会うエイズ患者もすごくよかった。「エーーオ」って呼びかけて、「エーオ」だけで気持ちを伝え合う。アメリカ映画ってああいう、役名もないような人が、すごく印象に残ることがよくあって。日本映画であれをやろうとすると、ほんと、どうでもいいことになっちゃうじゃないですか。
大畑 ただの、エキストラ的な。
内藤 そう。寄りは撮らなくていいや!ってなっちゃいますよね。
大畑 超選んでるなあ、あれは絶対。
内藤 マイクスタンドをフレディに渡す係の人も、すごいオーディションしてるのかな(笑)。
大畑 「ちょっとこれ、渡してみて」。
千浦 あの格好した人が、ずらーーっと数ブロック並んだはず。
大畑 その中で、一番光る奴を(笑)。
千浦 ライブ・エイドのところに出てくる人たちは、端役に至るまで、YouTubeを擦り切れるまで観て臨んだと思いますよ。……擦り切れないけど。
一同 (笑)
千浦 でも、そこが、落ち着いてみると引っかかるところで。ラミ・マレックさんの動きだけを観てても、本物のフレディが生々しい印象的な動きをしたところが、わかっちゃう。「ああ、これは、本物がした動きなんだろうな」って。その場にしゃがんで、マイクスタンドをこう、股間にあてるところとか。つまり、生々しく見える芝居こそが模倣だという。そこが、再現映画や伝記映画の不自由なところで。見事にできてはいるけど、なぜか不自由。嘘がつけないところというか。
内藤 動きを変えたら、濃いファンに叩かれますからね。
大畑 でもそこは、ガンガン嘘ついてもいいのになあと思っちゃいます。
千浦 今日、この座談会で語るにあたって、前情報を入れた方がいいのか、やめたほうがいいのか、悩んだんですよ。でも、予習したところで「にわか」にすぎないから、魂のこもらない勉強はやめようと思ったんですけど、でもやっぱり世の中はどういうふうに言っているのか、気になったのでSNSを覗いたんです。それで、はーー!と思ったのは、超コアなファンで、それこそ、ビデオテープが擦り切れるほどにライブ映像をずっと観てきた人は、「ここは決定的に動きが違う!」みたいなことが気になるらしくて。あと、何回もこの映画を観ているんだけど、「これ以上観ると本物の記憶がこの映画に上書きされてしまう!」と仰ってる方もいて。
内藤 それは、だいぶ重度ですね(笑)。
千浦 その、「このへんでやめとかねばならない感」とかはすごくいいなあって思った。
内藤 よく知ってる分野が描写されていると、フィクション上、仕方ないとは思いつつ、観ながら引っかかっちゃうことってありますよね。僕は教員をやっていたので、学校の場面があると「そこは、ないな!」と思ったりします。
千浦 私にとっては、映画館とか映写機とか映写技師の描写が……。でも専門的な知識を振りかざすのも野暮かなあと思う。全体の流れとして成立してたり、押さえるところを押さえていたら、そこは言うべきではないって思いますよね。
内藤 嫁が、安室ちゃんファンなんですよ。一緒に何度かライブにも行ったし、ラストライブも抽選が当たって、観に行ったんですけど。で、日本版の『SUNNY 強い気持ち・強い愛』を観たんです。90年代のコギャルの映画。でも嫁は、経験からくるノイズが強すぎちゃって。冒頭、『SWEET 19 BLUES』から始まって、コギャルの脚のアップが映るんですけど、でもあの曲は「コギャル的なもの」からの卒業の歌だから、コギャルの脚のアップにあの曲がかかるのはおかしい!って言ってて。
一同 あーーー。
内藤 その後、久保田利伸とかオザケンの曲でコギャルが踊るんですけど、「コギャルはそうじゃない!!」って。
千浦 確かに、オザケンはオリーブ少女かも。
内藤 嫁は他にもだいぶ引っかかってましたね。いつも映画についてあまりどうこう言わない人なんですけど、あの時はいろいろ文句言ってました。「オジサンがイメージするコギャルでしかない!」って。
千浦 『ボヘミアン・ラプソディ』について、いろんな言説が盛り上がり、ファンによる賛否両論が戦わされているのは、それに似てますね。作り手とか、日本で宣伝配給している人たちの思惑以上に、みんなガチだったので、いろんなことを思い、それを発言している。……ちなみに、私の話をしてもいいですか。『アンダー・ザ・シルバーレイク』っていう映画を観ましてですね、そしたら、世の多くのポップソングや有名ロック曲をソングライターの化物みたいなジジイが一人で書いててそこには暗号が隠されている、とか、そのジジイがニルヴァーナの『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』も自分がつくった、「ギターの音をひずませてでもおけば若者は喜ぶんだ」的なことを言うシーンがあったんですけど。私はニルヴァーナ直撃世代なので、そのシーンから、あの映画を急に、客観的に観るようになったんです。それまでは普通に暗号解読とか陰謀か妄想かみたいな物語展開とかを「おー、すげえなあー」って観てたんですよ。でも、あのシーンで急に、強烈な反感を覚えて。「ジジイ、ふざけんな!全然ちげーーよ!!」って。
一同 (笑)
千浦 それが、また映画の展開と、ある種、一致していくんですね。アンドリュー・ガーフィールドが、ギターでそのジジイを殴り殺してスカッとしました。
内藤 同じ思いだったんですね(笑)。じゃあ、『ラスト・デイズ』はどうだったんですか。カート・コバーンが出てくる映画。
千浦 あれは……ノイズが多かったですね。心のノイズが。
市沢 直撃世代だとそうだよなあ……。俺も『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、クイーンの曲を聞くかなと思いきや、10年ぶりぐらいにニルヴァーナを聞いたんですよ。
千浦 なにそれ(笑)。
内藤 基本に立ち返った(笑)。
市沢 そう。よく考えると、俺が好きだったのはニルヴァーナじゃん!って思い直して。
千浦 関係ないっちゃ関係ない話だけど、『ボヘミアン・ラプソディ(楽曲)』の歌詞がとても難解というかナンセンスだっていうところで思い出したのは『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』です。だってサビのシャウトが「混血児、白子、蚊、俺の性欲~」って曲なのよ。
内藤 ああ。「ティーン・スピリットの匂いがする」って何だろう?という謎がありますよね。
千浦 そこですよ。僕は、もちろんカート・コバーンの伝記『病んだ魂―ニルヴァーナ・ヒストリー』を読んでいるんですね。何日も風呂に入ってないカート・コバーンに向かって、女の友だちが「ティーン・スピリットの匂いがする」って言ったそうですよ。「おお、10代の魂か。いいなあ!」って思って曲のタイトルにしたところ、そういう名前の香水があって彼女はそれを指して言っていたとかいう。先の『アンダー・ザ・シルバーレイク』の怪物ソングライタージジイの場面を観たとき心の中でこの逸話を呟いたよね。で、『アンダー・~』の面白いところは、映画全体が、表現されたものを受け取ったり、それについてみんなが意見を交わしたりすることへの批評になってるってことです。ある作品に、明確なメッセージや正確な答えが用意されてるとしたら、それは、鑑賞する人の自由さの阻害であると。「答えがない」という寛容さとか、正しい答えにはたどり着かないほうがいい、みたいな。正解があるということは、そこからはじき出される人がいっぱいいるということだから。……っていうことを、『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観て、僕は勝手に思ったんですよね。
内藤 『アンダー・ザ・シルバーレイク』の話になっちゃうけど、「答え」を求めることに対して、主人公はそんなに情熱的ではないじゃないですか。あの気怠い感じが、すごく現代的だなと思った。みんな、答えが欲しいとは思うけど、そんなにみんな、頑張れない。だからラストカット、よくわかんないけど、悪い方にワンランク上がったみたいなことになるじゃないですか。
千浦 上がったというか、落ちたというか。その点、『ボヘミアン・ラプソディ』はシンプルだと思う。「フレディ・マーキュリー伝」「クイーン伝」として。マイノリティを生きる人の、戦いの生涯。一度自分を見失うけど、ぐるーっと一周して、再び自分を取り戻す。
内藤 この映画がヒットしたから、ミュージシャンの伝記ものって増えると思うんですよね。今回、うまく行ってるのは、味付けをあまりしなかったからかなと思います。あるものを、素材のまま、出してる感じがして。作り手って、いろんな味付けをしたがるものなんだけど、そうすると、ファンが観たくない味付けがされてしまいがちで。ファンが欲しいものそのままを、この映画は出せてるんだなと思うんです。ただ、映画監督として複雑な思いがあるのは、監督が途中降板してるんですよね。しかも、ヒロイン役のルーシー・ボイントンが、何かのインタビューで「ブライアン・シンガーには(現場で)ほとんど会ってない」ってコメントしているんですよ。
一同 へえーーー。
内藤 編集とか音とか、仕上げはデクスター・フレッチャーがやっているんですよね。映画って、プロデューサーが企画して作り上げるものとも言えるんですけど、今回は特に、プロデューサーのコントロールでうまく行った映画だと思う。それが、映画監督として、喜んでいいのやら、どうやら(笑)。
市沢 そういう意味では……ドラマとして薄かったとも言えるのかな。ライブ・エイドを観る時点で、「あれはどうなったんだっけ?」っていう懸案事項がまるでないじゃないですか。それまでの間に、すべて解決されている。あとは、ライブ・エイドだけ!っていう。
千浦 勝負はもうついてたね。
市沢 ドラマを気にする必要がないから、あとは、ライブ・エイドの観客として楽しめればいい。そこが、多くの観客がコミットできた理由なのかも。
千浦 そこに至るまでのテーマとか、キャラクターの変化については、すごく筋が通ったドラマがあったと思う。中盤、フレディが「観客が歌ってくれたんだよ!」ってメアリーにリオのライヴの映像を見せるところで、彼女に対して性の悩みをカミングアウトするっていう流れになるじゃないですか。あそこは意味合いとして面白いなと思った。フレディが「君への歌を観客が歌ってくれたんだよ!」って言うけど、場面として肝心のおめーが歌ってねーよ!っていう。そこから彼は、自分のアイデンティティに悩んだり、自分が「これだ」と思っていた道のりから離れていくわけですけど。それでどん底から復活して、立ち上がったライブ・エイドのステージで、自分も歌ってるし、みんなも歌ってるし、別れた彼女も、今の恋人もみんないる。人生の完璧な状態を実現する。どん底から、絶頂に上がっていくまでの流れの構造が、音楽を数珠つなぎにしていきながら、うまく組み立てられていたと思います。
内藤 この映画の「フィクション」に対するスタンスが、クイーンやフレディ・マーキュリーの考えと、近かったんじゃないかと僕は思っていて。一番大きく史実と違うのは、エイズの告知のタイミング。本当はフレディがエイズと診断されたのも、メンバーに告白したのも、ライブ・エイドの後なんですよね。その後、クイーンは、フレディの死期を悟りながら、実質的には最後のアルバムとなった『イニュエンドウ』を作っているんです。この映画では、その感じをライブ・エイドにあてはめたんだろうなと思います。フレディの死と向き合いながら、みんなで一緒に作品を作ったことが、あのメンバーにはあったんだという事実。また、エイズに苦しんだフレディの姿を描いていないという批判もあるけど、クイーンの音楽自体が、陰惨な現実を突きつけるような作風ではなく、美しい虚構をみんなと共有するというスタイルだったのだから、そこも筋が通っていると思いますね。映画の終わり方も、そんなに湿っぽくならないじゃないですか。まず『Don’t Stop me Now』で軽やかにエンドクレジットがはじまり、『The Show Must Go On』で幕を閉じる。死期迫るフレディが歌った、『イニュエンドウ』の最後の曲。その、信念みたいなものを、フィクションに落とし込んだんだろうなと思って、そこに僕は、納得したんです。
千浦 ブライアン・メイとロジャー・テイラーが、この映画に深く関わってるんですもんね。公認ですよね。
内藤 そうです。その点においては、文句は言わせない(笑)。
千浦 ひょっとしたら、当事者たちによる、「こうだったらよかったなあ映画」なのかもしれない。だって、全体的に、めっちゃめちゃいい話ですよ!
一同 (笑)
千浦 大ゲンカして、もうこいつらバラバラだな!って思ったら、曲作りしながら熱くユナイトするっていうさ。映画監督なんて、人が悪くてナンボの生き物だから、物足りなかったんじゃないですか、大畑さん。
大畑 僕はもっと、ポールに活躍してほしかったです。
一同 (笑)
千浦 この映画で描かれているのは、多くの人にとって同性愛のカミングアウトが一般的ではなかった時代ですよね。でも今はみんな「カミングアウトしよう!」って言うでしょ。それも余計なお世話で、するかしないかは、本人の問題だけど。でね、その、いまよりももっと暴露っぽい感じで「言っちゃえよ!」ってされる物言いが嫌よね、っていうシーンが劇中にあったじゃないですか。ニューアルバムの記者会見。
内藤 古澤さんもメールに書いていましたね。「女性記者の腹の座り方に感心した」と。
千浦 あの記者は、ある種の脅威として描かれていたでしょう。
内藤 男性記者の方が下世話な質問をしていて、女性記者は芯を食った質問を投げかけている。顔のアップが何回も入ってきますよね。
市沢 ブライアン・メイが「誰かアルバムの話をしませんか……」って言うの、ミュージシャンはみんなそう思うんだろうな!って思った。
一同 (笑)
市沢 あと、「曲ができるまで感」がちゃんとあったよね。ああ、今、ここで曲ができている!っていう。それを観客も共有しているから、後でその曲が流れた時に、「あの時の曲がここへ来た!」って思う。曲自体が伏線。曲のカタルシスを増幅させてる。
内藤 『ベスト・キッド』の練習シーンと一緒ですよね(笑)。農場のスタジオで『ボヘミアン・ラプソディ(楽曲)』を作ってるところも面白かった。
大畑 ああいうことって、映画美学校のそこらへんでみんなやってそうな光景ですよね。
一同 あーーー(笑)。
市沢 スタジオ付きのエンジニアが、「もう変なこと思いつくのやめてくれよ!」っていう顔をするじゃない。あれがもう、ほんとに気持ちがわかる。「そういうの、別んとこでやってくんねーかな!」みたいな顔を、すげーしてるじゃないですか。
内藤 それは、市沢さんの思いじゃないですか(笑)。
大畑 「初等科の奴ら……!」って(笑)。
市沢 どこの国でも、クリエイティブなことをやっている人たちのそばで、完全に官僚的な仕事を、黙々とこなしている人間がいるんだなと思った。ライブエイドでジム・ビーチが、音響卓の音量のレベルを上げるのとか、事務方の人間からすると「ほんっっとやめてくれよ!!」って思う。
一同 (笑)
大畑 MAXまで行っちゃってましたからね。
市沢 MAXまで行って、さらにその下にテープを貼って、音量が下げられないようにしてるんだよ。それでスピーカーが飛んだらどうするんだよ! その後のライブができなくなるんだぞ! それを処理するのは俺たちなんだぞ!!
一同 (爆笑)
千浦 でもさ、若い人は、この映画の最初のスタジオ録音みたいな、ああいうことしないとダメだよね。ちゃんと考えたうえで常識的なことを超えようとすることを……
市沢 そう。そうだな!って思った。だから僕はライブよりも録音シーンが印象に残ったんですよね。
——あのエンジニアに感情移入する人は珍しいと思うんですが、皆さんは他に感情移入した登場人物はいましたか。
内藤 フレディには普通に感情移入をして観てました。メンバーにエイズを告白するところと、ライブのシーンは普通にちょっと泣いちゃいました。やっぱり、好きだったんで。
市沢 あと、ジム・ビーチが、一線引いて俯瞰しているように見えて、実は一番親身になっている感じがよかった。分をわきまえた理解者というか。
内藤 そうですね。すぐ消えそうな雰囲気だったのに。
市沢 最後、あいつしか残っていないっていうね。
千浦 もちろんフレディ・マーキュリーが主役なんだけど、映画のフレディには、余白というか空白感というか空虚さみたいなものがあって。大勢の観客を集めて相手にできるパフォーマー特有の、人間じゃない感じっていうか。
内藤 メアリーへの思いの複雑さみたいなものが、すごくよかったですよね。隣の家に住んで、電気をつけたり消したりするところ、彼女が上の階なんですよね。フレディがメアリーを見上げる関係性。それに、ふたりの視線は合わない画面構成になってる。「乾杯をしよう」ってことになって、メアリーが飲み物を持っていないのに持っているふりをして「乾杯」って言うじゃないですか。あそこが、悲しかった。
千浦 ああいう描写って、「どのへんで止めておくか問題」があるじゃないですか。メアリーは他に男を作って、赤ちゃんを産んでいるわけだから、それはもういろんなことがあっただろうに、うまいこと省略している。
内藤 フレディの男性関係の描き方も、うまいことボカされていますよね。ツアー中に、男子トイレに入った男のことを、フレディがメアリーに電話しながら、目で追っているっていう。
千浦 あれ、すごかったよ。 舌なめずり感。これぞ、ゲイ映画だって思った。私が大阪で映写技師をしていた頃、ポルノ館の映写もしてて、ゲイポルノ館もかけてたんですよね。で、女の人って、ヤオイとかゲイものが好きじゃないですか。それって、セクシャルなことへの積極性が自分に向いていないことに安心するとか、女性性を持っている男をいいと思ってくれるんだろうけど、でもいわゆるハッテン場と言われるところで生きる人たちの様子を見ていると、女の人たちが好むゲイの姿とは、根本的に違うで!とも思った。精液とそれをこすり取るための消毒液が混ざりあった匂いのする空間で、積極的な性が刹那的に、暴力的にぶつかりあい求め合う感じ。その感じが、このメジャーな規模の映画の中で、結構描かれていた。ゲイ映画的に感心しました。うまい具合に音楽にのせて、さりげなく、薄味に見せてるけど、これすごくね?って思った。
市沢 フレディは、自分で自分の性に気づいていったってことだよね。
千浦 「僕はバイセクシャルだと思……」「あなたはゲイ!」っていう。
市沢 食い気味にね(笑)。
内藤 バイセクシャルだと言うことで、メアリーのことも愛しているってフォローしたかったのに(笑)。
——露骨な性描写を入れなかったのは、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの強いこだわりだったとどこかで読みました。この映画を、できるだけ幅広い観客に見せたいと。
千浦 そう考えると、今、出るべくして出た映画ですね。5年も前だったら、タッチが全然違ってたと思う。
市沢 あの、ジム・ハットンっていう人との出逢い方がよかったですね。「おめーマジでぶん殴るぞ!」っていうセリフ。
千浦 あそこはすごく大事な、いい話をしていると思います。ゲイなんだけど、彼のプライドの問題なんだよね。
市沢 そうそう。プライドを傷つけられたかどうかっていうことが、ジムには大切だったんだなって。一晩中話し込んで、リスペクトできる間柄になれたんだなと。
大畑 僕は、序盤の、ブライアンとロジャーにフレディが自分を売り込みに行くところが好きです。「あ、こいつ本物だ」って2人の顔つきが変わって、
内藤 一緒に歌い出す。
大畑 そう。ミュージシャンを主人公にした映画の、いいところだなあって思って観てました。
千浦 ちょっと前に、『音量を上げろタコ! 何歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!』を観たんですよ。
大畑 あれは、クドカンですか?
——脚本監督、三木聡さんです。
千浦 阿部サダヲはね、やりきっているんですよ。「無茶なステージをする伝説のパンク歌手」をちゃんと成立させてる。で、そのパンク歌手に影響されて成長していく女の子の物語なんだけど、成長しないんだよね。最後まで声が出てないふうにしか見えない。
内藤 大問題だ(笑)
千浦 でも映画としては、声が上がってるふりをし続けるのよ。キツい。
内藤 歌ものは、難しいですよね。最後はどうしたって「歌がすごい!」ってことにならないといけないじゃないですか。万人が観てそう思う歌って、まず難しい。
千浦 でも、万人が観て「すげえ!」って思うことを、アメリカの大作映画はやりよるんですよ。「え! ヒュー・ジャックマン、歌えるの!!?」っていう。で、そうじゃないひとの吹き替えも突き詰められてる。
内藤 うちの母親が、僕の『ミスミソウ』よりも『グレイテスト・ショーマン』を優先させたんです。「『ミスミソウ』、映画館で観られなかった、ごめん!『グレイテスト・ショーマン』は良かったよ」ってメールがきました。
一同 (笑)
——『グレイテスト・ショーマン』も『ボヘミアン・ラプソディ』も、実在の人の一部分を使って、作りたい物語を作った映画だという気がします。
千浦 あ、話、そこへ行っちゃう? 実在の人物問題。それで言うなら『シンドラーのリスト』でしょう。『ハクソー・リッジ』もそうだよね。アメリカンなスナイパーも、ジャージーなボーイズもいた。
内藤 実在の人物の脚色ってことで言うと『ソーシャル・ネットワーク』がすごい好きで。あれは、マーク・ザッカーバーグというFacebookの創設者をモデルにしているけど、キャラクター造形はかなり脚色しているんですよね。冒頭で失恋する場面があって、それが後々、彼の心にずっと引っかかっている問題として描かれ続けているんですけど。劇中では、彼が別の女性と恋愛しているという描写が省かれているんです。
千浦 そして、最後……
内藤 Facebook申請を彼女に送るっていう。
千浦 「勝った!」っていうね。
内藤 ちょっと、むなしい勝利なんですけどね。実際のマーク・ザッカーバーグは、普通に彼女がいたし、結婚もしているんですけど、あの脚色によって、Facebookをする現代人の心理みたいなものが明確に描かれているから、あの脚色は、いいなと思ったんですよね。
大畑 ついこの間、『15時17分、パリ行き』をようやく観たんですけど。あれは、実在の人物がほんとに「出ちゃってる」映画ですよね。
内藤 究極ですよね。誰も怒らない。
千浦 「そっくりだな……本人か」っていうパターン。
大畑 最後、実際の映像にも、もちろん同じ人が出てくる。すげーなこれ!って思って。
千浦 その「すげー」は肯定的? それとも、あきれた?
大畑 どっちもです。
内藤 俺が一番感動したのは「背徳のナイト・トリップ」に女性から誘われる場面で、女性の腿からパンアップしていくエロいショット(笑)。この年でもこんなスケベショット撮るのか、って思ったのと、背徳のナイト・トリップを再現する必要はあるのかな?っていうこと。
千浦 あれ、列車に乗ってる他の人もそうなんだよね。もう、何なんですかね、あれは。
大畑 僕は結構感動したんですよ。素直に。たぶん、何もやらせていないからだと思う。
内藤 フィクション的な変更を、加えなかった。
大畑 だから感動したんですかね。
内藤 『ストレイト・アウタ・コンプトン』はどうですか。
千浦 そうだ。『ボヘミアン・ラプソディ』の話をするなら、この映画の話は欠かせない。
市沢 俺、観れてないんですよね……
千浦 あなたが観とくべき映画でしょう?(※市沢は20代の頃ヒップホップを愛聴)
市沢 そうですよね……
千浦 『ストレイト・アウタ・コンプトン』全体のモードというか発想としては、N.W.AのPVを、ドラマとして再現するっていう。
内藤 『ファック・ザ・ポリス』を作る前に、警官に不当逮捕される(笑)。出所した直後に「くそー、ムカつく、作るぜ!」って言って、作るっていう(笑)。
千浦 バンドもの特有の、出来事を曲作りシーンに落とし込んでいく手口ですよね。
内藤 あれは、アイス・キューブの息子が演じているんですよね。
市沢 アイス・キューブの息子が、アイス・キューブなんですか。
内藤 そうなんです(笑)。
千浦 「そっくりだな……息子か」っていうパターン。
一同 (笑)
千浦 私がその手のもので一番好きなのは『24アワー・パーティー・ピープル』です。ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー好きなもんで。『コントロール』っていう、ジョイ・ディヴィジョン、イアン・カーティスの伝記映画があるんだけど、『コントロール』のほうはあんまり面白くない。一応好きだけど。で、『24アワー・パーティー・ピープル』は、テキトーなところがいいんです。ひとつのバンドではなく、カルチャーを描いている拡がりもある。マンチェスターでセックス・ピストルズがライブして、それを観に行った人たちが、後々ジョイ・ディヴィジョンやバズコックスになりましたっていう話をやる時に、フロアにいる彼らから切り返すと、セックス・ピストルズの本物のライブフィルムが映るみたいな、そういう雑多な感じが面白い。生きている人も、死んだ人もいて、でも意志的に悲劇的にはしてない映画。
内藤 メンバーは、その映画に関わっているんですか。
千浦 ファクトリーのプロデューサーだったアンソニー・ウィルソンが、小説として回顧録を出して、それを映画にしている。当事者本人から見た当時のシーンの再現だから文句は言わせない系。でもまた、映画のつくりがまたその本の逐語訳じゃない。原作に書かれているネタを全部洗い出して、すごい遊んでる。60年代に作られた、ジョン・フォードの『リバティ・バランスを射った男』っていうのが、まさに「伝説と事実」についての映画なんですけど、『24アワー・パーティー・ピープル』では、その映画について、というか、これに関するジョン・フォードの有名なポリシーの「伝説と事実とどちらかを選べと言われたら私は伝説を選ぶ」について言及していて。本当の話か嘘の話かわからないことがたくさん出てくるけど、そのへんを掃除していたおじさんがいきなりこっち向いてこれを言うんです。
内藤 『アイ,トーニャ』もそういう映画でしたね。夫に向かって銃を撃つんですけど、急にカメラの方を向いて「これは夫の証言に基づいています」って。まだあやふやな部分を、フィクションとして描いていますというエクスキューズがある。
千浦 でもそれをやる映画は、興収数百億円規模まではいかないかも。批評的な眼差しや遊びに、腰を折られると感じる人たちもいる。
大畑 次、タランティーノがシャロン・テート事件を撮るじゃないですか。
一同 あーーー。
大畑 かなりナイーブな題材ですよね。
——皆さんは、実在する人物を題材にした映画に、あってほしいものはありますか。
内藤 僕は『先生を流産させる会』という映画で、実在の事件に基づく映画を撮ったんですよ。
千浦 ほんとだ。やってるじゃん。
内藤 そこで、脚色をしたんです。それに関して、大きなバッシングを受けました。
——というと?
内藤 実際は男の子が起こした事件なんですけど、映画では女の子にしたんですね。それについて、「男の罪を女に着せている」とか「ミソジニスト(女性嫌悪者)だ」とか。僕にはそういう発想自体がなかったから、びっくりしたんです。そんな見方があるのかと。でも、ものを作るにあたっては、作り手の無意識な認識が、多少なりとも漏れ出ると思うんですね。そこを指摘されたなと思ったんです。だからその批判を僕は甘んじて受けて、ちゃんと考えなくてはと思いました。僕は女性嫌悪なんてしていないと思っていたけど、女性に対する歪んだ認識が自分の中にあって、そこと向き合わなければいけないと考えるようになりました。それはその後の作品づくりに反映されてますね。作り手の無意識って、美しいものが出る場合もあれば、醜いものが出ちゃう場合もあるじゃないですか。それが倫理的に正しいかどうかというのを、考え続けなきゃいけないなと思いました。
市沢 史実をもとにした、っていうときの反応が、昔よりも過敏なのかもしれないですね。「間違っていること」を指摘するのって、一番指摘しやすいじゃないですか。指摘しがいがあるっていうか。「それ間違ってます!」って言うのは、批評じゃなくて指摘だから。指摘する人が、何かを言えた気分になれるんだろうな。
千浦 今って、情報にアクセスするのが容易になったから、みんな、いろんなことに、容易く詳しくなれるんだよね。そこをすごく指摘する人を勝手に「エビデンサー」って呼んでるんですけど。「エビデンサー」、いますよね。
大畑 劇場の帰り道から、もう調べちゃう人、いますもんね。
市沢 横の監視なんですよね。上から監視されるのではなく。
千浦 絶対的な主体がいるんじゃなく、相互に監視し合ってるんだよね。
【3】
「史実と違う」という物言いは、この映画だけでなく、あらゆる伝記映画で語られてきた。「史実と違うから良くない」場合があれば、「史実と違うけどこれは許す」とされてきた映画も複数ある。いったい何が違うんだろう。そこを、この面々に掘っていただいた。(言うまでもなくネタバレしております、ご注意を!)
千浦 タランティーノで思い出したのは、『イングロリアス・バスターズ』でヒトラーを殺したでしょう。これは全然アリだ!と思いました。
大畑 僕も思いました。
千浦 それをやったことによって、ある種、違うジャンルになったとも言えるし、「映画はこういうことしていい」ってすごく思ったんです。
内藤 フィクションの力を信じたがゆえの、「フィクションにはここまでできる!!」っていう。
千浦 ヒトラーの少年時代に彼が後にそうなることを知っていたら、彼を殺すか?っていう問いがあるじゃないですか。これはもうホロコーストに対する悔いが現実の時間や歴史のなかで解消不可能だからで、スティーブン・キングの「デッドゾーン」にもある問いだし、ソ連映画の「炎628」のラストカットの意味するところだと思うけど、『イングロリアス・バスターズ』は結構おちゃらけつつ、その域にまで迫ってた。
大畑 感動しました。ほんと燃える。
内藤 その路線で作ったのが『ジャンゴ』だと思うんです。でもハーヴェイ・ワインスタイン事件があったから、あれくらい開き直ったフィクションの勝利を、もう、うたえないんじゃないかと思って。次のシャロン・テート事件の映画、チャールズ・マンソンをシャロン・テートが蹴り殺す、って展開になるだろうと予想していたんですけど、ワインスタイン事件を機に、脚本も変わってるんじゃないかっていう気もしてて。
千浦 シャロン・テートが救い出されるんじゃないのかな。
——そこ、もう一段、言葉になりませんか。何があれば、「この改変、アリ!」って思いますか?
市沢 存在のデカさとかかな。ヒトラーまで行くと、実在の人物なんだけど、悪役中の悪役ですから。
大畑 「死んでいい!」って誰もが思いますよね。
内藤 ナチスが何度も悪役として、映画の中で描かれ続けているし、ヒトラーの暗殺を企てる話もいっぱいあるけど、史実に則って、必ず敗北するじゃないですか。観ていてモヤモヤしちゃうのが、溜まってたっていうのもあるかなと。
市沢 そのOKが、どのタイミングで出たのか、気になるね。どの会議で「……いいんじゃないすか、殺しちゃって!」ってなったのか。
内藤 『君の名は。』の隕石落下は、3.11を象徴してると思うんですけど、防いじゃうじゃないですか。「なかったこと」にしちゃってる。僕は結構びっくりしたんです。「災害が起きなくてよかった世界」なんだけど、それはそれで、いいのかな?って気もしたんですよね。
千浦 アメリカ映画だと9.11で、日本だと3.11。それらを象徴した描写が映画にはたくさんあるじゃないですか。大都市が外敵に襲われるのは、『トランスフォーマー』でも「アベンジャーズ」でも何でも、何本ものアメリカ映画で繰り返されてますし、『シン・ゴジラ』だって、そういうふうにしか見えないところもあったし。でも『君の名は。』の、「そもそも起きなかった」っていうのは、だいぶ大きい飛躍だよね。
内藤 すごいことしたな!と思いました。
千浦 「なかった」まで行っちゃうと、どうなのかな……
大畑 だからヒットしたんでしょうね。
千浦 そうか。まあ、観客側の無意識的な願望の成就ではあったのか。だって、みんな、それに対して戦えなかったもんね。呆然と敗れていった。何かしたかった、戦いたかったって思ったんだ。
大畑 『ボヘミアン・ラプソディ』の、エイズをメンバーに告白するシーンも、フレディに「君は伝説だ」って、本当は言ってあげたかったから、映画で言ったっていうことですよね。
内藤 だからエイズ差別の陰惨な部分は、あえて描かない。
大畑 そういう改変は、観てるこちらもOKになりますよね。ヒトラーが死ぬのと同じように。
——大畑くんは「OK」でしたか。
大畑 人の死をそこまで、展開を変えちゃっていいのかとは思うけど、クライマックスをライブ・エイドにしたいっていう気持ちもめちゃわかるし、死を実感しながらあの歌を歌わせたいというのもわかるから、否定はできないです。
内藤 そう、『Hammer To Fall』の歌詞が、死期を知りながらライブをするっていうことと、すごくリンクしていたじゃないですか。僕はあの曲をそんなに好きじゃなかったんですけど、楽曲の素晴らしさをドラマによって気づかされました。まるで、みんなフレディがエイズと知ってて、あのライブに臨んだとしか思えないような選曲だったんですよね。
千浦 『ボヘミアン・ラプソディ』のピアノパートも、そう聞こえますよね。
内藤 『We are the Champion』も、「悪いことをしていないのに罰を受けた」っていうフレーズがあるんですよね。素晴らしい表現者ゆえの、自分の未来を予言したかのような曲。
千浦 ロック・ミュージシャンって、早く死ぬひといるじゃないですか。それについて、一般的な浅い見解ですけど……、普通の人間のコミュニケーションをはるかに超えた、一度に何万人もの人を、自分の表現力で掌握するようなことを繰り返しているような人は、絶対どこかおかしいと思う。それって、普通の人間の了見を超えてる。そういうこといつもしてると、だいたい若死にすると思う。
内藤 あーー。
千浦 あと、自分が歌うこと、詞に描くこと、つまり自分がイメージできることの高みに実生活の自分がついていけないから、そこに乖離を起こす、悩む、で、酒を飲む、ドラッグをやる、っていうのが、ロック・ミュージシャンに限らないけど、ある種のアーティストに起こる現象だと思う。それも『ボヘミアン・ラプソディ』は描いていたと思うんですよ。
市沢 うんうん。
千浦 普通の人間の愛情って、たぶんそのへんにいる人との関係性ぐらいで完結してて、そこで軽いやりとりをしながら生きていくのが普通の人生だけど、ものを作る人って、それを超えちゃってるところがあるから。あと、もともとの歪みが、パワーになって、すごいことをしてしまえるけど、歪みは変質しながら残り続けて原動力になり続けるとか。そういう表現者ものの王道パターンをこの映画はやっているなあと思いました。
内藤 『ラッシュ/プライドと友情』の、イケメンの方もそういう生き方ですよね。
千浦 ジェームス・ハントだっけ。クリス・ヘムズワースが演じた。
内藤 あれにも記者会見の場面がありますね。あそこ、好きです。
千浦 いいですね。友情を感じさせる。犬猿の仲であるニキ・ラウダの顔の火傷痕を彼の奥さんのことまで含めて揶揄した記者を、かげでボコる。
内藤 あれもフィクションっぽいけど、グッと来ます。お互いの生き方を馬鹿にしてるけど、最終的には敬意があって。観終わった後に若い観客が「要はジェームス・ハントってしょーもない奴だったってこと?」って言ってた。なんも伝わってない(笑)。
一同 (笑)
千浦 それは、人による見方なんだろうな。その子の中では、ニキ・ラウダが勝利したんだよ。……伝記映画、多いね。結構ある。
内藤 日本だと伝記映画って、「負」の部分を描きづらいように思うんですね。遺族の希望とかもあるから。それで、無駄に綺麗な話になっちゃって、映画としてつまらなくなるみたいなことが、あるかなあと思います。
千浦 あ、そうだ。私が今年すごく良かった映画は、『菊とギロチン』と『止められるか、俺たちを』です。大正のアナーキストと1970年ごろの若松プロ群像。特に『止められるか〜』は非常に若々しくてですね。「ストレイト・アウタ・ピンク映画」。切なさもあったし。
内藤 ああ。なるほど。
千浦 そして、『止められるか〜』は当事者が生きてるからね。生きてる人たちが総掛かりで、文句言う言う。それもおもしろい。
一同 へえー!
内藤 あと、犯罪とか死んだ人を扱う時って、その瞬間を映像化、再現していいのかっていうのも、倫理的に問われるところで。僕は『先生流産〜』も、今作っている『許された子どもたち』も、少年事件を元にしているので、それを「演じる」って大丈夫なの?という心配を、結構耳にするんですね。特に『許された〜』は素人の子どもたちが出ていて、殺す子と殺される子を演じるので、「演じる」ということ自体が、とてもまがまがしいものになっていく感覚がある。で、Netflixに「ジョンベネちゃん殺害事件」のドキュメンタリーがあるんですよ。あの事件の再現ドラマを作る、というドキュメンタリーが。あの事件は犯人が見つかっていなくて、お父さん説とかお母さん説とか弟説があって。その、記者会見での、お父さんやお母さんの映像を、いろんな役者さんに再現させながら、演じた後で「どんなことを思った?」って聞くんですね。「私はお母さんが犯人だと思う」とか、「いや、お父さんだと思う」とか。弟説に関しては、小さい子どもに、鈍器で頭を殴り殺せるのかを検証するんです。スイカを用意して、いろんな子どもに、スイカを殴らせるんですよ。そしたら、割れるんですよね。なんて禍々しい行為だろうって感じて。僕の映画も、みんなが心配してくれてたのは、こういう気持ちだったんだろうなと思いながら観てました。ただ、演じたことによって、見えてくるものがあるんですよね。つまり、演じることの禍々しさと、演じたからこそ発見できるもの。両方あるなって思いました。
——ラミ・マレックがフレディを演じたことにも、そのまがまがしさは作用しているでしょうか。
千浦 頑張ってたよねえ!
市沢 フレディの魂を乗り移らせようとしている人の頑張りと悲しさが見えてるっていう感じかなあ。
内藤 先ほどの超コアなファンの「映画によってクイーンの記憶が上書きされてしまう」って不安は、死者を演じることの禍々しさが作用しているように感じます。史実と異なるところはあるし、ラミ・マレックの体格はフレディ・マーキュリーと明らかに違うけど、ラミ・マレック自身の、フレディを演じるのだ!というエモーションには感動を覚えます。それでいいんじゃないかなって思いますね。
市沢 ライブ・エイドも、ラミ・マレックの「俺、今、乗り移ってる!!!」っていう高揚も込みで観てる感じがある(笑)。
内藤 YouTubeの「やってみた」動画を観てるような感覚もありましたね。ここまで究極に再現すると、結構感動するんだなっていう。
市沢 ああ。そうね。確かに。
内藤 あの人たちがあそこまで再現できたのは、本物の動画がデジタル化されて、YouTubeで何度も観ることができたからでもあるでしょう。
市沢 僕は、途中途中に、乗ってるお客さんのカットがあるじゃないですか。ああいうのが苦手で……
千浦 いやいやいや。あれを撮ったり準備しておけるというのが、アメリカ映画の基礎体力ですよ。
内藤 日本映画だと、ボランティアで来ていただいたエキストラに、演出部とかが「もっと盛り上がってー!!」って叫ぶでしょうね。でも、「もっと盛り上がってー!!」って言われても、盛り上がれないじゃないですか。だいたい、残念なことになるんですけど。ただ、三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』のクラブシーンはすごくうまかったなと思ったら、実際にDJがプレイをして、エキストラが盛り上がっているところを撮ったらしくて。
千浦 撮影の四宮くんも、実際に踊ってから撮ったらしいね。すげえ幸せな、いい話。
——皆さんは、どんなライブを観て育ったのですか?
市沢 えーと、私は、ライブを、してました。
大畑 え!
内藤 その話、知らないです。
千浦 『ボヘミアン・ラプソディ』の序盤、クイーン以前の彼らの初めてのライブで、フレディが「ちゃんと歌詞覚えろよ!」って怒られてたじゃないですか。市沢さんは高校の文化祭で、メタリカのコピーをやって……
市沢 テキトーな歌詞で歌ってたら、クビになったんです。
一同 (笑)
市沢 そしてクビになった翌年の文化祭で、そのバンドが新しいボーカルと一緒にライブをやっていて、それがめっちゃ盛り上がってたんです。
一同 (爆笑)
市沢 だから、劇中で「SMILE」から辞めていったボーカルがいたじゃん。そいつが、クイーンのライブを、客席から観てる感じ。
千浦 今回、古澤さんが来れたらどんなによかったか、って思うんですよ。クイーンって、個々の戦闘力が高いじゃん。みんな等分にヒット曲を作ってる。それって頭が悪くない人たちが論理的に手を尽くして音楽をやっている感じ。それと同じものを、古澤さんの創作活動にも感じるんです。「コンセプチュアル癖」のある古澤さんに、今回ぜひ来ていただきたかった。
市沢 クイーンってさ、批評家に採り上げられてるイメージがあまりないんですよ。自分が読んでた音楽誌の範囲内ですけど、デヴィッド・ボウイだったり、ルー・リードだったりが必ず採り上げられるんだけど、クイーンってあまり採り上げられてない。だから俺も聞いてないんだろうなっていう。
千浦 でも、常にうっすらとかかってるというか、必ず再ブームが起きるじゃないですか。
内藤 大衆向けには劇的にヒットしているんだけど、批評の場で評価されることは少ないですよね。
市沢 当時、「ロック・スタンダード」っていうカタログがあってですね。
内藤 あ。それ、父親が買って読んでたかもしれない。
市沢 あらゆるミュージシャンのアルバムの情報が片っ端から載っていて、「これが『クロスビー、スティルス&ナッシュ』か……」とかね。そういう中に、もちろんクイーンも載ってたんだろうけど、覚えてないなあ。
千浦 あ、ほら、そういう話をするときにね、本を開くようなジェスチャーをするでしょう。これからはそれ、滅亡する仕草だから。気をつけよう。
内藤 『許された〜』でみんなに「レンタルビデオ屋を使う?」って聞いたら「使い方を知らない」って言うんですよ。レンタルの仕方がそもそもわからない。「カードを作る」っていう発想がないって言われて。
——そんな中、そろそろお時間です。まとめ的な何かはありますか。
千浦 あ! 私がひとつ、素直に『ボヘミアン・ラプソディ』を観て感心したのは、「We」ということです。「We will Rock You」って歌うじゃないですか。「We are the Champion」とか。もちろん、クイーンっていうバンドが「We」って言ってるんだけど、ライブで客席も一緒に歌うと、観客も「We」になっちゃうっていうこと。コール・アンド・レスポンスによって、観客をどんどん巻き込むというテクニックを、ガンガンに活用した人たちの強さですよね。そして、そういうことを描くのに、映画という手法がとても適していたと思うし、映画が自然とそれを追ったと思う。いまは映画を観ている俺たちも「We」の一員ってこと。ラストで観客のリアクションを地道に拾うという撮り方も、その一環だったのではないかと。
大畑 そしてスクリーンの中の観客たちも、だんだん泣いてきてるんですよね。
千浦 「We are the Champion」で、老人と肩組んで泣いてる人が映ったじゃないですか。その人たちの状況はまったくわからないけど、「うんうん」って思わされる何かでしたよね。あと、フレディのパフォーマンスがキレッキレで盛り上がっているのを見つめるメアリーのニンマリと笑顔になる表情、あれって、映画館の客席にいる私たちの表情と、たぶん同じというか、そうさせようとしているというか。
大畑 だからほんと、監督交代とか、いろんな困難があったかもしれないけど、「クイーンを題材にして撮ったら、そりゃヒットするに決まってる!」ってことかもしれないですね。
千浦 基本的に、コンセプトの勝利なんだろうね。勝ち逃げ感があった。……あと、もうひとついいですか。オープニング、「Somebody to Love」で、朝起きて、猫にエサやって、車に乗って、会場に行って、出番が来てステージ上へ上がっていく、あの時は「独り」に見えるんだけど、本編終盤でもう一度それを繰り返す時には、それが仲間たちの目線だったことがわかる。
内藤 そう! あそこ、よかったですよね。まさに「We」になったんだなあと思いました。
(2018/12/10)
社会現象、なのだそうだ。聞くところによると、「ミュージシャン」の「伝記映画」が「右肩上がりの興収」を記録していることは「異例」なのだという。じゃあ、その異例に乗っかってしまおう。誰か、『ボヘミアン・ラプソディ』について語りませんか! そう持ちかけたら、千浦僚が、フレディ服で現れた。なるほど。これは、祭りだ。(ネタバレしまくりです!ご注意ください)
千浦僚
映写技師。映画記事ライター。1975年生まれ。高校のときALTのインド系アメリカ人のおねえちゃんと仲良くなってニルヴァーナの話をしたりグレッグ・アラキの映画を観にいったりした。そのひとはシーク教徒で教義のため髪を切ったことがないそうで超ロングヘアでニルヴァーナやダイナソーJrが好きだった。
市沢真吾
映画美学校事務局。楽器が弾けないのに高校時代はHR/HM系のコピーバンド(ボーカル)、大学時代はスーサイドみたいな二人組ユニット(サンプラー担当)をやってました。
大畑創
監督作『大拳銃』や『へんげ』など。連ドラ『拝み屋怪談』が最新作。音楽はやる側ではなく聴く側。かつてはライブやクラブやフェスなど行ってた。
内藤瑛亮
映画監督。1982年生まれ。代表作『先生を流産させる会』『ミスミソウ』など。最新作『許された子どもたち』仕上げ中。中高生の頃はマリリン・マンソンとナイン・インチ・ネイルズをよく聴いてました。
内藤 僕は2回観たんですけど、明らかにクイーン世代ではないような、若いお客さんを見かけましたね。
大畑 僕は、立川の極音上映で観たんですけど、ほぼ満席で。上映後には拍手が起きて、すごい盛り上がりでした。
千浦 私は新宿のシネコンの深夜の回に行ったんですけど、夜にしては入ってると思ったし、終わった後、すごく泣いてる人がいたり、熱心に話をしてる三人連れを目撃したり。そのひとたちは二十代半ばくらいで、この映画でクイーンを知った人たちっぽかった。あと、もっと年季の入った、クイーン世代と思われる人たちが、帰りのエスカレーターでめっちゃ歌ってたりとか。
市沢 テレビとかでも、特集してるんでしょう。
——先日は「クローズアップ現代」がクイーン特集でした。
内藤 監督の降板劇とか、よくない噂が出回っていたじゃないですか(※監督をしていたブライアン・シンガーが、秋休みから現場へ戻らず、契約を切られた)。コケるんだろうな!っていう雰囲気があったし、若い人はクイーンを知らないわけだし。なのに、当たった。
市沢 うちの小学2年生の子どもは、ビートルズは知らなかったけど、クイーンっていう名前は知っていたんですよ。
一同 へえーー。
市沢 でも今一番ホットなのはDA PUMPの「U.S.A」ですけどね。
千浦 4歳のうちの子も「U.S.A」のサビを歌い踊るわ……。
内藤 これからは学校とか保育園の行事で、クイーンの曲、ばんばんかかりそうですね。
市沢 そうだね。そういう場で、レッド・ツェッペリンとか流れないもんね(笑)。
千浦 やっぱり、クイーンの曲はキャッチーなんでしょうね。フレーズが覚えやすい。
内藤 ツェッペリン好きの父親は、クイーンを邪道に感じるらしくて、すごい馬鹿にしてて。母親はクイーンが大好きでした。
千浦 ああ、幼い内藤さんに『チャイルド・プレイ』を見せて育てたというお母さんね。
内藤 そうです(笑)。
市沢 僕は、あの頃の洋楽ロックを聞いていたけど、クイーンは通らなかったですねえ……
内藤 大畑さんは、聞くんですか。
大畑 全然聞かない。もちろんテレビとかで聞く機会はあるから、知ってはいるけど。
内藤 僕は中学の同級生に、クイーンがすごく好きな子がいて。その子が体育祭の演技種目で『We are the Champion』を使ってて、いい曲だなと思って、そこから聞き始めたんです。リアルタイムじゃないけど、中学ぐらいからずっとクイーンが好きでした。だからこの映画が微妙に史実と違うことは、たしかにちょっとだけ気になりましたね。一番最初の、ノイズとして。「あれ、そうだっけ?」みたいな。『We Will Rock You』のとき、髭あったっけ?とか。
市沢 僕が気になったのは、映画のフレディ、ちょっと線が細いなと。銀杏BOYZの峯田和伸みたいだと思った。
内藤 確かに、あの体格で、あの声量が出るのかなって心配になる(笑)。
市沢 ただ、思い返してみたら、彼が暑苦しくなかったから観れたのかも。フレディ・マーキュリーの話なのに、暑苦しくない。
内藤 そもそも「フレディ・マーキュリーは暑苦しい」っていうイメージですか?
市沢 暑苦しいですね。でも映画の方はもっと、はかない感じを受けました。もし峯田さんが筋肉ムキムキにして、いろんなことに強がりながら生きてたら、これは切ないなあ……!って思うよね。
内藤 映画のフレディは弱々しくて、居場所をずっと探し続けているっていう感じでしたもんね。ずっとキョドってた。
——子犬のような目だったです。
内藤 僕は曲だけ聴いてた浅いファンだったから、恥ずかしながらフレディがインド系だったとは知らなくて。言われてみれば、そういう顔立ちをしてたなとは思うんだけど。映画の中でも、法的に改名したって言ってたじゃないですか。それもすごいなと思って。そんなに変わりたかったんだ!と。
千浦 っていうことを僕は、映画を観て初めて知りました。
大畑 僕も、クイーンのことを全然知らないですけど、フレディってああいう「気持ち悪い奴」っていうことでいいんですかね。あの俳優さんの、外見の造形が、ちょっとこう、フリークスっぽいじゃないですか。
内藤 ブライアン・シンガーが休暇から戻ってこなかったのは、ラミ・マレックの芝居が気に入らなかったからだ、みたいな説もあって。その気持ち悪さのせいですかね(笑)。本人はそういう演技プランでやってて、ブライアン・シンガーは「なんでそんな気持ち悪い芝居するんだ」って思ってたかもしれない。
大畑 にしても、やりすぎじゃないかなと思った。歯をぺろぺろなめたりとか。
内藤 出っ歯、過剰でしたね(笑)。ただ、その過剰さを通して、彼の「普通の人と違う感じ」が、知らない人にもわかりやすく届いたのかもしれない。
千浦 あの鼻下にヒゲのあるフレディの姿って、ある種パロディみたいに使われたりするじゃないですか。大九明子さんが監督した『勝手にふるえてろ』には、上司がフレディ・マーキュリーに似てるっつって「フレディ」ってあだ名をつけて、松岡茉優が『We will Rock You』のドン、ドン、パンのリズムで机を叩いて同僚とクスクス笑う場面がある。あれは原作にない映画オリジナルのネタで、主人公のセンスを表現した良いシーンだったと思うけど、それくらいフレディは個性的で、滑稽だとも受け取られていたのに『ボヘミアン・ラプソディ』がこんなにヒットして、みんながフレディの内実や悲劇性を知ってしまうと、もうフレディをギャグにできない!っていう現象が起こる気がする。
内藤 マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』もそんな感じじゃないですか。それまで笑いものにしてたけど、すごい人だったってことにみんな気づいたというか、気づけたというか。あと、古澤さんが指摘していたところなんですけど(※この座談会への参加を古澤健に打診したが叶わず、代わりにメールで映画の感想を全員が受け取った)、ライブ・エイドの場面でフレディが投げキッスを2回するんですよね。序盤と終盤に。そのカットバックが、実家でテレビを観ているお母さんなんですよ。お父さんとの切り返しの方が大事じゃないの??って思ったんです。この映画は、僕は全体的にすごく気に入ったんですけど、親子のエピソードだけ、ちょっと引っかかっているんですね。まず父親からの期待を拒絶して「フレディ・マーキュリー」を作り上げ、最後、父と和解して、「家族」のもとに回帰してからライブ・エイドに行くっていう流れなのに。
千浦 しかもアフリカ飢餓救済のライブ・エイドにね。フレディの生まれはアフリカなんだから、すべてがぐるっと、うまいこと回収されたかのよう……。
内藤 そのわりには、お父さんとのエピソードが、記号化しすぎじゃないかなって思うくらい、サラッとしてて。しかも、フレディと家族の切り返しが、お父さんじゃないんだ!っていうのが、僕も気になっていたところで。
千浦 あの、強い投げキッスね。瞳孔が開いた感じの。
——ライブ・エイドの朝、実家に新恋人を連れて行って、お茶して帰る玄関先でフレディが「ステージから母さんに投げキッスをおくるからね」的なことを言うんです。
内藤 その前振りの回収なんでしょうけど、投げキッスのところじゃなくても、フレディと父親との切り返しを入れるべきじゃなかったのではないか、と。
千浦 僕は、そこの整合性はあまり気にならなかった。あの映画の構造として、「すごいパフォーマンスしてます!」っていうのを観客に伝えるため、映画として表現するために、彼らの演奏にリアクションしている人たちの画をすごく拾ってるじゃないですか。ライブ・エイドのお客さんもそうだし、メアリーと新恋人のハットン氏を舞台袖に置いて……
内藤 あんなにちょうどいいところに(笑)。
千浦 そう。あと、ブライアンとかロジャーとかジョンの顔をやたら拾ってる。「俺たち、今、一番いいパフォーマンスができてるよ!」っていう感動の顔。それにつられて、映画の観客もみんな感動していくっていう。
大畑 マイクをめっちゃ真剣に必死にフレディに渡す人がいたじゃないですか。たぶん、マイクを渡すためだけの係の人が(笑)。
千浦 高い足場に座ってる人とか、最前列の警備の人も、仕事しながらクイーンのパフォーマンスにニコニコしてる。
内藤 ああいうカットがあると、豊かになりますよね。
千浦 こういうのは、ホラーを撮ってる大畑さん内藤さんにとっても、重要なことなんじゃないですか。
内藤 怖がってる顔が怖い、っていう。『ヘレディタリー』もそれでしたよね。
大畑 あれも顔芸がすごかったね!
市沢 フレディ・マーキュリーのアクション自体に、リアクションが混ざってるじゃないですか。観客の空気感を感じて、高まってくるものを、フレディは自分のアクションにフィードバックしている。その昔、筒井(武文)さんが言っていた、「アクションの中にリアクションが内包されている」というやつ。
千浦 溝口健二が生きてて『ボヘミアン・ラプソディ』のラミさんを観たら、「うん、反射してますね」って誉めるかもね。
内藤 クイーンの初めてのライブシーンで、マイクスタンドをうまく持ち上げられないのも、すべて、ライブ・エイドに向けてのピース作りのような構造になっていますよね。
——こういう動画を、見つけたんです。(※映画と、本物のライブ・エイドの映像を、並べて見せてる動画。たぶん違法)
大畑 おおお。すごいな。
千浦 これは、練習したと思うよ。完コピじゃないか。……でもやっぱり、身体のボリュームが違いますね。
市沢 僕も、それが気になっちゃった。
大畑 僕、このライブ・エイドに、ポールがいてもいいんじゃないかと思ったんです。ポールがどんな顔をしてこれを観てるか、すごく知りたい。
内藤 テレビで観てても、いいですね。
大畑 俺、結構、ポールが好きだったんですよ。車の中で、ソロ話を持ちかけるときに、「俺知らねー」「何の話?」ってとぼけるじゃないですか。
市沢 そして「俺も孤独だったんだ」って、自分の実感の話をして誤魔化す(笑)。でもなぜ誤魔化せるのかといえば、あれも彼の本心だったからですよね。
千浦 自分はアイルランド人でカトリックなのにゲイで、父親は俺が死んだほうがましだと思っている、とか言う。こいつ、急に自分の説明した!という。
市沢 一番最初にフレディを誘う時の、表情とか台詞回しとか声とかはほんとに、アメリカ映画でよく見るキャラですよね。あの人、いいですよ。
内藤 あと、病院で会うエイズ患者もすごくよかった。「エーーオ」って呼びかけて、「エーオ」だけで気持ちを伝え合う。アメリカ映画ってああいう、役名もないような人が、すごく印象に残ることがよくあって。日本映画であれをやろうとすると、ほんと、どうでもいいことになっちゃうじゃないですか。
大畑 ただの、エキストラ的な。
内藤 そう。寄りは撮らなくていいや!ってなっちゃいますよね。
大畑 超選んでるなあ、あれは絶対。
内藤 マイクスタンドをフレディに渡す係の人も、すごいオーディションしてるのかな(笑)。
大畑 「ちょっとこれ、渡してみて」。
千浦 あの格好した人が、ずらーーっと数ブロック並んだはず。
大畑 その中で、一番光る奴を(笑)。
千浦 ライブ・エイドのところに出てくる人たちは、端役に至るまで、YouTubeを擦り切れるまで観て臨んだと思いますよ。……擦り切れないけど。
一同 (笑)
千浦 でも、そこが、落ち着いてみると引っかかるところで。ラミ・マレックさんの動きだけを観てても、本物のフレディが生々しい印象的な動きをしたところが、わかっちゃう。「ああ、これは、本物がした動きなんだろうな」って。その場にしゃがんで、マイクスタンドをこう、股間にあてるところとか。つまり、生々しく見える芝居こそが模倣だという。そこが、再現映画や伝記映画の不自由なところで。見事にできてはいるけど、なぜか不自由。嘘がつけないところというか。
内藤 動きを変えたら、濃いファンに叩かれますからね。
大畑 でもそこは、ガンガン嘘ついてもいいのになあと思っちゃいます。
千浦 今日、この座談会で語るにあたって、前情報を入れた方がいいのか、やめたほうがいいのか、悩んだんですよ。でも、予習したところで「にわか」にすぎないから、魂のこもらない勉強はやめようと思ったんですけど、でもやっぱり世の中はどういうふうに言っているのか、気になったのでSNSを覗いたんです。それで、はーー!と思ったのは、超コアなファンで、それこそ、ビデオテープが擦り切れるほどにライブ映像をずっと観てきた人は、「ここは決定的に動きが違う!」みたいなことが気になるらしくて。あと、何回もこの映画を観ているんだけど、「これ以上観ると本物の記憶がこの映画に上書きされてしまう!」と仰ってる方もいて。
内藤 それは、だいぶ重度ですね(笑)。
千浦 その、「このへんでやめとかねばならない感」とかはすごくいいなあって思った。
内藤 よく知ってる分野が描写されていると、フィクション上、仕方ないとは思いつつ、観ながら引っかかっちゃうことってありますよね。僕は教員をやっていたので、学校の場面があると「そこは、ないな!」と思ったりします。
千浦 私にとっては、映画館とか映写機とか映写技師の描写が……。でも専門的な知識を振りかざすのも野暮かなあと思う。全体の流れとして成立してたり、押さえるところを押さえていたら、そこは言うべきではないって思いますよね。
内藤 嫁が、安室ちゃんファンなんですよ。一緒に何度かライブにも行ったし、ラストライブも抽選が当たって、観に行ったんですけど。で、日本版の『SUNNY 強い気持ち・強い愛』を観たんです。90年代のコギャルの映画。でも嫁は、経験からくるノイズが強すぎちゃって。冒頭、『SWEET 19 BLUES』から始まって、コギャルの脚のアップが映るんですけど、でもあの曲は「コギャル的なもの」からの卒業の歌だから、コギャルの脚のアップにあの曲がかかるのはおかしい!って言ってて。
一同 あーーー。
内藤 その後、久保田利伸とかオザケンの曲でコギャルが踊るんですけど、「コギャルはそうじゃない!!」って。
千浦 確かに、オザケンはオリーブ少女かも。
内藤 嫁は他にもだいぶ引っかかってましたね。いつも映画についてあまりどうこう言わない人なんですけど、あの時はいろいろ文句言ってました。「オジサンがイメージするコギャルでしかない!」って。
千浦 『ボヘミアン・ラプソディ』について、いろんな言説が盛り上がり、ファンによる賛否両論が戦わされているのは、それに似てますね。作り手とか、日本で宣伝配給している人たちの思惑以上に、みんなガチだったので、いろんなことを思い、それを発言している。……ちなみに、私の話をしてもいいですか。『アンダー・ザ・シルバーレイク』っていう映画を観ましてですね、そしたら、世の多くのポップソングや有名ロック曲をソングライターの化物みたいなジジイが一人で書いててそこには暗号が隠されている、とか、そのジジイがニルヴァーナの『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』も自分がつくった、「ギターの音をひずませてでもおけば若者は喜ぶんだ」的なことを言うシーンがあったんですけど。私はニルヴァーナ直撃世代なので、そのシーンから、あの映画を急に、客観的に観るようになったんです。それまでは普通に暗号解読とか陰謀か妄想かみたいな物語展開とかを「おー、すげえなあー」って観てたんですよ。でも、あのシーンで急に、強烈な反感を覚えて。「ジジイ、ふざけんな!全然ちげーーよ!!」って。
一同 (笑)
千浦 それが、また映画の展開と、ある種、一致していくんですね。アンドリュー・ガーフィールドが、ギターでそのジジイを殴り殺してスカッとしました。
内藤 同じ思いだったんですね(笑)。じゃあ、『ラスト・デイズ』はどうだったんですか。カート・コバーンが出てくる映画。
千浦 あれは……ノイズが多かったですね。心のノイズが。
市沢 直撃世代だとそうだよなあ……。俺も『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、クイーンの曲を聞くかなと思いきや、10年ぶりぐらいにニルヴァーナを聞いたんですよ。
千浦 なにそれ(笑)。
内藤 基本に立ち返った(笑)。
市沢 そう。よく考えると、俺が好きだったのはニルヴァーナじゃん!って思い直して。
千浦 関係ないっちゃ関係ない話だけど、『ボヘミアン・ラプソディ(楽曲)』の歌詞がとても難解というかナンセンスだっていうところで思い出したのは『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』です。だってサビのシャウトが「混血児、白子、蚊、俺の性欲~」って曲なのよ。
内藤 ああ。「ティーン・スピリットの匂いがする」って何だろう?という謎がありますよね。
千浦 そこですよ。僕は、もちろんカート・コバーンの伝記『病んだ魂―ニルヴァーナ・ヒストリー』を読んでいるんですね。何日も風呂に入ってないカート・コバーンに向かって、女の友だちが「ティーン・スピリットの匂いがする」って言ったそうですよ。「おお、10代の魂か。いいなあ!」って思って曲のタイトルにしたところ、そういう名前の香水があって彼女はそれを指して言っていたとかいう。先の『アンダー・ザ・シルバーレイク』の怪物ソングライタージジイの場面を観たとき心の中でこの逸話を呟いたよね。で、『アンダー・~』の面白いところは、映画全体が、表現されたものを受け取ったり、それについてみんなが意見を交わしたりすることへの批評になってるってことです。ある作品に、明確なメッセージや正確な答えが用意されてるとしたら、それは、鑑賞する人の自由さの阻害であると。「答えがない」という寛容さとか、正しい答えにはたどり着かないほうがいい、みたいな。正解があるということは、そこからはじき出される人がいっぱいいるということだから。……っていうことを、『アンダー・ザ・シルバーレイク』を観て、僕は勝手に思ったんですよね。
内藤 『アンダー・ザ・シルバーレイク』の話になっちゃうけど、「答え」を求めることに対して、主人公はそんなに情熱的ではないじゃないですか。あの気怠い感じが、すごく現代的だなと思った。みんな、答えが欲しいとは思うけど、そんなにみんな、頑張れない。だからラストカット、よくわかんないけど、悪い方にワンランク上がったみたいなことになるじゃないですか。
千浦 上がったというか、落ちたというか。その点、『ボヘミアン・ラプソディ』はシンプルだと思う。「フレディ・マーキュリー伝」「クイーン伝」として。マイノリティを生きる人の、戦いの生涯。一度自分を見失うけど、ぐるーっと一周して、再び自分を取り戻す。
内藤 この映画がヒットしたから、ミュージシャンの伝記ものって増えると思うんですよね。今回、うまく行ってるのは、味付けをあまりしなかったからかなと思います。あるものを、素材のまま、出してる感じがして。作り手って、いろんな味付けをしたがるものなんだけど、そうすると、ファンが観たくない味付けがされてしまいがちで。ファンが欲しいものそのままを、この映画は出せてるんだなと思うんです。ただ、映画監督として複雑な思いがあるのは、監督が途中降板してるんですよね。しかも、ヒロイン役のルーシー・ボイントンが、何かのインタビューで「ブライアン・シンガーには(現場で)ほとんど会ってない」ってコメントしているんですよ。
一同 へえーーー。
内藤 編集とか音とか、仕上げはデクスター・フレッチャーがやっているんですよね。映画って、プロデューサーが企画して作り上げるものとも言えるんですけど、今回は特に、プロデューサーのコントロールでうまく行った映画だと思う。それが、映画監督として、喜んでいいのやら、どうやら(笑)。
市沢 そういう意味では……ドラマとして薄かったとも言えるのかな。ライブ・エイドを観る時点で、「あれはどうなったんだっけ?」っていう懸案事項がまるでないじゃないですか。それまでの間に、すべて解決されている。あとは、ライブ・エイドだけ!っていう。
千浦 勝負はもうついてたね。
市沢 ドラマを気にする必要がないから、あとは、ライブ・エイドの観客として楽しめればいい。そこが、多くの観客がコミットできた理由なのかも。
千浦 そこに至るまでのテーマとか、キャラクターの変化については、すごく筋が通ったドラマがあったと思う。中盤、フレディが「観客が歌ってくれたんだよ!」ってメアリーにリオのライヴの映像を見せるところで、彼女に対して性の悩みをカミングアウトするっていう流れになるじゃないですか。あそこは意味合いとして面白いなと思った。フレディが「君への歌を観客が歌ってくれたんだよ!」って言うけど、場面として肝心のおめーが歌ってねーよ!っていう。そこから彼は、自分のアイデンティティに悩んだり、自分が「これだ」と思っていた道のりから離れていくわけですけど。それでどん底から復活して、立ち上がったライブ・エイドのステージで、自分も歌ってるし、みんなも歌ってるし、別れた彼女も、今の恋人もみんないる。人生の完璧な状態を実現する。どん底から、絶頂に上がっていくまでの流れの構造が、音楽を数珠つなぎにしていきながら、うまく組み立てられていたと思います。
内藤 この映画の「フィクション」に対するスタンスが、クイーンやフレディ・マーキュリーの考えと、近かったんじゃないかと僕は思っていて。一番大きく史実と違うのは、エイズの告知のタイミング。本当はフレディがエイズと診断されたのも、メンバーに告白したのも、ライブ・エイドの後なんですよね。その後、クイーンは、フレディの死期を悟りながら、実質的には最後のアルバムとなった『イニュエンドウ』を作っているんです。この映画では、その感じをライブ・エイドにあてはめたんだろうなと思います。フレディの死と向き合いながら、みんなで一緒に作品を作ったことが、あのメンバーにはあったんだという事実。また、エイズに苦しんだフレディの姿を描いていないという批判もあるけど、クイーンの音楽自体が、陰惨な現実を突きつけるような作風ではなく、美しい虚構をみんなと共有するというスタイルだったのだから、そこも筋が通っていると思いますね。映画の終わり方も、そんなに湿っぽくならないじゃないですか。まず『Don’t Stop me Now』で軽やかにエンドクレジットがはじまり、『The Show Must Go On』で幕を閉じる。死期迫るフレディが歌った、『イニュエンドウ』の最後の曲。その、信念みたいなものを、フィクションに落とし込んだんだろうなと思って、そこに僕は、納得したんです。
千浦 ブライアン・メイとロジャー・テイラーが、この映画に深く関わってるんですもんね。公認ですよね。
内藤 そうです。その点においては、文句は言わせない(笑)。
千浦 ひょっとしたら、当事者たちによる、「こうだったらよかったなあ映画」なのかもしれない。だって、全体的に、めっちゃめちゃいい話ですよ!
一同 (笑)
千浦 大ゲンカして、もうこいつらバラバラだな!って思ったら、曲作りしながら熱くユナイトするっていうさ。映画監督なんて、人が悪くてナンボの生き物だから、物足りなかったんじゃないですか、大畑さん。
大畑 僕はもっと、ポールに活躍してほしかったです。
一同 (笑)
【2】
大畑創は、マスクを取らない。風邪なのだろうか。けれど誰も「風邪?」とは聞かない。大畑創も「風邪なんですよー」とは言わない。言わずに、ただ、映画の話をしている。彼らは映画で結ばれている。あの4人組が音楽で結ばれていたように。(もりもりとネタバレいたします。ご注意ください!)
千浦 この映画で描かれているのは、多くの人にとって同性愛のカミングアウトが一般的ではなかった時代ですよね。でも今はみんな「カミングアウトしよう!」って言うでしょ。それも余計なお世話で、するかしないかは、本人の問題だけど。でね、その、いまよりももっと暴露っぽい感じで「言っちゃえよ!」ってされる物言いが嫌よね、っていうシーンが劇中にあったじゃないですか。ニューアルバムの記者会見。
内藤 古澤さんもメールに書いていましたね。「女性記者の腹の座り方に感心した」と。
千浦 あの記者は、ある種の脅威として描かれていたでしょう。
内藤 男性記者の方が下世話な質問をしていて、女性記者は芯を食った質問を投げかけている。顔のアップが何回も入ってきますよね。
市沢 ブライアン・メイが「誰かアルバムの話をしませんか……」って言うの、ミュージシャンはみんなそう思うんだろうな!って思った。
一同 (笑)
市沢 あと、「曲ができるまで感」がちゃんとあったよね。ああ、今、ここで曲ができている!っていう。それを観客も共有しているから、後でその曲が流れた時に、「あの時の曲がここへ来た!」って思う。曲自体が伏線。曲のカタルシスを増幅させてる。
内藤 『ベスト・キッド』の練習シーンと一緒ですよね(笑)。農場のスタジオで『ボヘミアン・ラプソディ(楽曲)』を作ってるところも面白かった。
大畑 ああいうことって、映画美学校のそこらへんでみんなやってそうな光景ですよね。
一同 あーーー(笑)。
市沢 スタジオ付きのエンジニアが、「もう変なこと思いつくのやめてくれよ!」っていう顔をするじゃない。あれがもう、ほんとに気持ちがわかる。「そういうの、別んとこでやってくんねーかな!」みたいな顔を、すげーしてるじゃないですか。
内藤 それは、市沢さんの思いじゃないですか(笑)。
大畑 「初等科の奴ら……!」って(笑)。
市沢 どこの国でも、クリエイティブなことをやっている人たちのそばで、完全に官僚的な仕事を、黙々とこなしている人間がいるんだなと思った。ライブエイドでジム・ビーチが、音響卓の音量のレベルを上げるのとか、事務方の人間からすると「ほんっっとやめてくれよ!!」って思う。
一同 (笑)
大畑 MAXまで行っちゃってましたからね。
市沢 MAXまで行って、さらにその下にテープを貼って、音量が下げられないようにしてるんだよ。それでスピーカーが飛んだらどうするんだよ! その後のライブができなくなるんだぞ! それを処理するのは俺たちなんだぞ!!
一同 (爆笑)
千浦 でもさ、若い人は、この映画の最初のスタジオ録音みたいな、ああいうことしないとダメだよね。ちゃんと考えたうえで常識的なことを超えようとすることを……
市沢 そう。そうだな!って思った。だから僕はライブよりも録音シーンが印象に残ったんですよね。
——あのエンジニアに感情移入する人は珍しいと思うんですが、皆さんは他に感情移入した登場人物はいましたか。
内藤 フレディには普通に感情移入をして観てました。メンバーにエイズを告白するところと、ライブのシーンは普通にちょっと泣いちゃいました。やっぱり、好きだったんで。
市沢 あと、ジム・ビーチが、一線引いて俯瞰しているように見えて、実は一番親身になっている感じがよかった。分をわきまえた理解者というか。
内藤 そうですね。すぐ消えそうな雰囲気だったのに。
市沢 最後、あいつしか残っていないっていうね。
千浦 もちろんフレディ・マーキュリーが主役なんだけど、映画のフレディには、余白というか空白感というか空虚さみたいなものがあって。大勢の観客を集めて相手にできるパフォーマー特有の、人間じゃない感じっていうか。
内藤 メアリーへの思いの複雑さみたいなものが、すごくよかったですよね。隣の家に住んで、電気をつけたり消したりするところ、彼女が上の階なんですよね。フレディがメアリーを見上げる関係性。それに、ふたりの視線は合わない画面構成になってる。「乾杯をしよう」ってことになって、メアリーが飲み物を持っていないのに持っているふりをして「乾杯」って言うじゃないですか。あそこが、悲しかった。
千浦 ああいう描写って、「どのへんで止めておくか問題」があるじゃないですか。メアリーは他に男を作って、赤ちゃんを産んでいるわけだから、それはもういろんなことがあっただろうに、うまいこと省略している。
内藤 フレディの男性関係の描き方も、うまいことボカされていますよね。ツアー中に、男子トイレに入った男のことを、フレディがメアリーに電話しながら、目で追っているっていう。
千浦 あれ、すごかったよ。 舌なめずり感。これぞ、ゲイ映画だって思った。私が大阪で映写技師をしていた頃、ポルノ館の映写もしてて、ゲイポルノ館もかけてたんですよね。で、女の人って、ヤオイとかゲイものが好きじゃないですか。それって、セクシャルなことへの積極性が自分に向いていないことに安心するとか、女性性を持っている男をいいと思ってくれるんだろうけど、でもいわゆるハッテン場と言われるところで生きる人たちの様子を見ていると、女の人たちが好むゲイの姿とは、根本的に違うで!とも思った。精液とそれをこすり取るための消毒液が混ざりあった匂いのする空間で、積極的な性が刹那的に、暴力的にぶつかりあい求め合う感じ。その感じが、このメジャーな規模の映画の中で、結構描かれていた。ゲイ映画的に感心しました。うまい具合に音楽にのせて、さりげなく、薄味に見せてるけど、これすごくね?って思った。
市沢 フレディは、自分で自分の性に気づいていったってことだよね。
千浦 「僕はバイセクシャルだと思……」「あなたはゲイ!」っていう。
市沢 食い気味にね(笑)。
内藤 バイセクシャルだと言うことで、メアリーのことも愛しているってフォローしたかったのに(笑)。
——露骨な性描写を入れなかったのは、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの強いこだわりだったとどこかで読みました。この映画を、できるだけ幅広い観客に見せたいと。
千浦 そう考えると、今、出るべくして出た映画ですね。5年も前だったら、タッチが全然違ってたと思う。
市沢 あの、ジム・ハットンっていう人との出逢い方がよかったですね。「おめーマジでぶん殴るぞ!」っていうセリフ。
千浦 あそこはすごく大事な、いい話をしていると思います。ゲイなんだけど、彼のプライドの問題なんだよね。
市沢 そうそう。プライドを傷つけられたかどうかっていうことが、ジムには大切だったんだなって。一晩中話し込んで、リスペクトできる間柄になれたんだなと。
大畑 僕は、序盤の、ブライアンとロジャーにフレディが自分を売り込みに行くところが好きです。「あ、こいつ本物だ」って2人の顔つきが変わって、
内藤 一緒に歌い出す。
大畑 そう。ミュージシャンを主人公にした映画の、いいところだなあって思って観てました。
千浦 ちょっと前に、『音量を上げろタコ! 何歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!』を観たんですよ。
大畑 あれは、クドカンですか?
——脚本監督、三木聡さんです。
千浦 阿部サダヲはね、やりきっているんですよ。「無茶なステージをする伝説のパンク歌手」をちゃんと成立させてる。で、そのパンク歌手に影響されて成長していく女の子の物語なんだけど、成長しないんだよね。最後まで声が出てないふうにしか見えない。
内藤 大問題だ(笑)
千浦 でも映画としては、声が上がってるふりをし続けるのよ。キツい。
内藤 歌ものは、難しいですよね。最後はどうしたって「歌がすごい!」ってことにならないといけないじゃないですか。万人が観てそう思う歌って、まず難しい。
千浦 でも、万人が観て「すげえ!」って思うことを、アメリカの大作映画はやりよるんですよ。「え! ヒュー・ジャックマン、歌えるの!!?」っていう。で、そうじゃないひとの吹き替えも突き詰められてる。
内藤 うちの母親が、僕の『ミスミソウ』よりも『グレイテスト・ショーマン』を優先させたんです。「『ミスミソウ』、映画館で観られなかった、ごめん!『グレイテスト・ショーマン』は良かったよ」ってメールがきました。
一同 (笑)
——『グレイテスト・ショーマン』も『ボヘミアン・ラプソディ』も、実在の人の一部分を使って、作りたい物語を作った映画だという気がします。
千浦 あ、話、そこへ行っちゃう? 実在の人物問題。それで言うなら『シンドラーのリスト』でしょう。『ハクソー・リッジ』もそうだよね。アメリカンなスナイパーも、ジャージーなボーイズもいた。
内藤 実在の人物の脚色ってことで言うと『ソーシャル・ネットワーク』がすごい好きで。あれは、マーク・ザッカーバーグというFacebookの創設者をモデルにしているけど、キャラクター造形はかなり脚色しているんですよね。冒頭で失恋する場面があって、それが後々、彼の心にずっと引っかかっている問題として描かれ続けているんですけど。劇中では、彼が別の女性と恋愛しているという描写が省かれているんです。
千浦 そして、最後……
内藤 Facebook申請を彼女に送るっていう。
千浦 「勝った!」っていうね。
内藤 ちょっと、むなしい勝利なんですけどね。実際のマーク・ザッカーバーグは、普通に彼女がいたし、結婚もしているんですけど、あの脚色によって、Facebookをする現代人の心理みたいなものが明確に描かれているから、あの脚色は、いいなと思ったんですよね。
大畑 ついこの間、『15時17分、パリ行き』をようやく観たんですけど。あれは、実在の人物がほんとに「出ちゃってる」映画ですよね。
内藤 究極ですよね。誰も怒らない。
千浦 「そっくりだな……本人か」っていうパターン。
大畑 最後、実際の映像にも、もちろん同じ人が出てくる。すげーなこれ!って思って。
千浦 その「すげー」は肯定的? それとも、あきれた?
大畑 どっちもです。
内藤 俺が一番感動したのは「背徳のナイト・トリップ」に女性から誘われる場面で、女性の腿からパンアップしていくエロいショット(笑)。この年でもこんなスケベショット撮るのか、って思ったのと、背徳のナイト・トリップを再現する必要はあるのかな?っていうこと。
千浦 あれ、列車に乗ってる他の人もそうなんだよね。もう、何なんですかね、あれは。
大畑 僕は結構感動したんですよ。素直に。たぶん、何もやらせていないからだと思う。
内藤 フィクション的な変更を、加えなかった。
大畑 だから感動したんですかね。
内藤 『ストレイト・アウタ・コンプトン』はどうですか。
千浦 そうだ。『ボヘミアン・ラプソディ』の話をするなら、この映画の話は欠かせない。
市沢 俺、観れてないんですよね……
千浦 あなたが観とくべき映画でしょう?(※市沢は20代の頃ヒップホップを愛聴)
市沢 そうですよね……
千浦 『ストレイト・アウタ・コンプトン』全体のモードというか発想としては、N.W.AのPVを、ドラマとして再現するっていう。
内藤 『ファック・ザ・ポリス』を作る前に、警官に不当逮捕される(笑)。出所した直後に「くそー、ムカつく、作るぜ!」って言って、作るっていう(笑)。
千浦 バンドもの特有の、出来事を曲作りシーンに落とし込んでいく手口ですよね。
内藤 あれは、アイス・キューブの息子が演じているんですよね。
市沢 アイス・キューブの息子が、アイス・キューブなんですか。
内藤 そうなんです(笑)。
千浦 「そっくりだな……息子か」っていうパターン。
一同 (笑)
千浦 私がその手のもので一番好きなのは『24アワー・パーティー・ピープル』です。ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー好きなもんで。『コントロール』っていう、ジョイ・ディヴィジョン、イアン・カーティスの伝記映画があるんだけど、『コントロール』のほうはあんまり面白くない。一応好きだけど。で、『24アワー・パーティー・ピープル』は、テキトーなところがいいんです。ひとつのバンドではなく、カルチャーを描いている拡がりもある。マンチェスターでセックス・ピストルズがライブして、それを観に行った人たちが、後々ジョイ・ディヴィジョンやバズコックスになりましたっていう話をやる時に、フロアにいる彼らから切り返すと、セックス・ピストルズの本物のライブフィルムが映るみたいな、そういう雑多な感じが面白い。生きている人も、死んだ人もいて、でも意志的に悲劇的にはしてない映画。
内藤 メンバーは、その映画に関わっているんですか。
千浦 ファクトリーのプロデューサーだったアンソニー・ウィルソンが、小説として回顧録を出して、それを映画にしている。当事者本人から見た当時のシーンの再現だから文句は言わせない系。でもまた、映画のつくりがまたその本の逐語訳じゃない。原作に書かれているネタを全部洗い出して、すごい遊んでる。60年代に作られた、ジョン・フォードの『リバティ・バランスを射った男』っていうのが、まさに「伝説と事実」についての映画なんですけど、『24アワー・パーティー・ピープル』では、その映画について、というか、これに関するジョン・フォードの有名なポリシーの「伝説と事実とどちらかを選べと言われたら私は伝説を選ぶ」について言及していて。本当の話か嘘の話かわからないことがたくさん出てくるけど、そのへんを掃除していたおじさんがいきなりこっち向いてこれを言うんです。
内藤 『アイ,トーニャ』もそういう映画でしたね。夫に向かって銃を撃つんですけど、急にカメラの方を向いて「これは夫の証言に基づいています」って。まだあやふやな部分を、フィクションとして描いていますというエクスキューズがある。
千浦 でもそれをやる映画は、興収数百億円規模まではいかないかも。批評的な眼差しや遊びに、腰を折られると感じる人たちもいる。
大畑 次、タランティーノがシャロン・テート事件を撮るじゃないですか。
一同 あーーー。
大畑 かなりナイーブな題材ですよね。
——皆さんは、実在する人物を題材にした映画に、あってほしいものはありますか。
内藤 僕は『先生を流産させる会』という映画で、実在の事件に基づく映画を撮ったんですよ。
千浦 ほんとだ。やってるじゃん。
内藤 そこで、脚色をしたんです。それに関して、大きなバッシングを受けました。
——というと?
内藤 実際は男の子が起こした事件なんですけど、映画では女の子にしたんですね。それについて、「男の罪を女に着せている」とか「ミソジニスト(女性嫌悪者)だ」とか。僕にはそういう発想自体がなかったから、びっくりしたんです。そんな見方があるのかと。でも、ものを作るにあたっては、作り手の無意識な認識が、多少なりとも漏れ出ると思うんですね。そこを指摘されたなと思ったんです。だからその批判を僕は甘んじて受けて、ちゃんと考えなくてはと思いました。僕は女性嫌悪なんてしていないと思っていたけど、女性に対する歪んだ認識が自分の中にあって、そこと向き合わなければいけないと考えるようになりました。それはその後の作品づくりに反映されてますね。作り手の無意識って、美しいものが出る場合もあれば、醜いものが出ちゃう場合もあるじゃないですか。それが倫理的に正しいかどうかというのを、考え続けなきゃいけないなと思いました。
市沢 史実をもとにした、っていうときの反応が、昔よりも過敏なのかもしれないですね。「間違っていること」を指摘するのって、一番指摘しやすいじゃないですか。指摘しがいがあるっていうか。「それ間違ってます!」って言うのは、批評じゃなくて指摘だから。指摘する人が、何かを言えた気分になれるんだろうな。
千浦 今って、情報にアクセスするのが容易になったから、みんな、いろんなことに、容易く詳しくなれるんだよね。そこをすごく指摘する人を勝手に「エビデンサー」って呼んでるんですけど。「エビデンサー」、いますよね。
大畑 劇場の帰り道から、もう調べちゃう人、いますもんね。
市沢 横の監視なんですよね。上から監視されるのではなく。
千浦 絶対的な主体がいるんじゃなく、相互に監視し合ってるんだよね。
【3】
「史実と違う」という物言いは、この映画だけでなく、あらゆる伝記映画で語られてきた。「史実と違うから良くない」場合があれば、「史実と違うけどこれは許す」とされてきた映画も複数ある。いったい何が違うんだろう。そこを、この面々に掘っていただいた。(言うまでもなくネタバレしております、ご注意を!)
千浦 タランティーノで思い出したのは、『イングロリアス・バスターズ』でヒトラーを殺したでしょう。これは全然アリだ!と思いました。
大畑 僕も思いました。
千浦 それをやったことによって、ある種、違うジャンルになったとも言えるし、「映画はこういうことしていい」ってすごく思ったんです。
内藤 フィクションの力を信じたがゆえの、「フィクションにはここまでできる!!」っていう。
千浦 ヒトラーの少年時代に彼が後にそうなることを知っていたら、彼を殺すか?っていう問いがあるじゃないですか。これはもうホロコーストに対する悔いが現実の時間や歴史のなかで解消不可能だからで、スティーブン・キングの「デッドゾーン」にもある問いだし、ソ連映画の「炎628」のラストカットの意味するところだと思うけど、『イングロリアス・バスターズ』は結構おちゃらけつつ、その域にまで迫ってた。
大畑 感動しました。ほんと燃える。
内藤 その路線で作ったのが『ジャンゴ』だと思うんです。でもハーヴェイ・ワインスタイン事件があったから、あれくらい開き直ったフィクションの勝利を、もう、うたえないんじゃないかと思って。次のシャロン・テート事件の映画、チャールズ・マンソンをシャロン・テートが蹴り殺す、って展開になるだろうと予想していたんですけど、ワインスタイン事件を機に、脚本も変わってるんじゃないかっていう気もしてて。
千浦 シャロン・テートが救い出されるんじゃないのかな。
——そこ、もう一段、言葉になりませんか。何があれば、「この改変、アリ!」って思いますか?
市沢 存在のデカさとかかな。ヒトラーまで行くと、実在の人物なんだけど、悪役中の悪役ですから。
大畑 「死んでいい!」って誰もが思いますよね。
内藤 ナチスが何度も悪役として、映画の中で描かれ続けているし、ヒトラーの暗殺を企てる話もいっぱいあるけど、史実に則って、必ず敗北するじゃないですか。観ていてモヤモヤしちゃうのが、溜まってたっていうのもあるかなと。
市沢 そのOKが、どのタイミングで出たのか、気になるね。どの会議で「……いいんじゃないすか、殺しちゃって!」ってなったのか。
内藤 『君の名は。』の隕石落下は、3.11を象徴してると思うんですけど、防いじゃうじゃないですか。「なかったこと」にしちゃってる。僕は結構びっくりしたんです。「災害が起きなくてよかった世界」なんだけど、それはそれで、いいのかな?って気もしたんですよね。
千浦 アメリカ映画だと9.11で、日本だと3.11。それらを象徴した描写が映画にはたくさんあるじゃないですか。大都市が外敵に襲われるのは、『トランスフォーマー』でも「アベンジャーズ」でも何でも、何本ものアメリカ映画で繰り返されてますし、『シン・ゴジラ』だって、そういうふうにしか見えないところもあったし。でも『君の名は。』の、「そもそも起きなかった」っていうのは、だいぶ大きい飛躍だよね。
内藤 すごいことしたな!と思いました。
千浦 「なかった」まで行っちゃうと、どうなのかな……
大畑 だからヒットしたんでしょうね。
千浦 そうか。まあ、観客側の無意識的な願望の成就ではあったのか。だって、みんな、それに対して戦えなかったもんね。呆然と敗れていった。何かしたかった、戦いたかったって思ったんだ。
大畑 『ボヘミアン・ラプソディ』の、エイズをメンバーに告白するシーンも、フレディに「君は伝説だ」って、本当は言ってあげたかったから、映画で言ったっていうことですよね。
内藤 だからエイズ差別の陰惨な部分は、あえて描かない。
大畑 そういう改変は、観てるこちらもOKになりますよね。ヒトラーが死ぬのと同じように。
——大畑くんは「OK」でしたか。
大畑 人の死をそこまで、展開を変えちゃっていいのかとは思うけど、クライマックスをライブ・エイドにしたいっていう気持ちもめちゃわかるし、死を実感しながらあの歌を歌わせたいというのもわかるから、否定はできないです。
内藤 そう、『Hammer To Fall』の歌詞が、死期を知りながらライブをするっていうことと、すごくリンクしていたじゃないですか。僕はあの曲をそんなに好きじゃなかったんですけど、楽曲の素晴らしさをドラマによって気づかされました。まるで、みんなフレディがエイズと知ってて、あのライブに臨んだとしか思えないような選曲だったんですよね。
千浦 『ボヘミアン・ラプソディ』のピアノパートも、そう聞こえますよね。
内藤 『We are the Champion』も、「悪いことをしていないのに罰を受けた」っていうフレーズがあるんですよね。素晴らしい表現者ゆえの、自分の未来を予言したかのような曲。
千浦 ロック・ミュージシャンって、早く死ぬひといるじゃないですか。それについて、一般的な浅い見解ですけど……、普通の人間のコミュニケーションをはるかに超えた、一度に何万人もの人を、自分の表現力で掌握するようなことを繰り返しているような人は、絶対どこかおかしいと思う。それって、普通の人間の了見を超えてる。そういうこといつもしてると、だいたい若死にすると思う。
内藤 あーー。
千浦 あと、自分が歌うこと、詞に描くこと、つまり自分がイメージできることの高みに実生活の自分がついていけないから、そこに乖離を起こす、悩む、で、酒を飲む、ドラッグをやる、っていうのが、ロック・ミュージシャンに限らないけど、ある種のアーティストに起こる現象だと思う。それも『ボヘミアン・ラプソディ』は描いていたと思うんですよ。
市沢 うんうん。
千浦 普通の人間の愛情って、たぶんそのへんにいる人との関係性ぐらいで完結してて、そこで軽いやりとりをしながら生きていくのが普通の人生だけど、ものを作る人って、それを超えちゃってるところがあるから。あと、もともとの歪みが、パワーになって、すごいことをしてしまえるけど、歪みは変質しながら残り続けて原動力になり続けるとか。そういう表現者ものの王道パターンをこの映画はやっているなあと思いました。
内藤 『ラッシュ/プライドと友情』の、イケメンの方もそういう生き方ですよね。
千浦 ジェームス・ハントだっけ。クリス・ヘムズワースが演じた。
内藤 あれにも記者会見の場面がありますね。あそこ、好きです。
千浦 いいですね。友情を感じさせる。犬猿の仲であるニキ・ラウダの顔の火傷痕を彼の奥さんのことまで含めて揶揄した記者を、かげでボコる。
内藤 あれもフィクションっぽいけど、グッと来ます。お互いの生き方を馬鹿にしてるけど、最終的には敬意があって。観終わった後に若い観客が「要はジェームス・ハントってしょーもない奴だったってこと?」って言ってた。なんも伝わってない(笑)。
一同 (笑)
千浦 それは、人による見方なんだろうな。その子の中では、ニキ・ラウダが勝利したんだよ。……伝記映画、多いね。結構ある。
内藤 日本だと伝記映画って、「負」の部分を描きづらいように思うんですね。遺族の希望とかもあるから。それで、無駄に綺麗な話になっちゃって、映画としてつまらなくなるみたいなことが、あるかなあと思います。
千浦 あ、そうだ。私が今年すごく良かった映画は、『菊とギロチン』と『止められるか、俺たちを』です。大正のアナーキストと1970年ごろの若松プロ群像。特に『止められるか〜』は非常に若々しくてですね。「ストレイト・アウタ・ピンク映画」。切なさもあったし。
内藤 ああ。なるほど。
千浦 そして、『止められるか〜』は当事者が生きてるからね。生きてる人たちが総掛かりで、文句言う言う。それもおもしろい。
一同 へえー!
内藤 あと、犯罪とか死んだ人を扱う時って、その瞬間を映像化、再現していいのかっていうのも、倫理的に問われるところで。僕は『先生流産〜』も、今作っている『許された子どもたち』も、少年事件を元にしているので、それを「演じる」って大丈夫なの?という心配を、結構耳にするんですね。特に『許された〜』は素人の子どもたちが出ていて、殺す子と殺される子を演じるので、「演じる」ということ自体が、とてもまがまがしいものになっていく感覚がある。で、Netflixに「ジョンベネちゃん殺害事件」のドキュメンタリーがあるんですよ。あの事件の再現ドラマを作る、というドキュメンタリーが。あの事件は犯人が見つかっていなくて、お父さん説とかお母さん説とか弟説があって。その、記者会見での、お父さんやお母さんの映像を、いろんな役者さんに再現させながら、演じた後で「どんなことを思った?」って聞くんですね。「私はお母さんが犯人だと思う」とか、「いや、お父さんだと思う」とか。弟説に関しては、小さい子どもに、鈍器で頭を殴り殺せるのかを検証するんです。スイカを用意して、いろんな子どもに、スイカを殴らせるんですよ。そしたら、割れるんですよね。なんて禍々しい行為だろうって感じて。僕の映画も、みんなが心配してくれてたのは、こういう気持ちだったんだろうなと思いながら観てました。ただ、演じたことによって、見えてくるものがあるんですよね。つまり、演じることの禍々しさと、演じたからこそ発見できるもの。両方あるなって思いました。
——ラミ・マレックがフレディを演じたことにも、そのまがまがしさは作用しているでしょうか。
千浦 頑張ってたよねえ!
市沢 フレディの魂を乗り移らせようとしている人の頑張りと悲しさが見えてるっていう感じかなあ。
内藤 先ほどの超コアなファンの「映画によってクイーンの記憶が上書きされてしまう」って不安は、死者を演じることの禍々しさが作用しているように感じます。史実と異なるところはあるし、ラミ・マレックの体格はフレディ・マーキュリーと明らかに違うけど、ラミ・マレック自身の、フレディを演じるのだ!というエモーションには感動を覚えます。それでいいんじゃないかなって思いますね。
市沢 ライブ・エイドも、ラミ・マレックの「俺、今、乗り移ってる!!!」っていう高揚も込みで観てる感じがある(笑)。
内藤 YouTubeの「やってみた」動画を観てるような感覚もありましたね。ここまで究極に再現すると、結構感動するんだなっていう。
市沢 ああ。そうね。確かに。
内藤 あの人たちがあそこまで再現できたのは、本物の動画がデジタル化されて、YouTubeで何度も観ることができたからでもあるでしょう。
市沢 僕は、途中途中に、乗ってるお客さんのカットがあるじゃないですか。ああいうのが苦手で……
千浦 いやいやいや。あれを撮ったり準備しておけるというのが、アメリカ映画の基礎体力ですよ。
内藤 日本映画だと、ボランティアで来ていただいたエキストラに、演出部とかが「もっと盛り上がってー!!」って叫ぶでしょうね。でも、「もっと盛り上がってー!!」って言われても、盛り上がれないじゃないですか。だいたい、残念なことになるんですけど。ただ、三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』のクラブシーンはすごくうまかったなと思ったら、実際にDJがプレイをして、エキストラが盛り上がっているところを撮ったらしくて。
千浦 撮影の四宮くんも、実際に踊ってから撮ったらしいね。すげえ幸せな、いい話。
——皆さんは、どんなライブを観て育ったのですか?
市沢 えーと、私は、ライブを、してました。
大畑 え!
内藤 その話、知らないです。
千浦 『ボヘミアン・ラプソディ』の序盤、クイーン以前の彼らの初めてのライブで、フレディが「ちゃんと歌詞覚えろよ!」って怒られてたじゃないですか。市沢さんは高校の文化祭で、メタリカのコピーをやって……
市沢 テキトーな歌詞で歌ってたら、クビになったんです。
一同 (笑)
市沢 そしてクビになった翌年の文化祭で、そのバンドが新しいボーカルと一緒にライブをやっていて、それがめっちゃ盛り上がってたんです。
一同 (爆笑)
市沢 だから、劇中で「SMILE」から辞めていったボーカルがいたじゃん。そいつが、クイーンのライブを、客席から観てる感じ。
千浦 今回、古澤さんが来れたらどんなによかったか、って思うんですよ。クイーンって、個々の戦闘力が高いじゃん。みんな等分にヒット曲を作ってる。それって頭が悪くない人たちが論理的に手を尽くして音楽をやっている感じ。それと同じものを、古澤さんの創作活動にも感じるんです。「コンセプチュアル癖」のある古澤さんに、今回ぜひ来ていただきたかった。
市沢 クイーンってさ、批評家に採り上げられてるイメージがあまりないんですよ。自分が読んでた音楽誌の範囲内ですけど、デヴィッド・ボウイだったり、ルー・リードだったりが必ず採り上げられるんだけど、クイーンってあまり採り上げられてない。だから俺も聞いてないんだろうなっていう。
千浦 でも、常にうっすらとかかってるというか、必ず再ブームが起きるじゃないですか。
内藤 大衆向けには劇的にヒットしているんだけど、批評の場で評価されることは少ないですよね。
市沢 当時、「ロック・スタンダード」っていうカタログがあってですね。
内藤 あ。それ、父親が買って読んでたかもしれない。
市沢 あらゆるミュージシャンのアルバムの情報が片っ端から載っていて、「これが『クロスビー、スティルス&ナッシュ』か……」とかね。そういう中に、もちろんクイーンも載ってたんだろうけど、覚えてないなあ。
千浦 あ、ほら、そういう話をするときにね、本を開くようなジェスチャーをするでしょう。これからはそれ、滅亡する仕草だから。気をつけよう。
内藤 『許された〜』でみんなに「レンタルビデオ屋を使う?」って聞いたら「使い方を知らない」って言うんですよ。レンタルの仕方がそもそもわからない。「カードを作る」っていう発想がないって言われて。
——そんな中、そろそろお時間です。まとめ的な何かはありますか。
千浦 あ! 私がひとつ、素直に『ボヘミアン・ラプソディ』を観て感心したのは、「We」ということです。「We will Rock You」って歌うじゃないですか。「We are the Champion」とか。もちろん、クイーンっていうバンドが「We」って言ってるんだけど、ライブで客席も一緒に歌うと、観客も「We」になっちゃうっていうこと。コール・アンド・レスポンスによって、観客をどんどん巻き込むというテクニックを、ガンガンに活用した人たちの強さですよね。そして、そういうことを描くのに、映画という手法がとても適していたと思うし、映画が自然とそれを追ったと思う。いまは映画を観ている俺たちも「We」の一員ってこと。ラストで観客のリアクションを地道に拾うという撮り方も、その一環だったのではないかと。
大畑 そしてスクリーンの中の観客たちも、だんだん泣いてきてるんですよね。
千浦 「We are the Champion」で、老人と肩組んで泣いてる人が映ったじゃないですか。その人たちの状況はまったくわからないけど、「うんうん」って思わされる何かでしたよね。あと、フレディのパフォーマンスがキレッキレで盛り上がっているのを見つめるメアリーのニンマリと笑顔になる表情、あれって、映画館の客席にいる私たちの表情と、たぶん同じというか、そうさせようとしているというか。
大畑 だからほんと、監督交代とか、いろんな困難があったかもしれないけど、「クイーンを題材にして撮ったら、そりゃヒットするに決まってる!」ってことかもしれないですね。
千浦 基本的に、コンセプトの勝利なんだろうね。勝ち逃げ感があった。……あと、もうひとついいですか。オープニング、「Somebody to Love」で、朝起きて、猫にエサやって、車に乗って、会場に行って、出番が来てステージ上へ上がっていく、あの時は「独り」に見えるんだけど、本編終盤でもう一度それを繰り返す時には、それが仲間たちの目線だったことがわかる。
内藤 そう! あそこ、よかったですよね。まさに「We」になったんだなあと思いました。
(2018/12/10)
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